義弟との記憶
更新が遅くなり申し訳ありません;
過去回想その2です。
ご近所の葵君から、私達の大切な家族としての葵となってから数年……。
『ゆずおねえちゃん』と呼んでいた愛らしい声音は、徐々に頼りなげな響きからしっかりとしたものへと変わり、身体つきだけでなく、その心にも確かな成長をもたらしていった。
義姉である私の事を、『柚姉』と呼び名を変えたのは、いつの頃からだったか……。
私の事を手のかかる義姉だと呆れながら世話を焼くようになった葵は、あっという間に私の背を追い越して、少し急ぎ足とも言える早さで『大人』になろうとしているようにも見えた。
早くにお父さんを亡くし、仲が良かったとはいえ、他人と家族になったのだ……。
家族として打ち解けていくまでの過程を考えても、葵の内面では大きな緊張や負担が在り続けた事だろう。
桃咲葵となってからの月日、葵は私に対して軽口を叩く事はあっても、基本的に、『手のかからない良い子』だった……。
母の手伝いも率先してやっていたし、物覚えも良く、料理洗濯の類の腕も同学年の子達より優れた子で……、勉強の方も先生に褒められるくらいに真面目な姿勢を見せていた。
両親はそんな葵を誇りに思うのと同時に、自分達の手から早く巣立とうと気を遣っているようにも見えて、寂しい思いを抱えていたようにも思う。
勿論、義姉である私も両親と同じように感じていたし、一度だけ……、当時中学二年生になったばかりの葵に尋ねた事がある。
帰りの道を逸れて、近くの公園に寄って、並んで座ったブランコ……。
暮れていく夕日の優しい光を背中に受けながら、不思議そうに私を見つめる葵と視線を合わせた。
『葵は……、早く大人に……なりたいの?』
それは、遠回しに自分達の許から羽ばたいて行きたいのかと聞いたようなものだった。
まだ中学生だった葵は、すっかり掛け慣れた眼鏡の奥で一瞬だけ戸惑いの感情を揺らめかすと、誤魔化す事はせずに肯定の言葉を口にしていた。
『まぁ、な。大人っつーか……、早く自分で働いて自立したいとは思ってるよ』
『葵……』
確かに、精神的にも金銭的にも早く自立したいと願う子は多い。
だけど、それと同じくらいに、子供であれる時間を大事に自由な月日を送りたいと望む子もいる。
中学三年になれば受験という大きな壁が待ち構えているとはいえ、まだまだ年齢的には遊びたい盛りの時期……。
親しい友達はいたようだけど、私の目から見ると……、葵が周りに合わせている、と感じられるような、広く浅くの関係を築いていたように思える。
葵に誰かと深く付き合えるような能力が欠けていた、というよりは、あえてある程度の壁を作って、自分の交友関係を調整しているようにも思えた。
放課後は友達からの誘いを愛想良く断り、図書館で勉強や調べ物をしている事も多かったと聞くし、休日の日は家の手伝いか自室で読書か自習。
出掛けるにしても、誰かと約束をしているような素振りもなく、ご近所さんの目撃情報では、一人でブラブラと町中を散策している姿がよく見かけられていたとの話だった。
正直、葵がいない時に、お母さんとテーブルで向き合って、『葵の健全な青春時代を作り上げよう大作戦』とか本気で考えたりしたものだけど、無理にそんなものを押し付けられても葵が困るだろうとお父さんに宥められたりしたものだ。
葵には葵の考えがあって、私達が踏み入れない領域で真剣に何かを考えているのだろうと、それを見守ってやればいいのだと……。
だけど、葵が無理をして、私達に遠慮をして、早く自立しなければと考えているのなら、そんな必要はないのだと、葵の肩から力を抜かせてあげたかった。
『葵は……、私達の家族、だよ』
『ん? どうしたんだよ、急に』
『……確かに、いつかは大人になって社会に出て行くわけだけど、
葵は……、急ぎすぎている気がするの……』
『別にそんな事ないぞ? 将来の事を早めに考えとくのは悪い事じゃないし、普通だろ?』
『……そういう考え方もあるけど、……なんか、葵の場合は、それとは違う感じがするっていうか。
どこか……、遠い所に行っちゃいそうな目をしている事があるし』
ただ、家族の許を離れて自立をしたいという男の子とは違う、どこかに溶け消えてしまいそうな気配を、時々葵から感じる事があった。
私達と家族で在る事を嫌がっているわけじゃない、むしろ、家族で過ごしている時は、幸せそうに表情を綻ばせてくれている事だって知っている。
だけど、……その中に、読み取る事の出来ない空虚さの片鱗を感じ取る事があって、『良い子』であろうとする葵を心配せずにはいられないように思わせていた。
『ははっ、何言ってんだか。それに俺、まだ中学生だぞ? どこにも行けないって』
行かない、ではなくて、行けない、と答えた葵……。
じゃあ、……大人になったら、葵は枷を外された鳥のように、どこか遠くに行ってしまうのだろうか。
夕日のオレンジに照らされた葵の横顔を見つめながら、キィィ……と錆びついたブランコの鈍い響きと共に私は声をかけた。
『いつか……、葵がどこかに行く事を決める日が来たら、私は笑顔で見送るつもりよ?
お父さんもお母さんもそう考えているし、誰だって親許を巣立つ日が来るんだもの……。
だけどね、葵は……、おじさんが亡くなってから、歳に似合わない無理をしている気がするの』
『気のせいだろ? 俺はいつもこんな感じだし、特に無理をしてるわけでもないぞ』
何を言っているのだか、そんな風に私を苦笑しながら見返してくる葵だったけど、中学二年生の男の子のはずなのに……、その視線はやはりどこか大人びていた。
達観している、と言えばいいだろうか。十四歳の男の子にしては不似合いな大人の目をしていた葵に、私の心の奥が鈍く軋んだ。
もう何年も葵の義姉をやっているけれど、近くにいたつもりだったけど、素直な胸の内は話して貰えないんだ……。そう思うと、とても寂しくて。
ぎゅっと握り締めたブランコの鎖の感触を、今でもよく覚えている……。
そして、当時の私は、葵の深い部分には触れられない自分を情けなく思いながらも、せめてこれだけは伝えようと、涙に揺れる声音を伝えた。
『さっきも言った、けど……、葵は、私の、私達の、大切な家族、だから。
どんな時でも、私達がいるって事、……忘れないで、ね』
『柚姉……、な、なんで泣くんだよ。俺、何も酷い事言ってないよな?』
『夕日が目に沁みただけ、だから、大丈夫っ』
『どんな涙腺だよ、それ……』
ブランコから立ち上がり、私の前に腰を屈めた葵は、幼い子供を相手にするかのように、手のひらを私の頭に乗せ、『よくわかんねぇけど、サンキューな』と、優しく撫でてくれた。
どちらが目上なのかわからない光景だったけれど、その時は、自分なりに必死だったのだ。
葵と本物の家族で在りたい、この子の帰る場所で在りたいと……、心から願った。
葵も、私が伝えたい事を心の中ではちゃんと受け止めてくれていたようで、小さな呟き声で、『少し、焦りすぎてたかもなぁ……』と、俯きながら自己反省をしているかのような音を漏らしていた。
『俺さ、柚姉や義父さん義母さん、祖母ちゃん達には、凄く感謝してるんだ……。
親友の子供だった俺を嫌な顔ひとつせずに受け入れてくれて……、家族のあったかさを与えてくれた。
親父を失った俺に、沢山の愛情を注いでくれた柚姉達家族は……、俺の宝物だ』
『私達だってそうなのよ……。葵はかけがえのない家族なの。
桃虎や桃鷹だって葵の事が大好きで、ずっと一緒にいたいって思っているの……。
だから、お願いだから……、葵は、葵らしくいてちょうだい。私達に遠慮する必要なんてないんだから……』
『遠慮してるつもりはないんだけどなぁ……。
でもまぁ、……義父さん達にとって、自慢の息子になりたいって願望は、ある、かもな』
その願望が、私の両親にとって恥ずかしくない息子であろうとする姿勢が、葵の行動の原理だったのかもしれない。
本人の自覚は薄くても、無意識の産物として表れていたのが、葵の出来すぎた行動だったのだ。
勉強だけでなく、炊事洗濯もバリバリこなせる義弟は、私などよりもよっぽど主婦の素質を兼ね備えていたし、どこに行っても上手くやっていけるスキルを身に着けていたから……。
『お父さんがね……、葵は反抗期のひとつもなくて、確かに手はかからないけど、
父と息子のガチンコバトルが出来なくて、ちょっと寂しいって拗ねてたのよ?』
『いやいや、そこは別に無理とかしてないしっ。ガチンコバトルとか有り得ねぇから!!
むしろ、義父さんは優しいし懐も深い人だろ? 反抗できる部分がないっての』
『でも、お母さんも……、グレた息子のちょい悪なとこが見てみたかったって』
『ちょい悪って……、はぁ……、義母さんは息子に何を求めてんだか』
基本的に、のほほんとしている私の両親は、手のかからない葵を、我慢しているが故の反動ではないかとこっそり陰で心配していたのだ。
項垂れて両親に呆れる葵を見下ろしながら、『私もちょっと見てみたかったのだけど』と苦笑しながら本音を漏らせば、ちょっとだけ怒ったような視線が返ってきた。
『俺はそういう典型的なグレ方をするタイプじゃないんだよ……。
勉強だって好きでやってるし、騒ぐのはたまにでいいっつーか……』
『でも、放課後に友達と遊んだりしないし、前に先生から心配の連絡が来てたのよ?
葵君は成績が良くて問題のない子だけど、放課後ぼっち道を爆走してるって……』
『意味わかんねぇよ!! 放課後ぼっちって何だ!? 爆走表現不適切だろうが!!』
『私じゃなくて、先生が……』
私の両肩をがしっと掴み、ブンブンと怒りをぶつけてくる葵は、酷く不本意そうだった。
まぁ、当時の葵の担任の先生は、体育会系でノリが良く、暑苦し……じゃなくて、少々元気の良すぎる熱血系の人だったから、放課後に一人でいる葵が不思議に思えたのだろう。
活きの良い中学生男児が放課後に図書館に籠って勉強なんて信じられない。
部活に熱意を注ぐか、友達と騒ぐのが健全なあり方だと、そう本気で信じていたらしいから。
『あれか? 一人で勉強やってちゃ悪ぃのか? 物静かな奴は根暗だとでも言うつもりか、あの脳筋野郎がっ』
少々言葉遣いが乱れた葵が、不気味な笑いを漏らしつつ、担任教師を『脳筋野郎』と評した光景は、今でもはっきりと覚えている。
勉強家でインドア派な人間を根暗などと評することは絶対に許さん!! と、担任教師への反撃まで誓っていた葵は、お母さんの期待していた『ちょい悪』に近かったかもしれない。
『まぁ……、とにかくだ、柚姉達が心配してるほど俺が無理しまくってるとかはないから。
ただ、いつかは育てて貰った恩を返したいって、普通の事を思ってるだけだし……。
柚姉が俺の立場でも、そう思うだろ?』
『う、うん……。それは、確かに』
『だろ? まぁ、男ってのは早く一人前になりたい生き物だし、俺は他の奴よりその思いが強いってだけだ。
だから、義父さん達にも俺がそう話しておくし、柚姉はもう心配すんな』
『葵がそう言うなら……、わかったわ』
ズレた眼鏡をクイッと掛け直し、葵は迷いのない笑顔で私を言い含めた。
これからは、無意識に張っていた肩の力を抜くようにするから、安心してくれ……と。
嘘を言っているようには見えなかったから、私も涙を指先で拭って安堵の頷きを返した。
『俺と柚姉は、これからもずっと家族だからな。
急に黙っていなくなったりはしないから、心配もほどほどに、な?』
そう微笑んで約束をくれた葵と共に歩き出した夕暮れの帰り道……。
胸の内を吐き出せて安堵していた私は、幼い頃の葵にそうしていたように、私よりも大きくなった硬いけれど温かな感触の手に握り締めた。
勿論、義姉と手を繋ぐ事が恥ずかしい年頃だったから、横から『子供じゃないんだけどな……』と抗議の声が小さく聞こえたものの、葵は手を振り払うことはしなかった。
夕日が上手く隠してくれたように思っていたかもしれないけれど、義弟の頬が気恥ずかしさと嬉しさに熱を抱いていた事を、その綻んだ表情から、私はしっかりと義姉弟の絆を感じ取っていた。
――それから、前よりはお互いに肩の力が抜けた穏やかな日々が私達家族の許に訪れたのだけど……、丁度、葵が夏休みを迎えたその季節、『事件』は起こった。