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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
77/123

蝌蚪(中編)

     4


 蝉時雨とはよく言ったものだ。夏の陽差しの中、うわんうわんと降り頻るような蝉の鳴き声に煉が顔をしかめた。本物の時雨なら涼やかだが、蝉時雨は体感温度を無駄に上げるようで気が遠くなる。

 雑草が生い茂った河原に顔を野球帽で隠して寝転がる煉の隣で、所在無さげに空を見上げていた焰が暇そうに欠伸した。

「煉。お前一体いつまでここに居るつもりだ?」

 寝ているのか寝たふりか、返事をしない煉に焰が溜息をついた。

「煉、分かっているんだろう? いくら待ってもコウイチは――」

「わかってるよッ」

 帽子をはねのけるようにして飛び起きた煉が焰を睨みつける。しかし狐の金色の眼にじっと見つめられると、怒鳴ったことを恥じるかのように目を伏せ、焰に背を向けて再び横になった。

「……わかってる。明日ここを出よう」

「コウイチの息子になんぞひとこと言わなくていいのか?」

「……何を?」

 煉が焰に背を向けたまま乾いた嗤い声を漏らした。

「一体何を言えばいいのさ? 俺は何も出来ないし、俺に言えることなんて何も無い」

 ……そう。俺はいろんなヒトといろんなモノのいろんなコトを知っている。でも俺は、きっと本当にはナニも知らない。

 目を瞑って蝉の声を聴く。むせ返るような青い草いきれが否応もなく遠い記憶を呼び覚ます。記憶の底に押し込まれた、短い夏の煌めくような日々――


     ✿


「煉! 珍しいの捕まえたんや、見にこんか?」

 子供だったあいつは、いつも好奇心に目を輝かせて俺を誘った。あいつの離れには数え切れないほど沢山の水槽や虫カゴがあって、あいつと俺は、顔を寄せ合うようにしてガラス張りの小さな世界を覗き込んだ。二人で山に登り、虫を探し、風の声に耳を澄ませ、木陰で涼み、冷たいせせらぎに身を任せ、アイスキャンデーを片手に夕暮れの畦道を並んで歩く。

 カブト虫。バッタ。ミンミン蟬。鈴虫。赤蜻蛉。

 あいつと並んで観る世界はいつも、小さな生命の透明な歌に満ち溢れていた。

 けれどもそんな輝くような夏の日々は永遠には続かない。

 ある年の夏、俺は隣に並んだあいつの背が自分よりも高いことに気がついた。

「隠れ鬼しよう」と俺はあいつに言った。「コウイチが鬼だよ」

 俺は一番山奥の一番高い樹の一番高い枝に登り、頭上に広がる蒼い空と流れる白い雲を眺めた。雲が茜色に染まり、辺りが闇に沈み、梢から零れる月の光が指先を白く染めるまで待っても、あいつが俺を見つけることはなかった。


 俺は何処から来たのだろう。

 此処で何をしているのだろう。

 どれ程の時を独りで生きてきたのだろう。

 俺の中を通り過ぎる全てのモノの影が、俺の中にナニカを残してゆく。

 透明な生命の欠片が俺を満たし、溢れる。

 世界は美しい。

 しかし独りで観る世界は寂しかった。



     5


「あづい~」

 木陰に足を投げ出した明人がタオルで汗を拭い溜息をついた。朝からずっとあの少年を探して歩き回っている。絶対に見つけてやろうと勢い込んで家を出たものの、午後になっても少年の影すら見つけられない。いい加減疲れた。当てのない捜索は肉体以上に精神にくる。

「見つかるわけないよな。いくら田舎でも、名前も住んでる場所も知らないんだから。これが動物とか虫だったら居場所の見当くらいつくんだけどな」

 しかし相手が人間ではどうしようもない。父さんも言ってた。人間の行動――特に女――が一番予測不可能だって。

 ごつごつと荒く硬い樹の幹にもたれて目を瞑る。目を閉じると、今まで気付かなかった様々なモノの存在が不意に鮮明になって押し寄せてくる。汗ばんだ首筋を撫でる風。風が運ぶ川の水の気配。指先に触れる木陰の湿った土。地面に落ちて腐った柿の実の甘ったるい匂い。うわんうわんと降り注ぐような油蝉の鳴き声に、頭の芯が痺れる。

 研究の合間の休日に、父はよく明人を連れて海や山に動植物の写真を撮りに行った。それは仕事としての研究の一環と言うよりも、単なる父の趣味であり、唯一の道楽だったのだろう。父はいつも愉しげな微笑みと共に、「明人、世界を観に行こう」と冗談めかして明人を誘った。

 しかしあの日、父は明人を誘ってはくれなかった。使い慣れたザイルをバックパックに詰めながら、留守番よろしくな、と父は言った。雪山は流石に明人にはまだ無理だけど、でももう少し大きくなったら一緒に行こうな、と。

「冬の雪山に動物なんかいるの?」と明人が首を傾げると、もちろんさ、と言って父は頷き、くしゃりと髪をかき混ぜるようにして明人の頭を撫でた。

「明人も、いつかきっと自分の目で見ることができる。この世界に溢れる、様々なモノ達の姿を」

 世界は美しい。そう言って微笑む父と共に見上げた冬の空は薄い水色で、天女の衣のように淡い雲が棚引いていた。


 ……父さん、教えて欲しい。

 父さんがそこまでして、冬の雪山に登る危険を犯してまで、みたかったモノって何? ソレは、僕と母さんを置いてまでいく程の価値があるモノだったの? そして父さんは、ソレをみることができたの?


 視界の端に何か動くモノが映った。明人が反射的にそちらに顔を向けると、ふかふかした尻尾の小さな猫のようなモノが揚羽蝶を追いかけ回している。猫にしては鼻が尖っている。しかし犬にしては微妙に動作がおかしい。思わずゴクリと唾を飲み込んだ。あれは、あの少年の肩に乗っていた狐のような動物ではないだろうか。

 静かに立ち上がり、脅かさないようそっと近付く。と、明人の気配に狐モドキが振り返った。揚羽蝶を追うのをやめて、何やらやけに人間臭い表情でじっと明人を見つめている。不意に狐モドキが河原に向かってとことこと走り出し、しばらく行くと立ち止まって明人を振り返った。

「ついて来いってこと……?」

 狐モドキがにやりと笑ったような気がした。突如走り出した狐を慌てて追いかけて飛び込んだ草叢で、何かに躓いて勢い良く転んだ。

「いってぇなっ」

 不機嫌度百二十パーセントといった声と共に体を起こした少年の姿に、明人が思わず喜びの声を上げた。

「あ! やっぱり! 君のこと探してたんだよ!」

 こんな暑いところで昼寝でもしていたのだろうか。不機嫌そうに目を擦りつつ、不審げに自分を見る少年の顔に少し慌てる。

「あ、あの、ごめん……ちょっとオタマジャクシのことで君に聞きたいことがあって……そしたら偶然、草むらでその子を見かけたから、君のペットかな、と思ってついて来たんだけど……それ、もしかしてフェネック・フォックス?」

「……狐ではあるけど、そんな洒落た名前じゃないことだけは確かだね」

 少年が澄ました顔の狐を軽く睨んだ。

「ちなみにペットでもないよ。でしゃばりで成長不良のただの野良狐だよ」

 少年の言葉に狐が文句でも言うように唸り、牙を剥く。そんな狐の額を指で軽く弾き、少年が明人に向き直った。

「で、俺に聞きたいことって何?」


     ✿


「こちら、蝌蚪(かと)のカトー君」

「カ、カトー君?」

 明人に連れられて入った離れで、水槽を覗き込んだ煉と焰が変態しかけた蝌蚪を見て絶句した。

「こりゃまたすごい名付けのセンスだな」

 明人に聞こえないよう、焰が小さな声で呆れたように呟く。

「煉君ってすごく難しい言葉知ってるよね。蝌蚪って、辞書で調べたんだよ。父さんのノートにもあったけど」

 明人が光一のノートを開いて煉に見せた。しばらく無言でノートの字を見つめていた煉が、畳に転がっていた鉛筆を取るとノートの端に『夏渡』と書いた。

蝌蚪(かと)夏渡(かと)、夏を渡って逝くモノ」

「どこに行くの?」と明人が尋ねると、煉は寂しそうな眼でノートの字を見つめた。

「……行くんじゃない。逝くんだよ」

 煉がノートに小さく書き足した字を見て明人が黙り込んだ。小学生には難しい漢字だけど、でも知っている。最近よく目にする字だから。

「生き物が死ぬと、その魂は『ここ』ではない『どこか』に逝く。でも時々、魂の小さな欠片や澱みたいなものが残っちゃうことがあるんだ。冬に雪深い山で死んだモノの魂の欠片は春になると雪解け水と共に流れだす。大抵そのまま河の流れに乗って海までいって、海の力で浄化されて消えていくんだけど、時々なんかの拍子に田んぼの隅とかに溜まっちゃうんだ。で、偶然同じ場所に溜まった色んなモノの魂の切れ端がひとつになると、夏渡になる」

 水に手を入れた煉が、物珍しげに近寄ってきた夏渡の頭をちょんと指先でつついた。

「夏渡は、ただ漠然とそこに在る。でも、春から夏にかけての旺盛な生命の営みを見ているうちに、突然ふっと消えていくんだ」

「なんで?」

「わからない。自分が在るべき場所が『ここ』じゃないと気付くのか、『ここ』に在ることにもう十分満足したからか。ただ単に『ここ』に在ることに飽きちゃうだけかもしれない」

 煉がふと窓を見上げ、空を流れる白い雲に目をやった。

「……周りはどんどん変わっていくのに自分だけずっと変われないなんて、つまんないからね」

「でも、僕のカトー君は変わったよ? 足とか生えてきたもん」

「それは明人が意思をもって夏渡を見たからだよ」

「意思?」

 首を傾げた明人に煉が頷く。

「夏渡は自分がナニか解らない。元々色んなモノの切れ端が何となく寄り集まって、何となく形になっただけだから。でも意思を持って見られ、周りから区別され、名前まで付けられちゃったからね。自分がナニか解らなくても、ナニカであると思っちゃったんだよ。つまり自我が芽生えちゃったわけ」

「それって、まずいの?」

「う~ん、まずいっていうか、逝くべきところに逝きにくくなっちゃうんだよ。自分がナニか解らないぶん、鬼にもなりやすいしね」

「お、おに?! 鬼って、日本昔話とかに出てくるアレ?!」

「ヒトの眼には映らないモノ、ヒトの知る理に当てはまらないモノ、ヒトとは異なる理に生きるモノ、そして往々にしてヒトに憑くモノの総称だよ。ヒトになんか興味のない鬼も沢山いるけどね」

 不意に外でトラックのエンジンの音が響き、ドアを開け閉めする音がしたかと思うと、砂利を踏む足音と野太い人声が近づいてきた。

「姉さん、疲れたやろう? まぁ中でお茶でも飲んで待っててくれや。俺は明人を呼んでくるで」

 その声を聞いた途端に煉がぴくりと片方の眉を上げた。

「……アレ、もしかしてコウジ?」

「え? うん、そう――」

 明人が言い終わらないうちに煉が裏の窓から外に飛び出した。

「ど、どうしたの?!」

「俺さ、アイツとはちょっと色々あってさ、顔合わすのはまずいんだよね」

「は?」

「コウジって、すっごい怖がりだろ? 面白いから昔ちょっとからかって遊んでやったらさ、なんかアイツってばスゴイ根に持っちゃって。とにかくその夏渡は早いとこなんとかした方が良い。今晩、田んぼの横の柿の木の下で待ってるからさ、ソイツ連れて来て!」

 それだけ言うと、あっという間に煉が竹林に姿を消した。煉がいなくなるのとほぼ同時に離れの戸が開き、光司が顔を覗かせた。

「おう、明人。お母さん来よったで。はよう行って顔見せたらんかい」



     6


 ちりりん、ちりりん、と風鈴が風に鳴る。その涼しげな音の中、明人の母はひっそりと母屋の縁側に腰掛けていた。夕暮れの淡い光が、その背後に長い影を落とす。部屋に入りかけた明人がその後ろ姿にふと足を止め、そっと唇を噛んだ。

 まるで世界から取り残されたかのように、身じろぎひとつしない母。何も見ようとはしないあの虚ろな瞳には、何が映っているのだろうか。あの眼の前に立ち、あの眼に映る時、僕は影になる。母にとって何の意味も成さない影に。それとも母自身が影なのか。影にヒトを見ることはできない。影の眼は空洞で、そこには何も映らないから。

 でも、たとえ母が影だとしても、それでも僕は精一杯の笑顔を見せなければならない。不安や悲しみなど微塵も感じさせない演技。決して涙をこぼしてはいけない。泣けば、父がもう二度と帰ってこないと認めてしまう事になるかもしれないから。そしてそれは、きっと影さえも残さず母を壊してしまうだろうから。だから、僕は、精一杯の演技を――

「母さん」

 明人の声に影がゆっくりと振り返った。まるでそこに映る人影が誰なのか分からないかのように、虚ろな瞳が幾度か瞬く。

「……明人。久し振りね。元気にしてた?」

 影が僕の名前を思い出し、躊躇いがちに僕の名前を口にする。

「うん、母さんは? 元気だった?」

 影はそれには答えず、ただ幽かに微笑んだ。その笑みを見て、笑わないで欲しいと切に願った。無理に笑わないで欲しい。そうやって無理に微笑むたびに、母の中のナニカが少しづつ削れ、崩れ、壊れてゆく。

 影が腕を伸ばし、明人の手をそっと握った。その細い指先から伝わる冷たさに、背筋にぞっと寒気が走る。振り払いたい衝動を必死に堪え、明人が肩を震わせた。

「……母さん、あの、僕のことは全然心配しなくていいからさ――」

「ごめんね、明人。おかしいの。お父さん、まだ帰って来ないのよ」

 影がその冷たく白い指を頬に当て、不思議そうにゆっくりと首を傾げる。その姿はまるであどけない少女のようで、明人は眩暈がした。

「でももうすぐ帰って来るはずだから、そうしたら三人で遊園地に行きましょうね」

 廃墟に吹く風のような影の声が、明人の隙間に忍び込み、明人の内側をすうっと冷やす。

「だって、明人の誕生日に三人で遊園地に行くって、お父さん約束したものね」

 影の微笑みから目を逸らし、そっと後退りながら乾いた唇を舐める。

「……母さん、あのさ、僕、今日、あの」

 喉がからからで、舌がはりついてうまく動かない。瞼の奥が、無数の針に刺されるかのようにずきずきと痛む。何も言わずにこの場から逃げ出したかった。口を開いたら、何かおかしな言葉が飛び出しそうで怖かった。

「……今日、僕、すっごく、汗、かいたから、夕御飯の、前に、先に、お風呂、はいって、くる、ね」

「――明人」

 足をもつれさせるようにして部屋を出ようとした明人を影が呼び止めた。逆光のせいだろうか。振り返った明人の眼に映る影は唯ひたすらに黒く、暗く、そこに表情と言えるものは無く、すでに人の体すらなしていない。夕闇の中、影が明人に囁きかける。

「心配しなくても大丈夫よ。お父さん、今まで一度だって約束を破ったことなんてないんだから――」



 明人のいなくなった縁側が再び静けさに包まれた。夕風に微かに揺れる風鈴の音がその静けさを際立たせる。不意に強い風が吹き、風鈴を激しく打ち鳴らした。夕立でも来るのだろうか。風が湿り気を帯び、空が暗く翳った。

 竹藪を揺らす風の音に顔を上げた母の目に、離れへ続く小径が映った。おもむろに立ち上がり、庭に出る。竹藪の中の小径をゆっくりと歩くうちに、ぱらぱらと雨が降りだした。虚ろな目で空を見上げた母が小さく溜息をつき、目の前の離れへ入った。薄暗い部屋にこもる微かな埃と古い畳、そして寂れた図書館に似た匂いが躰を包む。そのどこか懐かしい匂いに身を任せ、畳の端に腰掛けた時だった。

 開いていた窓から風と共に大粒の雨が吹き込み、夏渡の水槽に当たってぱらぱらと音を立てた。驚いたようにクルクルと水の中で輪を描く夏渡の小さな影に、母がふと目を留めた。引き寄せられるように近付き、水槽を覗き込む。水に映った人影に夏渡が動きを止めた。

 激しい夕立の音に閉ざされたその空間で、どれ程の間、夏渡と見つめ合っていたのだろうか。ぬるりと生温かい水に、母がそっと手を入れた。

 凝った影から生まれたかのように暗い色の小鬼が、その指先をゆっくりと這い上がった。



(To be continued)

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