やってきた修羅場
奈落の底に落ちた衝撃に目を覚ました。息は荒く心臓の鼓動が激しい。身体から吹き出す汗の量が気持ち悪いくらいだ、なんだかぬるっとする。いつもと変わらない天井を眺めながら、常とは異なる寝起きに不快感を感じた。
変な夢だった。魔王が跪くだなんて、俺って魔王崇拝とかの傾向があっただろうか。昨今の不作による将来への不安のためか地方では魔王崇拝といった信仰が広まっているのは聞いている。ディアルディアルのディア正教がそれを疎んじており、集会などの禁止を各国に通達しているというのは有名な話だ。
我々を救ってくれるのは神ではない悪魔だ、という信念に興味はない。好きにすればいいさ。俺にとってはお金を払ってくれるお客様とライラが全て、だったと思っていたが実は深層意識の奥底で望んでいたのだろうか。
無茶苦茶、頭が痛い。ひ弱に見えようがこれでも小さいとはいえ経営者の端くれだ、身一つでやっている商売なのだから体調管理には人一倍注意している。喉が渇いた。水でも飲もうか、と床から起き上がろうとした時、むにっと柔らかいものと同時に殺気を感じた。
「あんっ」艶かしい声が響く。「へ?」
なんとも間抜けな応答だろう。俺の床に女がいる、しかも声からしてライラじゃない。待て待て待て待て、よく考えろ。もみもみもみと、その柔らかい感触に驚愕しながらも昨晩のことを思い出す。やらけぇ。いや違う違う、えっと、昨日はライラに告白しようとして…徐々に鮮明となる記憶に焦りを感じ始める。
「そうだっ、姫様はっ」
叫びと共に見返したその先にいたのは、スヤスヤと眠り続ける黒髪の女性と金髪の幼女、それと幼馴染の鬼の姿だった。
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正座って足が痛い。ノルマンの奴らは結構すごいな。これが、かれこれ一時間ほど板の間に座らされた感想だ。いや、まあ仕方がないとは思う。俺だってこんなことになるなんて夢にも思わなかった。俺の寝床で眠り続ける女性と幼女の姿に激怒したライラの蹴りで瞬殺された俺は、気がついたら正座をさせられた。恐ろしいのが一瞬で意識を失うほどの蹴りだったはずなのに痛みが一切ないことだ。アラドの突きでも無意識に反応出来たはずなのに、なんの反応も出来なかった。どれだけだよ。
「で、申しひらきは何かある」
喧騒をよそに眠り続ける二人には目もくれず少しやばい目を向けるライラさん。昔からの付き合いだけどそんな目、見たことないよ。暖かい優しい眼差しではなく、まさにゴミを見るかのような眼差しにぞくりとする。なんか、変な趣味に走りそうだ。
「まぁ、待てライラ。俺にもよく分からないんだ」「うそね」
取り付く島もない。
「どこかで遊んできたんでしょ。いつの間に子供なんてつくったのよっ!カーくんのバカ!」
「そんなわけないだろ!俺がライラちゃんを好きなの知ってるだろ?」
「そんなの言ってくんなきゃわかんないもんっ!こんな綺麗な女の人連れてきて何してたのよっ!」
激情のためか互いの呼び方が昔に戻っている。ライラの癇癪を受け止めながらも、ふと思った。そもそも、この二人は誰だ?
「それもなによ。あの手は」
そればかりは何も答える資格はありません。すいませんでした。
「うぅ〜ん」小さな声と共にぴくりと動き出す黒髪の女。寝顔からも穏やかな印象を受ける彼女の容貌は嫋やかな女神を思わせるほど美しい。だが現状では状況を打破する救いの女神だ。ライラの溜飲を下げるためにも黒髪の美女の目覚めに嬉々とする。あれ、よく見るとやたらと透けた服を着ているな。こんな服、そこらの風俗嬢でもしてないような。と、そこまて考えて気づいた。あれ、同じこと昨日も思わなかったか。
気怠げに起き上がり、ゆったりと伸びをする。その動作にどことなく気品と色香を感じるが、それよりも親の仇を見るような幼馴染の視線が恐ろしい。小さく欠伸をしてきょろきょろと周囲を見回す姿は仔猫のようだ。くるりと見回し俺を見つけると、花が咲いたかのような笑顔を向けた。
「旦那様!」「だんなさま?」
その情愛に満ちた呼びかけに応じたのは隣で切れる寸前のライラだ。ずいっと一歩踏み出す。黒髪の美女も状況を把握したようで俺に向けた笑みとは異なる真剣な眼差しをライラに向ける。衣装とその纏う雰囲気から俺の推測が確信に変わった。
「あなた、カイルのなに?」
「妻ですわ」
「姫様、ちょっとまって!」
いやいや、なに言ってんのよ。傍観者を決め込みたかったが、悪くなる状況に思わず待ったをかける。
「姫様?」「なんでしょう?」
あぁ、やっぱりだ。何故だか容姿が変わっているが姫様だ。どうしてこうなった。分からないが、なんとかして説明しなければ。そう決意して見やった先にはスヤスヤと幸せそうな寝息を立てる幼女の姿があった。時刻はまだ早朝。朝食にありつくにはまだまだ時間がかかりそうだ。
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「パパ、ママ、おはよっ、これからよろしくねっ」
爆弾発言と共に幼女が起き出したのは、昨晩からの出来事を説明して黒髪の美女がフィリア姫だというのが納得出来た後のことだった。昨日見た姫様は金髪のたおやかな美女だったのだが、今は黒髪の凜としたやはり美女となっている。どことなく俺に似ているような気もしたが気のせいだろうか。いずれにせよ容姿が変わったことに慌てるかと思いきや、そんなことはなく心置き無く俺の嫁になれると喜んでいた。窮屈な王宮暮らしには飽き飽きしていたそうだ。儀式がどうなったにせよやれることはやったというのも大きいのだろう。
確かに昨晩の儀式の際、それに準じることを言ったような気もするがあの時は必死だったというのはライラにとっては言い訳に過ぎないらしい。俺が頭を下げるだけでは到底収まりそうにもないライラの怒気を下げたのは意外にも当事者である姫様だった。しばらくの時間、二人でどんな交渉をしたのか不明だが、それでも互いに名前で呼び合うような関係になっているのは異常なことに思える。なにがどーなっているのかわからない。
「パパってカイルのこと?」
「パパのおなまえ、カイルっていうの?」
きょとんと首を傾げながら返事をする。片方の手で俺の服を掴むところをからも俺がパパらしい。なにかした覚えはないが、ライラの視線が妙に痛い。年の頃は5、6歳といったところだろうか、切れ長でクリクリっとした眼がとても可愛い。エルフの血を継いでいるのか、耳は長く本来の姫様が幼くなったらこんな感じだろうかと想像する。
「じゃあ、ママは?」
「ママだよ」
あっけらかんと邪気なく返事をした指先は姫様を指している。
「まぁまぁまぁ」
「カイル!あなたやっぱりフィリアと何かあったでしょう?」
方や頬を染めて照れる姫様とは対照的に不機嫌なライラだが、先ほどよりは落ち着いているように感じる。
「馬鹿なことを言うなよ。誰かと勘違いしてるんじゃないのか?」
どれだけ可愛らしかろうが、はっきりさせておかないといけないことがある。パパになるにはいろんな過程があるはずなのだ。その過程をすっ飛ばして子持ちになんぞなってたまるか。
「ううん、パパはパパだよ」
「だから、それは…」
「パパと繋がってるのわかるもん」
俺の言葉を遮るようにムキになったのも可愛いな。いや違うだろ、なにが繋がってるって。
「お嬢ちゃん、なにが繋がってるの?」
「お嬢ちゃんじゃないよ。アルだよ。パパとはここが繋がってるの」
そういいつつ、大事そうに胸元に手を当てる。心?なにか違う気がする。
「だから、アルとパパはずっといっしょなんだよ」
にぱっという擬音が付きそうなほどの朗らかな笑顔に愛おしさが込み上げる。保護欲。これが父性というものなのか。先ほどは否定したが、いいかもしれない。隣に座る姫様も同じようににこにことしている。姿かたちが変わったと言ってもさすが姫様だ、やはり気品を感じる。ともかく、俺は幼女趣味だったのだろうか。アルと名乗った幼女から目が離せない。本当に何かが繋がっているような気さえする。
「もちろんママもいっしょだよ」
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眼前にはパパとママに挟まれてご満悦の幼女がいる。確かに可愛いとは思うがカイルの様子が少し尋常ではない。美人局にでも引っ掛かっているかのようだ。そもそも美人局といえば幼女を挟んで反対に座るこの女もそうだ。よく見れば血縁といっても過言ではないくらいにカイルに雰囲気の似た美女が実はフィリア姫だという。何かの冗談かと思ったが真実であるらしい。
昨日の夜からろくなことが起きない。長年、待ちに待ったカイルからの告白は無くなるし、目覚ましに起こしにきたらやたら色香のある美女と同衾しているし、さらにはカイルをパパと呼ぶ幼女だ。夢なら覚めて欲しいが、どうもそういうわけにはいかないらしい。
次に問題はフィリアが着ているの薄いドレス一枚だ。高貴な糸を紡いで丁寧に織られているのがわたしにでも一目でわかるほどの艶やかな漆黒が彼女スタイルの良さをこれでもかと主張している。きっと手触りも滑らかなのだろう。確かフィリア姫はあたしより一つ年上のはずだから、来年にはあたしもあれくらいの大きさになるはず、と夢見ることすら出来ない完全なる敗北。さらに追い打ちを掛けるのがカイルが動じていないことだ。あたしの知っているカイルは女の子のあられもない姿を見ただけでも顔を赤くしていたはずなのだ。あたしの訓練着でさえも直視できないくらいだったのに、フィリアには多少の照れはあるものの気兼ねなく話しかけている。何かあったに決まってるじゃない。
フィリアが姫様だというのは聞いたときは驚いたが話してみればすぐに事実だとわかった。仕草や話し方が庶民のそれじゃないのが明らかだからだ。昨晩の出来事を聞かされても今ひとつ
信じられなかったが、フィリアが姫様だと納得できればあとはストンと腑に落ちた。まぁ、正直に言って王族には一切の縁も興味もないから姫様であろうがなかろうが構わないのだが、問題はそんな高貴な身分の姫様がカイルに好意を持っているということだ。
あの朴念仁で鈍感で女泣かせで馬鹿で…のカイルに幸せにしてやると言われた上にキスまでされたとの話には、フィリアと二人きりじゃなければ色々ときれていたところだ。カイルの始めてがあたしじゃないのは納得いかないけれど、起こってしまった過去に文句を言っても始まらない。その後、フィリアと結んだ契約はまぁ内緒だ。お陰で互いを名前で呼び合う関係にはなれたのだが、口惜しいが待っている一晩の間に恋敵と友人が同時に出来てしまったことになる。
乙女心を優先したのが悪かったんだ、これからはもう待ったりなんかしない。姫様だろうがなんだろうがカイルのことはあたしが一番好きなんだから。そこだけは絶対負けてやらないからね。
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「アルちゃん、お姉さんはライラっていうの。ライラ=アーガイル。カイルの幼馴染で、近くで定食屋を手伝っているわ。これからよろしくね」
「うん、よろしくねー」
笑顔で邂逅を果たす二人の様子をなんとなしに眺めながら、どうしてこうなったのか思いを巡らす。昨日まで中庸こそが幸福への一本道と信じて懸命にやってきたつもりだったのが、もはやそれも叶わない。小さく溜息を吐く。
「それと、カイルはあたしと結婚するの。アルちゃんも憶えておいてね」
その爆弾発言に思わず顔を向ける。その瞬間、俺の唇は柔らかいライラのそれに塞がれた。ライラとキスをしている。そう理解したのは、キスをされて数瞬の後の事だ。
「フィリアも憶えておきなさい。負けないからね」
呆然としている俺を他所に、ライラぷはっと唇を離すとフィリアに宣戦布告をした。いや、そうじゃないだろう。俺が憧れていたライラとの初めてだ、情緒とか余韻とか雰囲気とかは何処にいった。
「えぇ、わたくしだって負けませんわ」
そう笑顔で応じたフィリアとライラは互いに見つめ合いながら握手を交わした。何がどうなっているのかわからない。当事者を置き去りにして進む事態に俺は苦笑いをするほかない。唇をそっと撫でると、まだライラの温もりが残っている感じがした。
どんどんどんっ!
突然、階下で扉を叩く音がした。一階部分で店舗を営んでいるため、二階部分が俺の生活空間となっている。入り口は店舗と住居で共通だ。
「王宮警護隊である。ここに住まうカイル=イヴァリスにフィリア皇女様を拐かした嫌疑がかけられておる。扉を開けよ。さもなければ破壊する」
物騒な宣言に合わせて繰り返し扉が殴られる。壊すつもりかよ。呑気に語らっている場合じゃなかった。姫様がここにいるということは、王宮では問題になっててもおかしくはない。あれ?よく考えれば何で俺たちはここにいるんだ。儀式の間で姫様が俺を庇って刺されて、何かの光に包まれて、それからどうなった。
「カイル、どうするの?」
「まぁ、出るしかないだろ。店を壊されちゃかなわん」
「パパ、だいじょーぶ?」「旦那様」
ひらひらと手を振りながら姫様に服を着替えるようお願いすると、薄暗い階段を下る。アルが何者なのかもわからないのに面倒ばかりだ。小さな返事と共に扉の鍵を開ける。
「フィリアをどこにやったー」「うおっ」
扉を開けると同時に飛び込んできたのは昨晩も見た巨体だった。アラド殿下は俺の襟首を掴むと力任せに持ち上げる。目が尋常ではないくらいに血走っている、やばい殺されるかも。
「どこにやったと聞いている」
「知らないよ、俺だってどうなったかはさっぱりだ」
「知らないわけがないだろうがっ!」
聞く耳も持たずさらに締め上げてくる。ちょ、苦しいって、息ができない。周りの警護隊の野郎どもは、触らぬ何とかとばかりに助けようともしてくれない。朝の街並みを忙しなく往来する人々も何事かと周囲を囲んでいた。
「やめなさいっ!このバカタレが」
階段を下りながらライラの叱責が落ちる。
「貴様、この方を誰方か知っておるのか!」
「知らないわよ。誰でもいいけど、あたしがやめなさいって言ったらやめなさい」
数十人はいるだろうか、警護隊員達を率いる隊長らしき小太りの親父からの忠告など一顧にもせず、アラドに向かって対峙する。
「カイルを下ろしなさい」
「貴様、この方はアラド=エルム=イースラ殿下である。本来であれば貴様が口を聞くなどかなわぬお方。口を控えよ」
「五月蝿いってのよ!」
駄目だ、ライラ。そう伝えたいが首を絞められて声が出ない。
「もう一度言うわよ。カイルを下ろしなさい」
「ほう、小娘が我に逆らおうというのか」
止めろ、止めてくれ。
「小娘ごときが我に何ができる」
きっとこう言いたかったのだろう。「我に」までしか聞き取れなかったが。ゆらりと身体が揺れ、大きな音と共にアラドの巨体が地に伏した。何をしたかわからないが多分蹴りだろう。朝食らったやつだ。合わせて地に落ちた俺は息を整える。あーあ、やっちまった。
「アラド殿下に何をしたっ!」
「何にもしてないわよ、眠たかったんじゃない。それよりカイルだいじょーぶ?」
「あぁ、ありがとう。無理すんなよな」
「あらっ、素直ね。あたしだってティアに負けたりしないんだから」
ティア?誰のことだ?と問いかける間もなくフィリアが階段を下りてくる。先程までの煽情的なドレスではなく、俺が普段着ている作業着を着丈が合わないのか手足ともに裾を折り込んで着込んでいる。長い黒髪も一つに纏めているので、あまりにも美人すぎるが店員と言ってもなんとか通じるのではないだろうか。
「旦那さま、ご無事ですか?」
「あぁティア。大丈夫よ。あたしがちゃんと護っておいたから」
「あらあら、ありがとうございますライラ。わたくしの旦那さまがお世話になりました」
「誰があんたのよ」
「もちろんわたくしのです。わたくし達はあられもない姿を見せ合った仲ですもの」
「なによ、それっ!あたしだって何度も裸を見せ合った仲だもん」
ライラ、それって子供の頃の話だからな。周囲に群がる野次馬どもの羨望と憎悪の視線に耐えながら、またしても始まった舌戦を眺める。そうか、フィリアは王宮に帰る気はないのか。偽名を使ったのもその意思の表れだろう。ライラがそれを認めているのも腑に落ちないが、俺も合わせるしかない。
「貴様、殿下にこのようなことをしてただで済むと思うなよ。この者を不敬罪として引っ捕えよ」
隊長の命令と同時に小さな呻き声と共にアラドが目を覚ます。警護隊の隊員が介抱する中でまだ脳震盪が続いているのだろう、まだ朦朧としているようだ。それを見て、フィリア改めティアがゆったりと近づき声をかけた。
「エルム王家の血筋を引くお方が、一般人を脅したとお知りになれば国王陛下やフィリア姫様、サーシャ姫様がどのように悲しまれるでしょう。さらには王家を理由に脅したとなれば降格は間違いないものと存じますが如何でしょうか」
「うっ」
警護隊長に目配せをしながら穏やかに言葉を紡ぐティアには俺やライラに見せた優しさはない。言及する言葉からも容赦が感じられないところからも、どうやら思ったよりもお怒りのようだ。ティアを見上げながら、痛いところを突かれたのだろう苦虫を噛み潰したかのような表情を見せる。エルム王家は実質的にフィリア姫様の治世になったのちには一般人への介入を厳しく制限している。姫様の気質にもよるだろうが、かつての王家及び関係者たちの蛮行がそういう結果となったのであろう。警備隊隊長にはかつての傾向が見られるようでティアを睨みつけているが、アラド自身にはフィリア姫様の名前は有効だったらしい。
「旦那さまは昨晩の遅くに帰っていらっしゃいました。昨夜のことで憶えているのはフィリア様が儀式の最中に光に包まれたことだけだそうです。間違いありませんか?」
「あっ、ああ」
嘘は言っていない。誰と帰ってきたのか途中で何があったのかは、綺麗さっぱり告げてはいないが。ま、俺自身にもわからないのだけど。
「アラド殿下もご存知でしょう?」
暗に黙っておけとばかりの物言い。実の兄であろうが容赦のないところは流石に元姫様だ。
「貴様は何者だっ!」
「あらあら、申し遅れました。わたくし、カイル=イヴァリスの妻ティア=イヴァリスと申します。旦那さま共々よろしくお願い致します」
隊長の怒気に臆することもなくおっとりと嘘を言う姿に、流石だなと思ってしまう。だが、その言葉に隣で大人しくしていたライラが噛み付いた。いやまあ、俺が悪いですほんとうに。
「ちょっ、あんた抜け抜けとよく言ったわね。そこまで許してはいないわよ」
「あら、そうでしたかしら。てっきり、わたくし達のことをお認めになったのかと」
我関せずとばかりにしれっと応える姿は流石だ。多少のことでは緩いだり動じたりもしない。ライラがティアを睨みつける、がそれは長くは続かなかった。
「隊長!二階にこのような娘が潜んでおりました」
そう叫びながら隊員の一人が乱暴にアルの腕を掴んで階段を下りてくる。いつの間にか二階に上がっていたらしい。
「フィリアっ!」
ティアに凹まされていたアラドが目を剥いて驚愕する。やはりアルは姫様に似ているのか。飛び起きるや否やアルに迫った。
「どうしたフィリア、なぜこのような姿になった」
「ちがうよ、アルはアルだよ」
諤々と両肩を掴んで揺さぶる巨体に小さな身体は大きく前後する。がくんがくんと前後する幼女の頭部に向かって、繰り返し同じような問いをされるうちに、堪忍袋の尾が切れたのだろう。アルはぴしゃりとアラドの手の甲を叩き叫んだ。
「うるさーーーーい」
「なっ」
フィリア姫に拒否されたと思ったアラドの巨体がぴしりと固まった。今度は壊れ物を扱うかのように丁重に、そして下手に問いかける。
「フィリア何を言ってるんだ。兄様だぞ。お前の愛する兄様だぞ」
王族としてというか一般的な兄としてもどうかという発言に、俺の隣で元妹は顔に手を当てながら、甘やかしすぎたかしらなどと独白している。そして、アルが黙っていることを自分に良いように解釈したのだろう彼女の小柄な身体を抱きしめようとする。それが彼女の怒りに火をつけた。
「妾が言葉、獣には伝わらなかったかの」
年齢不相応の言葉遣いと共にその場が一斉に恐怖に包まれ、膨大な魔力と冷気が肌に突き刺さる。アラド殿下の痴態を一般人に見せまいと周囲を囲んでいた警備兵達や隊長達の顔付きが軍人のそれへと変わり臨戦体制をとっていた。何があった。一瞬の出来事に状況が把握できず、周りを見回してみると同じく何が起こったのかと狼狽えているティアと、自然体でアルを凝視するライラの姿があった。
「消えよ」
力ある言葉と共にアルの身体から光が溢れ周囲一辺を包み込んだ。凄まじい輝きに目を瞑り、周囲からも音が消えた。静寂と暗闇にどれくらい耐えただろうか。物音一つ立たないのを不思議に思い恐る恐る目を開けると、そこには同じく目を瞑っているティアと変わらずティアを凝視するライラの他には誰一人として存在しなかった。普段なら朝の喧騒で賑わっている通りに人っ子一人いなかったのだ。
「じゃまなのいなくなったよパパ」
俺に向けられた陽だまりのような笑顔からは一切の邪気は感じ取れなかった。