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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第二章 〜 煉
9/123

狗神 (前編)

見ぬ人をただひたすらに想ひ草 寄りて待たまし逢へる秋こそ (万葉集)


   プロローグ


「おったぞっ」

「こっちだ!」

「気を抜くなよ、奴はひどく頭が切れる」

「なぁに、今日こそ逃がしゃしねぇ、奴は仔連れだ」

 切り立った崖に追い詰められた雌狼が、冷たく光る眼で自分を囲む人間を見つめる。猟師達が一斉に矢をつがえ、狼にゆっくりと狙いを定めた。弓が放たれた瞬間、狼が足下の仔狼を咥え崖から跳んだ。


     ❀


 早朝。霧雨の中、谷川に沿った山道を通りかかった少女がふと足を止めた。何を聞きつけたのか、首を傾げて覗き込んだ道外れの藪の中に息絶えた大きな雌の狼をみつけ、少女が息を呑んだ。しかしその冷たい骸の陰に隠れるようにして狼の仔が震えているのを見ると、地面にしゃがみ込み、そっと手を伸ばした。

「おいで……大丈夫、こわくないよ」

 質素な身なりの少女が雨に濡れそぼった仔狼を抱き上げ、懐に抱いた。

「可哀相に、お前もおっかさんが死んじゃったんだね」

 震える仔狼に頬ずりしながら少女が囁く。

「怖かったね……でももう大丈夫。あたしがお前のおっかさんになってあげるから……」



     1


 晩秋。山奥の小さな集落を見下ろす岩山の頂きで、紅く色付いた秋の山々を映したかのように見事な色合いの狼が目を閉じ、腹這いに休んでいた。風に乗って聴こえてきた集落の微かなざわめきに狼の耳がぴくりと動く。数秒後、今度ははっきりと耳に響いた悲鳴に狼が目を開けた。

 紅い眼を細めるようにして、眼下に広がる光景を見つめる。村外れの田んぼの畦道で、棒を振りかざした男が何やら喚きながら子供を追いまわしていた。と、それを止めようとした女が男に突き飛ばされ、甲高い悲鳴と共に田んぼに転がった。

 突如狼の眼に不穏な炎が燃え上がった。喉の奥で低く唸った狼が、岩を蹴って走り出した。


     ❀


 朝霧の中、大きな籠を背負った煉が栗の大木の下で栗鼠の子と共に栗拾いに精を出している。

「いっぱい採れたな~」

 背籠にどっさりと詰め込まれた弾けたイガ栗に、煉が満足そうに嘆息する。

「兄者は栗が好きだからな。よし、今日は栗飯にしよう」

 泪の喜ぶ顔を想像して、煉の足取りも軽い。

「煉、ワシは焼栗が喰いたいぞ」

「ワシは栗団子じゃ」

「栗団子は旨いのう、煉、作ってけれ」

 栗拾いについてきて、毬栗を頭に被ったり栗を投げ合ったりして遊んでいた物の怪達が口々に催促する。

「団子は粉がないから無理だけど、焼栗なら今出来るよ」

「団子の粉あるぞ。伊吹(いぶき)の家で拾ったんじゃ。岩穴に隠しといた」

「……拾った?」

 首を傾げる煉に向かって小鬼が得意気に頷いた。

「うむ、水屋の棚の奥から拾ってきた」

「それって拾ったとは言わないんじゃ……まぁいいや。じゃあ栗団子と焼栗作りに岩穴に行こうか」

 ワイワイと岩穴に向かう途中、空から煉を見つけた鴉が肩に舞い降りてきた。

「あぁ、鴉。今から栗団子作りに行くんだけど、鴉も一緒にどう?」

 それを聞いた物の怪達が一斉に頬を膨らませ、不服気に鼻を鳴らした。

「鴉はずるい。栗拾い手伝わんかったのに、団子喰うのは手伝うんか」

 文句を言う小鬼共に向かって鴉がせせら笑う。

「ふん、お前等など、どうせ遊んでいただけのくせに」

「そんなことないぞ。ワシはふた粒拾ったぞ。ワシの栗は鴉にはやらんぞ」

「そんな虫の喰った栗なんぞいるか、馬鹿め」

 騒ぎながらごつごつした岩山の頂き近くにある、岩の裂け目に近付いた。

 ぴたり、と不意に煉が足を止めた。周りで騒いでいた物の怪達も急に静かになると不安げに押し黙り、岩の暗い裂け目を見つめる。しばらく何事か考えていた煉が意を決したように岩の裂け目に向かって足を踏み出した。と、一匹の小鬼が煉の着物の端を小さな手で掴み、不安げな眼差しで煉を見上げた。

「大丈夫だよ。ちょっと見てくるだけ」

 鴉が無言で煉の肩から飛立ち、近くの木の枝に止まった。物の怪達が見守る中、煉がそっと岩穴に近付いた。


 面使いの村の北にある岩山は険しく足場が悪い上にめぼしい薬草なども生えず、滅多にヒトも近づかぬ。しかしその頂きにある、巨人が手で引き裂いたような細長い裂け目は、中に入れば驚くほど広く深い洞窟となっていて、村の面使い達も知らぬ煉と物の怪達のお気に入りの隠れ家だった。夏はひんやりと涼しい洞窟で午睡を貪り、冬には煉の火を囲んで餅など焼きながら皆で暖を取る。その居心地の良いはずの岩穴の奥から、ざわざわと嫌な気配が漂ってくる。

 ……生臭い。獣かな? 煉が深呼吸を繰り返して気を落ち着かせると、注意深く岩穴から漏れ出る空気を嗅いだ。つん、と独特の匂いが鼻を刺す。カナ臭い、新しい血の匂い。でもそれだけじゃない。腐ったような古い血の臭いも混ざっている……。

 気配を殺し、そっと岩穴を覗き込んだ煉の眼に、かがみ込んだ少女の後姿が映った。

「え、ヒト?!」

 少女が不意に振り返ると澄んだ眼で煉を見つめ、一瞬の後に煙のように掻き消えた。

 ……今のは霊ではなかった。なら幻か? でも一体誰の……?

 途惑い考え込んだ煉の耳に、低く地を這う様な唸り声が響いた。はっとして顔を上げると、陽の差し込まぬ暗い洞窟の闇に一対の紅い眼が浮かんでいた。煉が息を凝らし、ゆっくりと後退りした。



     2


 籠いっぱいの栗を背負い、泥だらけの煉と鴉が村に帰ってくると、家の前で(るい)が来客を送り出していた。去り際、しきりと頭を下げる二人連れに泪が丁寧に会釈を返す。

「仕事の依頼?」と煉が尋ねると、振り返った泪が、おかえり、と言いながら頷いた。

「ここから少し離れた西方の村で、村人が狼に襲われたんだって。その狼がこの近くに逃げ込んだらしい」

「ふーん、でもそれって面使い関係無くない? 狼狩りなら猟師じゃないの?」

「それが、猟師は皆返り討ちにあったらしい。幸い死人は出なかったが、腕や脚を喰い千切られた者が続出したそうだ」

「……へぇ、凄い狼だね」と煉が言うと、鴉がふんと鼻を鳴らした。

「そんなモノ、ただの狼のわけなかろうが。恐らく狗神(いぬがみ)か何かだろう」

 鴉の言葉に泪が頷く。

「ふ〜ん、狗神かぁ。で、誰が依頼を引き受けたの?」

「承知したのはじじ様だが、実際に狩に出るのは伊吹だろう。あいつは力任せの荒事を好むからな」

 途端に鴉が喉を低く鳴らして嗤った。

「人喰いくずれの狗神なら確かにお前より伊吹向きだな。だがこの辺りの山は広く深い。おまけに狼は頭が切れる。はたして伊吹如きに狼を見つけることが出来るかどうか、怪しいもんだ。煉、お前も山でウロチョロして、伊吹に狼と間違えられて狩られるなよ」

 家に入りかけた泪が不意に振り返ると煉を軽く睨んだ。

「……煉。お前は山に詳しい。手助けしてやれとは言わないが、伊吹の邪魔だけはするなよ」

「わ、わかってる、大丈夫だよ」

 泪に釘を刺されてぎくりとした煉が、慌てて背中の栗と共に水屋に逃げ込んだ。


     ❀


 数日後の早朝。北の岩山に向かう道を行く煉の肩に、ばさりと大きな羽音をたてて鴉が舞い降りた。

「今日も山か?」

「え、う、うん。じーさんが茸鍋が食べたいって言うから」

 背中の籠を揺らしつつ目を逸らした煉を、鴉がじろりと睨んだ。

「岩山に茸など生えとらんぞ。茸なら西の山だろうが。そもそも、その腰の薬臭い袋はなんだ?」

 黙って答えぬ煉に鴉が溜息をついた。

「煉、お前、ここ数日岩山に入り浸っているらしいな。鬼共に聞いたぞ」鴉が目を細めて煉をじっと見た。「……狗神は手負いか?」

 煉が足を止めて俯くと、きゅっと唇を噛んだ。

「……イブ(にい)に言う?」

 鴉がふんと鼻を鳴らすと翼を羽ばたかせた。

「ニンゲン共の思惑など俺の知った事ではない。しかし一応言っておくが狗神は主以外には懐かんぞ。お前のことだから、また怪我の手当てをしてやりたいだのと思っておるのだろうが、命が惜しければ余計な手出しはするな」


 朝霧の中を飛び去る鴉を見送った煉が、再び北の岩山への道を登り始めた。



     3


 暗い洞窟の闇の中、狼がうつらうつらとまどろみ、夢をみていた。


 凍てつく早朝から夜遅くまで、くるくるとよく働く少女の微笑みを絶やさぬ姿を、庭の藪の陰に座った若い狼がじっと見つめている。

『シロ、お腹空いたでしょ。遅くなってごめんね』

 夜更けに家の裏口から出てきた少女が、狼に小さな椀に入った麦飯を与える。椀の飯をひと舐めで平らげると、狼がその大きな身体を甘えるように少女の膝に預け、自分を優しく撫でる手にうっとりと目を瞑った。


     ❀


 気配を殺して岩穴に入ってきた煉が、入口近くに置いた椀の水にちらりと目を遣った。

(少し減ってるな。アレ、眠り薬を混ぜておいたんだけど、もう少し飲んで欲しかったな……)

 水の隣に置いてある肉を食べた様子はない。目を瞑って動かぬ狗神に煉がそっと近付く。狼の背中の毛は、血でどす黒く固まっていた。

(血は止まっているみたいだけど、膿んでるのかな、少し臭う……)


     ❀


 自分を撫でる少女の手がアカギレで血が滲んでいること気づいた狼が、そっとその手を舐めると、気遣うように少女を見上げた。少女が微笑み、狼の鼻面をそっと撫でる。

『大丈夫。私の家は貧乏で、弟も妹も多いのに、おとっさんは体が良くないし、おっかさんはおとどしの流行り病で死んでしまったの。私なんか、女郎に売られても仕方なかったのに、こんな大きくて立派なお家に働き口を世話して貰えたからね。大旦那様には良くして頂いて、本当に感謝しているの。だから、一生懸命働きたいの』


     ❀


 煉が動かぬ狗神の熱い息を窺った。

(熱も出てるみたいだし、やっぱり手当しないと、このままじゃ駄目だ)

 腰につけた袋から薬草を出すと、そっと背中の毛に手を触れる。どす黒い血で固まった毛が、ざらりと手を刺した。


     ❀


 不意に裏の木戸が乱暴に開けられ、若者が入ってきた。

『若旦那様……』

 少女が体を硬くする。少女を見つけた若者が酔った足取りで近づくと、身を竦めて俯く少女とその膝にのんびりと頭を乗せた狼を見下ろした。そのどろりと曇った眼を見た途端、狼の首の毛がざわりと立った。

『なんだ、コレは?』

 若者が足元の空の椀を乱暴に蹴った。俯いて震える少女の髪を掴むと、酒臭い息を少女の顔に吹きかける。

『この家の物は、たとえ残飯のひと粒でも俺の物だ。それを俺に断りもなく小汚い野良犬なんぞに遣りやがって……!』

 硬く目を閉じた少女の顔に拳が打ち下ろされようとした、その瞬間。




 突如、かっと目を見開いた狗神が煉に襲いかかった。咄嗟に腕で首を庇って後ろに跳んだが避け切れず、鋭い牙が煉の肩を切り裂いた。飛びかかってきた狗神を地面に転がって避けると、水の入った椀をその鼻面に投げつける。狗神が怯んだ一瞬の隙に、煉が岩穴から転がり出た。穴の外から一部始終を見ていた物の怪達が悲鳴を上げながら、血まみれの煉を引きずるようにして山の中に逃げ込んだ。


「言わんこっちゃない、この大馬鹿者が!」

 騒ぎを聞きつけて飛んできた鴉が忌々しげに舌打ちした。自分で止血して布を巻こうとするものの、怪我をしたのが利き腕なので上手くいかない。一生懸命手伝おうとする小鬼達も、もたもたとして役に立つとはお世辞にも言えない。

「仕方ない、泪を呼んできてやるから、大人しく待っていろ」

 飛び立とうとした鴉の脚を煉が慌てて掴んだ。

「だめっ、自分でなんとかするから、兄者には言わないで!」

「離さんか! 利き腕をやられて、布もろくに巻けんではないかっ」

「こんなの兄者にバレたら、俺、絶対に幽閉されちゃうよ!」

「お前なんぞ鎖に繋がれて、護符を貼った座敷牢に一生封印されとれっ!」

 鴉と揉み合っているうちに、血を失いすぎたのか、ふと気が遠くなった。


     ❀


 どれほどの間気を失っていたのだろうか。ふと目を覚まし、痺れるような肩の痛みに顔を顰めながら起き上がると、鴉と話していた細身の鬼が振り返った。

「……桐刄(きりは)

「久し振りだね、煉」

 形の良い唇の端を僅かに上げて、霧を操る艶美な鬼が微笑んだ。

「これ、桐刄が巻いてくれたの?」

 止血され、丁寧に布の巻かれた肩を煉が指差すと、桐刄が頷いた。

「たまたま近くを通りかかったところを、鬼達に呼び止められてね。君が大変だからって言われて来たけど、まさかこんな汚れ仕事をやらされる羽目になるとは思わなかったよ」

 桶の水で丹念に洗った指先に鼻を近付けると桐刄が整った眉を微かにひそめた。

「気持ち悪いな。まだ匂う……」

「桐刄は血が嫌いなのに、ごめんね。でもお陰で助かったよ。ありがとう」

「煉、君、狗神にちょっかいを出したんだって? 鴉から聞いたよ」

 目を逸らした煉の横顔を桐刄がじっと見つめる。

「あのね、煉。君が何をしようと君の勝手だけど、狗神はやめておいた方がいいよ。特にコレは良くない」

 少し首を傾げて上目遣いに自分を見る煉の鼻先に、桐刄がすっと細く長い指を伸ばした。

「……この匂い。僕が洗い流そうとしていたのは、君の血ではなくて、君が触れた狗神の匂いだよ。彼の躯に染みついた古くおぞましい怨嗟と不幸の匂い……」

 桐刄がするりと立ち上がると静かに煉を見下ろした。

「こんな匂いのモノに近づいてはいけないよ。(わざわい)を貰うからね」



     4


 血の付いた着物を川で洗って乾かし、日がとっぷりと暮れた頃、煉がようやく家に帰って来た。と、水屋から泪が顔を覗かせ、煉に声をかけた。

「煉、どうした、珍しいな」

 煉がぎくりとして振り返った。

「え? なにが?」

 泪が不思議そうに首を傾げる。

「何がって、じじ様に頼まれて茸狩りに行ってきたんだろう? なのに手ぶらで帰ってくるなんて、お前らしくないじゃないか」

 ……ヤバイ、と一瞬息を飲む。無論茸の事なんてすっかり忘れてたが、しかしそんな素振りも見せず、煉が残念そうに首を振る。

「う、うん、そうなんだけど、俺がいつも茸狩りする場所、蟲にやられて全滅だったんだ。他に行こうとしたんだけど、途中、川で足滑らせちゃってさ。着物を乾かしてたら遅くなっちゃったから、今日は諦めて帰って来たんだ」

「ふうん。茸なんぞ別に構わないが、それにしてもお前が足を滑らせて川に落ちるなんて珍しいな」

 それを聞いた泪の式神が隣で小さな笑い声を立てた。

「猿も木から落ちるというヤツですな」

 夕飯の準備を手伝おうと、水屋に入ってきた煉を泪がじっと見つめる。

「な、なに? コワイよ?」

「右腕を庇っているみたいだけど、肩をどうかしたのか?」

 兄の勘の鋭さに思わず舌を巻く。隠していたつもりなのにもうばれた。このヒト本当にコワイな。

「えっと、滑った時に岩で打ったみたい。たいしたことないよ」

「ならいいが、痛むようならじじ様に言って薬くらい塗っておけよ」

「うん、わかった……」

 これ以上兄の目に晒されてぼろを出してもマズイ。煉が這々の体で水屋から逃げ出した。


(To Be Continued)

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