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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
90/123

朧月(終)

 

      8


 明晩月見の宴を開く由、貴殿も是非とも参られたし……というやや一方的な書状に朧月が僅かに顔を顰めた。是非とも、とはつまり絶対に来いということだ。穏やかな月虹の性格故に普段は屈託の無い付き合いをしているが、しかし相手は朧月よりも遥かに永く生きる鬼なのだ。如何に一方的であれ、来いと言われて否と言えるわけが無い。しかも月虹は人界から遠く離れた魔界深くに棲む。今から急いでも宴に間に合うのはギリギリと言ったところか。

「せめてもう少し早くに使いを寄越せば良いものを……」

 文句を言っても仕方が無い。人界の月の光に淡く透ける虹色の蝶を眺め、朧月が嘆息した。



 月見の宴の開催は月の名を持つモノの一声で決まる。月に幾度も開かれることもあれば、何年にも渡って音沙汰の無いこともある。朧月とは特に親しくはないものの、几帳面な弓月や酒好きの十六夜などはわりと頻繁に宴を催していると聞く。しかし朧月の知る限り、月虹が宴を開いたことはこの数百年で一度も無い。

「いやはや、それにしても月虹殿が宴とは、実に珍しいことですなぁ」

 朧月の隣に座した鬼の言葉に、周りの鬼達が一斉に頷いた。やはり不思議に思っているのは自分だけではないらしい。

 集まったモノ達が山海の珍味に舌鼓を打ち、甘い酒の香りに酔い痴れる中、肝心の主催者は少し離れた木蔭に独り横になり、ぼんやりと煙管をふかしている。こいつは本当に一体何がしたかったのだろう。

 と、朧月の視線に気付いたのか、ふと顔を上げた月虹が人懐っこく目を細め、おいでおいでと手を振った。

「久しぶりだね、朧月」

 隣に腰掛けた朧月の盃に、月虹が酒を注ぐ。

「最近君が全然遊びに来てくれないからね。独り静かに月を眺めるのも良いけれど、たまには誰かと盃を交わすのも悪くない」

 月虹の言葉に無言で頷きつつ、ふとナズナを想う。彼女は今宵も独り、あの寂れた庭で月を眺めつつ盃を傾けているのだろうか。

「積もる話もあることだし、折角だからしばらくゆっくりしていってくれると嬉しいな」

 ……闇ノ市で着物を手に入れて、一刻も早くナズナにそれを見せてやりたい。けれどもまさかそんな事を月虹に言うわけにもいかず、朧月が困ったように口籠った時だった。

 背後でドッと笑い声が上がった。

「聞きましたか? かの銀目の鬼喰いのもとに、面使いが向かったとか」

「そうそう、ワシも風の噂に聞きました。これであの鬼喰いもようやく年貢の納め時というわけで、ワシもホッとしましたわ」

「……なんの話だ?」

 嫌な胸騒ぎに振り返った朧月が声を低めた。

「おや? 朧月殿はご存知ないので? 昨今巷を騒がしている鬼喰いの女の話ですよ。これがもうトンデモない奴でして、異界に棲むモノをわざわざ人界に召喚して、片っ端から喰らっておるのですよ」

「餓鬼も真っ青な喰いっぷりらしいですなぁ」

「我らとしても、いつなんどき召喚されるかわかったもんじゃありませんからな、寝ても覚めても落ち着かぬことでした」

「今回ばかりは面使い様様というわけですな」

「まったくまったく」

 愉しげな鬼達の笑い声に、鼓動が速くなる。

「面使いだと? 面使いなんてもう数百年前に絶えた筈だろう?」

「確かに一族としては絶えましたが、一人だけ生き残りがおりましてな。噂によれば、ヒトの癖に人魚を殺してその血を飲み、不老不死となったとか。こいつがまた凄まじい遣い手でしてな。コレに睨まれて生き延びたモノは未だかつて一匹もおらぬといわれておりまして」

「なんで……」目の奥が痛む。幾度も乾いた唾を飲み込んだ。「なんでその面使いがあいつを祓うんだ?」

「……煉。その面使いの名は煉という」

 それまで無言で朧月の様子を眺めていた月虹が不意に口を開いた。

「月虹……もしかして知ってたのか……? その面使いのことを知ってて、わざと俺を魔界に呼び戻したのか?!」

「煉はヒトに憑く鬼を祓う」

 月を映す水鏡のような銀の眼には一片の揺らぎも無く、そこからは何の感情も読み取れない。その事が余計に朧月を苛立たせた。

「ナズナは鬼じゃないッ」

「そう。彼女は鬼ではない。かと言ってヒトとも言えない。あれは鬼喰いだ」

「だからって、なんでナズナが祓われなくっちゃいけないんだ?!」

 朧月を見つめる銀の眼に、憐れみの色が滲んだ。

「聞いたところによると、彼女は人肉を喰らう鬼の味を好むらしいね。ヒト喰いを手に入れるために彼女が何をしているか……知らないわけではないだろう?」

 ……闇が甘く薫る。

 夜風が幽かに咽び泣く。

 忘れ草の花ですら消すことの出来ない異臭。着物の袖に染み付いた黒い跡。夜風に紛れる啜り泣きと、座敷の奥から洩れ聞こえる幽かな呻き声と、くちゃくちゃと肉を食み、血を啜る音――

「ヒトとしての境界を踏み越えてしまったモノを、煉が見逃すとは思えない」

 何故ヒトも鬼も、あれを裁こうとするのだろう。一体何の権利があって、あれが生きることを阻もうとするのだろう。

「……鬼はヒトを喰い、ナズナは鬼を喰う」

 朧月、と月虹の静かな声が立ち上がった朧月を呼び止めた。

「行ってはいけないよ。煉の火に巻き込まれれば、君もただでは済まない。言っただろう? 鬼は、銀の眼を持つヒトに近づいてはならないと――」

 自分を見つめる銀色の瞳を振り切り、朧月が駆け出した。



      9


 己が人界に戻るのを待たず、ナズナが煉とやらに祓われてしまうのではないかとの予想を裏切り、ナズナは相も変わらず寂れた庭で酒を呑みつつ月を眺めていた。

「どうした、山吹の。やけに顔色が悪いぞ。なんぞ腹に合わぬモノでも喰ったか?」

 息急き切って駆け込んできた朧月を迎えた彼女ののんびりとした様子に安堵すると同時に腹立だしさを覚え、無言でナズナに近付いた朧月がその腕を乱暴に掴んだ。ナズナに近づくことに対する己の身の危険は考えなかった。今は彼女を逃がすこと、それしか頭に無かった。

 驚いたように眼を見張ったナズナが、不意に表情を硬くした。

「……誰だ?」

 その視線の先を辿り、荒れ果てた庭に佇む少年を見た瞬間、全てが手遅れであったことを悟った。金色の狐を肩に座らせ、倦んだ眼差しで月を見上げる少年が煉であることは、言われずとも解った。陰陽師程度ならこれまで幾度も見てきたが、煉はそのような者達とは全く違う。ヒトでもなく、鬼でもなく、その眼差しはどこかナズナに似ていた。

 けれどもナズナはそうは思わなかったらしい。

「お前は鬼か?」

 首を傾げたナズナの言葉に、少年がくすりと笑った。

「さあね」

 しばらく無言で少年を睨んでいたナズナが、不意にぬるりと嗤い、紅い唇を舐めた。

「……お前を喰った鬼は、さも美味かろう」

 ナズナの背後で闇が蠢いた。髪を振り乱し、牙から血を滴らせた無数の鬼がナズナを護るかのように闇から這い出る。しゅるしゅると鬼達が吐く息にヒトの血の匂いを嗅ぎ、その腐臭に朧月は思わず顔を背けて後退った。しかし少年に怯える様子は無く、ただつまらなそうに肩を竦めてみせた。

「がっかりさせて悪いんだけどさ、俺、誰かに喰われる予定ないんで。鬼にも……あんたにも」

 ぼうっと少年の両手が光を帯びた。一見気怠げにナズナと対峙する少年の手に込められた熱は、朧月とナズナのみならず、この場にいる全ての鬼を呑み込んで余りある。死よりも切実な、存在そのものが永劫に消される恐怖に目の前が真っ暗になる。ナズナに向かって逃げろと叫ぼうとした声が掠れ、震えた。

「あんたがヒトを恨む気持ちもわかるけど、でもあんたはやり過ぎた。悪いけど、見逃してやることは出来ない」

「恨むだと? 何を愚かなことを」

 ナズナが声を上げて嗤った。

「ナズナはヒトを恨んでなどいない。ヒトとは鬼の餌に過ぎず、鬼はナズナの餌に過ぎない。恨みであれ、情けであれ、ヒトにも鬼にも心を煩わす一片の価値も無い」

 勝負は一瞬だった。いや、それは勝負とすら言えない、人の子が蟻を踏み潰すのにも似た一方的な殺戮でしかなかった。

 ナズナが放った鬼達は、断末魔の悲鳴を上げることすら許されず、少年の火に一瞬にして跡形も無く燃え散った。ナズナとて黙ってそれを見ていたわけではない。彼女は知っている全ての呪術を駆使し、力の限りを尽くして鬼を召喚し続けた。唯、少年の力は余りに圧倒的で、鬼にもヒトにもどうすることも出来なかったのだ。

「最期になんか言い残したいことある?」

 力尽き、地面に跪いたナズナを無表情な闇色の眼が見つめる。

「……冬が過ぎ、雪が解け、春が来る」

 山吹の、と呟いて顔を上げたナズナが不意に満面の笑みを浮かべた。懐かしげに細められた瞳に銀の炎が瞬く。それは冬の月のように冷たく、冴え冴えと美しく、朧月の胸を突いた。次の瞬間、紅蓮の炎がその身を呑み込んだ。


 声にならない叫び声と共にナズナに駆け寄ろうとした朧月の腕を、煉が掴んで引きずり倒した。離せと喚いても、力の限りに暴れても、煉はその手を離そうとはしなかった。轟々と鳴る炎が地を舐め、天を焦がし、朧月の悲鳴を呑み込む。熱風に煽られ、眼がやられ、喉が焼けつく。

 全てを焼き尽くし、東の空が白々と明るくなる頃、煉がようやく朧月を抑えていた手を離した。すでに立ち上がる力すら残っていない。地面に俯したまま、朧月が呻くように呟いた。

「……何故俺を殺さない?」

「なんでって、無駄な殺生は疲れるから。退魔は一応家業だけど、別に趣味ってわけじゃないし」

 その人を喰ったような口調に、思わず歪んだ嗤いが零れる。この少年にとって、己の生死の価値など、その程度のものなのだ。鬼はヒトを喰い、ナズナは鬼を喰い、そして煉は全てを無に還す。

「……鬼殺しが生業なら、何故ナズナを殺した」

 一瞬の沈黙の後、煉が僅かに迷うかのように首を傾げた。

「昔、俺のじいさんが言ってたんだけど、一度でもヒトを喰ったモノはヒト喰いにしかなれないんだって。それと同じでさ、鬼喰いの女は生きている限り鬼の血を求め続けるんだよ」

「それがどうした」

「どうしたって……あのさ、あの女、単に異界から鬼を召喚するだけじゃなくって、たとえば君みたいな人肉を好まない鬼にまで術をかけて無理矢理ヒト喰いにして、そいつらを喰ってたんだよ?」

「何故お前が鬼の安否を気に掛けるんだ?! 鬼がどうなろうと、面使いのお前が知ったことではないだろうがッ」

「……君、彼女と友達だったんだね」

 深い闇色の瞳が朧月を見つめる。それは余りに深く、静謐で、ナズナとは別の意味でヒトのモノとは思えぬ色だった。

「あのね、俺にもいるよ。ヒトでないモノの友達が……」

 投げつけられた鋭い忘れ草の葉を片手で受け止め、煉が何故か哀しげに微笑むと、朧月の背後を指差した。

 そこには、焦土に茫然と座り込むナズナの姿があった。



      10


 一体何が起こったのか、全く理解出来なかった。唯、感情の迸りのままにナズナに駆け寄り、幾度も名を呼びながらその身を抱き締めた。何をされても、ナズナは唯されるがままに朧月に身を預けていた。

 ふと我に返り、朧月が辺りを見回した。煉の姿はすでに無く、少し離れた岩に座った狐が眼を細めるようにして朧月とナズナを眺めている。

「……あいつは何処に行ったんだ?」

「煉ならもういない。あいつはあれで中々忙しいからな。退魔だって本当は滅多にやらんのだ」

 ナズナさえ無事なら、あの面使いの事などどうでもいい。これからは誰にも邪魔されることなく、ふたりで静かに生きていこう。

 そう伝えようと思い、ナズナの顔を覗き込んだ朧月が、ふと違和感を覚えて眉根をひそめた。

「……ナズナ?」

 ゆっくりと瞬きを繰り返す銀色の瞳は、朧月を通り越し、何処か遠くに向けられていた。けれどもその眼は何も見てはおらず、そこには何も映ってはいなかった。

「煉の火に焼かれれば鬼は完全に消えるが、ヒトは躰が残る。ただし、魂の消えた人形のような肉体だけだがな」

 おぼろに霞む瞳には悲しみも怒りも虚しさも無かった。

 それはすでにナズナでは無く、ナズナの空蝉に過ぎず、蒼い空に向けられた瞳に銀の炎が瞬くことは二度と無い。

「その女がやった事を考えれば、人間共からどんな仕返しがくるか考えんでもわかるだろう。脱け殻とは言え、ソレをお前に預けたのは煉の情けだ」

 そう吐き捨てるように言うと、呆然とナズナを腕に抱いた朧月を残し、狐は後も振り返らず駆け去った。


      ❀


 煤に汚れた手足を洗い、椿油に浸した櫛で髪を梳いてやる。喉が渇いていようかと、谷川から汲んできた冷たい水を布に含ませ、唇を湿らせる。やがて陽が暮れ、辺りに闇と夜の静けさが戻ってきた。

「冬が過ぎ、雪が解け、春が来たな」

 山の端を照らす柔らかな月の光に、朧月がふと目を細めた。

「疲れただろう。もう眠るといい」

 春とは言え、夜は冷える。寒かろうと、脱いだ羽織にナズナをそっと包む。

「濃藍に銀糸の打掛を着せてやろうと思っていたんだがな」

 瞑った瞼を懐かしげに撫で、その顔を濡れた絹布で覆う。腕に抱いた身体の震えが止まり、やがてそれが腕の中で硬く冷たくなってゆく中、唯無言で月を見つめ続けた。


 山吹の、と不意に呼ばれた気がして振り返ったが、そこには誰もいなかった。



      エピローグ


「……月虹」

 盃を片手にゆっくりと振り返った鬼が僅かに首を傾げて微笑んだ。真珠色の髪が夜風に溢れて頬にかかる。

「……桐刄。久しぶりだね」

「君が煉の眼玉を手に入れたと聞いたからね」

「うん、そうなんだ」

 月虹がクスクスと笑った。

「コレを持っていれば、きっと君が来るだろうと思ったから」

「それにしては闇ノ市で名を伏せたり、間に幾人も代理を立てたり、悪戯にしては手が込んでいるね」

「あぁ、それで君が来るのに思ったよりも時間がかかったのか。でもその悪戯を仕掛けたのは僕ではないよ」

 月虹が笑いながら背後を振り返った。

 自分を睨む朧月の姿に桐刄が僅かに目を細める。

「朧月……君が煉を嵌めたのかい?」

「それがどうした」

 朧月が吐き捨てる様に言った。

「ヒト好きの鬼が、お前を見ていると虫唾が走る」

「おやめ、朧月。我が従兄弟殿は風流を気取っているけれど、その実、血も涙も無い武闘派だよ。君など野の花を手折るより簡単に殺す」

 月虹の言葉に桐刄が嘆息した。

「余りおかしな噂を広めないで欲しいな。そんな事より、煉の眼玉の話だ」

「そうそう、煉の眼玉。黒曜石とも違う澄んだ闇色で、すごく綺麗だよね」

 懐から取り出した硝子瓶をつくづくと眺め、月虹が感心したように呟いた。

「彼はこの綺麗な眼で、いつも何を見ているんだろうね」

「……此の世の闇を」

 吐いた紫煙を目で追いつつ、桐刄が形の良い口の端を歪めた。

「……とでも言えば君のお気に召すのかな?」

「それは僕ではなくて、君の好みだと思うよ? 君と違って、僕の趣味はわりとノーマルな方なんだ」

 あからさまにムッとした桐刄を見て、月虹が実に愉しげに肩を揺らす。

「とにかく、この君好みに歪んで綺麗な眼玉のお陰で久々に君に逢えた。これは君に譲ろう。勿論タダとは言わないけれど」

「月虹! それじゃ約束と違うだろうがっ! 桐刄にやるくらいなら俺に返せよッ」

「返せって、コレは君のモノではないだろう? 自分を囮にしてまで煉を罠に掛けた君の執念は凄いと思うよ。だけど実際に彼の眼玉を手に入れたのは月見の宴の面々だし、僕は彼等に正当な値を払ってコレを手に入れた。だからコレをどうしようと僕の自由で、君には関係無い。そもそもこんなモノを手に入れて、一体どうする気なんだい?」

「喰ってやる」

 朧月がぎらぎらと眼を光らせ、歯軋りした。

「それを喰って、あいつの力を手に入れる」

「朧月」

 呆れたように月虹が首を振り、その隣で桐刄が口角を上げる。

「こんなモノを喰っても、煉の力は手に入らない。それに確かに僕は煉の眼玉が闇ノ市に出たら手に入れようとは言ったけれど、でもそれを手放さないとは言っていない。勿論タダで手放す気は無いけれどね。だからもしも君がコレに見合う対価を払えるなら、君に渡すことを考えてもいい。だけど残念ながら、君は僕の欲しいモノは持っていない」

 無言で自分を睨む朧月に向かって月虹が軽く肩を竦めた。

「僕はなぜ君がそこまで煉を嫌うのか分からない。そして同時になぜ桐刄がそこまで煉を気にかけるのかも分からない。愛にしろ憎しみにしろ、ヒトの子にそこまで心を煩わせる価値があるとは、僕にはどうしても思えないからね。どちらにしろ、愛と憎しみは紙一重だよ。何者に対してであれ、余りに強い執着心はそれを持つ者を狂わせ、壊す……可愛い友と、大切な従兄弟殿への僕からの忠告だと思ってくれると嬉しいな」

 不貞腐れた表情の朧月と素知らぬ顔で煙管を燻らす桐刄を、にこにこと微笑みつつ月虹が交互に眺める。

「……で、僕が欲しいモノだけど」

 月虹が桐刄の手元を指差した。

「君の煙管。僕のと交換して」

「……またかい?」

 桐刄が涼やかな眉根を露骨に顰めて嘆息した。

「これで一体何度目かな?」

 差し出された細く優美な煙管を手に取ると、月虹が満足気に見事な蒔絵を指でなぞった。

「だって、僕は煙管の手入れが苦手なんだもの。その点、君の煙管はいつも手入れが行き届いているからね。これでしばらくは月に虹を掛けるのに困らない」

「困る前に使いを寄越せばいいだろう?」

 代わりに手渡された煙管を調べ、詰まったヤニに桐刄が顔を顰める。

「それじゃあ、つまらない。僕は眉目秀麗な従兄弟殿と盃を交わすのが好きだから。だけど僕は出不精だし、君はいつも人界に入り浸っていて、こうでもしないと中々ここまでは来てくれない」

 今宵は飲み明かそうと、月虹が楽しげに笑いながら桐刄の盃に酒を注ぐのを横目で睨み、朧月が立ち上がった。



 宵の風が鮮やかな色合いの髪を弄ぶ。風に吹かれるまま行く当てもなく歩き、湖のほとりで足を止めた。

 藍色の水鏡に映る銀の月が、風に微かに揺れる。その澄んだ銀色は美しく、けれどもそれは彼女の色ではない。


 煉の炎に呑まれたモノの魂は無に還り、その存在は消える。

 ナズナは消えた。幾千年待とうと、もう二度とあの閃く銀の炎を朧月が目にすることはない。

 花はヒトを喰い。ヒトは花とひとつとなり。やがて花は散り。

 けれども散った花の面影が朧月の内から消えることは無い。怒りか、怨みか。あの日のことを思い起こすたびに、暗く深い痛みが胸を苛む。

 許さない、と胸の内で幾度も同じ言葉を噛み締める。銀の炎を奪った紅蓮の炎を、あの情け容赦の無い灼熱を、俺は決して許しはしない。己の全てに代えてでも、いつか、あの炎が守らんとするものを奪い、壊してみせる。


「朧月」

 呼ばれて振り返ると、月虹の澄んだ銀の眼と目が合った。

「……この世にはわすれぬ春の面影よ おぼろ月夜の花のひかりに」

 ついと伸ばされた細く冷たい指先が、夜風のように優しく頬を撫でる。

「朧月。君は、とても……」


 寂しいね、と呟いた月虹の微笑みが不意に滲み、おぼろに霞んだ。

 


(END)

朧月は「忘れ草」に初登場した鬼です。

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