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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
65/123

黒い薔薇(前編)

塵灰に砕け果てなばさてもあらで よみがへらする言の葉ぞ憂き(西行)

挿絵(By みてみん)


    プロローグ


 汚れた窓硝子を指先で拭き、空を見上げる。

 暗くもなく、明るくもなく、ぼんやりと鈍色に光る花曇りの空を見て、煉がふっと溜息を漏らした。窓枠に積った埃が雪のように舞う。

「うわ、最悪」

 さも嫌そうに顔をしかめ、窓際を離れて椅子に腰掛ける。こう見えて、煉は案外綺麗好きなのだ。山の泥にまみれるのは気にならないが、家の埃は好まない。埃というモノは実に遣り切れない。秘め事、恨み、裏切り、苛立ち、鬱屈……口にされることの無い数々の想いが、そこに棲む者の溜息と共に眼に見えない埃となり、音も無く降り積もり、息を詰まらせる。

 気分を落ち付けようと、目を瞑り、辺りの物音に耳を澄ます。

 何処からか、微かなオルゴールの()が響く。

「トロイメライか……」

 遠く優しい旋律を口遊(くちずさ)み、夢想に耽る。

 キィ、と床が軋む音がして、吐息のように生ぬるく湿った風が首筋を撫でた。

「……この家は幽霊が出るんだぜ」と誰かが囁く。


 硝子が砕ける音と咽び泣くような嗤い声が、夢想を破った。



     1


 厭な予感はあったのだ。

 一回り以上も歳の離れた幼い妹が、透きとおるように白い頬をより一層蒼白にしてその言葉を口にした時から、厭な予感はあった。

「恭兄さま……雪之丞がいないの」

 読んでいた書類から顔を上げた恭太朗は、書斎の扉の陰で不安気に揺れる鳶色の瞳を見つめた。

「あの、ごめんなさい……でも、朝からずっと姿が見えなくて……」

「今日はいい天気だったからね、外に遊びに行っているだけじゃないのかな?」

 妹を怯えさせぬように何気無い口調を装いつつ、書類を机の引き出しに仕舞う。窓から見上げた空はすでに陽が沈み始めている。その燃え立つような茜色に、胸の奥が不吉にざわめいた。

「門は閉まっていたし、それに雪之丞はひとりで外に出たりしないわ」

 ……わかっている。賢く忠実な犬は、彼の大切な姫君を置いて勝手に外に出たりはしない。彼が敵と思う人間が屋敷にいるなら尚更だ。

「そうだね。一緒に探しに行こうか」と言って、恭太朗が立ち上がった。すらりと上背のある恭太朗を、幼い妹が申し訳無さそうに、しかし目に微かな安堵の色を浮かべて見上げた。

「お仕事の邪魔をして、ごめんなさい……」

「大丈夫だよ。それに雪之丞は賢いからね。迷子になったりはしない。心配しなくても、きっとすぐに見つかるよ」

 緩くウェーブのかかった長い髪を撫で、ほつれた後れ毛を白く薄い貝のような耳にかけてやる。

「ごめんなさい……」

 それが口癖のように小さな声で幾度も謝る妹に、「大丈夫だよ」と再び言って、恭太朗が優しく微笑んだ。


     ✿


 腹違いの妹の存在を知ったのは、父が他界して五年も経ってからだった。女中に手を付けたと聞いて、放蕩者の父らしいと思ったが、その女中が誰であったかまでは思い出せなかった。

 没落の翳りが兆しているは言え、華族の末席に名を連ねる家には行儀見習いなどに来る娘も多く、人の出入りはそこそこに激しい。十年以上前に数ヶ月ほど働いていた女中など、その頃はまだ子供だった恭太朗が憶えているわけもなかった。しかし思い返せば、それは元々良いとは言えなかった父母の仲が急速に冷え込んだ時期と重なり、遅れ馳せながら改めて亡き母の心痛の一因を知った気がした。

「……お父上は手切れ金として相応な物をお渡しになられましたし、別れた後は無論、向こうからの音沙汰も無かったのですが」

 父の代から世話になっている弁護士は、眉間に深い皺を刻み、話の途中で幾度も咳払いした。櫛の跡も鮮やかにきっちりと撫でつけられた白髪が、開け放たれた窓から吹く風に僅かに乱れる。父が死んだ時ですら眉ひとつ動かさなかったこの人が、こんなに落ち着かない様子を見せるのは初めてではないかと不思議に思い、彼の話に今ひとつ集中できなかった。そもそも自分に妹がいるという話は余りに現実味が無い。恭太朗が嘆息しつつ眉間を揉んだ。

「幾つですか?」

「……は?」

「その妹と言うのは、歳は幾つくらいなのですか?」

「確か、数えで十歳ほどになるかと……」

 十歳と言えば、母が亡くなった時の弟と同じ歳と言うわけか。潔癖な弟の硬く透明な硝子に似た横顔を思い浮かべ、恭太朗が僅かに考え込んだ。

「……三年程前に母親が他界したそうなのですが、その後は遠縁の家を転々としていたらしく、行方が分からなくなっていたのですが……先日、偶然にも孤児院で見つけまして……」

 弁護士の咳払いで我に返った恭太朗は、軽く溜息をつくと掛けていた椅子から立ち上がった。

「解りました」

「……は?」

「母親が違うとは言え、父の血を引く子供を孤児院などに置いておくわけにはいかないでしょう。取り敢えず機会をみて一度会いたいので、近いうちに連れて来て頂けますか?」

 ホッとした様子で恭太朗に頭を下げた弁護士が浮かべた微笑は、決して老獪な弁護士のものではなく、厄介で余計な些事を持ち込んだことを咎められなかった安堵と、身寄りの無い少女を想う老人の優しさが漂っていた。

 会うと言ってもこの家に引き取るつもりなど毛頭無い。精々良い育て親になってくれそうな遠縁を探す程度だろう。けれども、冷徹と沈着が仮面を被って歩いているような男にこんな顔をさせる少女に、ふと興味が湧いた。



     2


 ……誰かが近づいてくる。

 廊下に敷き詰められた分厚い絨毯の下で、古い床が幽かに軋む。目を瞑り、その足音を数える。残り三歩、二歩、一歩……書斎の扉が重たい音と共に開いた。

 部屋に入ってきた人物が驚いて息を呑む気配に、煉がゆっくりと目を開けた。

「な……! 君は誰だ?! ここで一体何をしているんだい?!」

「俺は煉。ただいま夢想中」

「夢想中って……」

 ビロード張りの椅子にゆったりと腰掛け、艶やかなオークの机に堂々と足を乗せている奇妙な闖入者の姿に、恭太朗は言葉も無く、唯々呆れたように首を振った。

「あんたは?」

「え?」

「あんたはここで何してんの?」

「何って……ここは僕の家だよ」

「ふうん」

 少年が僅かに首を傾げると、探るような眼差しで恭太朗の目を覗き込んだ。黒々と深い少年の瞳に見つめられた途端、不意に眩暈がして、一瞬自分が何処にいるのか分からなくなった。

「一人で住んでるの?」

「は? いや、まさか。これだけの広さがある家だからね。女中や執事もいるし、それに妹と……」

「妹がいるんだ?」

「え? あぁ、そうなんだ。妹がいて……そう、妹と犬を探しているんだ。白い犬なんだが、君、どこかで見掛けなかったかい?」

 少年の瞳が不意に悲しげな色を帯びた。

「悪いけど……」

 首を横に振る少年を後に、書斎を出る。

 そうだ、自分は犬を探していたのだ。あの子が悲しむから、あの子のために、陽が暮れる前に、雪之丞を見つけなければならない。


     ❀


「雪之丞! どこにいるの? でていらっしゃい、雪之丞!」

 懸命に愛犬の名を呼ぶ妹と共に、屋敷の内外を当てもなく彷徨う。無駄に広過ぎる家というのも困ったものだ。ひとたび何かを失くせば、幾ら探しても失せ物が出てくることは滅多に無い。だから、恭太朗は、大切な物は決して失くさないように、そして失くして困る物が増え過ぎないように、身の回りの整理には常日頃から気を付けている。しかし相手が自由勝手に動き回るモノでは、気の付けようもない。

 今にも泣き出しそうな顔で愛犬を探す妹の横顔に、恭太朗がちらりと目をやった。


     ✿


 フランス人形のような、とでも形容すべきか。

 緩やかなウェーブのかかった柔らかな髪。陶器のように仄光る白い肌。桜の花を想わせる形の良い唇に、細く整った鼻梁。少々痩せてはいたが、子供らしい柔らかな線を描く頬に、長い睫毛が淡い翳を落とす。

 ルノアールの絵から産まれたのかと思う程、その少女の美貌は際立っていた。

 弁護士に連れられて応接間に現れたその少女を見た時、恭太朗は驚きのあまり、一瞬言葉を失った。

「あ……あぁ、失礼」

 弁護士の咳払いで我に返った恭太朗は、少し慌てて椅子から立ち上がると、少女へ向かって右手を差し出した。

「初めまして。私が当主の恭太朗だが、君の名前は?」

 伏し目がちの目元を今にも泣き出しそうに赤らめた少女を見て、恭太朗は困惑に口ごもった。行き場のない右手で曖昧に髪を掻き上げる。若く、独り身の恭太朗は子供と接したことなど数えるほどしかない。いやはや、己の物腰は穏やかな方だと思っていたが、子供には威圧的に感じられるのだろうか。何か言いかけた弁護士を視線で抑え、少女と目線を合わせようと床に片膝をつくと、少女は益々怯えたように深く俯いた。

「名前は何て言うの?」

 傷ついた小鳥に話しかけるかのように、僅かに首を傾げて優しい声で尋ねる。

「……さ」

「さ?」

「……冴子(さえこ)、と申します……旦那様」

 風に震える銀の鈴のように、小さな声が答えた。

「……冴子」

 恭太朗がその名を口にした瞬間、不意に少女が視線を上げた。

 名は体を表す。凍える冬の月のように冴え冴えと澄んだ眼差しに正面から見つめられ、恭太朗は思わず息を呑んだ。

 しかし少女が恭太朗と目を合わせたのはほんの一瞬のことだった。再び俯き、怖れと緊張に今にも切れそうなほど神経を張り詰め、小さな体を強張らせている少女の姿に胸が痛んだ。この幼い少女が見知らぬ人間に対してここまで怯えるのには、それ相応の過去があるからなのだろう。彼女が独り寂しく過ごしたであろう眠れぬ夜を思い、それを知らずに生きてきた己に謂れのない罪悪感を覚えた。そして不意に、どうしようもない程の切なさと愛しさが込み上げた。

「旦那様じゃない。僕はお前の兄なのだから」

 頼り無げに震える肩を抱きしめたいという衝動を堪え、恭太朗はその細い肩にそっと手を置いた。

「誰にも気兼ねすることはない。今日からここが冴子の家だよ」



     3


「冴子ちゃんって言うんだ」

 空から降ってきた声に顔を上げると、先程の少年が書斎の窓から身を乗り出すようにして庭を見下ろしている。

「ふうん……なんて言うか、良くも悪くも黙って立っているだけでヒトの注目を浴びちゃうタイプだね」

「それは、まぁ、冴子は人形のように綺麗だから……」

「人形?!」

 少年が驚いたように目を瞠った。

「確かに綺麗な子だけど、でも人形って言うにはちょっと……」

 不意に吹いた風が木々の梢を鳴らし、少年の声を掻き消した。


     ❀


 芸術品の域に達するほどの美貌を目の当たりにした時、人の反応は実に様々だ。無条件の愛と称賛を捧げる者、恐ろしいまでの美しさを畏怖する者、人の域を出る不吉なものと忌む者、そしてその美しさに狂う者。羨望にしろ、嫉妬にしろ、人は少女の美しさに無関心ではいられない。

 しかし冴子にとって幸運なことに、彼女を迎え入れた屋敷の人々はその人形のような美しさを素直に褒め称え、天使のようなあどけなさに夢中になった。

 ……唯一人を除いては。


     ✿


「冗談じゃないッ」

 冴子を迎えた日の夜、大学から帰ってきた弟の凛太朗は、話を聞くなり目の色を変えて怒り狂った。

「そんな何処の馬の骨とも知れない人間を家に入れるなんて、俺は反対だ!」

「何処の馬の骨なんてことはないだろう。父の血を引いているんだから、俺達と血を分けた妹じゃないか。弁護士のお墨付きだよ」

「母さまを殺したあの男の腐った血を引いているなんて、俺にとっては嫌悪の対象以外の何物でもないね」

「何を馬鹿な事を……」

 その血はお前の中にも流れているだろうと言いかけて、恭太朗は(すんで)のところでその言葉を飲み込んだ。そんな事は、言われずとも弟自身が一番よく分かっている。そして、潔癖な弟が、その腐った血の流れる己の半身を引き千切らんばかりに憎悪していることを、恭太朗は知っていた。

「……母さまは病気で亡くなられたんだ。軽々しく馬鹿なことを口にするな」

「母さまは身体が弱かった。なのにあの男は家にも滅多に帰らず、たまに帰れば女中を孕ませ、心労で倒れた母さまの見舞いにも現れず、母さまの死に目に会おうともしなかったじゃないか! 母さまは奴に殺されたも同然さ」

「……父親の罪はあの子の罪ではない。『緋文字』の世界でもあるまいし、あの子に贖罪を求めるのは間違っている」

「緋文字だって?!」

 凛太朗がけたたましい嗤い声を上げた。

「わかってないのは兄さんだよ。アレはあの男の罪の結晶だ。でもそれだけじゃない。アレは此の世に生まれ落ちることで母さまを追い詰め、殺したんだ。緋文字と言うなら、アレは存在そのものが緋文字さ。そんな(おぞ)ましいモノとひとつ屋根の下で暮らすなんて、俺は絶対に御免だ」

「そんなに嫌なら出て行けばいい」

 売り言葉に買い言葉だった。

「お前も十八だろう。大学の近くに家を借りればいいじゃないか」

「兄さん……俺を追い出すのか?」

「追い出すとは人聞きが悪いな。嫌なら出ていけばいいと言っただけだ」

「同じ事じゃないかッ!」

「凛」弟の癇走(かんばし)った声に頭痛がして、思わず目を瞑った。「……被害者振るのもいい加減にしろ」

 弟との仲は悪くない筈だった。それどころか、母が他界して以来、兄弟で肩を寄せ合うようにして生きてきたのだ。母が亡くなった時の弟の憔悴を思い返し、恭太朗はこめかみを揉んだ。幼い妹に対する自分の気持ちを何故弟が理解しようとしないのか、何故自分と同じ気持ちを彼女に抱くことがないのか、恭太朗には解らなかった。

「あの子の母親はあの子が七つの時に亡くなったんだぞ。幼い身で母親を喪う悲しみが、お前に解らないわけではないだろう。お前とあの子は、いや、俺たちは皆同じ悲しみを――」

 何かが砕ける凄まじい音に驚いて顔を上げた。窓際の逆光の中に佇む黒い影に、硝子の破片が無数のきらきらとした光の雫となって降りそそぐ。腕から流れる血が音もなく指先を伝い、足元に滴り落ち、絨毯を黒く濡らしてゆく。

 透明な硝子のように無表情な眼が、言葉を失い呆然と立ち竦む恭太朗を見つめていた。


 許さない、と蒼白な唇が呟く。

 俺とアレを同等に見ることなど、決して許さない。

 俺がナニカと同等で在ることなど、決して許しはしない――



     4


「俺にも兄貴がいたよ」と窓際の少年が不意に言った。

「母さんは俺が赤ん坊の時に死んじゃってさ……二人兄弟だったんだ」

 なぜ過去形なのか。引っ掛かるものを感じたが、しかし根掘り葉掘り尋ねるのも憚られ、恭太朗は僅かに眉をひそめると無言で少年を見上げた。

「ねぇ、妹ってさ、可愛い?」

「当たり前じゃないか」

「ふうん、じゃあさ、妹と弟だったら、どっちが可愛い?」

「どちらがって……そんな事は考えたこともないな。弟でも妹でも、年の離れた弟妹は無条件に可愛いものだよ」

「本当に?」

「……本当さ」


     ❀


 季節は晩春とは言え、陽が沈めば辺りは急に冷え込む。犬を探して広い庭を彷徨う妹の腕に鳥肌が立つのを見て、恭太朗は急いで上着を脱ぎ、妹の肩に掛けた。

「ごめんなさい……ありがとう……」

 冴子は行儀良く、控えめな子供だった。恭太朗や家庭教師が教えることを渇いた地が水を吸うように覚え、良家の子女に求められる習い事なども驚く程にそつなくこなした。本人の並々ならぬ努力もあるものの、生まれつき賢い子供だったのだろう。しかし恭太朗がいくら言って聞かせても、どうしても治らない癖がひとつあった。

「ごめんなさい……」

 何かあると、何も無くても、冴子は二言目には謝る。

「冴子が謝ることなんて、何もないんだよ」と恭太朗が優しく諭しても、細いうなじが折れそうなほど深くうなだれ、「ごめんなさい……」と謝ったことを謝る。これではきりが無い。

 母親と死に別れてからの数年間に、この美しい少女の身に一体何があったのか。弁護士の口振りからして不遇の身の上であったことは確かだろうが、詳しい事情を知ったところで気分が悪くなるだけだろうと思い、改めて聞いた事はない。

 冴子は見た目の美しさや人々の称賛に驕ることはなかった。それどころか逆に、他人の視線に対して酷く臆病だった。怯えを通り越し、自身の存在に対して全く自信の無い様子から、恐らく私生児としての出生を(なじ)られてきたのだろうと想像するのは難しくない。

 幼いその身には何の(とが)も無いことを、いつか言葉ではなく心で理解する日が来ると信じて、恭太朗は冴子を唯そっと見守ることにした。


 それにしても一回り以上も年が離れていれば、妹と言うよりも娘のようなものだ。甘やかすつもりが無くとも、出先で華やかな服や靴を見れば、ついつい買い与えたくなる。おまけに精巧な人形のように愛らしい少女は、何を着せても良く似合った。

 クローゼットに溢れ返る数々のドレスに、冴子はいつも伏し目がちの目元を赤らめて丁寧に礼を言う。恭太朗は幼い妹の多少の我儘は聞いてやるつもりでいたが、彼女が自ら何かを欲しがったことは、後にも先にも一度だけだった。


     ✿


「まぁまぁお嬢様! どうなさったのですか、そんなもの。お召し物が汚れてしまいますよ!」

 女中達が騒ぐ声に恭太朗が書斎の窓から庭を見下ろすと、何かを抱きしめた冴子を人々が取り囲み、口々に何やら言い聞かせている。

「どうしたんだい?」

 恭太朗がバルコニーから庭に出ると、冴子の隣に立っていた女中の清乃と庭師の鉄蔵が困った様子で顔を見合わせた。

「今日は市場に花を買いに行ったのではなかったのかい?」

 冴子は花を好み、庭でよく鉄蔵の仕事を眺めていた。鉄蔵が市場へ新しい薔薇の苗を買いに行くと聞いて、自分もついて行きたいと言い出した冴子に、若いがしっかり者の清乃をお供に付けてやった。

「それが……」

 俯いたまま何も言わない冴子の代わりに、清乃が口を開いた。

「市場の隅で仔犬を見つけてしまいまして」

「仔犬?」

「箱に入れられて、捨て犬らしいのですが、お嬢様が箱の前から動かなくなってしまわれて……」

「まぁ、箱の前でいつまでも突っ立てたら日が暮れちまうと思いましてね、とりあえず仔犬ごと帰ってきたんですよ。でも、お嬢さまが仔犬を離して下さらんもんで」と、鉄蔵が頭を掻いた。

「私が付いておりながら、申し訳ありません」

 困惑した表情で頭を下げる清乃に恭太朗が笑顔で首を振った。

「犬くらい別に構わないよ。冴子が自分で面倒をみるならね」

 汚れた白い仔犬を抱きしめ、無言で俯いていた冴子が驚いたように顔を上げた。養われの身でありながら、犬を飼うなど許される訳がないとでも思っていたのであろうか。一瞬呆然と恭太朗を見つめ、続いてパッと花が咲くように目を輝かせた。

「えっ、でも……」清乃が僅かに口籠った。「……その、申し訳ありません。しかし凛太朗様は、生き物はあまりお好きではないかと……」

「大丈夫だよ。凛は一人暮らしを謳歌していて、家には滅多に帰ってこないからね」

 滅多に、と言うよりも、冴子の事で口論になったあの日以来、弟は一度も家に帰って来ない。しかし密かに人を遣って凛太朗の無事は確かめてあるので、心配は無い。

 恭太朗に弟を無碍に扱う気は無かった。しかし大学に通う大人である弟の多少の好みなどよりも、幼い妹の心を開く切っ掛けとなるかも知れない可能性の方が、その時の恭太朗には大切に思えたのだ。


 冴子の正式な後見人となり、仔犬を拾い、二年の月日が流れた。仔犬は冴子によく懐き、そして冴子は恭太朗に懐いた。

「恭兄さま、恭兄さま」と自分の後を仔犬のようについてまわる妹に、恭太朗の頬もつい緩みがちになる。そしてそんな兄妹を見守る人々の目は温かだった。

 全ては上手くいっていた。

 そう、ひと月程前に、弟の凛太朗が屋敷に足を踏み入れる前までは。



     5


「君、ええっと……」

「煉」

「あぁ、レン君か。変わった名前だね。極楽浄土の蓮の花の(レン)かい?」

「まさか。煉獄の(レン)だよ」

 レンとリン。響きの似た名前のせいだろうか。忍び寄る宵闇を見つめる少年の横顔は、どこか弟を思い起こさせる。


     ✿


「凛……久し振りだな。元気にしていたか」

「ああ、兄さんこそ、元気そうで何よりだよ」

 二年振りに会う弟は、頬が()け、妙に物憂い様子で、じっとしていても荒んだ空気を醸し出していた。独り身の自由を満喫して、余程不摂生な生活をしていたのだろうか。恭太朗は密かに眉を曇らせた。

「少し痩せたようだが、どこか悪いのか……?」

「え? いや、お陰様で至って健康だよ。ただ最近、ちょっと眠れない日が続いてて……少し疲れが溜まってるのかも知れない」

 伸びた髪を掻き上げながら、凛太朗がちらりと笑った。

 多少(やつ)れてはいても、その切れ長の瞳に宿る硝子のような光は健在だった。鋭く、透明で、見る者を惹きつける……血を分けた弟妹と言うだけあり、それはどこか、冴子の眼差しに似ていた。ただ、凛太朗のそれは妥協を知らぬ硬さ故に脆く、冴子の持つしなやかさを欠いた。

「それで、今日はどうしたんだい?」

「うん……悪いんだけどさ……」

 休養も兼ねて、しばらく家に戻りたいと疲れた顔の弟に相談されて、恭太朗に否と言えるわけもない。

「それはもちろん構わないさ。ここはお前の家なのだから。ただ、冴子の事だが……」

「あぁ、それなら心配要らないよ」

 凛太朗がひらひらと気怠そうに手を振った。

「俺も子供じゃないんだからさ。適当に、上手くやるよ。必要がなければ、別にわざわざ口を利く事もないわけだしさ」

「……そうか。上手くやっていけるようなら俺も嬉しいよ。半分とは言え、血の繋がった家族だからな。俺もお前がいなくなって、本当は少し寂しかったんだ」

 凛太朗は何も言わず、ただ僅かに目を細めるようにして微笑んだ。



     6


「つまり弟と妹と兄貴の楽しい三人暮らしが始まったわけだ」

 窓際に肘をついた少年が、からかうような口調で言う。

「……何が言いたいんだ?」

「別に、何も」

 煉が肩を竦めると、壁に掛けられた額縁を指差した。

「これって、あんたの弟?」

 恭太朗が無言で頷くと、煉はふっと額縁に息を吹きかけて埃を払い、中の写真をしげしげと見つめた。

「ふ〜ん、あんたと弟ってさぁ――」

「全然似てないだろう?」

 何か言い掛けた煉を、恭太朗が素早く遮った。


     ❀


「凛兄さまは、恭兄さまと、とてもよく似ていらっしゃるのね」

 凛太朗が家に戻って来た最初の日の夜、ベッドに潜り込んだ冴子は何やらクスクスと笑いながら、楽しげに囁いた。この時の冴子はまだ凛太朗の本性を知らず、挨拶をしても自分と目を合わせようともしない男にですら、恭太朗の弟と言うだけで勝手な親しみを抱いていたのかも知れない。

「清乃がね、恭兄さまのお若い頃のお写真を見せてくれたの」

「お若い頃って……僕は今でも充分若いつもりだよ。これでもまだ二十代だからね」

 妹の肩が冷えぬよう、ブランケットを掛けてやりながら恭太朗が苦笑した。

 凛太朗と恭太朗が似ているとは、昔からよく言われた事だ。写真で見れば、確かに顔貌などは似ているかも知れない。けれどもそれは、あくまで外見上の造形に於いての話だ。実際に凛太朗と恭太朗に会った者で、二人を混同する者などいないだろう。いくら隠そうとしても、たとえ一言も発せずとも、人の内面とは天井に浮くシミのように外に滲み出てくるものなのだから。

 凛太朗は自分には似ていない。

 自分には凛太朗に似たところなど、ひとつも無いと恭太朗は思う。


     ✿


「……あいつはまだ寝ているのか?」

 冷えた朝食の皿と空いた椅子にちらりと目を遣ると、給仕をしていた清乃が申し訳なさそうに頭を下げた。

「凛太朗様は、今朝は御気分が優れないと仰りまして、のちほど軽いお食事を御部屋の方にと仰せつかりました」

 今朝()、ではなく、今朝()だろうと言い掛けて、ぐっと堪える。隣に大人しく座っていた妹が、清乃の言葉を聞いた途端、安堵したように僅かに肩の力を抜くのに気付いたからだ。

 家に戻ってきた凛太朗は、毎日昼過ぎまで寝床から出ようとはせず、起きたら起きたで何やら苛々と人や物に当たり散らし、かと思えば鬱々とした様子で部屋に鍵をかけて引きこもる。偶にふらりと外に出て行くと、夜中に泥酔して帰ってくる。恭太朗が幾ら叱責しても、一体どうしたのかと話を聞こうとしても、凛太朗は何も答えようとはせず、ただ倦んだ眼差しでぼんやりと空を眺めている。

 そんな凛太朗に冴子が怯えるのは当然と言えよう。凛太朗の影が廊下の端にちらりと見えるだけで、冴子はびくりと肩を震わせる。しかし幸か不幸か、凛太朗は今のところは冴子を完全に黙殺している。

 口を利く必要がないとは、言葉を変えれば、つまり徹底的に相手を無視すると言う事だったらしい。面と向かって罵倒するような真似はなかったものの、凛太朗は冴子の存在すら目に入らない風を装った。そして偶に運悪く視界に入れば、まるで壊れた椅子や古くて役に立たない燭台を見るような眼差しを冴子に向けた。冷たく無機質なその視線に冴子は完全に萎縮し、恭太朗は三人で上手くやっていけるかも知れないなどと考えた己の甘さに頭痛がした。

 三人の間に漂うギスギスと張り詰めた空気に気を遣うのは、屋敷の使用人ばかりではない。若く凛々しい成犬となっていた雪之丞は、彼の姫君の憂鬱に神経を尖らせ、そしてその元凶を素早く察した。近くを通りかかる度に低く地を這うような唸り声を上げる雪之丞に対し、凛太朗は平然として眉ひとつ動かさない。しかし何も言わずとも、凛太朗の内からドス黒い怒りが滲み出るのを感じ、両者の一触即発の気配に恭太朗は不安を募らせていた。

 そして今、その不安が現実の物となりつつある。



(To be continued)

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