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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
79/123

梔子の女

 くちなしの色にたなびくうき雲を 雪げの空と誰か見ざらん (源俊頼)


     ❀


 ふわりと甘い薫りが鼻腔をくすぐった。絶え間無く降りしきる蝉時雨の中、汗ばんだ首すじを氷の欠片が通り過ぎるような感覚に、そっと唾を飲み込む。そして人通りの少ない細道にひっそりと立つ影から目を逸らす。

 彼女がそこに立つようになってどれ程になろうか。その道を通り掛かる度に、彼は酷く居心地の悪い思いをする。

 振り返ってはならない。

 目を合わせてはならない。

 その存在に気づいたことを、気づかれてはならない。

 それが死者に対する生者の礼儀であり、掟だから。同じ世界に在りながら、彼らの存在は曖昧で遠い。

 目のやり場に困り、女の足元に落ちている白い花に視線を彷徨わせる。容赦の無い夏の陽射しに透ける花弁は涼しげに儚く、けれどもべっとりと纏わりつくように甘い腐臭を漂わせる。ふと考える。あれを拾ったらどうなるのだろうか――


 前から歩いてきた少年が不意に屈んで花を拾った。

 秘事を囁くかのように白い花を口許に近づけると、少年は頬に微かな笑みを浮かべ、そのまま何事もなかったようにスタスタと歩み去る。呆然と少年を見送る彼の目の端で、俯いていた女がゆっくりと顔を上げた。


     ❀


 あれ以来、あの女の姿を見ない。彼女は何処へ行ってしまったのか。眼が痛くなるような白い陽射しの中、独りぼんやりと立ち竦む。

「あのひとならもういないよ」

 背後からの声に振り返ると、件の少年が板塀に寄りかかって此方を見ていた。

「……綺麗な(ひと)だったよね」

 口の片端を吊り上げ、少年が意味あり気にニヤリと笑う。

「君は……彼女に何をしたんだい?」

「別になにも」

 少年が軽く肩を竦めた。

「あのひとは、ただ誰かに話を聞いて貰いたかっただけだから。好きなだけ話したらスッキリしたみたい」

 話を聞くだけなら、それだけの事なら己にも出来たのではないかと、ふと後悔に似た想いが湧いた。

「あんたじゃ無理だよ」

 まるで彼の心の内を見透かしたかのように鼻を鳴らすと、少年がその右手を開いた。細長く青い実がひとつ転がり出る。

「あの花の実だよ」

 その言葉の意味を理解した瞬間、手が勝手に動きそうになった。

梔子(クチナシ)の花は『口無し』、つまり言葉を失った死者のことでもあるし、『朽ち無し』に掛けて永遠に朽ちることのない魂の象徴でもある」

 ねぇ、知ってる? と少年が愛らしく小首を傾げる。

「ヒトの脳って、匂いを感じる部分と記憶を司る部分が直結してるんだって。だから、匂いはヒトの内に眠る記憶を瞬時に強烈に蘇らせることができる」

 死者に手向けられた白い花の芳香が、残された者の内に深く沈む記憶を蘇らせる。幾度も、幾度も、朽ち果てることなく、鮮やかに、生々しく、永遠に――

 少年を殺してでもその実を奪いたいという激しい衝動に躰が震えた。しかし次の瞬間、硬く蒼ざめた実は少年の手の中で火に包まれ、音も無く燃え散った。

「あんた、気をつけた方がいいよ」

 手に残った灰をふっと吹き散らしつつ、少年が眦の切れ上がった猫のような眼を僅かに細めた。

「視えるヒトってのは、引っ張られやすいからね。あのひとのことはもう忘れた方がいい……ってか、どうせもう二度と会えないけどさ」


     ❀


 ――もう二度と会えない。

 窓を開け、夜風に混じる甘い芳香を嗅ぐ。目を瞑れば、梔子の女の白く透けるような横顔が脳裏を過り、胸が疼く。己は死者に恋していたのだろうか。彼女にもう一度逢いたいと、その細く頼り無げな肩を抱き寄せたいと、一度として聞くことのなかったその声を耳にしたいと、叶う筈の無い願いに胸が震えた。

 嗚咽を堪え、大きく息を吸う。その瞬間、項垂れた白い首すじと、そこにくっきりと残る赤黒い痣がまざまざと甦った。その余りに鮮やかな色合いに眩暈を覚え、窓枠に凭れる。

 宵闇が甘く薫る。モノの形が曖昧に霞む薄暗がりの中、その匂いだけが酔うほどに濃い。これは、この甘い薫りは、一体何処から漂ってくるのだろうか。ねっとりと纏わりつくその薫りが、記憶の淵を波立たせ、底に沈む澱を揺らす。

 白く細い項。

 赤黒い痣。

 不意に躰の奥底から、抑えきれないほどに強い何かが込み上げてきた。

 ゆっくりと立ち上がり、桐箪笥の奥底に仕舞われた亡き母の遺品に手を触れる。幾重にも重ねられた畳紙がはらはらと解け、歪な花弁のように足元に散る。花弁の中から現れた鮮やかな朱色の帯締めをそっと手に取る。

 記憶に残る母は、物静かな佇まいの美しい(ひと)だった。彼女は地味な着物にひっそりとその身を包み、薄暗い障子の陰で花を生ける。ぱちん、ぱちんと花を切る鋏の音だけが静寂を破る。彼はその音を聴きながらうつらうつらと眠るのが好きだった。ぱちんぱちんと規則正しく響いていた音が不意に途絶えた。我に返って母を振り仰いだ彼の目に映ったものは、澄んだ水を湛える藍色の水盤と、無残に切り刻まれた白い花弁だった。

 母の指先から零れる血が白い花弁を点々と染める。幾度呼んでも、母の虚ろな眼差しが彼を捉えることはなかった。

 あの日、冷たく凍える母の骸を前に、心の病だったのだと、大人達は幼い彼に語った。心の病だと、なぜ首に赤黒い痕が出来るのか。あの頃の彼には解らなかった。


 ……逢いにいこう。


 目を閉じて、深く息を吸う。絹の帯締めはしっとりと冷たく、指先に重い。繰り返し、繰り返し、白い首すじと赤黒い痣が瞼を過り、闇に白い花が散る。

 この暗い世界の何処かで、彼女はきっと僕を待っているだろうから、一刻も早く、行かねばならない。これが似合う美しい女を、白く細い首を持つ女を探さねばならない。

 濡れたような漆黒の髪を乱し、夜目にも白い項に絹紐を絡ませ、喘ぐ梔子の(ひと)を想う。


 夜の闇が放つ甘い腐臭に、指先が痺れた。



(END)

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