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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
78/123

蝌蚪(後編)

     7


 風呂から上がった明人が台所で冷えたラムネを飲んでいると、明人の母に食べさせようと思ったのか、祖父と光司が採れたての野菜を持って畠から帰ってきた。手拭いでゴシゴシと頭を拭いながら、いやあ参った参ったと祖父が笑う。

「畠に出とったら、ごっつうええ勢いで夕立に降られよったわ」

「今年はキュウリがいい出来や。明人、粗塩出してくれ。お母さんにキュウリの塩揉み食べさせたれ」

 泥だらけの足を雑巾で乱暴に拭きつつ、光司が明人に声をかける。

「ご飯も炊けたで、お夕飯にしよか。お母さん呼んできたり」と祖母に言われ、母を探して明人が居間を覗いた。しかしそこに母の姿はない。縁側の硝子戸が開けっ放しで、畳の端が雨に濡れていた。

 田舎の家は広い。母を探して家中を見て廻ったが、どこにも母の気配はなかった。ふと縁側を見て、そこにいつも置いてあるゴム草履がなくなっていることに気付き、雨の中を走って離れに向かった。じっとりと嫌な予感が夕立と共に明人の背中を濡らす。

 離れの戸が開いていた。

「……母さん?」

 誰もいない離れで、不安に震える自分の声がやけに大きく響いた。

「母さんがいないっ」

 台所に飛び込んできた明人の声に、大人達の間に緊張が走った。大丈夫、きっとその辺にいるよ、とは誰も言ってくれない。

「靴はあったか?」と祖父が低い声で訊ねる。

「母さんの靴は玄関にあるけど、縁側の草履が失くなってる」と明人が答えると、光司が即座に立ち上がり、黙ってトラックの鍵を掴んで玄関へ向かった。

「外に出て雨に降られて、どこぞで雨宿りしているのかもしれん。ちょっと近所を見てくるで、ばあさんは家で待っとれ」

 祖父に向かって無言で頷き、祖母が電話の受話器を取る。隣近所に電話して母が雨宿りしていないか聞くつもりなのだろう。

「明人もここで待っとれ」

「僕も外を見てくるっ」

 止めようとする祖父の腕を振り切り、明人が傘も差さずに家を飛び出した。激しい夕立に視界が白く霞む。容赦のない雨音に母を探して叫ぶ自分の声すらも掻き消され、まるで世界から隔離されたような奇妙な感覚が身体を包む。田圃の畦道を走り、河原に出る。上流でも雨が降っているのだろうか。橋の欄干から身を乗り出すようにして見下ろした川は水嵩を増し、やけに茶色く濁っていた。

 ――チガウ。

 渦巻く流れを見つめ、明人が首を振った。

 絶対ニチガウ。ソンナハズナイ。

 小一時間程辺りを走りまわった後、念のため、祈るような気持ちでもう一度離れに行ってみた。ぽたぽたと滴を垂らしながら離れを見渡し、ふと夏渡の水槽に目を遣った。

 一匹だけ残っていた夏渡がいなかった。



     8


「煉君ッ」

 明人の声に、畠の横の柿の枝の上から煉が驚いたように顔を覗かせた。

「うわ、明人ってばビショ濡れじゃん。すごい雨だから明日にしようって使いをやろうと思ってたとこだったのに」

 柿の木の下で荒い息を吐く明人の姿に煉がふと眉根をひそめ、枝から飛び降りた。

「明人、どうしたの?」

「か、母さんが、母さんがいなくなっちゃって……今日、叔父さんが迎えにいって、着いたばっかりだったんだけど、みんなで捜してるんだけど、母さん、この辺のことあんまり知らないし、雨は降ってるし、どうしようかと思って……」

「……夏渡は?」

「え?」

 一瞬何を訊かれたのか分からず、キョトンとした明人の肩を煉が両手で掴み、激しく揺さぶった。

「夏渡は離れにいた?!」

「い、いなくなってた。でも、離れの戸が開いてたから勝手に出て行っちゃったのかも……」

 煉が鋭く舌打ちすると、明人の腕を掴んで走り出した。

「ど、どこ行くの?!」

「椎の木の森! 明人の母さんはきっとそこに向かったはずだから!」

「えっ、な、なんで?!」

「そこが君の母さんと父さんにとって思い出の場所だからさ。そして、間の悪いことに夏渡が行きたい場所でもある」

「煉君って、父さんと知り合いなの?」

 走りながら横目でちらりと明人を見るだけで、煉は答えない。

「父さん、冬に、東北の雪山で、行方不明になったんだ。酷い吹雪で、捜査隊も中々出れなくて。吹雪が止んですぐと、春になってからも、もう何度も捜査隊が探してくれているんだけど、まだ見つかってなくって――」

「……そう」


 ――知ってるよ。

 煉が心の中でそっと呟いた。

 あいつがいなくなったって、知合いのモノが教えてくれたから。俺も探しに行ったから。

 視界を遮る激しい吹雪の中、険しい崖の端に独り佇み見た、唯ひたすら白い光景が心を冷やす。どんなに目を凝らしても、どんなに探しても、そこにあいつはいなかった。

 俺は知っている。知りたくなんかないけれど、知っている。

 もう『ここ』にあいつはいない。


 明人が泥濘に足を取られて転んだ。しかしそのまま立ち上がろうとはせず、激しい夕立にぬめる泥に手をついたまま、肩で荒い息を吐いた。

「……母さんは、父さんが帰って来るのを待ってる。ずっとずっと待っているんだ」

 泥の中で手を握りしめ、俯いた明人の肩が小さく震える。

「僕は子供で、無力で、父さんのためにも、母さんのためにも、何もしてあげられない。せめて母さんのそばにいてあげるべきなんだって、わかってる。でも――」

 夏の夕立は生温い。そのねっとりと嫌な温度の水が、明人の内に浸み込み、溢れ、溺れそうになる。誰かに助けて欲しかった。沈んでいく自分の腕を掴み、引き上げて欲しかった。

「……僕は、母さんの前に立つのが怖いんだ。何も映さないあの眼の前に立つと、あの眼で見られると、僕自身が影になって消えてしまうんじゃないかと思って、すごくすごく、怖いんだ。だから僕は逃げ出した。僕は強くなんてなれない。無理だよ。僕自身が溺れずに立っていられるかすら分からないのに、母さんを救うことなんて出来ない。僕じゃダメなんだよ。だって、母さんが必要としているのは、僕じゃなくて、父さんなんだから……ッ」

「明人」

 地面にしゃがんだ煉が、泥に汚れた明人の手をそっと握った。煉の手は驚くほど温かかった。熱いと言ってもいいくらいだ。俯いたまま自分を見ようとしない明人の顔を、僅かに首を傾げるようにして煉が覗き込む。

 煉の眼は深い。山奥の静かな淵のように、激しい夕立にもその水面は揺らぐことなく、明人を押し潰そうとする不安すら呑み込んで、ただひたすらに深く、透明だった。

「ヒトはヒトの眼を見るのを恐れる。誰だって、他人の眼という歪んだ鏡に映る自分の姿を見るのが怖いからね。でもね、その鏡にどう映ろうと、たとえ映りすらしなくたって、そんなことで君の存在が揺らいだりはしない。明人はここにいる。絶対に消えたりなんかしない。それに君は無力じゃない。泣くのを我慢する必要もないし、無理に微笑まなくたっていい。『つよく』在る必要なんてない」

 煉が明人の手をぐいっと引いて立たせた。

「誰も独りで生きてゆくことはできない」

 深く静かな眼差しが真直ぐに明人を捉える。

「それは、生きる為に誰かを必要とするということではなくて、この世界に生きる限り、全ての生き物は、ここに生きる何者かとその道を交差させるということ。此の世において俺と擦れ違った全てのモノ達は、俺の中に小さな欠片を残していく。ある欠片は穏やかさと慈しみを、またある欠片は永遠に消えない痛みを俺に与える。そして俺の内を満たし溢れる無数の欠片が、俺という存在を創る」

 俺の言っている意味、わかるかな? と煉が優しく首を傾げた。

「君はコウイチにはなれない。だけど君の代わりになる人間だっていない。コウイチが君や君の母さんの中に残していったモノが特別であるように、君が君の隣に生きる誰かの中に残してゆくモノもかけがえが無いんだ」

 なぜだろう。自分を見つめる煉の眼差しに、懐かしい父の面影が重なった。

「だから君は、ありのままの君で、ただ『ここ』に在るだけで、それだけで良いんだよ」

 行こう、と煉が明人の手を握った。その手から伝わる熱が、明人の胸を温める。

「君の母さんが待っている」



     9


 椎の木の森に足を踏み入れる頃には激しかった雨は嘘のように止んでいた。鬱蒼と生い茂る樹々の隙間から零れる月の光にちらりと目をやると、煉が小さく舌打ちした。

「明人、俺から離れるなよ。雨も降ったし、おまけに満月だ。今晩は色々と集まってくるだろうからね」

 息をひそめて煉の背中を追う。一歩踏み出すたびに、雨で柔らかに湿った土から濃い森の匂いが薫る。明人の知っている夜の森は様々な生き物の気配とざわめきに満ち溢れていたが、ここは違う。この森は、不思議なほどに静かだった。

 どれほどの間歩き続けたのだろうか。月の光の届かない暗い森の奥で煉が不意に足を止めた。煉の背後から恐る恐る顔を覗かせた明人が、目の前に浮かび上がる光景に我を忘れて思わずほうっと溜息を吐いた。

「すごい……なにこれ?」

「シイノトモシビダケ。俺はシビトダケって呼んでるけど」

 漆黒の闇に灯された小人のランプの様に、小さなキノコの形をした無数の淡い翡翠色の光が樹々の幹に点々と瞬く。その柔らかな燐光を見つめ、煉がふと微笑んだ。


     ✿


 あれは何年前の事だったか。蒸し暑い夏の夜、古ぼけた離れの縁側に腰掛けた青年が、手に持ったビニール袋を振って俺を呼んだ。

「煉、いるんだろう。出ておいでよ。相談したいことがあるんだ。とても大切なことだから、煉の好きなチョコレート味のアイス買ってきたから」

 あいつはそのまま何時間もぼんやりと月を見上げていた。

 あいつの前に姿を現わすつもりは無かった。けれどもいつまでも諦めずに縁側に座っているあいつの姿に、俺はいい加減うんざりとした。月が西の山の果てに沈む頃、竹藪の奥にひっそりと立った俺の影を見て、あいつはとても嬉しそうににっこりと笑った。

「久し振りだね、煉。中々出てこないから、アイス溶けちゃったよ」

 竹藪から歩み出た俺は、冷たく無表情な眼をあいつに向けてやった。

「……コウイチ、驚かないんだ?」

「何を?」

 あいつはいい歳をして、あどけないと言ってもいい様な表情で首を傾げた。

「初めて逢った時から君の背が変わらないこと? それとも、君が十年以上雲隠れしていたこと?」

「……いつから知ってた?」

 ヒトの同情なんてまっぴらだ。俺は酷く苛つき、穏やかに微笑むあいつを鋭く見返した。

「俺が普通じゃないって。ヒトですらないかもしれないって」

「煉……」

 あいつは不意に顔を曇らせ、哀しげに俺を見つめた。

「他人よりほんの少し眼が良くて、少しだけ多くの物が見えたら普通ではないの? 背が伸びなければヒトではないの?」

 返す言葉を失い思わず目を逸らした俺の前に、あいつはアイスキャンデーの棒を二本突き出した。

「ねぇ、見て。当たりだよ」

 一本は溶けたアイスでまだ濡れていたが、もう一本は酷く古びていて、当たりの文字も掠れていた。

「当たりが出たらもう一本。あの日から、僕はずっと君を探していた。君と一緒にアイスを食べようと思ったんだ」

「……まさか十年以上もそんなの持ち歩いてたの? ってか、それってもう販売されてないアイスなんじゃないの?」

「ええ?! そうかなぁ。アイスの当たりに有効期限があるとは思わなかったなぁ」

 邪気のないあいつのとぼけた顔に脱力してしまい、俺が呆れて溜息をつくと、あいつは声を上げて笑った。そして僅かに首を傾げると、「ねぇ、煉、知っているかい?」と微笑んだ。

「煉。君が何者であろうと構わない。君は僕の知る誰よりも人間らしく、そして僕の親友なんだ。たとえ十年掛かりの隠れんぼに付き合わされたとしてもね」

 夜明け前の暗い空の下、俺を映すあいつの眼は誰よりも優しく、穏やかで、俺を安心させた。

「それでね、煉に相談しようと思ったのはさ」

 音信不通だった十数年について一頻り喋った後、あいつは小さな紅い石のついた指輪をポケットから出した。

「なにコレ?」

「明日、東京から僕の彼女が遊びに来るんだ。それで、彼女にプロポーズしようと思ってる」

「ふ〜ん、いいんじゃないの?」

「トモシビダケのある、椎の木の森で」

「げ」

 俺は舐めていた飴を喉に詰まらせ、むせ返った。

「それちょっと趣味悪過ぎ!」

「なんで? 幻想的で、僕はあの場所すごく好きだよ」

「幻想的って、なにもシビトダケの下でプロポーズしなくたってさぁ」

「死人茸じゃなくて、椎の灯火茸。昔、煉に、『俺がいない時に絶対一人であそこに行くな』って、しつこく言われてたからさ、一応了承だけは得ておこうと思って。煉がダメだって言っても、今回ばかりは譲れないけどね」

「も~、仕方ないなぁ。コウイチって、一度言い出したら頑固だからなぁ。あんなとこでプロポーズなんかして、振られても知らないよ?」

 俺が顔を顰めても、変に自信家だったあいつは全く心配する風もなく、自分の小指にはめた指輪の紅い石を眺めてにこにこと笑っていた。

「ねぇ、煉、知っているかい? シイノトモシビダケの学名の意味はね、ラテン語で――」


    ✿


「母さんっ」

 明人の声に煉が我に返った。目を細めて暗い森を窺う。一際大きな椎の下に明人の母が立っていた。明人の声など全く聞こえぬかのように、黒々と天に向かって梢を伸ばす樹を身じろぎひとつせず見上げるその細い肩に、影が凝ったような鬼が座っている。

「なにあれ……」

 母にひっそりと寄り添う黒い鬼の姿に明人が息を呑んだ。

「カトー君の成れの果てさ。明人の母さんの想いに反応して、あんな形になっちゃったんだよ」

 還リタイ、と不意に耳許で囁く声がした。

「えっ?」と驚いて振り返った明人に向かって、煉がシッと唇に指を当てた。


 還リタイ。

 還リタクナイ。

 逝キタイ。

 逝キタクナイ――


 しっとりと重く濡れた闇に、葉擦れの様な囁きが満ちる。暗闇に目を凝らすと、露の滴る草叢に、ひび割れた樹のうろに、倒木の陰に、無数の小さな影が現れた。


 逝キタクナイ、と影達が囁く。

 モウ少シダケ此処ニイタイ。

 モットズット此処ニイタイ――


 静かな諦念の溜息と共に、トモシビダケを摘んだ影達がその淡い光を頼りに椎の大木をゆっくりと登り始めた。


 還リタイケレド、君ガ此処ニイルカラ、還リタクナイ。

 逝キタクナイケレド、トテモ寂シイケレド、デモ君ト一緒ナラ、逝ケルカモシレナイ――


 影達の手にした無数のトモシビダケの火に、椎の木が翡翠色の燐光を放ち、闇に浮かび上がる。それは此の世のものとは思えないほどに妖しげで、美しく、幻想的な光景だった。

 と、その光を陶然と見つめていた母が、光一さん、と呟いた。途端に背筋に寒気が走り、明人が思わず息を飲んだ。夏渡が椎の木を指差し、母の耳許に何か囁く。先の見えない暗い夜空を見上げる母の姿がトモシビダケの灯りの中で影のように頼りなく揺らめいた。

「……母さん?」

 止めようとする煉の腕を振り払い、明人が母に駆け寄った。

「母さんッ」

 母の腕を掴もうとした手が空を掴んだ。母の存在が影のように薄くなり、夜の闇に霞む。

「カトー君、お願いだから、母さんを連れて行かないで……!」

 幾ら明人が嘆願しても、夏渡も母もお互いを見つめ合うばかりで、まるで明人などそこに存在しないかのように答えようとはしない。ゆらゆらと揺れる母の影は余りにも薄く、一陣の風にも消え入るだろう。

 人の存在とはこんなにも曖昧なものなのだろうか。父の存在に比べ、自分という存在の欠片は、母の存在を繋ぎ止めることも出来ない程に意味の無いモノなのだろうか。雪山に父が消えたあの日からずっと、不安に慄き、涙を堪えてきた。そして無力な自分と、自分を見ようとしない母と、自分達を置いていってしまった父に対してすらどうしようもない怒りと口惜しさを覚えた。そしていつかこんな日が来るのではないかと怯えていた。父が、否、母の中の父の欠片が、母を何処か遠くへ連れていってしまうのではないかと――

「……母さん、なんで?」

 震える唇の端を吊り上げるようにして明人が嗤った。

「なんで僕をみてくれないの? お願いだから、僕をみて。僕はここにいるよ」

 受け取る者のいない言葉は、死んだ枯れ葉のように音もなく風に舞い、夜の闇に消えてゆく。自分を見ようとしない母に向かって明人が叫んだ。

「母さんっ、僕をみてよっ! 僕はここに、ここにいるのに!」

 椎の木の周りに集まった無数の影が明人の叫び声に振り返った。不意に一匹の影が牙を剥き、明人に飛びかかった。咄嗟に手を出した煉が影を掴む。と、影の小さな躰が火を吹き、一瞬にして灰となり風に舞い散った。

 暗闇に突如燃え上がった炎の眩しさに影達が小さな悲鳴を上げて逃げ惑う。明人の母が驚いたように両手で顔を覆った。その細い肩に手をかけ、煉が静かな口調で、思い出すんだ、と言った。

「ソレはコウイチじゃない。そんなモノの中にあいつはいない」

 濡れた地面に膝をつき、自分の声に耳を塞ごうとする明人の母の耳許に煉が囁く。

「ねぇ、思い出して。あいつの言葉を。あいつが、あんたの中に残していったモノを――」


     ✿


 何も思い出したくはない。目を瞑り、耳を塞ぐ。けれども強く耳を塞げば塞ぐほど、海鳴りのように己の心音がこだまして、それが余りに煩くて、気が遠くなる。終わりを知らないその音は、どこか赤ん坊の泣き声に似ている。

 産まれたての赤ん坊は何故あんなに泣くのだろう。何をそんなに悲しんでいるのだろう。此の世に生まれたことがそんなに辛いのか。此の世に生まれることによって出逢う全てのモノとの間に、いずれ訪れるであろう別れを悲しんでいるのであろうか。

 途切れることなく延々と続くその泣き声に、指先が痺れる。

 不意に何処からともなく、囁くような子守唄が聴こえてきた。優しく、不器用に、泣く子をあやす低い歌声が、痺れた指先を温める。けれども辺りは仄暗い闇に沈み、幾ら目を凝らしても、歌うその人の姿は見えない。

『あのね、この子の名前を考えたんだけど』

 見えないその姿に向かって、いかないで、と叫ぼうとしたが、声が出ない。

 あなたはいつも、まるで口癖のように、世界は美しいと言う。けれどもあなたは知らない。ひとりでみる世界の広さと虚しさを、そこに吹く風の音の暗さと冷たさを。

 どこかで誰かが泣いている。世界が抱く闇に怯え、来るべき別れに慄いて。

 還リタイ、と木々の葉擦れが泣き荒ぶ。そう、わたしも還りたい。わたしは、この世界にひとりで立つことはできない。ここはあまりにも暗いから、だから――

 ねぇ、思い出して、と不意に誰かが耳許で囁いた。肩に触れる熱い手から、何かが流れ込んでくる。

 何も聞きたくはないと、何も見たくはないと、胎児のように身を縮めて塞いだ胸の奥に、遠く、懐かしい声が響く。

『たとえどんな闇の中にあっても、きっとこの子が僕と君の道を灯す明かりとなってくれるから、だからこの子の名前は――』


     ✿


「――明人」

 ゆっくりと目を開けた母が、明人を振り返った。永い夢から醒めたような眼差しが明人を見つめ、やがてそっとその手を握った。

「……明人。お父さん、いっちゃったね……」

 トモシビダケの光を見上げ、母がふと微笑んだ。

「お父さんはね、昔から好きなものに対して一直線で、夢中になると周りが見えなくなる人で、だから、別に明人とお母さんを置いていこうとしたわけではなくて、ただ、もうどうしても待ちきれなくて、きっと一足先に遠くの世界を見に行ったのよ」

 世界は美しいから。そう呟いた母が、不意に大粒の涙を零した。

 そうだね、と答えようとした声が掠れた。ただ、ひとりの大切な人を失った悲しみと、そしてもうひとりの大切な人を取り戻した深い安堵が、ひたひたと明人の胸を満たす。

「でも明人はここにいる。あなたはわたしを待っていてくれた――」

 ごめんね、ありがとう、と呟いて涙を零す母の手を握りかえしながら、その眼に映る自分の影を見て、ふと思う。母も恐れたのかもしれない、と。僕の眼に映る自分の姿を。隣に立つ者を失い、独り寂しく佇む自分の影を僕の眼にみることを。

 淋しそうに母と明人を見つめる夏渡の小さな手に、煉が柔らかな光を放つトモシビダケを握らせた。そして椎の木を指差して、「お行き」と囁いた。椎の木を見上げた夏渡が、その手に零れる光を頼りに大木をよちよちと登り始める。少しずつ、少しずつ、天を目指す夏渡の光が遠く幽かになってゆく。

「……夏渡は、影達は、どこにいくの?」

「この樹は『ここ』でない『どこか』に繋がっているんだ。とてもとても遠いけれど、でもトモシビダケがあれば迷わない」

 だってね、と言うと、煉がふと何かを思い出したように微笑んだ。

「椎のトモシビダケの学名は、ラテン語で、『天の光』って意味なんだって」

 無数の影達が手にした灯火茸の淡い翡翠色の光がゆっくりと螺旋を描き、暗い夜空を昇ってゆく。千切れてしまった魂の欠片は、もう少しだけここに在りたいという想い、逝くモノの心残りなのかもしれない。でも繋ぎ止めてはいけない。いつの日か、またひとつに、完全な形となったあのヒトの魂に逢えるように。逝かせてやらねばならない。今は――

「……また逢える?」

 囁くように問う明人の声に、暗闇の中、椎の木を見上げる煉の影が優しく応える。

「明人がそう望むなら」


 望めば逢えるのは、父か、夏渡か、煉か。

 灯火茸の光は、煉の表情を窺うにはあまりにも淡い。



     エピローグ


 螺旋を描いて暗い天に還る淡い光を、あいつは幻想的だと言った。

 煉、君の眼には世界はどんな風に映っているのだろう、とあいつは俺に問うた。わからない、と俺は答えた。俺には『普通のヒト』がみる世界がわからないから、比べようも説明のしようもない、と。すると、灯火茸を見つめたままあいつは呟いた。

「僕は僕の眼に映る狭い世界の、そのほんの一部しか知らない。僕は小さな沼で空を泳ぐ夢をみる蝌蚪かもしれないけれど、でも、君に出逢い、僕は、僕の頭上に広がる空の深さを知った」

 不意に振り向いたあいつが、輝くような笑顔で俺をみた。


「煉、君に逢えて良かった」



(END)

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