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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
75/123

人魚姫(終)

     15


「先に断っておくが、俺は結界なんか作れんからな。結界が張れるのは陰陽師の類いと神仏、あとは一部の鬼だけだ」

 鳴海の肩に座った狐が小さな鼻面を上げて、注意深く風の匂いを嗅ぐ。

「お前、運動神経はいいほうか?」

「別に悪くはないけど、まぁ普通かな。どうして?」

「俺は結界でお前を守ってやることは出来んが、危険を予知してお前に注意してやることは出来る。その危険を避けることが出来るかどうかはお前の運動神経次第だな。ちなみに何かあったら俺は逃げるからな。道連れは御免だ」

 先程の煉もそうだったが、焰もやけにピリピリと神経を尖らせている。何だかよく分からないけれど、昨日の声の不気味さを考えれば、取り敢えずサッサと家に帰った方が無難だろう。電柱の上から心配気に鳴海を見つめるカラスに軽く手を振り、駅に向かって歩き出す。と、焰が顔をしかめた。

「……ナルミは電車通学なのか?」

「うん、そうよ」

「歩け」

「……は?」

「今のお前が公共交通機関を使うのはハタ迷惑だ。家まで歩いて帰れ」

「はあぁ?! そんなの無理よ! 五駅もあるんだから! 雨降ってるし!」

「たった五駅くらい大したことないだろう。煉は北から南まで一年中日本全国を歩き回ってるぞ」

「え?! 煉くん、なんでそんなことを……って言うか、あんな健康そうな子供と一緒にしないでよっ」

「お前だって若いだろうが。そもそも煉が子供なのは見掛けだけだ。とにかくお前が今電車に乗ったりすれば、脱線事故でも起きかねんからな。大量殺人犯になりたくなければ家まで歩いて帰れ。歩きなら何かあっても死ぬのは多分お前一人だろう。数人の道連れはあるかも知れんがな」

「大量殺人犯って……だけど今朝は普通に電車に乗ったけど、別に何ともなかったわよ?」

「今朝はまだカツヤとかいうニンゲンの目が覚めてなかったからな。とにかくお前も死にたくなければ言うことを聞け。言っただろう? 俺は結界は作れんからな。脱線事故で真っ先に死ぬのはお前だぞ」

 女子高生のローファーで雨の中を五駅分歩くとか、一体何の拷問だ。文句を言おうとした刹那、「伏せろッ」と焰が叫んだ。

 咄嗟にしゃがんだ頭の上をベースボールが掠めた。そしてその瞬間、左手の小指に鋭い痛みが走った。

「雨の日にまで練習とは、ご苦労なこった」

 激しい音と共に砕けた校舎の窓ガラスを見て、焰が肩を竦める。ヒリヒリと痛む小指を見ると、煉の結んだ髪が燃えて灰になっていた。


 よそ見運転、崩れた鉄筋、壊れた遮断機、蓋の無いマンホールに酔っ払いの喧嘩。どこにでもありそうで、しかし実際には漫画の中にしかない筈の不運を焰の警告でギリギリ避け続けた。そしてその度に指に結ばれた煉の髪が燃え上がる。三時間近くかけてようやく家に帰り着く頃には、鳴海の手は火傷の水ぶくれで腫れあがっていた。

「今日はもう家を出るなよ。と言うか、煉が来るまで大人しく家にこもってろ」

「だけど、もしかして家が火事になったりするんじゃ……」

 右手の中指に一本だけ残った煉の髪を握りしめ、げっそりと疲れ切った顔の焰に思わず縋り付く。

「ヒトの家ってのは一応緩い結界になってるからな。外をウロつくよりは安全だ。とにかく今日はもう寝ろ。間違ってもフグなんか食うんじゃないぞ。今のお前ならイチコロだ」


 幸か不幸か、フグが意味も無く食卓を飾るようなリッチな生活はしていない。しかし今なら何を食べてもサルモネラ菌やら大腸菌やらにヤられる自信がある。いや、それよりは肺炎が先かも知れない。雨の中を歩き続けて冷え切った身体を温めようと、風呂に熱いお湯を張る。

「……心配かけちゃって、ごめんね」

 水槽のガラス越しに不安気な眼差しで鳴海を見つめる月太郎に謝り、足元にすり寄ってきたミケを撫でてやる。ミケの毛の柔らかさと温かさに、緊張し切って疲れた心の何処かがふと緩んだ。

 湯船に浸かり、むくんだ足の裏をマッサージする。火傷を負った指の付け根がヒリヒリと痛んだが、我慢出来ないほどではない。

 チッチッ、と鈴が鳴るような澄んだ声に顔を上げると、風呂場の窓硝子にヤモリが張り付いていた。ぷっくりと膨らんだ指先が愛らしい。あれは毎年、夏に祖母の家に遊びにきた鳴海にお伽噺をしてくれたヤモリだろうか。鳴海はヤモリの語る物語が好きだった。

 ヤモリの澄んだ歌声を聴いている内に、不意に居た堪れない気持ちになって、熱いお湯に潜った。なぜだろう。わたしは、なぜいつも水に逃げ続けるのだろう。わたしは何を求めているんだろう。わたしは何を失ったんだろう。言葉が聞こえれば不満、聞こえなければ不安――

「ナルミッ! ナルミッ!」

 誰かに顔を叩かれ、咳込みながら眼を覚ました。母と弟、そして祖母が鳴海の顔を上から覗き込んでいる。

「ミケが洗面所で大騒ぎしているから何かと思って覗いてみたら、鳴海が湯船に沈みかけてるんですもの。お母さんびっくりして心臓が止まるかと思ったわよ!」

「酔っ払ったオッサンじゃあるまいし、姉ちゃんってば風呂で溺れるとかあり得ないよ!」

「ついこの前も学校で気を失ったばかりだしねぇ、一度病院で精密検査して貰った方がいいかも知れないねぇ」



     16


 こうなるともう家の階段の上り下りですら怖い。足を滑らせたりすれば、確実に首の骨くらい折るだろう。

 真夜中、まんじりとしないまま毛布にくるまって震えていると、コツコツと窓硝子を叩く音がした。また何か変なモノが来たかと怯えつつ、カーテンの端から恐々と外を覗く。

「ほう、生きてたか」

 小柄な狐が意外そうに金色の瞳を細める。生きてたか、とは大した御挨拶だ。しかし文句を言う余裕も無い。急いで開けた窓の隙間から、夜風と共にするりと焰が入り込む。

「下に煉が来ているから、玄関を開けろ」

 滑って落ちたりしないよう、しっかりと両手で手摺を掴み、家人を起こさぬよう、足音を忍ばせるようにして階段を下りる。

「コンバンワ」

 星の無い暗い空の下、煉の笑顔を見た途端に安堵で膝に震えがきた。

 と、煉の背後に立っていた少年がぺこりと頭を下げた。中学生くらいだろうか。頬に幼さを残す少年は、弟の拓海とあまり変わらない年頃に見える。煉が少年を鳴海に紹介する。

勇人(ユウト)。俺の知り合い」

 知り合い、と言われた途端に少年のこめかみがピクリと引き攣った。しかし煉にそれを気にかける様子は無い。

「勇人はね、現代日本には珍しく使える陰陽師なんだ。と言っても、まぁかなり危なっかしいんだけどね」

「それお前に言われたくねぇから。そもそも一番危ない頼み事してくるのはお前だし」

 舌打ちと共に勇人が靴を脱ぐと鳴海に軽く頭を下げた。

「すみません。洗面所貸して貰えますか?」

 数分後、洗面所から出てきた勇人は無紋白地の狩衣姿だった。神主さんか何かのようなその大仰な服装に驚いて鳴海が目を瞠っていると、えへへ、と恥ずかし気に勇人が頭を掻いた。

「なんて言うか、やっぱりこんな格好で外は歩けませんからね。万が一にでも学校のヤツらとかに見られたらハズイし、色々と説明するのも面倒だし」

「勇人くんは、その、陰陽師って……お家が神社とかそういう関係なの?」

「いや、神社とか宗教関係じゃないんですけど、家の関係と言えばそうかも知れませんね。お祓いみたいなのを代々やってきた家系なんで。まぁ今は晴れてごくごく普通の一般人に仲間入りさせて貰ったんですけどね。妹とか、もうコッチが参っちまうくらい完璧フツーで」

 言葉とは裏腹に、勇人が口許を綻ばせる。その柔らかな微笑みは、彼が『普通』であることの価値を知っている証拠だろう。『特別』であることが幸せに繋がるとは限らないと、この少年は知っている。

「……それなら、勇人くんはなんで陰陽師をやってるの?」

「それは……」

「バカだから」

 勇人が僅かに口籠った隙を突き、煉がすかさず口を挟む。

「お人好しって馬鹿の代名詞なんだってさ。焰がいつも言ってるよ」

「そりゃお前のことだろーが」

 ニヤニヤと笑う煉を見て勇人が口を尖らせる。と、鳴海のベッドで勝手に寛いでいた焰がふんと鼻を鳴らした。

「ヒトの分際でアカの他人の為に鬼を相手にするなんて、おまえら二人共大馬鹿さ。だがまぁ煉は死ぬことはないが、ユウトは精々保ってあと数年だな。なんならバニラアイスを賭けてもいいぞ」

「バニラアイスってさぁ、せめてもうちょっとマシなもん賭けてくれよ。仮にも俺の命なんだからさ」

「ふん、陰陽師の命なんぞ俺の抜け毛より軽い」

「ゴキブリだろうが陰陽師だろうが天然記念物のトキだろうが、命の重さなんてたいして変わらないよ。何を重いと思うかは個人の主観だからね。そんなことより、夜が明ける前にさっさと始めようか」

 床に胡座をかいた煉が懐から三体の人形を取り出した。人形と言っても手足は無く、うっすらとした顔貌は彫ってあるが、どちらかと言うと布を巻きつけたコケシに近い。

「御神木で作った形代だよ。本当はもうちょっと早く来てあげたかったんだけど、手頃な神木を見つけるのに手間取っちゃってさ。最近は山に樹が少ないし、神社は人の目がうるさいし……昔の方が良かったとか年寄りクサイことは言いたくないけど、まぁ世の中色々と世知辛いよね」

 煉が仕方無さそうに笑いながら肩を竦める。

「まぁとにかく、俺の作った形代の中に、鳴海さんの記憶を入れるんだ。記憶を取り出すのは勇人がやってくれる。俺はそーゆーの苦手だからね」

「記憶……?」

 そう、と煉が頷いた。

「記憶はヒトを創る。そして同時に、一人の人間の中には、記憶という形で多くのヒトが生きている。その記憶の欠片をこの人形に入れることで、ケダマの主に人形を生きたニンゲンだと思わせることが出来る……まぁ上手くいけばの話だけど」

「それってもしかして、記憶喪失みたいな感じになるってこと?」

「うん、まぁ部分的な記憶喪失かな。安い代償とは言えないかも知れないけど、数人分の命の代わりだと思えば高くもないでしょ」

「え、まぁ、そうだけど……」

「まずコレね。これはカツヤってヒトの形代」

 有無を言わさぬ調子で煉が青い布の巻かれた人形を指差す。

「この中には鳴海さんのカツヤに関する記憶を入れる。子供の時にカツヤと海で出会ったこととか、遠足のバスのこととか。あと、鳴海さんがこのヒトに対して持っている感情とか」

「……私の感情?」

「アルバムを見れば、『ああ、そう言えばこんなのいたかな』くらいは思うかも知れないけど、でもそれ以上の感情は湧かない。懐かしいとすら思わない」

「……そう」

 そっと手を伸ばし、人形に巻かれた青い布に触れる。人魚になりたかった少年に似合う色は、やはり深い海のような藍色なのだろうか。鳴海の思い浮かべる克也は、海辺の太陽のような眩しい山吹色なのだけれど。

 克也に死んで欲しくないとは思ったが、別にだからといって何かを期待していたわけではない。あの笑顔を守ることが出来たのだと思えば、悪くはない。

 不意にカルキの匂いが鼻先を掠め、針で刺すような鋭い痛みに指先が痺れた。

「それで、コレが鳴海さん自身の形代。ある意味この中では一番重要な人形だよね」

 煉が白い布の巻き付けられた人形を指差した。

「これには鳴海さんが今の鳴海さんである為に、無くてはならない記憶を入れる」

「つまり……?」

「獣珠と蟲珠に関する全ての記憶」

 どきりとした。思わず息を呑んで煉を見つめたが、その表情からは何も読み取れない。

「自分が珠の持ち主だったこと、虫達の歌、カラスや雀のお喋り、ミケや月太郎と日常的に会話していたことやその内容。動物や虫にも言葉があるという世界観の全て」

「……それが、私が私である為に、なくてはならない記憶なの?」

「そう。たとえ鳴海さん自身が認めたくなかったとしても、虫や獣の言葉が解ったという事は、鳴海さんの人格形成に大きく関わっているからね」

 部屋の隅にうずくまり、鳴海の一挙一動を見つめるミケの視線を背中に感じた。暗い玄関の水槽の中で、懸命に耳を澄ましているであろう月太郎を想う。カラスは、雀達は、公園の野良猫や近所の犬達は、鳴海が過去に出逢った全ての生き物たちは、今この瞬間、何処で何を想っているのだろうか。

 考えても仕方無い。今更後戻りは出来ない。でももし後戻り出来るなら? もし全てを一からやり直す事が出来るなら、私はどうするのだろう。私はナニをドコからやり直したいと思うのだろう?

 それ以上は考えたくなくて、鳴海が慌てて頭を振った。そんな鳴海をじっと見つめる煉の視線が、妙に居心地悪く感じられた。

「これは?」

 話題を変えようと、鳴海が一回り小さな人形を指差した。

「この三つ目の人形には何の記憶が入るの?」

「あ、それはそんなにたいした記憶じゃないから、心配しなくても大丈夫だよ」

「大丈夫って言ったって、何の記憶を失くすか分からなかったら気持ち悪いじゃない」

「え? ああ……そうだね。ごめんごめん」

 煉と勇人がふと視線を交わした。

「最後のは、俺に関する記憶だよ。俺と出会ったことや話したこと、あと勇人のこととかも。つまり、俺の存在に関する全ての記憶」

 ね、たいしたことじゃないでしょ、と肩を竦めて笑う少年の姿に、カッと身体が熱くなった。

「なんで……?!」思わず手を伸ばして少年の腕を掴んだ。「なんで笑ってるの?! なんで大した事じゃないなんて言うの?! 私、煉くんに会えて本当に嬉しかったのに! 自分が独りぼっちじゃないって、誰かと同じ視線で世界を観ることが出来るって初めて思えて、すごく、すごく……!」

 煉の顔から笑みが消えた。

「……あんたが視ている世界が俺と同じだと思うなら、それはとんだ勘違いだね」

 煉は決して声を荒げたわけではない。しかしその眼に見つめられた途端に背筋に寒気が走り、身体が硬直した。煉のそんな眼を見るのは初めてだった。

「ヒトは皆、肉体という器に囚われ、自己という限られた世界に生き、その外に出ることは叶わない。誰も、誰かのように世界を見聞きすることは出来ないんだ」

 淡々と語られる言葉が鳴海を静かに突き放す。

「あんたは獣珠と蟲珠の分だけ普通のニンゲンよりも耳が良かった。だけどあんたに与えられた『言葉』はあんたの世界に壁を作り、あんたはその中に不当に閉じ込められたって思ってるんでしょ? でも本当にそうなの?」

「……本当にって、どういう意味?」

「ヒトは自分が持っていないモノばかりに気を取られ、自分に与えられたモノを見ようとはしない」

 自分に向けられた煉の眼には温度が無い。その深い淵のような瞳が湛える静けさに溺れそうになり、息苦しさに思わず喘いだ。

「あんたはカラスや猫や羽虫が与えてくれるモノに価値を見出せず、ニンゲンを選んだんだ」

「ち、違うっ」

「違わないね」煉が薄く嗤った。「言わなかったっけ? 俺にはヒトの闇が視えるんだよ。勿論あんたの中の闇も。いくら隠そうとしたって、俺には通じない。たとえ自分自身を騙すことは出来ても、俺を騙すことは出来ない」

「……やめて。言わないで」

 少年の言葉に耳を塞ごうとした。しかし幾ら耳を塞いでも、情け容赦の無い声が鳴海を切り裂く。

「あんたは獣珠と蟲珠を手放すことで、鳥を、猫を、亀を、虫を、あんたのことを友達だと思っていた全ての生き物を切り捨てたんだ」

 違うと叫ぼうとした。そんなつもりはなかった。私は、みんなを、君を、切り捨てようなどと思ったわけではない。

 けれども幾ら叫ぼうとしても、喉が詰まり、ひゅうひゅうと耳障りな風のような音しか出ない。人魚姫、と自分を呼んだ克也の幼い笑顔が不意に脳裏を過ぎった。

 ……そう、人魚姫は声が出ない。声が出ないから、通じ合える言葉を持たなかったから、自分の気持ちを伝えることは叶わなかった。

 けれども鳴海は違う。鳴海の声が出ないのは、少年の言葉が図星だったから。誰かに伝えるべき気持ちなんて初めから無かったから。私は人魚姫ではない。人知れず恋をして、身を呈して誰かを守り、その想いを言葉にすることすら叶わぬまま海の泡と消えた愚かで無垢で純粋な人魚姫とは違う。だって私は――

「あんたがやったことは偽善ですらない。あんたはカツヤってヒトを助ける振りをして、自分が欲しいモノを手に入れようとしただけだ」

 私に泣く資格は無い。嗚咽をこらえ、俯いて肩を震わせる鳴海を見つめ、煉が口許を歪めた。

「最低だね」

「……煉。もうやめろよ」

 勇人が呆れたように溜息をつくと、鳴海の前に跪いた。

「準備はいいですか?」

 鳴海が無言で頷くのを見て、勇人が三体の人形を鳴海の前に並べ、それを挟む形で正座する。眼を閉じて口の中で小さく何かを唱える勇人の額にうっすらと汗が浮かび、やがて人形が淡く光り出した。その優しい光は、幼い頃に夜の河原で見た蛍を思い起こさせる。


 墨を零したような闇の中、仄かな光を瞬かせ、蛍達は恋しい恋しいと唄い、寂しい寂しいと泣いていた。

 独りぼっちで生きるのは、余りにも、寂しい。切ない。怖い。

 だから、誰かと一緒にいたい。

 解り合える振りをして、寂しくなんかないと、切なくなんかないと、怖くなんかないと、己の眼に映る世界を相手も見ているのだと、信じる振りをして。

 偽りでもいい。

 唯、誰かの温もりを感じて眠りたい。


「逃げていいんですよ」

 不意に勇人が鳴海の耳許に囁いた。

「……あいつは、鳴海さんが振り返らないように、鳴海さんを追い立てようとしただけですから」

 チラリと煉に目を遣り、勇人が僅かに口許を緩める。

「人の価値観はそれぞれです。ここにあなたの求める幸せが無いのなら、幸せになるために逃げていいんです。振り返らずに、先だけを見て」

「……だけど、煉くんは?」

 初めて煉を見た時の光景が目に浮かぶ。無数の命に囲まれて、優しく微笑んでいた少年。けれどもその後ろ姿は、星の無い夜空に浮かぶ月のように独りぼっちだった。

「……煉くんはどうして逃げないの?」

「あいつの考えている事なんて、誰にも分かりませんよ」

 勇人が軽く肩を竦めると、静かに腕を伸ばし、鳴海の瞼に指先を触れた。

「でもきっと、あいつが逃げないのは、ヒトが大嫌いで、そして大好きだから――」

 不意に強い眠気が兆した。水底に沈むように薄らぐ意識の中で、黒髪の少年を探して視線を彷徨わせる。


 寂しくない振り。切なくない振り。怖くない振り。

 わたし達は皆、自分ではない何者かの振りをして、生きる。

 振りと言う名の鎧で身を守り、他人はおろか己をも騙せるようになれば、大人(ヒト)としても一流。


 煉くん、教えて欲しい。

 きみは、この広い世界で独り、なんのために、何者のふりをして、生きているのだろう――


 世界に夜の帳が下りる。

 閉じられた瞼の奥で蛍が淡い光を瞬かせ、消えた。



     エピローグ


 長い尻尾をくるりと前足に巻いて座った三毛猫が、玄関に置かれた亀の水槽を熱心に覗きこんでいる。いつものことながら、一体この亀という生き物の何がそんなに猫の心に響くのか。猫の考えていることは解らない。

 鳴海の気配に気付いたのだろうか。猫が肩越しにふりかえり、銀杏の実に似た淡いグリーンの眼でジッと鳴海を見つめた。縦長の瞳孔が何かを探るようにスイッと細くなる。ニャア、と猫が鳴いた。


 水槽の壁に小さな爪の生えた前足をかけ、のろのろと亀が動く。まるで何かを訴えるようにゆっくりと躰を起こしかけた途端に前足がつるりと滑り、亀が顎を打った。少し驚いたように、皺に埋もれた優しい目がぱちくりと瞬く。その姿に思わずくすりと笑ってしまう。そしてふと不思議に思う。このとぼけた顔の爬虫類は、代わり映えのしない日々の中で一体何を思い、濡れた硝子越しにどんな世界を観ているのだろう。


 玄関を開けた途端、門灯に止まっていたカラスと目が合った。門灯が糞だらけになると祖母が嫌がっていた事を思い出し、シッシッとカラスに向かって腕を振り上げる。と、カラスがバサリと黒い翼を広げた。カラスを虐めると後々までシツコク憶えていて仕返しされると聞いた事を思い出し、どきりとして、思わず鞄で顔をガードする。しかしカラスは羽を広げたまま逃げるわけでも襲いかかってくるわけでもなく、感情の無い黒い硝子玉のような眼でジッと鳴海を見つめている。やがて、カァとやけによく響く声で一声鳴くと、鳴海から目を逸らしたカラスが空へ舞い上がった。

 艶やかな黒羽根が朝陽に濡れて燦めく。


 待ち合わせの時間よりも少し早めに駅に着いた。空いているベンチに腰掛け、辺りを見回す。人待ち顔の青年。お喋りに夢中なおばさん達。選挙が近いのだろうか。タスキをかけたスーツ姿の男が何やら演説しているが、マイクの音が割れて、うるさいだけで何を言っているのか全くわからない。爽やかな初夏の風が、斜め前のベンチに座っている少年の艶やかな黒髪を優しく乱した。

 ふと地面を見ると、芋虫に蟻がたかっていた。うねうねと蠢く翡翠色のグミを無数の小さな黒い点達が運び去る。足元で繰り広げられる音の無い攻防はどこか現実離れしていて、遠い世界の無声映画を観ているようだった。

「ナルミ〜」と誰かに名前を呼ばれた。

 何故か一瞬、芋虫に呼ばれたような気がしてどきりとした。我に返って顔を上げると、通りの向こう側で友人達が手を振っている。笑顔で手を振り返しながら、バッグを肩に掛けて立ち上がる。

 そのまま小走りに道を渡りかけた鳴海が、不意に踵を返した。

 ベンチまで駆け戻り、飴玉を吐き出して蟻の群れの中に落とす。そして潰さないようにそっと芋虫を指先でつまみ、花壇に置いてやる。

「……黒いヤツらに見つかる前に、早く逃げな」


 再び友人達へ向かって駆け出した鳴海はもう二度と振り返らない。

 それでいい。

 地面に転がる桜色の飴玉が仄かにひかり、それを見つめる少年の口許を微笑が掠めた。



(END)

煉が『雨蛙』で克也に出逢うのは、この一年後のことです。

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