木守り柿(中編)
3
翌朝起きれば、部屋には柿の精の姿も狐を肩に乗せた少年の姿もなかった。あれはやっぱり夢だったのかしら、と首を傾げつつ学校へ行き、帰ってくるなり庭に出て、枝にひとつ残ったなんの変哲もない柿の実を見上げる。
「……ミチル」
不意に背後から声をかけられた。慌てて振り向くと、縁側でおっさん顔の柿が日向ぼっこしている。やや混乱しつつ見上げた柿の枝には、ちゃんと実がついている。
「柿がふたつになった」とミチルが呟くと、「あれは本体だ」と柿右衛門が枝を指差した。あれが本体ならこっちは幽霊か? 幽霊というと何やら嫌な感じがするが、でも流石に真昼間に見る柿のオッサンなどあまり怖くはない。
気難しい顔で腕組みしている柿右衛門の頭を指先でちょんと突ついてみる。よろめいて後ろ向きにひっくり返りそうになった柿右衛門の頭はつるりと硬く、しっかりとした実体があるようだった。
「ずっとここで日向ぼっこしてたの?」とミチルが訊くと、体勢を立て直した柿右衛門がうむ、と頷いた。そしてそのまま何か期待するようにじっとミチルを見つめている。そう言えば煉が柿右衛門と話をするようにとか何とか言っていたけど、一体何を話せばいいのだろうか。そもそもミチルはおばあちゃん以外のヒトと話をするのが苦手だ。まぁコレはヒトではないけれど。
「柿右衛門はおばあちゃんと知り合いだったんだよね? いつもふたりで何の話をしていたの?」
「いろんな話。隣の家の柿の実が渋い話。蜜柑がすっぱい話。饅頭が甘い話」
なんだ、食べ物の話ばかりだな。
「煎餅が芳ばしい話。焦げた魚が苦い話」
……他に話題はなかったのだろうか。
「ミチルの話」と不意に柿右衛門に言われ、どきりとした。
「……私のどんな話?」
「ミチルが生まれた日に吹いた春風の匂い。ミチルが初めて笑った時のお日様の暖かさ。ミチルの左の頬にあるえくぼ」
なんだか胸の内がほっこりとした。
「ミチルが這い這いして、縁側から落ちて、出来たタンコブが大きかった話。タンコブの出来たところが禿げになった話」
慌てて後頭部の小さな傷を触る。なんだ、おばあちゃんってば、知らぬ間に乙女の秘密を漏らしていたのか。
「ミチルが怖がりの話。ミチルがすぐ泣く話。ミチルのオネショが中々治らない話」
思わずむっとして頬を膨らませる。おばあちゃん、どうせ話すならもっとイイ話にして欲しい。
「ミチルと一緒に人形の服を作った話。ミチルが誕生日に花を摘んでくれた話」
シロツメクサで作った首飾りを首にかけてあげた時のおばあちゃんの笑顔が胸を過り、不意に涙が零れそうになった。ミチルが作った首飾りをみせると、まぁなんてキレイなんでしょ、と言っておばあちゃんはとても嬉しそうに笑い、その日はずっと花輪を首に飾っていてくれた。そして夜になると枕元に冷たい水を張った水盆を置き、そこに花輪を浮かべた。
「ミチル、ひとりで何をぶつぶつ喋っているの?」
突如障子が開いて、母が縁側に顔を出した。
「な、なんでもない」
ミチルが急いで潤んだ目を擦る。
「ミチル、お父さんにやっぱり柿の木を切らないでって頼んだんですって? 木を切らないのはいいけど、あんまり泣いてばっかりいるとおばあちゃんが心配するわよ? 綾ちゃんもいなくなっちゃって、寂しいのはわかるけどねぇ」
「うん、大丈夫……」
どうやら母には足元で自分を見上げる柿右衛門の姿は見えないらしい。
「気分転換に、たまには外に遊びに行ってらっしゃい」と言って、母が障子を閉めた。
「……おばあちゃんと一緒に作ったお人形の服見たい?」
母が台所に戻ったのを見計らって柿右衛門に尋ねる。うむ、と重々しく頷いた柿右衛門をそっと手に抱き、足音を忍ばせ二階に上がる。
「このお人形はお父さんがお誕生日に買ってくれたの。それでね、このお洋服はおばあちゃんがほどいた浴衣の端布で作ってくれたの。こっちの紅いのは私が作ったんだよ」
柿右衛門はふんふんと感心したように頷きながら、次々と目の前に並べられる人形の小さな服や靴を熱心に眺めた。そんな柿右衛門を見ているうちに、ふと思いたち、机の中から物差しを取り出す。
「柿右衛門、ちょっと立ってみて」
立ち上がった柿右衛門の身ごろや袖行きを測る。頭と体の比率は三対一といったところか。物凄い頭デッカチだ。頭が大きすぎるから、上から被るような服はダメだな。ボタンの付いたシャツか浴衣みたいなのなら大丈夫そうだ。ミチルの作った服を着る柿右衛門を想像してみる。おっさん顔はイタダケナイが、しかしこれはまさに動く人形ではないだろうか。
夢中で針を動かしていると、からり、と窓が開いて、煉と焰が部屋を覗き込んだ。
「……何してるの?」
「柿右衛門にね、お洋服作ってあげたの。可愛いでしょ?」
「え? う、うん、まぁ……」
煉が目を泳がせ、何やら煮え切らない返事をする。
「ホムラちゃんもなんか作ってあげようか?」とミチルが言った途端に狐が煉の肩から飛び降り、一目散に窓の外に逃げ去った。
「ほら、柿右衛門だって嬉しいでしょ?」
我ながらなかなかの出来だ。ミチルがニコニコしながら鏡を差し出すと、ひらひらとしたピンクの服を着せられ、お揃いのリボンを蔕に結ばれた柿右衛門が、「……問題ない」と力無く呟いた。
❀
手先の器用なミチルにとって、柿右衛門の服を作るのはどんな遊びよりも面白かった。しかし連日飽きもせず部屋にこもって服作りに精を出すミチルを心配した母が、とうとうミチルを部屋から引き摺り出した。
「ミチル! 毎日毎日部屋にこもってぶつぶつ独り言なんて言ってないで、少しは外で遊んできなさい! 外に出ればお友達だってできるでしょ?」
「い、いや……」
友達なんてイラナイ。柿右衛門さえいればいい。夜になれば煉くんも部屋に遊びに来てくれるし、そもそも外にいるのは乱暴な男の子やいじめっ子ばかりだ。
「いやじゃありません。たまにはお日様の下で体を動かさないと、カビが生えるわよ!」
母に家から追い出されたミチルが往生際悪く家の板塀の陰でぐずぐずしていると、柿右衛門がひどく物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回した。
「柿右衛門、どうしたの? なんか面白いものでもあるの?」
「塀の外」
やけに嬉しそうに柿右衛門が空を指差した。
「塀の外は広いな」
「柿右衛門は外に出たことがないの?」
ミチルが首を傾げると、「あまりない」と柿右衛門が頷いた。なんて羨ましい。
「ふーん、じゃあどこか連れてってあげようか?」
柿右衛門は何やら迷うかのように庭の柿の木を見つめて考え込んだ。そして数秒後、意を決したようにこくりと頷いた。
どこかと言っても、こんな小さな町では物見遊山に行くようなたいした所はない。しばらく考えてから、シロツメクサの咲く原っぱに行くことにした。今の季節、シロツメクサはないだろうけど、でももしかしたら野菊や萩が咲いているかもしれない。
案の定、野原には可憐な薄紫の野菊が咲き乱れていた。おばあちゃんが見たら喜んだろうな、と思い、せめてお仏壇に飾ってあげようと数輪の花を摘む。
不意に風に乗って騒がしい笑い声が聞こえてきた。立ち上がって声のした方を見れば、数人の男の子達がこっちに来る。ここでチャンバラでもやるつもりなのだろうか。みんな手に手に棒切れや枯枝等の得物を持ち、新聞紙で折った兜をかぶっている。
……あれはお向かいの家の正太ではなかろうか。子供達の中に見知った顔を見つけ、咄嗟に藪の陰にしゃがみ込む。正太は暴れ者のガキ大将として近所でも有名だ。蛙を背中に入れられたり、青大将をけしかけられたりした事は数限りなく、ミチルはいつも正太に泣かされている。しかし隠れた甲斐もなく、正太が目敏くミチルをみつけた。
「おいっ、そこにいるのは誰だ?! アヤシイ奴め、隠れてないで出てこい!」
ミチルが渋々枯れ草の間から顔を覗かせると、正太がふんと鼻を鳴らして足下の野菊を踏みにじった。
「なんだ、ミチルか。ミチルのくせにひとりで外に出るとか生意気だぞ」
正太が意地の悪い目でミチルを睨む。
「ここは男の戦場だ。女はケガレだ。わかったらさっさと出て行け」
……せっかく綺麗に咲いているのに。ミチルが野菊を踏み潰す正太の足を恨めしげに見つめた。ここでチャンバラなんかやって、きっと花なんか全部正太達に踏まれちゃうんだろうな。けれどもミチルにはどうしようもない。悔しいが、正太達相手に勝ち目なんて初めからないのだ。
「俺を投げろ」と突如柿右衛門が呟いた。
「アレに向かって投げろ」
「えっ?! でも……」
柿を投げるなんてまるで猿蟹合戦ではないか。しかし昔話に登場する猿と違ってミチルは物を投げるのは不得意だ。体育の時のボールだって五メートルも飛ばなくてみんなに馬鹿にされた。おまけに猿が使った柿は、確か青くて硬い実だったはず。柿右衛門はかなり熟していて柔らかそうだ。
「案ずるな」
ちらりとミチルを見上げた柿右衛門が、やけに自信ありげに頷いた。
「投げろ」
ええいままよ、とミチルが柿右衛門を手に取ると、ふんぞり返ってこちらを睨んでいる少年に向かって投げた。でもやっぱり柿右衛門が心配で、たいして力を入れたつもりはなかったのに、びゅん、と投げた本人も驚く勢いで柿右衛門が飛んでいき、正太が避ける間もなくその顔面に激突した。
ぎゃっ、と蛙が潰れたような声で叫び、正太が後ろ向きにひっくり返る。数秒後、怒りに顔を真っ赤にして起き上がった正太を指差して子供達が騒いだ。
「あっ! お前、鼻血出てるぞ!」
「えぇっ?!」
慌てて鼻の下を拭った正太が、手にべったりと付いた血を見て蒼ざめた。下を見た拍子にぼたぼたと血が溢れ、白いシャツを汚す。
「うわーっ、汚ねえ!」
「バカッ、上向いてじっとしてろよ!」
「こっちに来るなって!」
口々に子供達が騒ぐ中、ミチルがポケットから取り出したハンカチを握りしめて正太に近づいた。しかし涙目の少年はミチルが近づいて来るのを見ると目に微かな恐怖の色を浮かべ、じりじりと後退る。
「あの、これ……」
ミチルがハンカチを差し出した途端、なにやら悲鳴を上げて正太が一目散に逃げ出した。
子供達が去った野原にぽつんと取り残されたミチルが、草叢にころりと転がっていた柿右衛門を見つけ、急いで拾い上げる。
「柿右衛門! ごめんね、大丈夫?!」
「問題ない」
重々しく頷いた柿右衛門の頭の横は、少し潰れていた。
❀
「ふ〜ん、それでコイツ、ちょっとへしゃげちゃったんだ」
夜、部屋に遊びに来た煉が、黙想に耽るように目を瞑り腕組みしてミチルの机に座っている柿右衛門をしげしげと眺める。
「そうなの。これ、薬とかで治しあげてくれる?」
「いや、流石にそれはちょっと……」
煉が困った顔で柿右衛門を見ると、「問題ない」と柿右衛門が応えた。
「ほら、本人も問題ないって言ってるしさ。そんなに気にすることないんじゃない? それにちょっと顔に傷がある方が貫禄あるじゃん」
「……貫禄?」
煉の言葉に首を傾げた柿右衛門が、机の隅に置いてあった手鏡をいそいそと覗き込む。そしてふむふむと何やら満足気に頷くとミチルを振り返り、「問題ない」と妙に嬉しげに声を弾ませた。
いくら煉や柿右衛門が大丈夫だと言っても、それでもやっぱりミチルは心配だった。だってお母さんが言っていた。林檎は落としたりして少しでも傷が付くと、そこから痛んで腐っちゃうって。腐った柿右衛門なんて、四谷怪談のお岩さんもびっくりのホラーではないか。ミチルがそう言うと、煉は声を上げて笑った。
「大丈夫だよ。コイツはただの柿じゃないんだからさ、そんなに簡単に腐ったりしないって」
煉の言った通り、投げられて出来た傷から柿右衛門が腐ることはなかった。
綾ちゃんもおばあちゃんもいなくて寂しかったが、しかし柿右衛門と過ごす日々は意外なほど充実していた。どんな話でも実に熱心に耳を傾ける聞き上手の柿右衛門相手のお喋りは楽しく、今日はあれを話してあげよう、これを教えてあげようと思えば、学校で先生の話を聞くのにも張り合いがあった。そうこうするうちに、あっという間に数週間が過ぎた。
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カァ、という鳴き声にミチルが二階の窓を開け、身を乗り出すようにして庭を見渡す。あいつ、また来てる。塀に止まって枝にひとつだけ残っている柿の実をじっと見つめるカラスの姿にミチルが舌打ちした。
「ミチル! 女の子が舌打ちなんかしないの!」
通りかかった母に叱られたが、返事もそこそこに階段を駆け下り庭に飛び出し、シッシッとカラスを追い払う。逃げもせず、太々しい表情でミチルを見下ろすカラスに石でも投げてやろうと思い、適当な大きさの石を物色する。と、「ミチル! カラスなんかイジメないの。仕返しされるわよ!」と窓から見ていたらしい母に叱られた。
まったく腹ただしい。あのカラスのせいで最近怒られてばかりだ。
「ミチルは鳥が嫌いか?」と昨日柿右衛門に訊かれた。
「文鳥は好きだけど、庭に来るカラスとヒヨドリは嫌い。だって絶対柿右衛門のこと食べようと思ってるもん。でも大丈夫、柿右衛門は私が守ってあげるからね」
ミチルが胸を張ると、柿右衛門は少し困ったように首を傾げた。
「鳥は話をしてくれる」
「はなし?」
「山と川と海の話。雪の降る町の話。海の向こう側の遠い国の話」
「だけど食べられちゃうかもしれないんだよ?」
「問題ない」
問題ないことなんてない。本人の危機感は薄いようだが、柿右衛門が食べられたりしたら大問題だ。だからミチルは今日もこうして柿右衛門のために戦っている。
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「ミチルさん、何の絵を描いているの?」
図工の時間にミチルの絵を覗き込んだ先生が不思議そうに訊ねた。
「柿右衛門……木守り柿です」
ミチルがおずおずと小さな声で答えると、先生が首を傾げた。
「コモリガキ?」
「あ、あの、柿の木にひとつだけ残しておく実です。木を守るんです」
「あぁ、なるほど。キマモリ柿か。そう言えば僕のおじいさんも、いつも畑の柿や梨の実をひとつだけ採らずに残していたなぁ。自然の恵みへの感謝とか、山の獣や鳥の為に残しておくんだっけ?」
若い先生がふんふんと幾度も頷く。
「その絵、すごくいいね。不思議な絵だけど、なんだか懐かしいような味わいがあって、僕は好きだなぁ」
葉の落ちた枝に腰掛け独り茜色の空を見上げるオッサン顔の柿の絵に、先生がにっこりと微笑んだ。
❀
ただいま〜、と大きな声で玄関に向かって叫び、浮き浮きとした足取りで庭に駆け込む。先生に褒められた絵を早く柿右衛門に見せたかった。ミチルは元々工作などが得意だったが、この柿右衛門の絵は我ながら上出来だ。柿右衛門の驚き喜ぶ顔を想像して、胸がワクワクする。
鼻歌まじりで覗いた縁側のいつもの場所には、柿右衛門の小さな姿はなかった。二階の窓際で外を見ているのかなと思い、縁側から靴を脱ぎ捨てるようにして家に入りかけた瞬間、なんだかものすごく嫌な予感にトクンと心臓が変な打ち方をした。ゴクリと唾を飲み込み、恐る恐る柿の木を見上げる。
枝にひとつ残っていたはずの柿の実がなくなっていた。
ミチルの甲高い悲鳴に驚いた母が台所から包丁を持ったまま駆けつけた。
「ミチルっ、どうしたの?!」
「カキッ! ミチルの! 柿右衛門の! 柿がないッ」
ミチルが寒々とした枝を指差して泣き喚く。
「どこ?! おかあさんッ! 柿どこにやったのッ?!」
「柿って、枝にひとつ残ってた実のこと?」
母が呆れたようにミチルを見て首を傾げた。
「どこにって、今日、鳥が来て食べちゃったのよ。すごく熟してたからねぇ、よっぽど美味しかったんじゃない? お母さんが片した時はもう皮とヘタしか残ってなかったわよ?」
「片したって、どこっ?! どこにやったの?!」
「落ち葉と一緒に後で燃やそうと思って、ほらそこに」
母が庭の隅の落ち葉の山を指差した途端、ミチルは泣きながら裸足のまま庭に走り出た。激しくしゃくり上げ、息を詰まらせつつ、柿右衛門を捜してひんやりと湿った枯葉を掻き分ける。
「まぁ! ミチル! せっかくお母さんが綺麗にしたのに、グチャグチャにしないで!」
母の叱責など全く耳に入らなかった。おいおいと泣きながら落ち葉を撒き散らすミチルに母が呆れたように溜息をつくと、「まったくもう、後で自分で片付けなさいよ」と言い残して台所に戻っていった。
懸命に枯葉の山の中を這いずり回り、ようやく夕焼け色の皮の切れ端とヘタを見つけた。ヘタは端っこが茶色く乾燥して尖がり、硬く捻れていた。一縷の望みをかけて、幾度も名前を呼んだが、柿の精が返事をすることはなかった。
悲しみのあまり、夕御飯もろくに喉に入らなかった。夜、皆が寝静まった家で、ミチルが独りひっくひっくとしゃくり上げながら柿右衛門の絵を見つめていると、からりと窓が開いて、ミチル、と自分を呼ぶ柔らかな声がした。
「煉くんっ」
煉の顔を見た途端にまた新たな涙が溢れ出る。
「柿右衛門がっ、柿右衛門がカラスに食べられちゃったよ……」
ミチル、と煉の声が夜風に優しく掠れる。
「ミチル、木の実が鳥に食べられるのは自然なことなんだよ」
「そんなの知らないっ」
理不尽な怒りと堪えようの無い悲しみに肩を震わせ、ミチルは泣きながら叫んだ。
「あれはただの木の実じゃないもん、あれは柿右衛門だったんだもん! そのへんの木の実なんかと一緒にしないでッ」
「……うん、そうだね、ごめんね」
小さな声で謝ると、煉は泣きじゃくるミチルの背中を長い間何も言わずに撫でてくれた。窓の隙間から吹き込む木枯らしは冷たいのに、煉の手はとても暖かい。
ミチルの号泣が静かな啜り泣きに変わる頃、煉が暗い夜空にぼんやりと浮かぶ遠い山影を指差した。
「ねぇ、あの山の向こう側には何があるか知ってる?」
「……知らない」
「あの山の向こうにはね、また幾つも幾つも山があって、それから大きな川があるんだ。その川を渡ったところに、ここによく似た小さな町がある。その町にはミチルと同い年の男の子がいるんだけど、でもその子はその町に引っ越してきたばかりで、友達がいないんだ。だからその子はいつも独りぼっちで夕方遅くまで河原で遊んでいる」
茜雲を見つめて独りぽつんとススキの間に立ち竦む男の子の後ろ姿が目に浮かび、なんだか胸の内がしんとした。
「柿右衛門を食べたカラスは山奥に巣があるんだけど、甘い柿を食べて喉が渇いたから、水を飲みに河原に降りて、そこに柿の種を落とすんだ。男の子はカラスの落とした種を偶然拾って、他にする事もないから、試しにそれを新しい家の庭に蒔いてみる」
暗い夜空を見上げ、まるでその夜空よりも遠い何処かを見詰めるかのように、煉が優しげに眼を細める。
「種は春になると芽を出し、何年もかけて木になり、やがて沢山の実をつける。きっとその頃には男の子にも大勢の友達がいて、柿を食べに家に遊びに来るんだ。そしてもし男の子の家に木守り柿の風習を知っているヒトがいたら、もしかしたらその子も柿右衛門の子供に逢えるかもしれない」
「……柿右衛門は死んじゃったの? もう会えないの?」
「そんな事ないよ。また来年、花が咲いて実がなって、ミチルが熟れた実をひとつだけ枝に残しておけば、柿右衛門は必ず戻ってくる」
来年の秋。それは幼いミチルにとっては永遠と思われるほどに遠い未来の話だった。でも煉は『必ず』と言った。なぜか、煉の言葉だけは信じてもいい気がした。たとえそれが、遙かに遠い未来の約束であったとしても。
「……わたし、柿右衛門が帰ってきたら、いろんなお話してあげる。学校のこととか、お友達のこととか、いっぱいいっぱい話してあげるの。だから、柿右衛門にたくさん話せるように、綾ちゃんみたいに優しくてステキなお友達をつくるよ」
煉くん、と赤く泣き腫らした目で煉を見上げ、ミチルが煉のシャツの裾を引っ張った。
「約束して。煉くんはどこにも行かないって。私をおいていったりしないって。煉くんは、ずっとずっと一緒にいてくれるよね?」
長い間、煉は無言のまま雲に見え隠れする月を見つめていた。そしてやがて、ごめんね、と小さな声で呟いた。
「ミチルとずっと一緒にいれたらいいんだけど、でも俺はどうしても行かなくちゃいけないんだ。でも約束するよ。いつかは分からないけど、でもいつかまた柿の実のなる頃、俺はミチルに会いに来る」
窓辺に差す月明かりの中、差し出された小指に小指を絡める。その夜は満月だったはずなのに、雲間から照らす月の光はあまりに細く、頼りなく、涙で滲んだ目には煉の顔すらよく見えなかった。唯、約束だよ、と囁く温かな声だけが、いつまでも耳に残った。
(To be continued)




