病葉(三)
6
その仔猫に初めて気付いたのは、中庭に面したカフェテリアのテラスだった。晴れた日は外でも食事が出来るようにと並べられたベンチの陰にうずくまり、小さな灰色の仔猫は人々の足元をじっと見つめていた。
けれどもその躰があまりに小さ過ぎたせいか、それとも初夏の陽射しがつくる濃い影に溶け入るような毛色のせいか、いつまで待っても仔猫の存在に気付いて餌をくれるような人は現れなかった。
やがて諦めたのか、仔猫はふいと踵を返し、花壇に向かって歩き出した。その後脚は遠目にも妙な具合に曲がっていて、仔猫はさも歩きにくそうに脚を引きずっている。それを見た途端、何かに駆られるようにわたしはパンの欠片を手に仔猫を追った。しかし一体どこに隠れたのか、花壇の中に消えた小さな仔猫はいくら探しても見つからなかった。
「どうかしましたか?」
背後から掛けられた声に振り返ると、彼が不思議そうに首を傾げていた。仔猫を探して地面に跪き、手足が汚れるのも構わずベンチの下を覗いていたわたしは途端に恥ずかしくなって、急いで立ち上がった。
「あの……なんでもないんです」
「何か、失くし物でも?」
「いえ、違います……あの、仔猫を探していただけで……本当になんでもないんです」
わたしの隣に跪き、ベンチの下を覗こうとする彼を慌てて押しとどめる。
「仔猫?」
「あの……今日は、お母さまは御一緒じゃないんですか?」
「山崎から聞いたんですか?」
ようやく立ち上がった彼が、俄かに顔を曇らせた。
「母はここ数日、少し体調を崩していまして……いや、微熱がある程度で大した事はないんですが、流石に外に連れ出すわけにはいきませんからね」
「そうですか……」
彼の意識を仔猫から逸らす為だけに母親のことを尋ねたものの、その具合が思わしくないと聞いて、わたしは何だかひどく申し訳ない気持ちになり、唇を噛んで俯いた。御大事に、と小さな声で呟くわたしを見て、彼は微かに口許を綻ばせ、丁寧に礼を言う。彼はわたしが今まで出会った誰よりも礼儀正しくて、医者という人種にありがちな尊大さや傲慢といったものとは無縁だった。優秀な医者と聞いているけれど、でも彼はあまり医者らしくない――
そこまで考えて、わたしはふと首を傾げた。今日の彼は紺色のポロシャツにコットンパンツという軽装で、医者のトレードマークであるべき白衣を着ていない。そのせいで余計に医者らしく見えなかったのだろう。そして、まるでデートにでも行くように、彼は片手に白い花束を抱えていた。
その清楚な花束の意味を知りたいとは思わなかった。けれどもそれから目を逸らすことも出来ず、ただ無言のまま彼の手許を見つめるわたしの視線に気づいたのだろうか。
「弟に会いに行くんですよ」
花束を持ち上げて、彼が照れたように笑った。そして切れ長の瞳をふと細めるようにして、わたしを見つめた。
「一緒に行きますか?」
わたしがその言葉の意味を理解するのを待たず、彼は病院の門に向かって歩き出した。そして数歩先で立ち止まると、不思議そうに首を傾げてわたしを振り返った。まるで一緒に行くことがすでに決まり事で、それなのに彼について来ようとしないわたしが理解出来ないとでもいうようなその様子に、わたしはそれ以上考えることを諦めた。そして小走りに彼の後を追い、門の外に出た。
弟に会いに行くのに、なぜ花束など持って行くのか。そもそも見ず知らずの女など連れていって、弟は驚きはしないのか。その疑問は間も無く解けた。
「由貴人……僕の弟は、ここで電車に轢かれて死んだんですよ。ずっと昔、まだ僕達が子供だった頃のことです」
病院から歩いて十五分程の線路脇に立ち止まり、彼は足元に花を置いた。
彼が子供の頃ということは、少なくとも二十年近く昔のことだろう。その長い年月、彼は弟のことを忘れず、その死を悼み続け、ここに通い続けてきたのだろうか。線路脇に供えられた花弁の白さが、妙に生々しく目に映った。
「こんなことを言うのは間違っているのでしょうけど……でも少しだけ、弟さんが羨ましい気がします」
「どうして?」
「……わたしが死んでも、花を供えてくれる人なんていませんから」
わたしを見つめる彼の口許に、やがて静かな笑みが浮かんだ。
「花が欲しいのですか?」
「……わかりません」
お前が欲しいのは、花か、それとも花を供えてくれる誰かか。
彼の質問の真意に気づかないふりをして、わたしはただ首を横に振った。
「……わたしは、誰かに花を貰ったことなんてありませんから」
不意に彼が手を伸ばし、わたしの腕を掴んだ。袖が捲れて露わになった幾筋もの疵を、彼の指先が優しくなぞる。
「死にたいのですか?」
「……違います」
わたしは首を横に振り、素直に答えた。
「自分が生きていることを、確かめたいんです」
己が死んでいるのか生きているのかもわからない、水底に揺蕩うような微睡みの中で、腕に刻まれた鋭い痛みが、そこから零れる鮮やかな色が、わたしが生きていることをわたしに教えてくれる。その目の醒めるような赤さだけが、死の眠りという泥濘からわたしを引きずり起こす。
「……では、もしも貴女が生きていることを確かめ続けることに飽きて、僕よりも先に死んでしまったら、僕は貴女の為に花を供えましょう」
冗談か本気か。掴んでいた手を離し、涼やかな初夏の風に目を細めるようにして彼は微笑んだ。
「けれどもこの世には、花なんかよりも綺麗なものがあります」
「花よりも綺麗なもの……?」
彼はひとつ頷き、頭上の梢を指差した。
「病葉です」
「わくらば……?」
「若葉の季節に、秋を待たずに色付いてしまった葉のことですよ」
彼の指差す先に目を凝らせば、翡翠色の若葉の中、確かにそこに紅く色づいた一枚の葉があった。
「あの……でもそれって、なにかの病気にかかった葉っぱなんじゃないですか?」
「まぁ、そうですが」
「病気の葉っぱのほうが花よりも綺麗だなんて……」
クスクスと笑うわたしを見て、彼が首を傾げた。
「変ですか?」
「変というか……なんだかお医者様らしいですね」
いつまでも笑い続けるわたしを前にして、彼は困ったように幾度も頭上の紅い葉とわたしを見比べていた。
翌日、わたしの病室に一輪の白い花が届けられた。
その花を手に中庭へ行き、木陰のベンチに座ってあの窓を見上げる。けれどもいくら待っても、風に揺れるカーテンに彼の影が映ることはなかった。
不意にかさり、と花壇の草が揺れて、灰色の仔猫が顔を覗かせた。若葉の翡翠色を映す大きな眼がじっとわたしの手の中の花を見つめる。
「おいで」と囁くと、仔猫は用心深げに辺りを見回し、足音を忍ばせるようにして近寄ってきた。そしてわたしを見上げてニャアと鳴くと、青みを帯びた灰色の躰をくねらせるようにしてわたしの足首に頭を擦りつける。
「ねぇ、見て。これ、あの人がくれたのよ」
柔らかな白い花弁を仔猫の鼻先に近付ける。けれども花の香は仔猫には強すぎたのかも知れない。スッと瞳孔を細めた仔猫は、まるで厭うかのように花から顔を背けた。そんな仔猫の喉元を笑いながら撫で、生まれて初めて貰った花の香に酔い痴れる。彼を想い瞑った瞼の裏を、花よりも散りゆく葉を美しいと言った彼の横顔が不意に過った。
彼と共に見上げたあの一枚の病葉が、わたしの世界を真っ赤に染める。
❀
「原因不明の発熱……か」
窓際に眠る年老いた女のカルテを捲りつつ、由那人が幽かに嗤った。
「寝たきりの老人が発熱する理由なんて、腐るほどある。唯ひとつ当て嵌まらない理由を挙げるとすれば、打撲や骨折による発熱くらいだろうね」
聴診器を薄い胸に当て、丁寧に脈を取る。熱に淀んだ瞳を覗き込み、その耳許にそっと口を寄せる。
「取り敢えず血液検査と尿検査を頼んでおいたけど……でもこう毎月同じ頃に熱を出されると、心理的要因を疑いたくなるね。まさか由貴人の墓参りに行くのが嫌だなんて、そんな事はないと信じているけどね、母さん」
花束を片手に薄暗い病室を後にする。そのまま病院の門を出かけて、ふと踵を返した。
やはりと言うべきか、ひと気の無い中庭の木陰のベンチに腰掛け、あの少年が本を読んでいた。小道の砂利を踏む由那人の足音に気付いたのか、少年の膝で居眠りしていた黒猫が頭を上げ、スイッと瞳孔を細めた。
「見舞う人もいないのに、君はいつまでここに通うつもりなんだい?」
由那人の声に、読んでいた本から顔を上げた少年が、ふっと笑って小首を傾げる。
「迷惑?」
「いや、まさか」
「この本ね、病院の図書館から借りてきたんだ。だから、これを読み終わるまで」
「まだ大分かかりそうかい?」
「う〜ん、そうでもないかな。あと四分の一くらいでお終いだよ」
ふと、少年の手にした本に永遠に終わりが来なければいいと思った。出来ることなら、本の最後のページを破り取ってしまいたい。そうすれば、少年は物語の結末を求めて永遠に彷徨い続け、決して此処から離れることはない――
「……今から弟に会いに行くんだが、良かったら君も一緒に行かないかい?」
「ありがとう。でも遠慮しとくよ。話が今丁度盛り上がってきたとこなんだ」
「奴は余程お前が気に入ったようだな」
小道を立ち去る由那人の後ろ姿を眺めつつ、焰が大きく欠伸する。
「鬼はお前に魅かれるからな。哀れなヤツだ」
肩の上でクツクツと嗤う焰には答えず、煉がはらりと頁を繰った。
7
診察時間は単に退屈なだけだが、週に一度訪れる家族面会の時間はひどく億劫だ。会いたくなければ会わなくてもいいのだけれど、でもそうするとなぜ会いたくないのかとしつこく聞かれ、それはそれで面倒だった。だからわたしは今日も、母親と呼ばれる女の前に大人しく座っている。
女が小さな声で何か問い、わたしはそれに対して曖昧に頷く。と、女がハンカチを取り出し、堪えかねたかのように目許を抑えた。溶けて崩れた化粧が派手な花柄のハンカチを汚すのを、わたしはぼんやりと眺める。
わたしには彼女の流す涙の意味がわからない。わたしは彼女を愛したことはないし、彼女に愛されたという覚えもない。昔、まだわたしが痛みというものに敏感だった頃、彼女はわたしに与えられる仕打ちを見て見ぬ振りをした。それだけではない。彼女はあの男の手から自分が逃れるために、わたしを生贄として差し出したのだ。そんな人間が流す涙に、一体何の価値があるというのだろう。
きっと彼女は悲劇の主人公を演じ、そしてそんな自分に酔い痴れているのだろう。それはひどく愚かで、滑稽で、そしてキンキンと鳴り響く耳障りな彼女の声に堪えているうちに、爪先にひんやりとした冷気が這い寄り、指先が感覚を失い、周囲の音が遠のき、やがて泥濘に引きずり込まれるように、心が鈍く痺れてゆく。
見兼ねたように蟷螂がやって来て、面会時間の終わりを告げる。我に返った女が、崩れた厚化粧をそそくさと直し、取って付けたような笑顔で蟷螂に礼を言う。彼女の演じる一人舞台からようやく解放されて、わたしは痺れた躰を引き摺るようにして中庭に向かった。
女の相手をしているうちに、すっかり陽が暮れてしまったらしい。こんな遅い時間に、彼は来ない。宵闇の忍び寄る木陰のベンチにぐったりと身を預け、わたしは目を瞑った。
二人で病葉を見上げたあの日以来、わたし達は少しづつ言葉を交わすようになった。彼は立ち入ったことは何も聞かず、わたしが独り言のようにぽつりぽつりと零す言葉だけを、ただ黙って聞いてくれる。それはとても心地良く、けれども彼の存在はやはり透明な硝子で遮られたかのように遠くて、わたしはそれが少しだけ寂しかった。
彼が彼自身について語ったのは後にも先にも一度だけだ。
「真夜中、ふと目覚めると、部屋の隅で誰かが泣いている気配がするんですよ」と彼は言った。そして疲れた顔でこめかみを揉み、白衣のポケットから取り出した頭痛薬を飲み下した。
なぜだろう。そんな彼の背後に膝を抱えてうずくまり、肩を震わせる少年の影を見た気がした。
「弟さんじゃないかしら」
思わず手を伸ばし、彼の目にかかる髪をそっと指先で撫でつけ、わたしは囁いた。
「きっとお兄さんのことを心配して、泣いているのよ」
弟の存在を忘れることなく、その死を悼み続ける兄と、そんな兄を悲しむ弟を想い、胸の奥が疼いた。胸の疼きは細い針を刺したように鋭く、同時にどこか甘い切なさを帯びて、わたしの息を詰まらせる。生きて二度と会うことのない兄弟がその胸に抱くものはきっと、決してわたしの手に届くことのない、純粋で透明な愛情というものなのだろう。
ふと顔を上げた彼が、無言のままわたしを見つめ、静かに微笑んだ。
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「……真夜中、ふと目覚めると、部屋の隅で誰かが泣いている気配がするんだ」
奥歯で噛み砕いた頭痛薬の苦味が舌に広がる。
「以前、誰かにこの話をしたら、僕の事を心配した弟が泣いているんじゃないかって言われたよ」
由那人がそう呟くと、ベンチに俯せに寝そべった少年はチラチラと木洩れ陽の躍る本の頁から眼を離さぬまま、ふっと鼻先で笑った。
「……泣いているのは弟じゃなくって、あんたでしょ」
(To be continued)




