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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
95/123

病葉(一)

 人を思ふ心の木の葉にあらばこそ 風のまにまに散りも乱れめ(小野貞樹)



    プロローグ


「綺麗だろう? 病葉(わくらば)だよ」

 青年が微笑みと共に頭上の樹の枝先を指差す。瑞々しい翡翠色の若葉の中、紅く色づいた一枚の葉が鮮やかにその指先を染めた。

 隣に佇む少女の手首に巻かれた白い布に、青年がふと眉をひそめた。細い腕に走る幾筋もの傷痕を指差し、青年が尋ねる。

「死にたいのかい?」

「違うわ」

 少女が薄っすらと嗤った。

「自分が生きていることを確かめたいの」

 幾度も幾度も、彼女は自分が生きていることを確かめ続け、そしてある日、空へ向かって飛んだ。

 病葉の紅い葉影の下に独り佇み、彼は語る。

 病んでいたと云うならば、彼女の微笑みは余りに美しく鮮やかに、僕の眼に映る世界をその色に染めた、と。彼女に出逢い、僕の世界は色を変え、そして彼女を失った今、僕が世界を同じようにみることは二度とない――



    1


 初めて彼に出逢ったのは、病院の渡り廊下だった。

 一階から三階まで吹き抜けになったその渡り廊下で、彼は独り窓辺に佇み、初夏の陽射しに目を細めるようにして、病院の中庭に戯れる人々を見つめていた。透明な硝子に隔てられたかのように彼の周りだけがしんと静かで、そこだけまるで刻が止まっているようで、わたしはその姿にぼんやりと見惚れてしまった。

 わたしの視線に気付いたのだろうか。不意に我に返った彼がわたしを振り向き、気恥ずかしげに、少し困ったように微笑んだ。


    ❀


「――先生。白石先生」

 ぽんと肩を叩かれ、我に返った由那人(ユナト)が慌てて振り返ると、小柄な看護師が呆れた顔で由那人を見上げていた。

「……あぁ、園井さん。どうかしましたか?」

「どうかしましたかじゃありませんよ。先生ったら、渡り廊下の真ん中でぼんやりしちゃって、らしくないじゃないですか。最近全然お休みを取ってないでしょう? 少しお疲れなんじゃないですか?」

「いや、特に疲れているという事は無いですよ」

「そんな事言って、昨日も遅くまで教授の飲み会に付き合わされて大変だったらしいじゃないですか。駄目ですよ、若いからって無理ばかり重ねてたら、そのうち身体を壊しますよ?」

 医者は仕事の出来るベテラン看護師に弱い。しかし幾らベテランと言っても自分よりも若いであろう看護師の姉のような口調に、由那人は思わず苦笑を漏らした。そんな由那人を見て、看護師はますますムキになったようだ。

「いつも言ってますけどね、先生もそろそろ本気できちんと体調管理をしてくれるお嫁さんを探さないと。先生なら若い看護師でも教授連の娘さんでも、選り取り見取りなんじゃないですか?」

「……いや、しかし、僕は母の事もあるし、相手の事を思えばそんな簡単に結婚するわけには……」

「お母様の事もあるからこそですよ! お一人でなんでも背負い込んでしまうのは、先生の悪い癖ですよ!」

 止め処なく延々と続く看護師の小言から這々の態で逃げ出す。時計を見れば、午後の診察までまだ少しばかり時間があった。折角なので、病院の中庭で一息つくことにする。

 由那人が勤務する大学病院の庭は広くて青々とした芝生や美しい木立、手入れが行き届いた数々の花壇で有名だ。いつもなら見舞いの家族連れやリハビリ中の患者も多いのだが、今にも泣き出しそうな曇り空のせいか、今日はひと気が少なかった。

 ……丁度良い。辺りの静けさに安堵して、溜息と共に目を瞑り、しっとりと湿った風を胸一杯に吸い込む。と、ぽつりと生温かい雫が瞼に当たった。

 急に降り出してきた大粒の雨に慌てて近くの樹の下に逃げ込む。しかしそこには先客がいた。

 大きく枝を広げた樹の下で、白いベンチに座った少年は、クスクスと笑いながら膝の上の黒い猫に何事か囁きかけていた。その肩には金色の毛並みの狐に似た動物が座っている。荒い息と共に樹の下に駆け込んできた由那人の姿に、黒、翠、金色とそれぞれ色合いの違う三対の眼が驚いたように瞬いた。

「コンニチワ」

 一瞬の間を置いて、少年が人懐っこく微笑んだ。

「あぁ……こんにちは」

 濡れた髪を手で撫でつけながら慌てて挨拶を返しつつ、横目で少年を観察する。

 艶やかな黒髪に血色の良い頬、健康そうな白い歯並び、綺麗に日焼けした手足。洗い晒しの清潔なシャツに臙脂色のスニーカーを履いた少年は、どう見ても病気とは縁が無さそうだった。ならば、誰かの見舞いだろうか。家族か、友人か。ヒトとは実に脆い生き物で、何かの拍子に簡単に壊れるものなのだから――

 由那人の視線に気付いたのか、少年が由那人を見上げ、再びにこりと微笑んだ。その余りに無邪気な様に何故か不意に居心地が悪くなり、それを隠すように由那人が軽く咳払いした。

「……誰かのお見舞いかい?」

「うん、まあね」

 由那人の質問に曖昧に頷いた少年が、ふと首を傾げた。

「あんたは? 病気なの?」

「僕? 僕はこれでも一応ここの医者だよ。白衣で分からなかったかな?」

「だってあんまり顔色が悪いからさ、精神科辺りから逃げ出してきた患者が医者のコスプレでもしてるのかと思った」

「酷い言われようだなぁ」

 濡れた白衣を風にはためかせつつ由那人が苦笑すると、少年が僅かに肩を竦めた。

「医者の不養生って言うじゃん。あんたもさ、若いからってあんまり無理しないほうがいいんじゃないの?」

 今日は何処に行っても小言を喰らう日らしい。そう言って笑う由那人を、少年の黒々と濡れた瞳がじっと見つめた。



    2


 二度目に彼を見たのは、ひと気の無い病棟の一室だった。

 無数の管に巻きつかれたまま意識の戻らない患者や、朦朧とした夢と現の狭間を彷徨う人々が集められたそこは、しんと静まり返り、夢から醒めかけた誰かが時折上げる獣じみた叫び声だけがその静寂を破る。

 染みひとつ無い白い壁に囲まれた病室で、ベッドサイドの丸椅子に腰掛けた彼は、そこに横たわる誰かに何事か囁きかけていた。僅かに開いた窓から吹く風が黄ばんだカーテンを微かに揺らし、俯いた彼の髪にチラチラと木洩れ陽が躍る。

 一体誰を相手に何の話をしているのか気になって、半開きのドアの陰で息を潜めたが、カーテンを揺らす風の音が邪魔で、彼の言葉はわたしには届かない。唯、逆光の影の中、彼の口許を掠めた微笑みが瞼の裏に焼きついた。


    ❀


 窓から吹き込む新緑色の風が、手にしたカルテの白いページを捲る。何気無く顔を上げた由那人が、僅かに首を傾げて目を細めた。廊下を忙しげに行き来する医者や看護師の間を、一人の少年が軽やかな足取りで縫うように歩く。その濡れたように艶やかな黒髪に見覚えがあった。

 大部屋の前で足を止めると、少年は物慣れた様子で半開きのドアからするりと中に入っていった。ふと興味をそそられ、由那人は少年を追った。そしてドアの陰に立ち、その隙間から薄いカーテンで仕切られた無数のベッドを覗いた。

 逆光の影の中、窓際に腰掛けた少年は唯無言のまま、そこに横たわる老人を見つめていた。爽やかな初夏の風がカーテンを揺らす。しかしそんな僅かな空気の揺らぎすらも、痩せ衰えた身には冷たく感じられるのかもしれない。枯れ枝に似た指先が、白いシーツの上で微かに震える。と、少年が腕を伸ばし、老人の指先をそっと両手で包んだ。震えが治り、やがて単調で穏やかな寝息が聞こえてきた。

 俯き、身動きひとつせずに老人の手を温める少年の姿と、夜の砂浜に打ち寄せる波のように単調な寝息に、何とも言えぬざらりとした違和感を覚え、由那人は足早にそこを去った。



    3


 中庭の木陰に、カフェテリアの人混みに、忙しげに廊下を行き来する白衣の間に、無意識のうちに視線を彷徨わせる。そして遠くにちらりと彼の姿を見掛ければ、その日はいつもより少しだけ幸せな気分で過ごせた。

 やがてわたしは、午後のひとときを中庭の隅に置かれた木陰のベンチで過ごすようになった。そこからは、あの窓がよく見えた。重い病に罹り、恐らく二度と生きてここから出てゆくことの無い人々の眠る病室。彼は、どんなに忙しい日でも必ず毎日一度はその部屋を訪れる。カーテンに映る彼の影絵が、透明な風に音も無く揺らめく。

 それを恋と呼ぶのは、あまりにも安易であろう。敢えて言うならば、わたしは彼に恋していたわけではなく、唯、彼という存在を包む静けさ……硝子で世界から隔てられたような、あの透明感に惹かれていたのだろう。この世界に溢れる雑音を遮る冷たい硝子の世界に、あの音の無い空間に抱かれて、わたしも眠りたい。

「日向ぼっこですか」

 不意に背後から掛けられた声に振り返れば、主治医の山崎が僅かに首を傾げるようにして微笑んでいた。

「……別に」

 愛想無いわたしの返事を気にかける様子も無く、山崎が頭上に枝を伸ばす樹々を見上げる。

「皐月晴れって言うものは実に心地がいいですね。僕は春に忙(せわ)しなく散っていく桜なんかを見ていると、何やら急かされているようで妙に落ち着かない気分になるのですが、初夏の新緑は爽やかで、たまにはこうして外に出るのも悪くない」

 山崎は悪い人間ではないのだろう。それどころか若いのに医者としての腕は確かだと、患者やその家族の間では中々の評判だ。けれどもわたしは彼のことが好きではなかった。

 ひょろりと背が高く、猫背気味で、白く光る眼鏡の底からジッとこちらを観察する姿はどこか、獲物を狙う蟷螂(かまきり)に似ていた。柔らかに細められた眼が、隠された心の奥底を探ろうとする。わたしは虫が嫌いだ。優しげな口調で何やら色々と話しかけてくる蟷螂を無視して、再び窓を見上げた時だった。

「よお、白石」

 蟷螂が親しげに笑いながら片手を上げた。

 そこには彼がいた。

 ゆっくりと車椅子を押しながら、樹々に囲まれた小道をこちらに向かって歩いてくる。車椅子に座った老女の銀色の髪に、木洩れ陽がチラチラと躍った。

「お袋さんの具合はどうだい?」

「ああ、先週は少し体調を崩していたんだが、ここ数日は持ち直してきたみたいでね。たまには外の空気にも触れた方が良いかと思って、連れ出してみたんだ」

 ベンチの前で車椅子を止めた彼は、まるで壊れ物でも扱うように丁寧に、老女の肩に薄いショールを掛け直した。

「お前みたいな孝行息子がいて、お前のお袋さんは幸せだよなぁ。お前を見ていると、俺はなんだか自分が嫌になってくるな」

 そうでもないさ、と言って山崎の言葉に苦笑した彼が、ふと隣のわたしに眼を留めた。

 こんにちは、と言って彼は微笑んだ。

 低くて落ち着いた声。汚れひとつ無い白衣。長めの前髪が風にサラサラと零れて目に掛かる。何気無い仕草で髪を掻き上げる節高で長い指に、思わず見惚れた。そしてふと思う。彼は、もしかしたら、わたしがここからいつも彼を見ていることに気付いていたのかも知れない。

 そう考えた途端になんだか急に恥ずかしくなって、わたしは黙って俯いた。そんなわたしの姿に彼は困ったように微笑んだ。優しく、気遣うような声が私に一言二言話しかける。硝子の向こう側から響く彼の声は、澄んだ水面を渡る宵の風のように涼やかで、ひんやりと心地良い。

 けれどもわたしは気付いていた。

 わたしに向けられたしんと静かな眼は、わたしなど見てはいないということに。


    ❀


 中庭の木陰に、カフェテリアの人混みに、忙しげに廊下を行き来する白衣の間に、幾度となくあの少年を見た。一旦その存在に気づいてしまうと、目に付きやすくなるのだろうか。黒髪の少年は猫のように軽やかな足取りでするりするりと人混みを縫い、あの大部屋へ入ってゆく。そして窓際に腰掛けて、何をするでもなく、唯無言のままそこに眠る老人の手を握る。

 何故か、そんな少年に声を掛けてみたいと思い、けれども窓際に眠る老人と少年の静かなひと時を乱すのも躊躇われた。そうして迷っているうちに、気付けばいつも、少年はいつの間にか姿を消していた。

 だから木陰のベンチで独り本を読んでいる少年を見つけた時、思わず立ち止まって声を掛けてしまった。

「何を読んでいるんだい?」

 顔を上げた少年がパタリと本を閉じると、人懐っこい笑みを浮かべてクルクルと瞳を動かした。

「悪魔と神が気まぐれに賭けをして、それまでクソマジメに生きてきた男の人生をメチャクチャにするって話。つまんない話だよ」

「……君に掛かっては、ファウストも形無しだな」

 ベンチに置かれた本の表紙を見て由那人が苦笑すると、少年が軽く肩を竦めた。

「だってさ、ゲーテが生涯をかけて創った戯曲っていう触れ込みのわりには、オチがつまんないだもん。自分のせいで死んだ元恋人の祈りで魂を救済されるとか、ベタ過ぎて背中がムズムズする」

「確かにそうかも知れないね。でも、それが古典というものなんじゃないかな」

「古典か。まぁ神や悪魔に振り回された哀れなファウスト博士の見事な破滅っぷりを見るに、今も昔もヒトなんて変わらないってことだけは確かだね」

 諦念と達観の入り混じった妙に生意気な口調でそう言い放つと、あくびと共に少年が伸びをする。艶やかな黒髪に、木洩れ陽がチラチラと躍った。

「今日もお見舞いかい?」

「うん、そう」

 空に向かって放り投げた飴玉を器用に口で受け止め、それをカリリと噛み砕きながら少年が頷いた。

「あの人は……君のお祖父さんなのかな?」

「違うよ」

 愛らしく小首を傾げ、少年が仔猫のように眦の切れ上がった眼を僅かに細めた。

「あのヒトね、もうすぐ死んじゃうんだ」

 薄暗い病室で、白いシーツに包まれ幽かに上下する薄い胸と、長年の風雪に耐えてきた老木に似た手を想う。そしてちらりと垣間見たその皮膚を染める黄疸を思い浮かべ、由那人が静かに嘆息した。

 老人はその長い生を唯ひたすら真面目に、細々と、地を這う様にして生きてきたのだろう。そして今、人々に惜しまれながら静かに逝く。

「全然違うよ」

 由那人の言葉に少年が可笑しそうに笑った。

「あのヒトはね、若い頃から酒癖が悪くって、飲んだら暴れて手のつけようがなかった。おまけに博打好きのオンナ好きでさぁ、結局奥さんと子供に逃げられて、でも開き直っちゃって改心なんてする素振りもみせなくって、そのままハチャメチャな人生を突き進んで、何度も刑務所を出入りして、結局最期は肝臓癌でオダブツだよ。あのヒトが死んでも泣くヒトなんていないし、ファウストみたいに魂の救済を祈ってくれるような恋人もいない」

「……なら君は、なぜ見舞いに来ているんだい?」

「トモダチに頼まれたから」

 少年がふと微笑み、膝に丸まっている黒猫の背中を撫でた。

「……友達?」

「うん、俺のトモダチね、ちっちゃい頃に川に捨てられたんだ。それで溺れそうになっているところを、酔い潰れて河原で寝てたあのヒトが気付いて、川に入って助けてくれたんだって」

 ……まさかとは思うが、少年の言う友達とは、膝に座った猫のことだろうか。訝しげに自分を見つめる由那人の視線に気付いたのか、黒猫がふと顔を上げると、翡翠色の銀杏のような眼を細めてニャアと鳴いた。

 そんな猫から眼を逸らし、由那人が僅かに口許を歪めた。少年の言う友達が猫のことかは定かではない。しかしたとえ男が仔猫を助けたとしても、酔って女子供に手を上げるような男のその行為は、単なる気紛れだったのだろう。そんなものは、男の人間性を肯定することに繋がりはしない。

「うん、そうだね」

 まるで由那人の心を読んだかのように、少年がにやりと笑った。

「でもヒトなんてそんなもんだよ。気紛れで、移り気で、矛盾している。ヒトの心は単純であると同時に混沌として、それはまるで深淵な森のように、その全てを窺い知ることは誰にも出来ない。だからこそヒトは誰も、他者の人間性を裁くことは出来ないんだ」

 少年が本を片手に立ち上がった。そろそろ午後の面会時間なのだろう。ご苦労様、と由那人が呟くと、少年は柔らかに口許を綻ばせた。

「あのヒト、寝てばっかりで、たまに目が覚めても朦朧としちゃって、ろくに会話も出来ないんだ。でも俺が行かないと寂しがるからね」

 ……そう。人は眠っていても、周囲の物音を聞いている。植物状態と言われる重度の昏睡状態にあってさえ、音楽や会話に反応を示すことがある。そしてそんな人間が最も強く反応するのは、近しい人の声――

「じゃ、俺もう行くから。またね」

 少年の声に我に返った由那人が何かを振り払うように首をひとつ振ると、立ち去る少年の後ろ姿に目を向けた。

「君、名前を聞いてもいいかな」

「……煉」


 一瞬の間をおいて振り返った少年の眼の奥に、暗い火影が揺れた。



(To be continued)

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