表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/36

月光の牙 焔の誓い

中編?ライオスメイン。


 大切なモノを護る為の力を欲したのは、罪ではないはずだった。



 テバイ王国、王都テバイ。絢爛さを誇る優美な学問の王国。その王宮の一室で、二人の人間がグラスを傾けている。陽はまだ落ちていないが、そのグラスの内で踊るのは淡い蒼のワイン。咎める者がいないのは、彼等の身分が高いからだろう。

 窓際に佇むのは、10代の半ば頃の少女だ。背の中頃まで伸ばした髪を二つの三つ編みにしている。その色は見るも鮮やかな黄金で、夕日を見詰める細められた瞳は翡翠の輝きを宿していた。肌の白さはテバイ人特有のモノであり、それを際立たせるような深い色合いのドレスが見事だ。テバイ王国第一王女、メディア・エタ・テバイその人である。

 その目の前の椅子に座り、給仕をしているのは10代後半頃の少年だ。髪の色は眩い純金色をしていて、長めの短髪にされている。やや癖のある髪をしている所為か、実際の長さよりも短く見える。深い青色の瞳は、まるで底の見えない海のような印象を与えた。飾り気のない魔導師の法衣を動きやすく改良したモノを纏っている。無論、王家付きの役目を負うシーリン家の次男、ライオス・ファル・シーリンである。

 何気なく言葉を交わし、何気なく外を眺めやる。何をするでなく時間を持て余す二人であった。ふと、一瞬ライオスの身体が硬直する。ライオスの指という支えを失ったグラスが、床の絨毯の上へと転がり落ちた。幸いにも中身はなく、絨毯の弾力によって支えられたグラスは無傷であった。ただ、らしくもない失態に、メディアが目を細める。


「どうかしましたか、ライオス?」

「いえ。少しめまいがしただけです、姫君。」

「体調でも崩しましたか?」

「いいえ。夕日が眩しかった所為でしょう。」


 微笑みを浮かべて主をはぐらかす。はぐらかしているのだと、気づいてライオスは呆然とした。漠然とした、不安にも似た何か。それが焦燥であると気づいたのは、次の瞬間だった。何故、と彼は小さく呟いていた。



 その時、全ては動き始めていたのだという事を、彼等はまだ知らなかった。



 場所は変わり、王都テバイに連なる街道の一角。馬を走らせる、一つの影があった。よく見れば、まだ10代の半ばの少年である事が解る。卓越した騎手であるのか、その馬の歩みは止まらない。風に舞う、黄金色の髪が美しく夕日の光を反射する。

 無造作に首の真後ろで束ねた黄金色の髪が、揺れる。馬の走る速度に合わせたように、獣の尾のように。真っ直ぐと前を見詰める瞳は、翡翠を封じた色だった。テバイ人特有の肌の白さを持った少年。見れば見るほど気品が漂い、声をかける事すら恐れ多くなる美貌である。纏う衣装はごく平凡な旅装束だが、如何せん纏う人間が普通ではなかった。この少年こそが、テバイの王太子テセウス・エタ・テバイなのである。

 一人、彼は馬を駆っている。そう、一人で。その事実を己で噛み締めて、頭を振った。常に傍らにいた少年は、いない。その事実だけで、彼を打ちのめすには充分だった。

 街道を走り抜け、街の片隅にある王族専用の直通路に馬を向ける。見張りの兵士達は彼の顔を見知っており、敬礼をした後に門を開けた。門が開ききる間も惜しむように、彼は馬をその隙間に走り込ませる。ほれぼれする馬術に、兵士達は感嘆の声を上げた。まだ若いながら、彼は既に一人前の騎手であり、兵士達の羨望の的であったのだ。

 馬を下男の手に委ねると、彼は小さく息を吐いた。頭を振り、汗を振り払う。豪奢な入り口に臆することなく足を踏み入れ、ぎゅっと唇を噛み締めた。胸の奥が、微かに痛んだ気がした。


「お帰りなさませ、王太子殿下。」

「父上は?」

「陛下は、自室にてくつろいでおられるはずですが。」

「すぐにお会いできるように伺って欲しい。それと、誰ぞ湯浴みの仕度を。」

「承知いたしました。」


 壮年の兵士は一礼すると、傍らに控えるモノ達に指示を出す。自室への廊下を歩みながら、テセウスは自嘲めいた笑みを浮かべた。誰もが、聞こうとして聞けぬのだ。それが解っているからこそ、彼もあえて何も言わなかった。傍らにいない少年の事について、彼は何も言わない。何も、言えなかった。

 汗だくになった身体を湯浴みで浄めた後に、父に会う。決意を固め、彼は目を伏せた。湯浴みの時間だけが、全てを纏める時間だ。解っているので、それまでの事を振り返る。痛みを伴うと解っていても。それが、彼の役目だからこそ。


「…………イロス……ッ。」


 呟いたのは、傍らにいた少年の名。唯一無二の右腕の名。物心つくよりも先に彼を護り続けてくれた者の名。今は、遠く離れた場所にいるであろう、少年の名前。泣き出しそうになる己を、テセウスは叱咤する事で奮い立たせていた。




「私をお呼びと伺いましたが、父上?」

「陛下のお呼びと伺い、ライオス参上仕りました。」

「そこに掛けよ、二人とも。」

『御意。』


 恭しく一礼して、メディアとライオスは開いていた二つの席に座る。既に、周囲はヒトで埋め尽くされていた。いや、それはいいすぎであったかもしれないが。少なくとも、備え付けの椅子は全てヒトで埋まっていた。二つを除いて。

 メディアの右に座るのは、黄金の髪と紫の瞳を持つ子供だ。まだ10才にもなっていないと見える、幼い顔立ち。それでも事態の異常さを悟っているのか、その顔が強張っている。弟の緊張をほぐす為に、メディアはその手を握ってやった。オリオンという名の末の王子は、安堵したように姉姫を見詰め返している。

 メディアの左にはライオスが腰掛けているが、その横には少女が座っている。純金の髪を緩やかに編み上げて頭上で纏めた、ライオスよりも少し年下頃の少女。瞳の色は明るい水色をしていて、聡明さを伺わせる。シーリン家の第3子、長女のアイトラは、真っ直ぐと国王を見詰めていた。

 アイトラのすぐ左、緊張した面持ちで姉の服を握りしめている少女がいる。年寄りも幼く見える顔立ちの、第4子にして次女のセメレである。髪は純金の光沢を持ち、それを結わえもせずに背に流しているのは巫女故かもしれない。瞳は姉と良く似た水色だが、やや緑がかった色彩をしている。神殿を司る巫女故の神力か、何かを知っているのか、彼女の顔色は頗る悪い。

 一番左端に控えているのが、シーリン家末子のケイロンである。すぐ上の姉の動揺も、彼には何の意味も持たないモノであるのかもしれない。少なくとも、表面上は常とまったく同じである。毛先が好き勝手な方を向いて跳ねる潤金色の髪に、緑の双眸。色彩だけを取るならば、彼のそれはテバイ王家のモノに良く似ている。もっとも、今ひとつその鮮やかさ秀麗さで及ばないのは、致し方ないかもしれないが。

 一同を見据える位置に座るのは、現在のテバイ国王。名を、カドモス・エタ・テバイという。少しばかり白いモノが混じり始めた黄金の髪は綺麗になでつけられ、深みのある翡翠の双眸は一同を圧倒するには十分である。実際に年齢よりも若く見えるのは、それだけ武芸を嗜んでいる所為かもしれない。

 カドモスの傍ら、椅子に座らず一歩下がった位置に控える壮年の男が一人いる。現在のシーリン家当主である、ピネウスである。見事な純金色の髪は、カドモス同様白いモノが混じり始めている。細い獣の尾のように結わえられた髪が、僅かな動きに合わせて揺れている。瞳は、明るい青をしているが、ライオスのモノとは僅かに異なる色彩である。

 周囲を見渡し、その場にいるモノを確認して、ライオスは目を伏せた。何かが、引っかかる。集められた人間が彼等であるからだろうかと思うが、そうではない。今この場にない存在の事が、気にかかる。他の誰の事よりも、気にかかるのだ。

 メディアが何かを父王に問いかけようとした、その時だった。誰何の声が響き、王の答えと共に扉が開く。傍らに兵の一人も従えぬままで、テセウスが立っていた。真っ直ぐと父王を見詰め、一礼した後部屋に足を踏み入れる。それが当然であるように、彼は空いていた椅子に腰掛けた。


「父上、テセウス、ただいま戻りました。」

「よく戻った。して、皆を集めた後に話があると申した理由はなんだ?」

「…………既に、お解りの事と思いますが。」


 そっと、目を伏せてテセウスが呟く。そう、誰に言われるでなく、皆が解っていた。その場に、テセウスが一人で現れた。それだけで、事情を理解するには十分ではないだろうか。


「……ご無礼を承知でお聞きいたします、テセウス様。

 …………我が兄イロスは、今何処におりましょうか?」

「……解らぬ。」

「…………はぐれられたのでしょうか?それとも、賊にでも襲われて……?」

「私を庇い、転移の魔法陣によって攫われた。」

『…………。』


 解っていた事だ。イロスがテセウスの傍らを離れるのならば、それ相応の理由がいる。テセウスが取り乱していない事だけが、せめてもの救いであるのかもしれない。一同の視線を感じながら、テセウスは父王を見詰め返した。

 彼が、何を望もうとも父の許可がいる。全てに置いて、国を統べる王の判断を仰ぐのは当然だ。いかに優れていようとも、テセウスはまだ王太子の身。それが解るからこそ、皆もカドモスを見詰めた。


「状況を説明せよ、テセウス。」

「はい。父上もご存じの通り、私とイロスは視察にでておりました。その帰路、街道の一角にて、張り巡らされた魔法陣に気づいたのです。気づくのが一瞬遅れ、私の身体は魔法陣の発動に巻き込まれるところでした。ですが、傍らにいたいロスが私の身体を突き飛ばし、魔法陣に吸い込まれました。すぐさま気配を辿ったのですが、巧妙に造られていたのか何処ともしれず……。」

「では、イロスの居場所は分からぬのだな?」

「…………御意。」


 苦々しく問いかけたカドモスに、テセウスは頭を垂れて頷いた。どれほど悔しかろうと、それは事実だ。己の無力を噛み締めながら、テセウスは息を吐いた。苦しげに息を吐きながら、テセウスは傍らの人間達を見た。

 メディア、オリオン、アイトラ、セメレ、ケイロン、そしてライオス。皆を順に見詰めた後に、目を伏せた。誰もが、不安を隠しきれない表情をしている。その中で、ライオスだけが常と同じ表情だった。仮面を同じといっても良いのならば、だが。

 ライオスにとってのイロスがどれほど大きい存在かを、テセウスは知っている。ライオスとイロスは年子ではあるが双子のように仲が良い。仕えるのが双子の主君であったからか、幼い頃から彼等は共にいた。その事を、テセウスはよく知っている。だからこそ、謝罪の意を込めて言葉を告げようとした。けれど、それを察したライオスが、静かな声でそれを遮る。


「謝罪など、必要ありません、テセウス様。我等は王家に仕える身。仕えるべき御方の身を護る為に行動するのは当然なのです。仮にこの場にテセウス様の姿が無く我が兄の姿があったとすれば、誰が許したところで私が許す事はないでしょうから。」

「…………ライオス。」

「どうぞ、お気になさらずに。」

「…………。」


 平静を保つ、その言葉。無情と取られても仕方のない口調と、迷いのない言葉。いつもと同じ、感情の読み取りにくい表情。けれど、気づいた者がいる。気づかずには、いられなかった。

 膝の上で握りしめられた、ライオスの拳が、震えている。怒りと、憤りと、不安とに、感情が揺れる。それをぎりぎりの場所で抑え込んでいるのが、誰の目にも明らかだった。気を抜けば爆発するであろう感情を、彼は抑え込んでいるのだ。それが役目だと、それが彼等の立場だと、言い訳をして。


「…………テセウス以外の者は自室に戻るが良い。追って、指示を下すであろうが、今は外出を控え、十分に注意せよ。」

『御意。』


 倣うように皆が一礼し、順に部屋を出て行く。去り際にライオスが向けた視線を、父であるピネウスは受け止めた。だが、あくまで受け止めただけであった。そして、流される。解りきっていた父親の反応に、ライオスはいっそ冷淡と取れる瞳を残して立ち去った。


「末恐ろしい子供よな、ピネウス。」

「……申し訳ありません。堪え性のない息子でして。」

「言葉を返すようですが、父上。兄弟の身を案じるのは当然と思われますが?」

「そうではない。あの瞳を見たか、テセウスよ?実の父親さえも切り捨てるあの瞳を。全てを喪っても構わぬと、まるで焔のような気性の持ち主だ。」

「……焔、ですか?」

「そうだ。そして、…………何と言うべきであろうな、ピネウスよ?」

「…………月の、如きと申しましょうか。清廉にして冷徹。太陽無くしては輝く事すらできぬ、極北の月のような、牙がありましょう。」


 静かにピネウスが語る、次子ライオスの気性。テセウスに反論する事はできなかった。誰より近いところにいた彼を信頼してはいるが、その気性が激しく冷たく、誰より鋭い牙を持つ事を知っていたのだから。そっと、テセウスは目を伏せた。父王の言葉を待つ為に。




 ダン、と壁を殴る音がした。音が響いたのは、イロスに与えられた部屋からだ。だが、その場にいたのは、部屋の主ではない。頬にかかる髪を払う事すら忘れ、噛み締めた唇から押し殺した息を吐き、血が滲むほど強く握りしめた拳で壁を殴りつける。

 ライオスの表情は、驚くほど暗い。怒りと、憎しみと、不安と、焦燥と。己でも抑えきれぬ感情の波に支配されていたのだ。誰かにあたらぬ為に、壁にあたる。そうしないと、自分が周囲の人間に何をするか解りはしなかった。


「…………ッ、兄貴……ッ!」


 父が、兄を切り捨てたわけではない事を、彼は知っている。兄が、何故テセウスを庇ったのかも。解っているからこそ、己の内側で全てを処理しなくてはならなかった。誰にあたる事もできない。誰も傷つける事はできない。

 扉が開いた事に気づき、ライオスは振り返る。そこにいたのは、双子の主君だった。すぐさま仮面を被るように表情を隠し、ライオスは一礼した。


「……父上、いや、陛下の決定が下された。捜索隊は、結成しないそうだ。」

「…………そうであろうと、思っておりました。」

「ライオス。」

「解っています。…………解っております、テセウス様、我が君。お二人が兄をどれだけ思って下さっているのかも、陛下に掛け合って下さった事も。」


 真っ直ぐな、瞳がある。もう良いのだと言いながら、どこまでも深い色の瞳。己の感情を偽ってしまうその性を、哀れといわず何と言うべきだろうか。ライオスの手を取り、メディアは頭を振った。テセウスが、そっとライオスの手に何かを握らせる。

 それが、ピアスだと気づいたのは一瞬の躊躇の後。淡い緑の色彩をした、片耳だけのピアス。誰のモノか、何の為のモノか、ライオスは知っていた。だからこそ、呆然と目を見張る。


「…………これは、兄の……?」

「咄嗟の判断で、イロスが私に渡してくれた。今もイロスの右耳にはこれの対になるピアスがあるはずだ。この意味が、解るな?」

「…………宜しいの、ですか?私が離れても?」

「心ここにあらずなライオスに私の警護が務まるとは思えないがな。」

「……我が君…………。」


 がらりと口調を変えたメディアを見て、ライオスは苦笑した。彼をけしかける時、メディアはメディファルトとして振る舞う。テセウスの瞳が、頷く。行けと、言葉に出さずに告げられる。

 王太子と王女が、城を離れるわけにはいかない。けれど、彼等にとってイロスは必要な存在なのだ。ならば、助ける為に父王すらも謀る。彼等はそれだけの強さを持っている。だからこそ、こうしてライオスの前に現れるのだ。


「しばしお側を離れる事をお許し下さいませ、我が君。」

「構いません。けれど、必ず無事で二人で戻りなさい。」

「承知の上です。」


 恭しく一礼した後、ライオスは部屋から出て行く。毅然としたその姿に、二人はそっと目を伏せた。ライオスならばやり遂げるだろう。ただし、テセウスはすぐさま行動を開始しなくてはならないだろうが。

 ライオスの怒りは、既に頂点に達していたはずだと知っている。彼に全てを委ねる事は容易い。だが、それではいけない。メディアもそれは解っている。掌を重ね合わせて、双子は口元に良く似た笑みを浮かべた。




 微かな痛みと、髪を撫でる風を感じる。朦朧とする意識の中で、少年はゆっくりと瞼を持ち上げた。いつもは綺麗に三つ編みにしている純金の髪が、解けてばらばらと肌にかかる。まだ覚醒しきっていない瞳は虚ろに見えるが、その色は深く鮮やかな藍色をしている。純粋なテバイ人である事を証明するように、肌の色は白く全体的に線が細い。


「…………こ、…………こは……。」


 呻くような、掠れるような声が唇の端からこぼれ落ちた。殴られた覚えはないが、それに良く似た痛みが頭に残る。おそらくは、強制的に転移させられた所為だろう。自分を見た瞬間の彼等の顔を思いだし、少年は薄く笑みを浮かべた。

 彼の名は、イロス・ファル・シーリン。現在行方不明として、兄弟を初めとして主君にも心配されている少年だ。現在地は不明であり、敵の数すら解らないというのに、彼が浮かべるのは穏やかな表情だ。主君である人を護れた事が、彼にとっては誇りであり喜びであった。


「お目覚めかしら?」

「…………。」

「余計な事をしてくれたわね、シーリン家の嫡男どの?」


 突然現れた銀髪に赤の瞳の女性を見て、イロスは笑みを浮かべた。彼の気質とは異なる、どこまでも挑発的で生意気な笑み。己よりも遙かに年下の少年の笑みに、女性は怒りを覚えた。自分の立場を解っていないように見えたのだろう。

 だが、違うのだ。イロスは、自分の立場を理解している。楽観しているわけでもない。ただ彼は、解っていただけだ。自分がそう簡単に殺されないという事を。シーリン家の嫡男をそう簡単に殺す馬鹿は、いない。苦しめて殺すか、利用するか。どちらにせよ今はまだ殺されない事を、イロスは知っていた。


「我が君を害せず、余程悔しいようですね?」

「ええ、悔しくてよ。貴方を殺してしまいたいぐらいに。」

「そちらの力自慢の男性に、殺させますか?首でも絞めれば、死にますでしょうが。」

「…………殺したいけれど、貴方は取引の材料。大切な人質よ。殺さないわ。」

「それはどうもありがとうございます。」


 慇懃無礼に謝礼した瞬間、イロスは熱を感じた。目の前の女性の平手で、頬を張られたのだ。痛みはあるが、耐えられないほどではない。薄い笑みを浮かべて、彼は女性を見詰め返す。

 ヒステリックな足音を響かせて、女性が去っていく。ばたんという音を立てて閉まる扉を見て、溜め息をつく。両手両足を縛られ柱に固定された身では、逃げ出す事など不可能だ。やれやれと、小さく呟く。ふてぶてしく女性に接していた時とは、まったく違う。


「違う性格を演じるのは、なかなか疲れるな…………。」


 身近にいた分まだマシか、とイロスは小さく呟く。ふてぶてしいほど余裕綽々な態度も。好戦的で挑発的な笑みも。誰よりも見慣れたところにいたすぐ下の弟が、そういう性格を演じるのだ。いつもと違う役割を演じるのは疲れると、小さく笑った。

 絶望してはいなかった。何故か、不思議と彼は解っていたのだ。自分は、助かる。助けに来てくれると、彼は解っているのだ。目を伏せて、少し体力を温存しようと意識を閉ざす。

 故に、イロスが気づく事はなかった。彼の右耳に密かにつけられていたピアスが、小さな光を放っていた事に。その光が、何かを導くように方向を示している事に。まだ、イロスは何も知らない。






 身支度を調えた後、ライオスはすぐさま厩で一番早い馬を連れ出した。テセウスから受け取ったピアスにひもを通して、首から提げている。その緑の石が光を放ち、真っ直ぐと一つの方角を示す。その方角へと向けて、ライオスは馬を走らせている。

 その横顔を見た者がいるならば、きっと誰もがライオスだと気づきはしないだろう。顔立ちが変わっているわけではないが、その真摯さが驚くほど怖いのだ。仕事の時の顔とも、また違う。父親であるピネウスが称したような、月光の牙。

 陽が沈む。空の端々から、暖かみが消えていくのが解る。今の自分の心のようだと、ライオスはぼんやりと思う。冷たく、斬りつけるような怜悧さだけが取り残される。その、深い青の双眸と同じように。

 光が、強くなる。ライオスの表情が強張った。腰に帯びた剣に手がかかる。口の中で小さく呪文を唱え、そっとその魔法力を剣の柄に封じた特殊加工の宝玉に流し込む。殺傷能力最高クラスといわれる、風の旋風呪文を。

 小さな、扉がある。どんな細工をしているのか知らないが、地下に続く階段は表からは見えない。ただ、ピアスの宝石が示す光が地下に潜る事だけが、ライオスに全てを伝える。馬を近くの木の陰に繋いだ後に、扉のドアノブに、そっと手をかける。弾かれる事はなかったが、安心しきる事はできない。

 扉がゆっくりと開かれる。地下の薄暗い階段に、空から星と月の光が降り注ぐ。薄明かりに照らされて、見張りだったのだろう青年がライオスに向けて斬りかかる。だが、遅い。ライオスが少年であった事も、青年の油断を誘ったのだろう。迷い無く切り込まれ、声を上げることなく青年は絶命した。心臓から喉にかけてを、下から掬い上げるようにして斬られて。

 どさりと、倒れる音がした。誰何の声がかかる。階段の高いところから、ライオスは現れた男女混合の集団を見下ろした。まだ10代後半であるライオスに、彼等は気圧された。それがプライドを刺激したのか、数人がかりで切り込んでくる。

 甲高い金属音が、響く。3本の剣を片腕の剣で受け止めて、ライオスは凪いだ瞳を向ける。怒りすら超越した、憎悪の感情がそこにある。あまりにも静かすぎて怖くなるほどの、瞳が。


「殺されたくなければ、答えろ。我が兄は、何処に?」

「何を寝言を言っている…………ッ!」

「我が兄イロスはどこにいると、聞いている。」

「…………ぐぁっ!!!」


 刃を弾かれて、体勢を崩したところに当て身を喰らわされる。階段の下へと転落していく幾つもの男達を見て、ライオスは目を細める。重ねて誰何する声に、誰が答えるかと返答が響く。その答えを聞いて、ライオスは小さく笑みを浮かべた。悪魔のようなといわれるほどに毒々しく、攻撃的で、尚かつ静かすぎる笑みを。


 その瞬間、暴風とも取れるほどの旋風がその場に吹き荒れた。


 魔法剣。誰かがそう呟く声が、ライオスの耳に聞こえた。類い希なる才と、精霊の加護とが必要とされる魔法剣。その使い手はそうはいない。まだ二十歳に満たないライオスが使えるとは、思わなかったのだろう。

 あまりにも強力すぎる魔法を受けて、戦闘不能に陥る者がいる。その傍らを、悠然とライオスは歩んだ。ピアスの光が、ライオスを導く。それだけを頼りに、ライオスは薄暗い坑道の中を進んだ。

 しばらく進むと、光が弾けた。辿り着いたのだと、ライオスは確信する。ギィ、ッと鈍い音を立ててとびらが開く。誰何の声を無視して、ライオスは扉を開けた。

 彼の視界には、ただ兄の姿だけが映っていた。ぐったりと、柱に縛られたまま、辛うじて柱に凭れて体勢を保つ、姿が。鮮やかな見事な純金の髪は、乱れて汚れていた。伏せられている所為で、ライオスの見慣れている藍色の瞳は見えない。白い肌の上には紅い跡が残り、衣服も破れて傷ついた肌が除く。


「…………何を、した…………?」

「何者?……いえ、貴方は……。」

「…………何をしたと、聞いている……。」

「何故ここが解ったというの?」

「…………いて……るだろうが…………。」

「…………え?」

「兄貴に、何しやがったって聞いてるんだっ!!!!!!」


 俯いていた顔を上げたその瞬間、ライオスは感情を爆発させた。それまでの凪いだ表情はどこにもない。タガが、外れたのだ。抑え込んでいた感情のタガが、外れた。

 驚くほど早い踏み込み。剣を返す手首の動きが速すぎて、目で追えない。ヒトは、通常身体への負担を考え、無意識のうちに力をセーブしている。今のライオスは、そのリミッターを解除しているのだ。怒りという感情だけで。

 部屋にいた、イロス以外の男と女。合計5人ほどを、ライオスは切り捨てた。ただし、まだ生きている。殺してはいない。簡単に殺して楽にする事は、できなかった。


「生きたまま、手足を落としてやるよ。あぁ、指を一本ずつ切り落とすのも良いか。」

『…………ッ?!』

「死なない程度に切り刻めば、どれだけ苦痛が持続するかな?」

「この、ふざけ……ッ!」

「そんなに早く死にたいのか?」


 決死の覚悟で襲いかかってきた青年に、ライオスは笑みを向けた。いっそ恐ろしいまでに清々しい笑み。何だ、これはと。誰もが呆然として呟いた。これは、子供の持つべき表情ではない。この強さもそうだが、その感情が、既に子供のモノではない。

 切り捨てようとした、その瞬間だった。背後からかかった声に、ライオスの動きが一瞬だけ止まる。いつの間にそこにいたのか、開いた扉の位置にテセウスとメディアとケイロンがいた。そして、柱に縛り付けられたままのイロスの元に、アイトラとセメレが駆け寄っている。何時、来たのだろうかと。そんな事を考えてしまった。


「そこまでだ、ライオス。殺してはいけない。」

「…………テセウス様……。」

「ライオス兄上、おやめ下さい。」

「ライオス兄上、イロス兄上は御無事です。怪我はしておられますが、心配要りませんから!」

「おやめ下さいませ、ライオス兄様!」


 できないと、小さく呟いた声は誰にも聞こえなかったのだろう。許す事はできないと、ライオスは呟く。息を吐き、もう一度剣を構える。罪を償えと、吐き捨てるように低い声で呟く。


 小さな言葉が、ライオスの動きを止めた。


 今にも斬りかかろうとしたライオスを、止めた言葉がある。生きながら苦痛を味わえと、切り刻もうとした剣を止めた声がある。どこまでも惨い、悪魔の笑みを浮かべた表情が、凍り付く。壊れそうに脆い表情が、仮面を割った後の素顔のように、覗いた。


「…………やめるんだ、ライオス…………。」

「イロス兄様、気づかれましたの?!」

「イロス兄上、お身体は?!」

「やめるんだ、ライオス……。聞く事が、まだ、ある……だろう…………?」

「…………ッ、兄……上……。」


 剣を握りしめていた腕の力が、抜ける。イロスの制止の言葉で、ライオスの中の憎悪が、消えていく。年相応の、不安げな少年の顔が、そこに戻る。だが、その変化を見て、好機とみなした者達が、いた。

 数本の白刃が、ライオスに躍りかかる。それを弾き返した白刃は、2本。反射的に身体が動いたライオスと、踏み込んできたメディアのそれだ。ドレスの裾を翻して剣を振るったメディアの横顔は、鋭い。やれやれと、テセウスが溜め息をついた。


「……兄上?」

「……情け無い顔を…………するな……。」

「………………悪い。」

「…………え?」


 きょとんとした兄の身体を妹達に委ねると、ライオスは立ち上がった。見つけて、しまったのだ。頸動脈すれすれの位置にある、切り傷。殺すつもりはなかったのだろう。だが、ジワジワといたぶるつもりはあったのだ。それが解ると、治まったはずの怒りがわき上がる。

 呟くようにして詠唱される呪文が何かを、皆が知っていた。爆発呪文だ。その威力は驚くほど高く、塵一つ残さない。進退窮まっている者達に向けて、ライオスは剣を振り下ろした。断末魔の声が響き、皆が顔を背ける。

 制止の声さえ、届かなかった。発動を命じられた呪文が、解放される。肉片一つ残さずに、斬り殺された者達が完全に消滅する。まるで、初めからそこにいなかったように。


「ら、ライオス兄上……。」

「…………まだ、足りない。」

「ライオス兄様!」

「……ライ…………オス、おまえ…………っぁ……。」

『イロス兄上?!』

「イロス兄様!」

『イロス!!』

「……ッ、兄貴ッ?!」


 痛みに呻き、意識を手放したイロスの身体を、アイトラが支えている。まだ血のこびりついたままの剣を放り出し、ライオスは兄に駆け寄った。妹二人が紡ぐ癒しの呪文を聞きながら、兄を呼び続ける。答えはない。

 ただ、疲れたような表情だけが、気絶したイロスの顔に浮かんでいた。





 柔らかな光が視界に入り込んでくる。それが朝日の輝きだと気づいたイロスは、小さく呻いた。重い身体を起こそうとすると、両肩を押さえられる。見上げた先にあったのは、見慣れたライオスの顔だった。


「無理に起きないように。」

「…………ライオス…………。」

「傷は、殆ど跡も残さず治療したって言ってた。テセウス様が、完全に体力が回復するまでは休んでいろと仰せだったぞ?」

「…………そう、か…………。」


 困ったように笑うイロスの笑みを見て、ライオスも笑みを浮かべた。それが、すぐに泣き笑いに変わる。どうしたと問いかけるイロスの肩に、ライオスは顔を埋めた。冷たいモノが触れるのに気づいて、イロスはライオスが泣いている事に気づいた。

 押し殺した、呻くような泣き声。何時から、こんな泣き方をするようになったのだろうかと、イロスは思う。兄を頼るのではなく、兄を支えるように。負担になるまいと、感情すら押し殺して生きていた。それに気づかないわけではなかったが、イロスは何も言わなかったのだ。それが、ライオスの生き方ならばと。


「…………どうした?」

「…………心配……して…………ッ。」

「悪かった…………。生きて、いるだろう?」

「……勝手に死んだら、許さない…………。」

「…………ライオス…………。」


 思い腕を持ち上げて、ライオスの頭を撫でる。幼い頃に、悪夢を見た時にしたように、優しく。縋り付く腕が、離れていくのを感じた。少し眠ると告げて、イロスは目を伏せる。しばらくして、静かな寝息が聞こえてきた。

 まだ傷跡の残るイロスの頬に、ライオスはそっと触れる。眠る兄を起こさないように、注意を払いながら。眠っていれば、年相応に、10代の少年に見える。苦労も苦難も背負い込みながら、彼はまだ少年だ。だからこそ、その責任の重さにライオスは怒りを覚える。

 ただの、少年だったならば、こんな目には合わなかっただろう。けれど、それは言えない。決して口にしてはならない事だ。彼等の存在を、根本から覆す言葉だからこそ。


「…………勝手に死んだら、許さないからな……。」


 繰り返すように呟いた言葉は、眠る兄には届かない。届かないと知っていて、口にした。自らの決意を、固める為に。己よりも先には、絶対に死なせないと。燃える焔よりも強い誓いが、そこにある。


「………………イロス、…………兄貴……。」


 泣きそうな声で兄を呼び、ライオスは頭を振った。無事であるだけで、良いと。自分自身に言い聞かせた。イロスは無事に、ここにいるのだからと。



 護りたいと願う事は罪ではなく、その為に力を求めるのは既に誓いへと変わりつつあった……………………。



FIN

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ