雪割の華(中編)
2
北国の春は遅い。
しかし飽きもせずヒトの子を眺めているうちに一華の冬はあっという間に過ぎ、軒下の氷柱が透明な雫を垂らし始めた。雫の奏でる単調な子守唄に誘われるように、一華は眠りについた。
夏が過ぎ、秋が深まり、初雪が再び世界を白く染める。風に舞う雪の音に目覚めた一華は、雪山を転がるように駆け下りて、真っ先に古びた農家を訪れた。
一華が眠っている間にヒトの子は驚くほど大きくなり、けれども雪童子よりはまだ余程小さくて、ヨロヨロと危なかしげに伝い歩きをしては一華をひやひやさせた。一華の心配をよそにヒトの子はすくすくと成長し、季節の巡りと共に一華は眠りと覚醒を繰り返し、三年の月日が経った。
……またやってる。
樹の枝に腰掛けた一華が、眼下に揺れるおかっぱ頭を見て僅かに肩を竦めた。小さな手を寒さに真っ赤にした少女が雪を丸め、そこに南天の実と葉をつける。これは最近の彼女のお気に入りの遊びなのだ。
飽きもせず雪うさぎを作る少女を、これまた飽きもせず一華が眺める。
完成したやや歪な雪うさぎを満足気に眺めていた少女が、不意にそれを抱き上げた。そしてヨタヨタと樹に向かって歩いてくると、大事そうに抱えたそれを根元に置いた。
「はい、あげる」
一華の腰掛けた枝を見上げ、少女がにこにこと笑う。こんな事は今まで一度もなかった。一華は唯無言のままに、幾度も瞬きを繰り返した。
と、母屋の戸が開いて、少女の母親が顔を出した。
「はーるー」と歌うような母親の声に少女が慌てて振り返る。
「はぁい」
キシキシと雪を踏みしめる軽やかな足音と共に少女が去るのを見計らい、一華が樹から飛び降りた。足元の雪うさぎをそっと手に取り、その紅い眼と見つめ合う。
……少女には己の姿が見えるのだろうか。
殆どのヒトは雪のモノの姿を見ることは出来ない、と煉は言っていた。たとえ気配を感じることが出来たとしても、ヒトでないモノの声が聞こえたり、それに触れたり出来るヒトは滅多にいない。ヒトとヒトでないモノ達は、同じ世界に在りながら、異なる景色を見つめ、異なる風の歌を聴き、異なる刻を生きる。けれどもそのことに対して、一華は深く考えたことはない。
一華は唯、ヒトの子を見ていた。言葉を交わしたいと欲したわけでも、あの紅い頬に触れたいと願ったわけでもない。己が何故ヒトの子を見たいと思うのかすら解らぬまま、唯、近くて遠いその存在を見つめ続けた。
ツンと形の良い南天の葉の耳に、一華がそっと口を近づけた。
「……は、る」
胸の内が、不意にふわんと温まった。
その夜、一華は独り、冴え冴えと冷たい月明かりに零れる粉雪を丸めた。見様見真似で南天の紅い実と青い葉をつける。そして歪なそれを、少女の眠る戸口の隅に置いた。
3
翌朝、いつものように樹の枝に腰掛けて一華が農家の裏庭を眺めていると、赤いちゃんちゃんこで着膨れした少女がヨタヨタと歩いてきた。手に抱いた雪うさぎを丁寧に樹の根元に座らせたかと思うと、少女が一華を見上げ、おいでおいでと手招いた。一瞬迷ったが、一華が意を決して枝から飛び降りると、少女はとても嬉しげに顔を綻ばせた。
「ゆきちゃん」
一華の前にしゃがんだ少女が、雪うさぎを指差す。
「この子、ゆきちゃん」
ゆきちゃんとは、つまり雪うさぎの名であろうか。しかしまさか己が作った雪うさぎに名があろうとは知らなかった。一華が密かに感心していると、少女が寒さに赤くなった自分の鼻先を指差した。
「はるちゃん」
「……え?」
「あのね、はるちゃんってゆうの」
くるくると輝く黒目勝ちの瞳が真っ直ぐに一華を見つめた。
「なまえ、なんていうの?」
……ヒトに近づいてはいけない。
ヒトに名を教えてはいけない。
己の欠片をヒトに与えてはならない。
雪母の教えや煉の言葉を忘れたわけではない。あぁ、だけど、もしもヒトの子が己の名を呼んだら、それはどんな心地がするのだろう。
此の世に生まれて初めて、一華は何かを欲することを知った。そしてその欲求は小さな胸の内にとどめておくには余りに大きく、雪童子は雪母の声に耳を塞ぎ、煉の眼差しから目を背け、ひとつ深く息を吸った。
「……一華」
「いち……いち……げ?」
雪山の梟のように不思議そうに首を傾げた少女が、不意に破顔した。
「いっちゃん」
何が嬉しいのか、少女はころころと笑いながら一華を指差した。
「いっちゃん」
少女がその名を口にする度に、胸の内に不思議な温かさが広がる。
「いっちゃん、あそぼ」
屈託無い笑顔と共に差し出された手を握った。
ころころと、銀の鈴を転がすような笑い声が雪山にこだまする。澄んだ風に笑い、雪山の獣達と戯れ、ふたり並んで流れる雲を眺める。穢れのない雪の中、春という名の少女が一華の世界を鮮やかに彩る。
一華は歌を知り、踊りを知り、繋いだ手の温もりを知った。
そして独りで過ごす夜の静寂を知った。
❀
「ねぇ、寂しいって、どういうことだと思う?」
「は?」
「俺はね、寂しいって、在るべきモノが無いことを知っている、ってことだと思うんだ」
遥かに続く白銀の山並みに、煉が眩しそうに眼を細めた。冷たい風が梢を揺らし、雪を舞い上げ、艶やかな黒髪を乱す。
「一華は春に逢うまで、自分が何を持っていないのか知らなかった。『在るべきモノが無い』ことを知らなかったから、寂しいなんて感情を持つこともなかった。在るべきモノが何かすら知らない不幸と、それを知った故に訪れる不幸……どっちの方がより不幸だと思う?」
❀
「いっちゃん、またあした」
「うん……またあした」
山の麓まで春を送り届けた一華があくびを噛みころしつつ、春に手を振りかえす。
雪解けが冬の終わりを告げる。暖かな陽光に誘われ穏やかな眠りにつき、そして目覚めた時、春はまだ自分を待っていてくれるだろうか。
(To be continued)




