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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
67/123

黒い薔薇(後編)

グロテスクな描写があります。苦手な方はご注意下さいませ。

     11


 毒を持つ薔薇があるのなら、その薫りはきっと復讐のそれに似て、甘美に、気怠い。湿った夜の空気を澱ませる甘い腐臭に、指先が痺れる。

 静まり返った屋敷のどこかで、床が小さく軋む。闇が微かに乱れ、甘やかな薫りが濃くなった。淡い月明かりに照らされた部屋に眼を凝らす。足音を忍ばせて歩き回る小さな人影が戸棚の陰に何かを隠すのを見て、煉が口の片端を上げた。

 部屋を出て行く寸前、不意に振り返った少女が、煉をひたと見つめた。そして愛らしく首を傾げると、僅かに尖らせた紅い唇に、そっと右手の人差し指を押し当てた。


 少女が消えるのを待ち、立って戸棚の陰を探る。そこには、木製の古いオルゴール箱が隠されていた。手に取ると、カラカラと乾いた音がする。オルゴールの中には、小さな骨の欠片が入っていた。


 闇に沈む部屋で独り、その白い欠片の主に想いを馳せる。


     ✿


 凛太朗が何を考えているのか、全く理解出来ない。

 弟の名前を思い出すだけで込み上げてくる吐き気と鈍い頭痛を堪えつつ、ベッド脇に腰掛け、果物ナイフで丁寧に林檎の皮を剥く。

「頂き物なんだが、蜜が入っていて美味しそうだよ」

 剥いた林檎を綺麗な硝子の器に盛ってみたが、冴子は黙って首を横に振った。

「もう何日も、殆ど何も食べていないじゃないか。腕なんかこんなに細くなって……本当に病気になってしまうよ?」

「……ごめんなさい……」

 俯いてほろほろと涙を零す妹の姿に、そっと溜息をつく。恭太朗ですら、自分が何を食わされたか知った途端、堪えようもなく幾度も嘔吐(えず)いたのだ。冴子が何も口にしたがらないとしても不思議ではない。

「仕方無いね。温めた牛乳くらいなら飲めるかな?」

 小さく頷いた妹の頭を撫でると、清乃に新鮮な牛乳を買ってくるように言いつけ、部屋を出る。

 あれから三日。恭太朗は日夜付き切りで冴子を慰めている。そしてその間、一度として凛太朗の姿を見ていない。弟とは一度腹を割って話し合わなければならないと思うものの、実際に会って顔を見れば、己の胸の内に渦巻く怒りを抑えられるとは思えなかった。そしてそれ以上に恭太朗にとって弟は不気味で、その心が理解出来ず、それが何よりも怖ろしかった。しかし今日こそは弟と話をしなければならない。

「凛は部屋にいるのかな?」

 廊下ですれ違った女中に尋ねると、女中が慌てて頭を下げた。

「はい。しかし凛太朗様はお熱があるようで、御加減が悪く、今日はどなたともお会いしたくないと……」

「どうせ飲み過ぎか仮病だろう」

 忌々しげに言い捨て、止めようとする女中を押しのけるようにして弟の部屋へ向かった。荒々しく扉を開けて一歩部屋に入った途端、薬湯とは異なる一種独特の臭いが鼻を突いた。その匂いに、昔、この部屋で眠っていた母の姿が脳裏を過る。

 それは、重い病に侵された者の匂いだった。

 凛太朗は豪華なベッドの上に半身を起こし、手の中の木箱を見つめていた。緩く巻かれたゼンマイが、ゆっくりと、遠く夢見がちな旋律を奏でる。母の形見のオルゴールを見つめる横顔は、母に似て端正で、そして冴子よりも更に血の気が無かった。硬く鋭い凛太朗という硝子の、微かな風にすら割れて砕けそうなその薄さに虚を突かれ、胸に猛る怒りが萎れるように力を失った。

「……あぁ、兄さん」

 オルゴールが止まると、凛太朗が夢から醒めたような眼差しで恭太朗を振り返った。

「……凛。顔色が酷く悪いな……大丈夫か?」

「兄さんは人が良いね」口許を抑えるようにして、凛太朗がクスクスと笑う。「俺を怒鳴りつけようと思ってわざわざ部屋まで来たんだろう? なのに俺が少し弱っている振りをすれば、すぐに騙される。俺は兄さんの将来が心配だよ」

「……怒鳴られるようなことをしたと言う自覚くらいはあるんだな」

 それには答えず、無言で鈍色の空を見つめていた凛太朗が、やがてうっそりと微笑んだ。

「ねぇ、兄さん……鳥葬って知ってる?」

「鳥葬?」

「チベットの高地で行われる葬儀でさ、魂の抜け出た肉体を天へ還すために、遺体を鳥に喰わせるんだって。なかなか浪漫のある考え方だよね。でもさ、愛する者を地上に残したまま、鳥の一部になって天へ還りたいだなんて本当に思うかな? それよりも、愛する者の血肉となって、愛する者と共に此処に在りたいと思う方が、よほど自然だと思わない?」

「……死んだ雪之丞が冴子の血肉となりたいと願ったと、お前は親切心からそれを叶えてやろうとしたとでも言う気か?」

「俺はこう見えて結構親切だし、犬好きなんだよ」

「……本当か?」恭太朗が眉をひそめた。「お前、子供の頃に犬に咬まれて以来、犬は苦手にしていただろう?」

「ああ、憶えてくれてたんだ。嬉しいな」

 クスクスと笑いながら、凛太朗が腕に薄っすらと残る傷痕を撫でた。

「もちろん嘘だよ。犬の事なんてどうでもいい。死んでくれて清々したよ。あの生臭い臭いも我慢できなかったしね。だけど、愛する者と共にってのは本気だ」

「……話にならないな」

 虚ろな笑い声を上げる凛太朗に呆れて、恭太朗が部屋を出ようと立ち上がった時だった。不意に腕を掴まれ、痛い程の力で引き寄せられた。バランスを崩してベッドの端に手を突いた恭太朗の顔を、凛太朗が近々と覗き込む。

「……兄さん」

 熱に潤んだ硝子玉の瞳に自分が映る。

「もしも俺が死んだら、俺を喰ってくれないか? 俺は兄さんの中で、兄さんの一部となり、兄さんと共に永遠に在りたい――」



     12


 ……眠れない。

 あれは誰だろう。足を引き摺るようにして彷徨う跫音(あしおと)がする。その音は、海の波のように遠のいたかと思えばまたゆっくりと近づき、繰り返し、繰り返し、恭太朗を浅い眠りの波間から引きずり起こす。

 何処かでオルゴールが鳴っている。その遠く幽かな旋律に心の奥が痛み、苛立ち、そして痺れる。


     ✿


「……眠れないの?」

 今宵は空が曇っているのだろうか。闇に沈む窓際の黒いシルエットが、ゆっくりと振り返る。顔が見えなくてもそこに少年がいると知っただけで、頭痛が僅かに和らいだ。

「……君がいるような気がしたから。お茶の相手でもしてくれないか」

 燭台に火を灯すと、温めたティーポットに茶葉を入れ、熱いお湯を注ぐ。ポットに布を被せ、じっくりと蒸らし、香りが広がるように浅いカップに注ぐ。

「ミルクは多目でいいかな?」

 人肌程度に温めたミルクを入れて、蜂蜜を垂らす。

「凛には子供っぽいと言われるんだが、甘い紅茶が好きなんだ。疲れが取れるような気がしてね」

「いいじゃんいいじゃん、俺も甘いのが好き」

「君はまだ子供だから」

 ずずず、と音を立てて甘い紅茶を啜っていた煉が上目遣いに恭太朗を見てにやりと笑った。

「子供か。あんたはどんな子供だったの?」

「どんなって……普通だよ。どちらかと言えば恵まれた環境で、特に不自由もなく育ったよ」



 十五で母を亡くし、その三年後に父を亡くした。十八で家督を継いだ自分は、独りで立つことへの不安に眠れぬ夜を過ごす程度には子供で、しかし人前では落ち着いた笑みを浮かべてみせる程度には大人だった。

 けれども弟は違う。まだ母親が恋しい歳でその温もりを喪い、父を恨み、許さず、そして母の死後一度も口を利かぬまま、その父をも失った。しかし弟の持つ鋭さは育ちによるものではないと恭太朗は思う。あの透明な硝子のような冷たさは、あれは生来のものであろう。

「鳥葬」と熱に潤んだ瞳で語る弟を思い出す。凛太朗は、それが己の意に叶うものであれば、鳥に己の肉を喰わすことさえ厭わないであろう。凛太朗の中にはそんな狂った烈しさがある。しかし同時に、硝子のような脆さと危うさがあることも確かなのだ。

 母の葬儀の日、降り頻る雨にしっとりと髪を濡らして恭太朗の背後に佇む弟は、残された兄弟を哀れむ人々を前に、蒼白に凍りついたような顔で大きく目を見開き、一滴の涙も零しはしなかった。けれどもそれは凛太朗の全てではない。葬儀からの帰り、暗い夜道で恭太朗の上着を掴んで離さなかった弟の小さな手を想う。



 煉が淡く光の透けるようなカップをチンと指先で弾いた。その澄んだ音に我に返る。

「綺麗なカップだね」

「あぁ……英国製のボーンチャイナだよ。牛の骨灰を混ぜて焼くことで、白くて薄い磁器を作ることが出来るらしい」

「へええ、骨かぁ。それって、薔薇の肥料にも良さそうだね」

「……え?」

「骨にはリン酸が多く含まれてるからね。綺麗な花が咲くんじゃない? でも焼いて灰にした骨ならいいけど、死体をそのまま埋めたりするのはやっぱダメだよね。チッ素が多過ぎてさ、ウドン粉病になりそうじゃん」

 きゃははは、と愉しげに笑う少年が、不意に酷く不気味に思えた。


     ✿


 夜な夜な、静まり返った屋敷に響く、オルゴールの音色。

 亡き母の愛した、遠い旋律。

 決して届くことの無い夢想を奏でるその旋律に、頭の芯が痺れる。


     ✿


 窓辺に座った煉が、木箱のゼンマイを丁寧に巻く。そっと蓋を開けると、白い骨の欠片を震わせるように、澄んだ旋律が流れ出す。

「トロイメライ……俺は好きなんだけどね」

 視線を感じて顔を上げると、月明かりの中に少女が立っていた。

 長い間無言で煉を見つめていた少女が、やがて透けるように白い腕を上げ、煉の手の中のオルゴールを指差した。

「それ……触っちゃいけないのよ」

「どうして?」

「どうしても」

「君はこれに触ったの?」

「知らないわ」

「本当に?」

「わたしは何も知らない……」

 煉がふと眉をひそめ、少女の腕に顔を近づけた。

「ねぇ、その腕の傷、どうしたの?」

「なんでもないわ。薔薇の棘で刺しただけよ」

「……それ、ちゃんと洗っといたほうがいいよ。出来たら傷口を切開してさ」

「煉くんったら、心配性ね」

 少女が口に手を当て、くすくすと笑った。

「まるで恭兄さまみたい」

 雲が流れ、月の光が翳り、闇が濃くなる。月が戻った時には、すでに少女の姿は無かった。煉が漏らした小さな溜息が、闇に溶ける。再びゼンマイを巻き、オルゴールの音色を闇に流す。

 ギィ、と床板を鳴らす重い足音に、煉の口許を幽かな笑みが掠めた。


「……いらっしゃい。待ってたよ」



     13


 カーテンの隙間から射し込む朝陽に目覚め、枕から頭を上げた途端に眩暈がした。昨夜は夢を見た記憶もないが、やはり疲れが溜まっているのだろう。頭の芯が鈍く痺れている。しかし病気でもないのにぐずぐずといつまでも寝床にいるのは恭太朗の好みではない。溜息と共にゆっくりとベッドから起き出し、庭に出た。

 水を使う音がする。何気無くそちらへ向かって歩いていくと、井戸端で煉が服を着たまま頭から水を被っていた。

「煉君……?!」

 全身からびっしょりと水を滴らせている少年に驚いて駆け寄る。

「あ、オハヨ〜」

「おはようって……どうしたんだそれは?!」

 少年の服が所々鞭で殴られたかのように破れ、血に染まっていることに気付き、恭太朗が蒼ざめて声を高めた。

「どうもしないよ」

 平然と肩を竦める少年の腕を掴み、その身体を調べる。少年には痣どころか擦り傷一つなかった。

「言ったでしょ、どうもしないって」

「……あいつか?」幾ら抑えようとしても、怒りと恐怖に声が震える。「あいつにやられたのか?」

「あいつって?」

「……言っただろう。君はここに居てはいけない。これ以上何かが起こる前に、君はここを出て行くんだ」

 艶やかな黒髪からポタポタと透明な雫を滴らせて、煉が微笑んだ。

「心配してくれるのは嬉しいけど、コレは俺の仕事だから」

「……仕事?」

「そう、俺は必要があってここにいる」

 不意に、大きく黒々と濡れた瞳が恭太朗の眼を覗き込んだ。

「あんたは? あんたは、なんでここにいるの?」


     ✿


 朝食後、日当たりの良い居間で新聞を読んでいると、冴子が扉の陰から顔を覗かせた。

「お姫様、今日の御機嫌はいかがですか?」

 恭太朗が笑いながら尋ねると、冴子は頬を赤らめて部屋に入って来た。

「大分顔色が良くなってきたね」

 人形のように美しい妹が近づくと、辺りに甘い香りが漂う。

「あのね、薔薇が咲いたの」

 冴子がおずおずと薔薇の花束を差し出した。庭から摘んできたばかりなのであろう。朝露に濡れた純白の花弁が華やかに燦めく。

「綺麗に咲いたね。香りもとてもいいね」

「白い薔薇は一番強くていい匂いがするんですって。じいやが言ってたわ。あのね、それでね……」

 僅かに口籠り、冴子が上目遣いに恭太朗を見た。

「これ……雪之丞のところの薔薇なの。ここに飾ってもいい?」

「勿論だよ」

 愛犬を埋めた花壇に咲いた花は、まるで彼の生まれ変わりのように、白く、美しい。雪之丞を失った悲しみと、それに続く凛太朗の仕打ちをようやく乗り越えたらしい妹の姿に、恭太朗が安堵の溜息をついた。

 青い陶器の花瓶に白い薔薇を活ける冴子を眺めていると、扉が開いて、凛太朗が入って来た。

「兄さん、ちょっといいかな。大事な話があるんだ」

 疲れた顔の弟が、伸びた髪を邪魔臭そうに掻き上げながら恭太朗の隣に座る。

「凛……相変わらず酷い顔色だな。医者は何と言ってるんだ?」

「ああ、そのことなんだけど……」

 不意に凛太朗が顔を上げると、そそくさと部屋を出ようとしていた冴子に剣呑な眼差しを向けた。

「……おい、その花を片付けろ」

 凛太朗の低く吐き捨てるような声に、冴子がびくりとして立ち止まった。

「聞こえなかったのか。その花を捨てろと言ったんだ」

「凛……」

「その匂い、苛々して吐き気がするんだよッ!」

 弟をたしなめようとした恭太朗の腕を振り解き、激昂した凛太朗が花瓶をなぎ倒した。テーブルから落ちた花瓶が粉々に砕け散るのを見て、冴子が声にならない悲鳴を上げて部屋を飛び出した。

 荒い息を吐いていた凛太朗が、やがて目頭を押さえ、ぐったりと椅子に腰掛けた。

「兄さん、あのさ、俺……」

「凛」

 弟の眼を真っ直ぐに見つめ、恭太朗が静かに口を開いた。

「出て行け」

「兄さん……」

「二度言わせるな。明日の朝までに荷物をまとめろ」

 何か言いかけた弟の唇が微かに震えるのを見ても、何も感じなかった。

 己の心はこの白い薔薇のように無惨に散ったわけでも、陶器のように砕けたわけでもない。冷え切った胸の内には、散るモノも砕けるモノも残されてはいない。

「……お前の顔は二度と見たくない」


 身じろぎひとつせずに自分を見つめる硝子玉の瞳には、何も映ってはいなかった。



     14


「……煉君」

 真夜中、疲れ切った足を引き摺るようにして恭太朗が居間に現れた。

「今日、弟と縁を切る決心をしたよ。これでも遅過ぎたくらいだが……でもこれであいつが君を傷つける心配も無い」

「俺に心配されるような傷なんてあったっけ?」

「隠さなくてもいい。君はもしかしたらあいつを庇っているつもりかも知れないが……」

「あいつって?」

「凛だよ。君は血に汚れた服を洗っていたが……あいつにやられたんだろう?」

「ねぇ、ずっと聞きたかったんだけど」

 煉が不意に身を乗り出すと、恭太朗の眼を近々と覗き込んだ。

「凛って、誰?」

「……え? 凛……凛太朗は俺の弟で、そこに飾ってある写真の手前に写っている……」

「うん、それはわかってる。でもね、俺がこの家で会ったのは、あんたと冴子ちゃんだけだよ。凛太朗ってヒトは、ここにはいない」

 少年が何を言わんとしているのか、理解出来なかった。

 僅かに首を傾げてじっと自分を見つめる少年の眼は夜の闇よりも深く、底の無い淵に引きずり込まれるような不安が胸に湧く。


「ねぇ、思い出して」

 煉の手の中で、オルゴールが優しい旋律を奏でる。その音に、目の奥が痛み、頭の芯が痺れる。


「あんたの弟はどこにいるの?」

 誰かが家を徘徊している。何処からともなく響いてくる、片足を引き摺るような跫音(あしおと)に背筋が凍える。あの跫音は、俺を探している。アレは俺を探し求め、永遠に闇を彷徨う。


「あんたの弟は、何をしたの?」

 溺死した犬のように首に結ばれた縄。縛られて出来た手首の痣。白い躰を赤い蛇のように這う打擲の痕。身を覆う布の一枚すら与えられず、納屋の隅で震えていた小さな背中。家畜のように、白い胸に押された焼鏝の跡。焼き熔けた皮膚。赤く爛れた緋文字――


「一体何が、あんたをそこまで怒らせたの?」

 ごめんなさい、と少女が呟いた。全身に受けた傷による熱に魘されながら、唯ひたすらに、少女は謝り続けた。

 邪魔ばかりして、ごめんなさい。

 役立たずで、ごめんなさい。

 生まれてきて、ごめんなさい――


「あんたは弟を、何処にやったの?」

 陽の差さない暗く冷たい地下室。澱んだ空気がねっとりと躰に纏わりつき、皮膚を侵し、魂の奥底まで染み込んでくる。それが恐ろしく、餌を運ぶ事を躊躇い、幾日も過ぎた。飢えた獣の咆哮は十日もすると弱々しく、幽かになり、やがて何も聞こえなくなった。


「あんたは弟に、何をしたの?」

 鼻を突く異臭。幽かなオルゴールの音色に混じる、ずるずると何かを啜る不快な音。蠟燭の揺れる灯が映し出したモノは、背中を丸め、鼠の生き血を啜る獣の真っ赤に濡れた口許――



「……薔薇が……」恭太朗がゆっくりと顔を上げた。「……黒い薔薇が咲く」

「薔薇は咲かないよ」

「お前に……」血走った目が煉を睨む。「お前に何がわかるッ?!」

 獣じみた咆哮と共に暖炉の火かき棒を掴むと、恭太朗が煉に襲いかかった。振り下ろされる鉄の棒を軽く横に跳んで避けた煉が、バランスを崩して前のめりになった恭太朗の首を掴んだ。

 掴まれた首が熱い。その焼け爛れるような痛みに心が割れて砕け、抑えようもなく汚泥のような記憶が溢れ出る。



 鼻を突く饐えた糞尿の臭いと、ねっとりと濃く甘い腐臭。俯せに倒れた骸から染み出し、石造りの床を濡らす得体の知れない黒い液体。

 己の仕出かしたことの(おぞ)ましさに恐れ慄き、堪えようもなく幾度も嘔吐(えず)きつつ、その崩れかけた屍に一歩近づいた時だった。白く濁った眼玉がきょろりと動き、自分を見つめた気がした。

 床石を掘って逃げようとでもしたのか。それとも苦しみの余り、壁を掻き毟ったのだろうか。無惨に生爪が剥がれ、爛れ、白い骨の見え始めた指先がぴくりと動き、次の瞬間、凄まじい力で恭太朗の足首を掴んだ。

 声にならない悲鳴を上げ、逃げようと必死に足掻いた。しかし死者の力……いや、生きながら腐り、死にゆく生者の最期の力は凄まじく、死の淵から伸ばされた腕は、己諸共に恭太朗をその暗い闇に引き摺り込もうとする。

 凛太朗が、以前は凛太朗であったモノが、苦しげに眉根を顰め、何か言いたげに口を開いた。そんな有様でありながらも、その表情はどこか驚くほど端正な影を残し、そして死にゆく母に酷似していた。しかし歯が抜け落ちた洞のような口の中で妙にぬらぬらと白く光る舌が蠢くのを見た瞬間、身の毛がよだつような恐怖に囚われた。渾身の力を込めて振り回した爪先が、半開きの口を捉えた。砕けた顎から、舌に(たか)る無数の米粒のような白い蛆が飛び散った。

 蹴られ、仰向けに転がった躰はびくりびくりと痙攣し、そして二度と動かなくなった。


 死者の手に掴まれた足首にはくっきりと赤紫の痣が残り、幾度洗おうと、その腐臭が消えることは無い。


 ……足が重い。死という鉛の足枷に囚われ、その日から、恭太朗は片足を引き摺って歩くようになった。

 重い足を引き摺り、ひたすらに彷徨う。

 失くしたモノを求めて、それが何かも解らぬまま、唯ひたすらに、彷徨い続ける。

 足が痛い。

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 痛むのは、足か、心か。

 砕け散った硝子の欠片を悼むように床に倒れ伏し、咽び泣いた。



「DIDって知ってる? 解離性同一症……ヒトは時として、耐えられないくらい辛い記憶や感情を己の内から切り離す。そして極稀に、切り離された記憶を持つ部分が別人格として成長してしまうことがある」

 狂ったように泣き続ける恭太朗を前に、煉が疲れた顔で髪を掻き上げた。

「あんた、DIDだよ。オルゴールは人格が入れ替わる為のトリガー」

 煉の手の中のオルゴールが、音も無く燃え上がる。

「あんたの弟は、地下牢で狂い死んだ。そしてあんたは、弟の骸を庭の薔薇の下に埋めた。妹を守る為とは言え、実の弟を手に掛けたあんたは、その悍ましい記憶に耐えられず、結局それを自分の中から切り離すしかなかったんだ。だけど切り捨てたはずの記憶はあんたの中で育ち、やがて『弟』として表に現れるようになった」

「……凛は、冴子を殺しはしなかった。だが俺は、凛を殺した」

「あんたが手を下さなくても、遅かれ早かれ、あんたの弟は死ぬ運命にあった」

 煉がテーブルに置かれていた数枚の紙を手に取り、ひらひらと振った。

「医師の診断書だよ。手の施しようがないくらい全身に広がった悪性腫瘍。これじゃあ、どう足掻いたって保って数ヶ月ってとこじゃないの」

「腫瘍……?」

「あんたの弟は冴子ちゃんを殺さなかったわけじゃない。殺せなかったんだよ。大のオトコが手加減無しで殴っても、少女一人殺せないくらい躰が弱ってたんだ」

 思い返せば、凛太朗に家を出て行くように言ったあの日、弟は何か言おうとしていた。隠しようもない病いの臭いを全身に纏い、土気色の顔で、大事な話があると言った。

「……白い薔薇」

「え?」

「……凛は、あの日、白い薔薇は匂いがきつくて吐き気がすると言ったんだ。まさか、癌を患っていたせいで……」

「よく知らないけど、脳腫瘍で匂いが分からなくなることはあっても、匂いに敏感なるってのはあんまり聞いたことないな。抗癌剤の副作用ではよくある話だけど、あの時代に(・・・・・)あんたの弟が抗癌剤治療を受けてたとは思えない。鬱やストレスでも匂いに過敏になったりするから、多分そっちだろうね」

「鬱か……」

 鬱は高尚な病なのだと笑っていた弟を思い出す。

「……あいつは、凛は狂っていたんだ」

「うん、そうだろうね」煉がつまらなそうに肩を竦めた。「たとえ殺すまでには至らなかったとしても、抵抗出来ない少女を顔貌(かおかたち)が変わるほど殴って虐待するとか、まともな精神の持ち主には無理だからね。でも残念ながらいるんだよ、世の中にはさ。生まれつきちょっと壊れてるニンゲンってのが」

「違う……凛を狂わせたのは俺なんだ」


 弟は愛に飢えていた。


「……恭太朗さん……」

 臨終の間際、掠れた声で母は俺を呼び、縋りつくような眼差しを俺に向けた。

「……きょう……たろう……おねが……い……」

 消えゆく母の最期の願いを聞くために、差し伸べられたその細い指先を握り、腐ったような病いの匂い漂う口許に耳を寄せた。けれども、母は結局何も言い残すことが出来ぬまま、俺の手を握ったままに息絶えた。

 凛太朗は幼い頃から感受性が鋭く、その心は精巧な硝子細工のように美しく、透明で、繊細だった。砕けた硝子の破片は己のみならず、それに触れる全ての者を傷つける。母は凛太朗の内に見え隠れする儚い美しさを愛し、同時にその脆さを危ぶんだ。

 母は、俺に弟を、凛太朗を頼むと伝えたかったのだろう。けれども幼い弟にとって、その姿はあたかも自分を一度も省みること無く、兄の名だけを呼んで逝ったように見えたに違いない。

 凛は俺を憎み、同時に狂おしいほど俺に執着した。俺の関心が他に向くことを、傷ついた弟は決して許そうとはしなかった。俺はそれを知っていて、それでも冴子を家に迎え入れた。人形のように美しい妹を、誰かにやるのが惜しくて。己の手許で愛でたくて。

 芸術品の域に達する美貌を目の当たりにする時、羨望にしろ、嫉妬にしろ、人は誰もその美しさに無関心ではいられない。此の世のものとは思えぬ程の美貌に狂ったのは、己だったのかも知れない。



「勘違いしないで欲しいんだけど、別に誰もあんたの事を責めてるわけじゃないから」

 呆れたように煉が首を振る。

「あんたは自分自身を責め過ぎた。もうそろそろ自分を赦し、自由になってもいい頃だと思うよ。言ったでしょ。凛の世界観なんて、あんたに解るわけはなかったんだ。あんたは凛じゃないんだからさ。だから、あんたが責任を感じることなんて、最初からひとつもありはしないんだ」

「……それは違う」

 恭太朗が静かに首を横に振った。

「煉君。初めて出会った時、君は俺に聞いたね。弟と妹ではどちらが可愛いか。俺はどちらもと答えた。比べることも、選ぶことも出来ないと。なのに俺は選んだ」

 悔恨の涙が頬を濡らす。けれどもどれほどの涙も、己の犯した罪を洗い流しはしない。

「選ぶべきではなかった。選んではならなかった。俺には兄として二人を同等に愛する責任があったんだ」

「何かを同等に愛するなんて、普通のニンゲンには無理だよ。特にあんたの弟妹みたいに一癖も二癖もあるような奴らを相手にするには、あんたは優しすぎたんだ」

 ……優しいのは自分ではない。無愛想を装い、少し怒ったような口調で口を尖らせ、しかし憂いと哀しみを含んだ眼差しで月を見上げる少年の姿に、恭太朗が微笑んだ。

「……煉君。君はこんなところに居てはいけないよ。この家には化け物が棲んでいるのだから」

 悲しげに自分を見つめる少年の艶やかな黒髪に触れる。

「あぁ、違う。化け物は、俺の中に棲んでいるんだ。俺が……俺こそが化け物だったんだ……」

 点が繋がり線になる。歪な線が描くモノは、闇に蠢く己の姿だった。


 立って机の引き出しを開ける。月明かりに黒光りする銃身に安堵の溜息をつく。そう、あの日も、朧月の美しい、静かな夜だった。あの日、終わりという救いを求めて、俺はこれを使った。

 撃鉄を上げ、こめかみに銃口を当てる。ひんやりと冷たく重い鉄の感触に、疼くような頭痛が僅かに和らぐ。

 この永劫に続く痛みに終焉を求めるのは、それは罪なのであろうか。

 罪に、罪を重ね、今、その答えが出る。


「俺には誰かの罪を咎めたり、それを赦したりする力はない。だけど、あんたのことを忘れないことだけは出来る」

 引き金に指を掛けた恭太朗を真っ直ぐに見つめたまま、煉が静かに呟いた。

「ねぇ、知ってる? 永遠の長さは、それを誓う者の命の長さで決まるんだ。だから、俺は、俺に与えられた永遠の内に、きっと幾度もあんたのことを想う」

「……どうして?」

「あんたの淹れてくれたミルクティーが、美味しかったから」

 深い淵のように静かな眼に映る、硝子のように透明で、優しい瞳が僅かに揺らいだ。

 一発の銃声が闇に響き、闇に消えた。

 全てが終り、後には一点の血痕も残らなかった。


「……さようなら」


 煉が静かに溜息した。


 祈りも願いも届かない暗闇の中で、俺は唯、そこに眠る命を、その救いの無い苦しみと哀しみを、そしてその優しさを想い続ける――


       ✿


 不意に闇が濃く甘く薫った。

 振り向くと、恭太朗の消えた闇の中に、蒼ざめた少女が立ち竦んでいた。

「……煉くん、嫌いよ」

 血が滲むほど強く唇を噛みしめ、冴子が煉を睨む。

「恭兄さまを傷つける人は、みんな大嫌いよ」

「ヒトの世の都合でさ、夜な夜な不気味な悲鳴の響く幽霊屋敷を放っておくわけにもいかなかったんだよ」

「わたし達、とても幸せだったのに、あなたのせいで台無しだわ」

「幸せ? こんな風に、自分がとうの昔に死んでいることにすら気付かないまま、苦しみ続ける彼を放っておくことが? 死んでからも彼に虐待され続け、永劫の痛みと憎しみの記憶を繰り返し続けることが?」

「違うわ。憎しみの記憶なんかじゃない。わたしは恭兄さまが大好きだった。恭兄さまは、わたしを愛し、人間として扱っててくれた、この世で唯ひとりの方だった」

「……そうだね。でもだからこそ、君は彼を自由にしてあげるべきじゃないの?」

「わかったような口を利かないで。何をするべきかなんて、あなたなんかに言われる筋合いはないわ!」

 不意に煉が冴子の腕を掴むと壁に押し付け、その肩をはだけた。

「ねぇ、その火傷……それさ、痛かった?」

 鎖骨の下に赤く盛り上がる醜い疵を指差すと、煉が口の端を釣り上げるようにして嗤った。

「痛みや一生モノの疵よりも、ライバルを巧く嵌めた喜びの方が大きかった?」

 逃れようともがく少女の腕を益々きつく掴み、その眼を近々と覗き込む。

「君の綺麗な顔はまるで人形みたいだと皆に称賛されたらしいけど、君は人形なんかじゃない……人形にしては、君はあまりに生々しい」

 冴子が煉の顔に唾を吐きかけた。

「君さ、生まれる時と場所を間違ったよね。場合によってはアカデミー主演女優賞も夢じゃなかったのに」

 冴子の腕を離すと、煉が笑いながら袖で顔を拭いた。

「ところでさ、君が指一本動かさなくても、凛太朗は家を追い出されて数ヶ月後には病死する筈だったって、知ってた? あぁ、でもそれじゃあダメか。たとえ縁を切って家から追い出したとしても、弟が若くして病死なんかしたら、後味が悪すぎて、優しい恭兄さんが泣くからね。憎らしいライバルには永遠に悪役でいて貰わないと」

 憎々しげに自分を睨む冴子に向かって、煉が小馬鹿にしたように肩を竦める。

「残念だったね。憎い相手を陥れるために、オルゴールを隠し、わざと奴を怒らせ、更に自らそんな疵まで作ったのにさ。君が奸計を巡らせて此の世から消した凛太朗は、死ぬことによって君の大切な恭兄さんの心を完全に捉えた。優しい兄さんの心をふたつに裂いて、その闇に棲みついたんだ」

「……だからなに?」美しい顔を歪ませ、冴子がせせら嗤った。「わからない? 恭兄さまにはわたしが必要なの。恭兄さまが恭兄さまである時も、凛兄さまになった時も、わたしが必要なのよ。わたしは役立たずじゃない。役立たずだなんて、誰にも言わせない。誰にも邪魔なんてさせない。誰にも私の居場所を奪わせはしない」

「……もうすぐ夜が明ける」

「わたしを祓いに来たなら、屋敷ごと焼けば良かったじゃない」

「うん、そうだけど……でも俺の炎は、君たちを無に還すことは出来ても、自由にしてあげることは出来ないから。だから、君の恭兄さんの霊を先に解放するしかなかったんだ。彼がいなくなれば、君を此の世に縛るものも無くなり、君も夜明けの光と共に自由になる」

「本当に何もわかっていないのね、煉くん。言ったでしょう、わたし達はこれ以上ないほどに幸せだった。これ以上は何も望んではいなかった。自由なんて欲しくはなかった」

 黒い薔薇に囚われた者の恍惚は、囚われた者にしかわからない。

「……黒い薔薇の花言葉は恨み、憎しみ、束縛」

「違うわ。黒い薔薇の花言葉は、永遠に滅びることのない愛――」


 朝陽の煌めきに、薄らぎ、消えゆく少女の影を見つめ、煉が悲しげに微笑んだ。



    エピローグ



「もしもし、じーさん? 俺だけど」

 今日は久し振りに晴れそうだ。埃臭い屋敷から逃れるように庭へ出た煉が、澄んだ空気を胸一杯に吸い込みつつ、携帯電話を耳に当てる。

「終わったからさ、金はいつものところに置いといて。暇をみて取りに行くから。うん、うん……ってかさ、あんた俺に頼り過ぎだよ。ナニ考えてんのか知らないけど、俺だってこう見えてヒマじゃないんだからさ、メンドー事持ち込むのもほどほどにしてくんない? 言っとくけど、歴代の僧正の中でもこんなに引っ切り無しなのってあんただけだよ? プライドとか無いわけ? え? ケータイ持っとけって、やだよ、そんなの。いつどこにいるか分からないってのが、俺のチャームポイントなんだからさ」

 顔をしかめて通話を切った煉が、「バーカ」と呟きつつ、手の中のスマホを一瞬にして灰にした。茫々と生い茂る藪の隙間から、ひょっこりと顔を出した狐が煉の肩に駆け上がる。

「終わったか?」

「うん」

「この屋敷はどうなるんだ?」

「売りに出すらしいよ。大正ロマン溢れる希少な建築物だからね。欲しいってヒトが結構いるんだってさ」

「ふん、酔狂なことだな。俺ならこんな薄気味悪い家、灰も残さずお前に焼かせるがな」

「……家じゃない」

 手に残る灰を、ふっと吹き散らしつつ、煉が呟いた。

「気味が悪いのは家じゃないさ」

「……そうだな」

 いつの世でも、最も(いびつ)(おぞ)ましいものはヒトの闇、闇を生じる心、それを宿すヒト――

「俺さ、本当は少し、あの子の気持ちがわかるんだ。それがどんなに歪んだ形であったとしても、愛するヒトの魂を手に入れて、あの子は幸せだったんだよ。いや、愛するヒトの魂ってのは正確じゃないかもね。あの子が欲しかったモノは、自分を無条件に愛してくれるヒトだけが与えてくれる、絶対的な自分の『居場所』だったから……」

 ……俺も欲しい。

 心地良い夢想を破ることなく、安らぎと共に眠りにつける場所。たとえ悪夢に目を醒ましても、大丈夫だよと慰めてくれる誰かの温もり。俺が、俺であることを赦してくれる、俺だけの――

 疲れ切った溜息と共に、煉が蒼い空を見上げた。

(うと)ましいね。ヒトってさ、本当に疎ましい」


「あら」

 人声に振り返ると、門の隙間から中を覗き込む中年の婦人と目が合った。

「ごめんなさい、ここで人を見たのは初めてだったから、少し驚いてしまって……このお家に何か御用だったのかしら?」

「うん、まあね」

「でも、この家は空き家だったでしょう? 連絡先は御存知?」

「まぁ、もう用事は済んだから」

「あら、そうなの?」

 不思議そうに首を傾げると、優しげな一重の目を細め、婦人が微笑んだ。

「亡くなった祖母が、大昔にここで働いていたんですよ」

「ふうん……」

「祖母は亡くなる寸前までこのお屋敷のことをとても気に掛けていて……詳しいことは何も話してはくれなかったのだけれど、ただ、『あそこに囚われている人の想いが可哀相だ』といつも言っていて。何のことかは分からないのだけれど、でも私も気になって、時々見に来るんですよ。と言っても、門の隙間から覗いてみるだけだけど」

「この家には冴子ちゃんって女の子がいたらしいんだけど、知ってる?」

「ああ、冴子さんの事だけは少し聞いたことがあるわ。とても綺麗なお嬢様だったって……でも、お兄様に差し上げようと育てていらした薔薇の棘に手を刺されて、本当に小さな傷だったのに、タチの悪い病いに罹られて……」

「身体が腐ったようになって亡くなった?」

「え? ええ、そうなの」

 少女の腕に見た、小さな青い点のような傷を思い出す。

「スポロトリクム症か……」

「え? すぽろ……?」

「薔薇には毒はない。でも棘に刺されると、カビの一種に感染することがあるんだ。普通は皮膚のリンパ節が腫れて潰瘍が出来る程度なんだけど、ごく稀に、骨や内臓、脳に広がることがあるんだ。今の時代は良い薬があるから大丈夫だけどね……あの子、本当に生まれてくる時代を間違えたよ」

「え?」

「なんでもない。こっちのこと」

 煉が肩を竦め、門の外へ出ようとした時だった。

「このお庭には、薔薇が咲くんですよ」

 婦人が庭を指差した。

「不思議でしょう。手入れをする者もいないのに、薔薇だけは季節がくると、ほら、あんなに綺麗に――」

 早朝の爽やかな風に少女の笑い声を聴いた気がした。思わず足を止め、婦人の指差す先を見る。荒れ果て、誰もいない庭に、露に濡れた一輪の蕾があった。燦めく朝陽に、ゆるゆると、(ほど)けるように花弁が開く。


 薔薇が咲く。


 此の世の全てを嘲笑うかのように、少女の幸せの色に花弁を染めて、漆黒の薔薇が――



(END)

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