名残り雪(後編)
7
人々が寝静まった夜更け、雪ウサギを庭に出して遊ばせてやるのが羽瀬の日課となった。日光浴ならぬ月光浴。冴え冴えと白い月の光の中、狭い庭を行ったり来たり、うろちょろと散策して楽しむ雪ウサギの姿を、羽瀬はかじかんだ指に息を吹きかけつつ幾枚も写生した。ほんのりと淡く光るその不思議な姿は、幾ら描いても描き飽きるということはなかった。
固く凍ったザラメ雪に穴を掘って遊んでいた雪ウサギが、不意にハッとした顔で辺りを見回した。続いて耳を伏せ、躰を固くするとタンタンッと後脚で地面を叩く。これは危険が迫った事を仲間に知らせる兎の合図だ。羽瀬が慌てて背後を振り返ると、驚きに目を瞠った少年が垣根越しに雪ウサギを見つめていた。
「うわあ、雪ウサギなんて見るの、久しぶりだなぁ」
誤魔化す暇もなかった。垣根を飛び越えて庭に入って来た少年は、羽瀬が慌てて抱き上げた雪ウサギをしげしげと眺めると感心したように唸った。
「雪ウサギって……お前さん、コレが何か知っているのか? 普通の兎じゃないんだぞ?」
「うん、知ってるよ。雪で作ったウサギでしょ? 俺も昔、よく作って遊んだから。まぁ俺は手があったか過ぎて、雪が溶けちゃうから失敗することの方が多かったんだけど、俺の兄者が作るの上手くてさ……兄者の手は冷たかったから」
懐かしげに眼を細めた少年が、雪ウサギの耳の後ろを指先でそっと撫でた。雪ウサギも先程の警戒心は何処へやら、気持ち良さげに首を伸ばし、うっとりと目を閉じている。
「……あれ?」
少年がふと怪訝な表情で小首を傾げると、雪ウサギに顔を近付けた。
「このウサギ……」
何か言いかけた少年の懐がモゾモゾと動き、襟元からやけに耳の大きな柴犬の仔がひょこりと顔を覗かせた。犬が興味深げに身を乗り出すのを見て、雪ウサギを抱いた羽瀬が慌てて後ろに飛び退いた。
「犬はイカンッ、犬は! ウサギが怯えて心臓発作を起こしたらどうするっ」
「誰がイヌだ、くそじじい」とハスキーな声が答えた。呆気に取られた羽瀬の顔を、少年の懐から這い出し、肩に座った犬の金色の眼が睨む。
「いい歳して、イヌと狐の区別もつかんのか。そもそも雪ウサギが心臓発作なんて起こすわけないだろうが。心臓がないんだからな」
「絵描きさんなの?」
居間の壁に立て掛けられた描きかけのキャンバスを指差し、少年が尋ねた。
「……まぁな」
画家などと自ら名乗るのは些か烏滸がましい気もするが、敢えて反論する程の事でもない。少年の問いに曖昧に頷きつつ、羽瀬が狐に疑り深げな目を向ける。
「そいつ、本当に雪ウサギを襲って喰ったりせんだろうな?」
「馬鹿にするな」炬燵で和んでいた狐が尖った鼻ヅラをツンとあげて、ふんと鼻を鳴らした。「俺はグルメだ。小汚い雪で出来たウサギなんぞ誰が喰うか」
この口の悪い狐は焰という名らしい。狐が喋るというのもおかしな話だが、しかし雪ウサギが命を持って畳の上を跳ねていることに比べれば、それほど奇妙な事でもないのかも知れぬ。ふと、もしや全ては夢なのでは……と思ったが、しかし夢と言うならもう少し狐に可愛気があっても良さそうなものだ。
雪ウサギに狐を怖れる様子はない。ぴょこぴょこと狐の周りを跳ね、ふわふわの太い尻尾と戯れている。自称グルメな狐がふんふんと雪ウサギの匂いを嗅ぐと、不意にぺろりとその尻を舐めた。
「なんだ、コイツ甘いぞ? こりゃバニラ味だ」
狐が再び雪ウサギを舐め、ウサギがくすぐったそうにキュイキュイと笑い声を立てる。
「コラッ、やめんか! 溶けるだろうがっ」
雪ウサギを仰向けに転がして舐めまわす狐に向かって、羽瀬が喚きながら湯呑みを投げつけた。
「ちょ、おじさん、落ち着いてよ。焰もやめろって」
煉が慌てて羽瀬を宥めつつ、舌舐めずりして雪ウサギに飛びつこうとする焰の首根っこを掴む。羽瀬が舌打ちと共に冷凍庫からアイスクリームを出してやると、狐はようやく雪ウサギを追うのをやめた。
「冬に炬燵で食べるバニラアイスほど美味いモノはないな」
器を綺麗に舐め尽くし、焰が金色の眼を細めて満足気にゲップした。そんな狐を横目で睨みつつ、羽瀬はずっと気になっていた事を少年に訊ねた。
「お前さん、色々と詳しいみたいだが、雪ウサギってのはつまり何なんだ?」
「雪の精だよ」パリパリと煎餅を割りながら、煉が答える。「雪から生まれるモノにも色んなのがいてさ、例えば冬を呼ぶ雪虫だとか、雪童子や雪女……まぁ雪女は雪の精って言うより鬼に近いかな。で、雪の精の中でも、雪ウサギは一番純粋な『雪の命の結晶』なんだよ。だから普通のヒトが自力で創り出すのはすごく難しいし、たとえ上手くいったとしても、こんなに元気なヤツは珍しい」
自分のシャツの裾を咥えて引っ張る雪ウサギの小さな鼻先を、煉がちょんとつついた。
「……つまり、その、なんだ。やはり俺に芸術家というか、創造の腕があったからこそコイツが出来たという事か? しかしだな、他にも試しに幾つか創ってみたんだが、動いたのはコイツだけなんだが」
「雪ウサギが生命を持ったのは確かに羽瀬さんの芸術家としての腕もあるんだけど、でもコレってそんな単純なことじゃなくってさ。雪が降った夜の月の光の加減だとか、使った雪の純度や鮮度だとか、雪の結晶の形だとか、風向きだとか、海の満ち引きだとか、色んな要素が上手く噛み合わないと雪ウサギにはならないんだ」
命を創り出すのは難しい。そう呟くと、少年は窓から月を見上げた。
……そう、確かに、命を創り出すのは酷く難しい。
❀
「わかっちゃいないんですよ!」
あの日、梅雨に濡れた灰色の空の下、吐き捨てるように生物教師は言った。
羽瀬から顔を背けた彼は、その眦を捲り上げたシャツの袖でグイと拭き、若い拳を硬く握り締めた。微かに震えるその拳を、赤黒く汚れたその指先を、羽瀬はただ茫然と見つめていた。
「命を壊すのは簡単で、やろうと思えば誰にだって出来るんですよ。だけど現在の最先端の科学をもってしても、無から有を、命を創り出すことは出来ないんですよ!」
人は誰も無から有を創ることは出来ない。そんな当たり前の言葉に、不意に強く胸を突かれた。
……そうだ。俺は何も創り出すことは出来ない。
俯いて、己の手をじっと見つめた。乾いた皮膚。節くれ立った指。記憶に無い皺が刻まれ、茶渋のようなシミが浮いている。半世紀を生きてきて、この手は何ひとつ産み出しはしなかった。
親の反対を押し切って美大に入り、そこで多くの才能に出会い、同時に己の才能の無さを思い知った。胸の内に燻る創作意欲が創作に結びつかない。それでも芸術の世界に完全に別れを告げることも出来ぬまま、満たされぬ欲求を胸に、中学の美術教師という中途半端な道でぐずぐずと足踏みした。やがて結婚し、子供が出来た。そして忙しない日々の流れの内に、俺は自分の足元だけ見つめ、他の全てから目を背けることを学んだ。
己の無能は言い訳にはならない。なぜなら俺は、何かを創ろうという努力を怠り、それどころか芸術という道の末席を汚しながら、創造の世界から目を背け、その存在を忘れた振りをして生きてきたのだから。
目の前の小さな躰にそっと手を伸ばした。
赤黒く固まり、汚れた毛のざらついた感触が指先を刺す。
精神異常者か、胸に鬱積を抱えた者か、それとも単に弱いモノから奪い、壊したいという歪な欲求を抱く者の仕業だったのか。四肢を強張らせ、物言わぬ冷たい骸と成り果てた哀れな兎達を前に、羽瀬は両拳を握り締め、必死で嗚咽を堪えた。しかし堪えても堪えても、激しい衝動が胸の奥底から湧き上がる。
この手で何かを創りたい。
己に与えられた限りある時間の中で、何かを創りたいと、何かを創り出さねばならぬと、魂を抉られるほどに強く思った。この小さな兎達のように、やがて消えゆく己の存在の証が欲しかったのか。それとも己の存在に意義を見出したかったのか。そんな事も解らぬまま、唯、眩暈がする程の焦燥感に身体が震える。
そしてその焦燥に駆られるように、羽瀬はその日のうちに学校に辞表を提出した。
8
煉と名乗る不思議な少年に出会ってから数日が過ぎた。気の所為か、ここのところ何やら雪ウサギに元気がない。相変わらずバニラアイスの器を見れば勇んで駆け寄ってくるが、餌を食べた後は庭に出ても辺りを探検するでもなく、ジッと羽瀬の足元にうずくまっている。
「……どうした、腹イタか?」
あの少年なら何か知っているかもしれないのに、連絡先を聞いておかなかったのは失敗だった。どうしたものかと悩みつつ、ひんやりと柔らかな背中を撫でてやると、雪ウサギは僅かに首を傾げ、南天の実の瞳を細めるようにして羽瀬を見上げた。その紅い色を見ているうちに、理由の無い不安が冷気のように足元から這い上がり、心臓が鼓動を速める。雪ウサギの躰が以前に比べて一回り小さくなったように見えるのは気の所為か。
……ウサギの魂の重さは如何程か。
不意に、命の消えた野ウサギの仔の姿が瞼の裏を過り、その不吉な連想を振り払うように頭を振った時、「コンバンワ」と明るい声がした。
垣根越しに手を振る少年の笑顔に、羽瀬は思わず安堵の溜息を吐いた。
「わあ、すごいなぁ。前来た時より増えてるじゃん」
家に入った途端、アトリエにしている三畳間から溢れ、居間や廊下の床にまで氾濫しているキャンバスに煉が感心した声を上げた。
「生き生きとしてて、すごくいいね。コレなんか、まるで今にも動き出しそうじゃん」
狐の尻尾と戯れる雪ウサギの絵を指差して、煉が笑った。
目を細めて林檎を齧る雪ウサギ。赤い寒椿の花を咥えて跳ねる雪ウサギ。春を呼ぶ雪解け水の滴りに耳を澄ませる雪ウサギ。冴え冴えと遠い月の光を見つめる雪ウサギ。水墨画、チャコール、水彩、油画……目につく限り、全てが雪ウサギの絵だった。
「……多少生き生きとして見えようが、別に生きて動き出すわけでもない。どれもこれと言って褒めるところのない、一銭の価値も無い駄作ばかりってことだ。俺の絵なんぞより、チリ紙の方がまだ此の世の役に立つ」
「どうしたの? なんかやけに荒れてない?」
ふんと鼻を鳴らしてキャンバスを片付ける羽瀬を見て、煉が笑いながら肩を竦めた。
「今日はね、雪ウサギにお土産持ってきたよ」
煉がアイスボックスを開けると、中から一握りの雪を取り出した。
「公園で陽当たりの悪い樹を探して、雪を集めてきたんだ。ちょっと硬いけど、でも枝の上に残ってた雪だから、雪ウサギが食べれるくらいには綺麗だと思うんだけど」
アイスボックスの中の雪に気付いた途端、雪ウサギが煉の手許にいそいそと寄って来た。
「あ、コラ、ちょっと待てよ。俺の手の中だと雪がすぐ溶けちゃうからさ」
急いで硝子皿を用意しようとする煉に構わず、雪ウサギはアイスボックスによじ登ると、夢中になってシャリシャリと雪を食った。しばらくすると気が済んだのか、雪ウサギはアイスボックスの壁に前足を掛けて、「出せ出せ」とでも言う様に羽瀬を見上げた。
雪を食い終わった雪ウサギは何やら急に元気になり、ぴょこぴょこと畳の上を跳ね飛び、狐の尻尾を追いかけて遊んでいる。
「なんだ、急に元気になったな。昨日は殆ど動かなくて、心配しとったんだがな。お前さんが来てくれたお陰で、もう大丈夫そうだ」
羽瀬がホッとして笑うと、煉が少し困った顔で羽瀬に目を遣り、僅かに口籠った。
「う〜ん、大丈夫って言うか……あのさ、言いにくいんだけど、こいつは雪の精だから、身体に少しでも雪が残ってないとダメなんだよね」
「駄目……?」
「消えちゃうんだよ」
消える、という言葉に、暗い兎小屋の隅に累々と積み重ねられたウサギ達の骸が脳裏を過った。不吉に強張った、命の炎の消えた無数の――
「おい、じいさん、心配するな。こいつは九割方バニラアイスで出来ているからな。後始末は俺に任せろ」
煉に横目で睨まれ、焰がぺろりと舌を出して肩を竦めた。
「羽瀬さん、こいつにアイスクリーム食べさせてたでしょ? 普通の雪ウサギは雪しか食べない……って言うか、他の物は躰が受け付けないんだよ。だから初めてこいつを見た時、俺、ちょっとビックリしちゃって」
確かにグリーンピースやリンゴの欠片は食ってもそのままの形で出て来る。身につくのはアイスクリームとカキ氷だけだ。
「こいつが本当にアイスクリームだけで生きていけるのか、俺にも分かんなかったんだけど。とりあえず、雪を集めてきて良かったよ」
「……そうか」
いくらアイスクリームを食わせても、躰の中に雪が残っていなければ、雪ウサギはいずれ消えて無くなる。そして羽瀬にそれを止める手立ては無い。
暗澹として腕を組んだ羽瀬の顔を、雪ウサギが不思議そうに覗き込んだ。何を思ったのか、遊ぶのをやめて羽瀬の膝によじ登ってきた雪ウサギの丸い背中をそっと撫でてやる。
あのさ、と煉が遠慮がちに羽瀬に声を掛けた。
「俺さ、数日中に北の方に行く予定があるんだけど……だからさ、もし良かったら、北に行くついでに、万年雪のある山に雪ウサギを連れて行くけど」
「万年雪?」
「うん、そう。多少古くたって雪さえあれば、こいつはずっと生きていけるからね」
万年雪に覆われた雪原を走り回る雪ウサギの姿を思い浮かべる。春が過ぎ、夏が来ても消えることなく楽しく自由に生きる雪ウサギ。蒼い空に限り無く近い白い山頂で、永遠の刻を生きるモノ。己がこの手で創り出した、唯一の、淡く、小さな命――
悪くない、と思った。
悪くないと思ったのに、何故か少年にそれを伝える声が掠れた。
幾度も咳払いを繰り返す羽瀬をしばらく無言で見つめていた煉が、不意ににこりと微笑んだ。
「花見しようか」
「……花見?」
「うん、そう。今日行った公園にね、一本だけ梅の木があって。もう春だからね、蕾が綻びかけてて、すごくいい匂いだったよ。だから、明日の晩、弁当を作って花見に行こうよ。雪ウサギも連れてさ」
別れの宴という事か。そんな感傷染みた気遣いは無用だと断ろうとした羽瀬に向かって、狐がニタリと口の端を歪めた。
「遠慮するな。料理は煉に任せて、じいさんは酒を用意しろ。カビ臭い家にこもって絵ばかり描いててもツマランだろう。ヒトもウサギも、たまにはハメを外して美味いもんを喰うのが長生きの秘訣だぞ」
9
翌日、雪ウサギとの別れを想い、何と無く肩を落としている羽瀬の家に現れた少年は、両手にずしりと重たい買い物袋を提げていた。
「なんだ、随分と買い込んだもんだな。たった二人でこんなに食べ切れんだろう」
「大丈夫。俺って大喰らいだから」
勝手に台所に入り、テキパキと包丁を研ぎ始めた少年を見て、やや呆れると共に感心する。最近の小学生は男でも料理が出来るのか。最近の子供は親の手伝いをしないだとか、家の中でゲームばかりしているなどと言うセリフをよく聞くが、どうしてどうして、冷凍ギョウザの調理法も知らない自分なんぞより、余程デキルようだ。
「どれ、なんぞ手伝うかな」
「あぁ、羽瀬さんは手を切ると危ないから、向こうでのんびりしててよ」
あっさりと断られ、手持ち無沙汰になった羽瀬は、ならば近所の酒屋に酒でも買いに行こうと財布をポケットに突っ込んだ。と、炬燵でごろごろしていた狐が眼を輝かせて羽瀬の肩に駆け登ってきた。
「酒か? 酒を買いに行くのか? 俺も一緒に行って選んでやるぞ」
ハスキーな声で耳許で騒がれるのは頂けないが、しかし首に巻き付いた狐の尻尾は極上のカシミアのようで中々心地良い。マフラー代わりに狐を首に巻いて外に出た羽瀬を、近所の奥さん連中が不思議そうに振り返るが、まぁ気にしない事にする。
「マンジュ!」
酒屋に入った途端に狐が甲高い声で叫ぶ。
「阿保か」
「じゃあハッカイサン!」
狐を無視して安い清酒の一升瓶を手に取る。
「なんだ、ケチな奴だな」
「これは地酒だ。他には出てないが、安くて旨い」
「そうか。俺は結構地酒が好きなんだ。じゃあそれで我慢してやるから、その代わり十本買ってくれ」
このチビ狐、一体どれ程の量を呑むつもりなのか。
「十本も持てるか。二本で我慢しろ」
「後から酒屋に届けさせればいいだろうが」
「……お前、たかが狐の癖に、人間界のシステムに詳し過ぎやしないか」
騒ぎながら家へ帰り、玄関を開けた途端に肉や魚の焼ける良い匂いが漂ってきた。こんなに温かな料理の匂いを嗅ぐのは、妻が出て行って以来、数週間振りだろう。
「あのさぁ、羽瀬さんって一人暮らしなの?」
煮物の味見をしていた煉に不意に尋ねられ、羽瀬は何と無く慌てた。
「え? いや、そう言うわけではないんだがな。まぁ、なんと言うか、小煩い婆さんが一人いる事はいるんだが、それが臍を曲げちまってな。多分、娘のところにでも転がり込んでいるんだと思うんだがな、いつ帰って来ることやら……」
「……オトコヤモメニウジガワク」
煉がぼそりと呟いた。
「む? 何か言ったか?」
「あのさぁ、冷蔵庫の隣に野菜とか果物とかの入ったダンボール箱があるって、知ってた?」
「ダンボール箱? そんなもん、あったっけかな?」
「……もうさ、色々と元の形状も分かんないくらい腐って溶けて、スゴイことになってたよ。捨てて掃除しといたけど」
「おう、そうか。道理で冷蔵庫の近くを通る度に妙な臭いがするとは思っていたんだがな」
「いや、アレはもう妙な臭いってレベルじゃないって。死臭だよ、死臭」
ワイワイと騒ぎながら、煉の作った料理を弁当箱に詰める。気を遣っているのか、狐も煉も、雪ウサギの事は一言も口にしなかった。しかし彼等の楽しげな笑い声を聞いているだけで、羽瀬は少し気が晴れた。
そして夕方、冷凍庫の中で目覚めて伸びをしている雪ウサギをアイスボックスに入れ、大荷物を抱えて二人と一匹と一羽で公園へ向かった。
10
綻びかけた梅の蕾が宵闇に淡く浮かび、辺りに馥郁とした薫りを漂わせる。
三月も半ばとは言え、日の暮れた公園にはひと気もない。煉に言われて達磨のように厚着していたものの、地面に胡座をかいた尻が凍傷になりそうなほど寒かった。
「焚火でもしてあげたいとこだけど、最近の公園って火気厳禁でうるさいからね。そもそも火なんか焚いたら、雪ウサギが溶けちゃうし。だからコレで我慢しといて」
煉が懐から拳大の石を幾つか出して羽瀬に渡した。一体どんな仕掛けがあるのか、石はとても温かく、そしていつまで経っても熱を失わない。
あらかじめ熱燗にしてポットに入れてきた酒を、煉が盃に注いでくれる。なんとまぁ、手回しの良いことだ。気の利く少年に感謝しつつ、狐と何度か乾杯を繰り返す内に身体が芯から温まり、ようやく人心地ついた。
アイスボックスから出された雪ウサギは、初めは中々羽瀬から離れようとはしなかった。雪で出来ていても流石にウサギと言うだけあって、雪ウサギは実に臆病なのだ。こんな具合で独りで雪山で上手くやっていけるのだろうかと、やや心配になる。
梅の枝に残っていた少量の雪を盃に盛り、その上に一輪の梅の花を飾ってやる。雪ウサギはふんふんと熱心に盃の匂いを嗅ぎ、やがて紅い眼を細めるようにして白い花に薫る雪を食べ始めた。
「人の生など雪みたいなもんだな」
ひとひらの花弁が風に舞い、羽瀬の手にした盃に入り、ゆらゆらと揺れる。
「白くて綺麗なのはほんの束の間だ。あっという間に踏まれ、固くなり、薄汚れてくる。積もった雪を見ればそれで何を創ろうかと胸を高鳴らせ、可能性は無限にも思えるが、たいして何もせんうちに解けて跡形もなくなる。俺なんぞ、ほれ、そこの吹き溜りの名残り雪みたいなもんだ」
梅の根元に薄っすらと残る雪に向かって顎をしゃくり、羽瀬が鼻を鳴らした。
「だがな、消えかけた名残り雪みたいなジジイから、こいつは生まれたんだ」
朧月の柔らかな光の中、雪ウサギはぴょこぴょこと辺りを探検して遊んでいる。
「ちっぽけな、何の役にも立たんジジイから、これまたちっぽけで何の役にも立たん命が生まれた。名残り雪が消えても、こいつは何処ぞで生き続ける。それだけで充分どころか、お釣りがくるってもんだ」
何者かになりたい。
己の存在の意義を知りたい。
己が確かに此処に在ったことを、何処かに残したい。
「俺は絵を描き続けた。俺はレンブラントやゴッホになりたかったわけじゃあない。俺は、俺になりたかったのさ。最近ようやくそれに気が付いた」
医学の道に進む者。芸術を極めんとする者。己の肉体の限界に挑戦する者。財を成すことに人生を賭ける者もいれば、慈善事業に一生を捧げる者もいる。そして温かな家庭を築き、未来に己の血を繋げてゆくことに意味を見出す者達。ヒトの夢は様々で、けれどもその目指すところは唯ひとつ。
「ふん、ヒトなど多かれ少なかれ、皆似たようなもんだろう」と焰が嗤った。「じいさんが特別なわけじゃないさ」
「そう、俺は特別な人間じゃあない」
「なんだ、ヤケに悟ったようなことを言うな」
「悟りか。出来るものなら、もう少し早目に悟りたかったもんだ。訳もわからんまま夢を追いかけて、その癖真っ直ぐに進むことも出来ずに迷い続けて、気がつけば全て中途半端なままこんなジジイになっとった。そして棺桶に片足を突っ込んだまま、まだ迷っているのだから世話ないな」
「ヒトは常に迷っているもんだよ。そして、迷っている間は常に何かを求めている」
「若いうちはいいが、歳を取ったらもう駄目だな。迷うのも求めるのも、疲れて仕方が無い。そろそろ煩悩を棄てて、寂静の境地ってもんを味わいたい」
酔いに痺れた頭の隅で、ふと考える。
悟りは諦めに似ている。夢とは叶わないものだと諦め、世の中はこんなものだと諦め、自分と言う人間を諦める。そして春の夜が誘う穏やかな眠りのような諦念のうちに、人は何かを悟ったつもりになるのであろうか。
そんな羽瀬を優しい眼差しで見つめていた煉が、ついと手を伸ばして羽瀬の盃に酒を注いだ。
「命にも まさりて惜しくあるものは 見果てぬ夢のさむるなりけり……」
人を夢に誘うかの如く、宵闇に白梅の枝が甘く薫る。
11
「じゃあ、そろそろ行かないと」
台所で弁当箱を洗い終わった煉が、布巾で濡れた手を拭きながら羽瀬に声を掛けた。
「……ああ、そうだな」
何もこんな夜更けに出て行かなくても、明日まで待てば良いではないかと、喉まで出かかった言葉を飲み込み、羽瀬が頷いた。
「おい、こっちに来い」
積み重ねられたキャンバスの隙間に潜り込んで遊んでいた雪ウサギを捕まえて、煉の手にしたアイスボックスの中にそっと入れてやる。
門灯の外に出たところで、羽瀬は立ち止まった。
「寒いからな。見送りはここまでで勘弁しろ」
「うん、わかった。じゃあね」
軽く手を挙げて歩き出した煉がふと足を止めた。
「……冬」
しばらく無言で何か考えていた煉が、不意に振り返ると、夜目にも白い歯を見せて笑った。
「また冬が来て雪が降ったら、コイツに里帰りさせてやればいいじゃん。俺が責任持って連れて来るよ。コイツだってたまにはバニラアイスが食べたいだろうからね」
だから永遠の別れってわけじゃないよ、と微笑む少年から目を逸らし、羽瀬が不機嫌そうに顔を顰めて鼻をすすった。
「わかったらからサッサと行け。こんな所にいつまでも突っ立ってたら、寒くてコッチが風邪をひくわ」
煉が笑いながら頷いた。と、アイスボックスの中でゴソゴソと動き回っていた雪ウサギが不意に慌てたように後脚で立ち上がり、不安気な眼差しで煉と羽瀬を交互に見つめた。
ぱちぱちと落ち着かない様子で幾度も瞬く雪ウサギの紅い瞳を見つめ返し、俺はお前という命を創ったわけではない、と羽瀬は胸の内で呟いた。そんなことを信じる程、俺は自惚れてはいない。人の手が無から有を、何者かに愛され、そして愛することを知る命を創れると思うなら、それは驕りであり、命そのものに対する侮辱であろう。
だが俺は、只人でありながら、お前がお前という形で此の世に現れる手伝いをすることを許された。実に幸せだ。
「……ありがとうな」
思わず手を伸ばし、自分を見つめる雪兎の丸い背中をそっと撫でる。
生まれてきてくれて、ありがとう。
節くれ立った指先に触れる雪ウサギの躰は、ひんやりと冷たく、温かだった。
「元気でな」
これ以上別れを惜しむなど愚かなことと己に言い聞かせ、羽瀬が踵を返した時だった。
クゥ、と雪ウサギが鳴いた。
クゥ、クゥ、と雪ウサギが啼く声が、夜の闇に響く。
振り返りたいのを必死に堪え、無言で家に入り、ぴしゃりと玄関の戸を閉めた。
雪の結晶から生まれたウサギは、命そのものの様に純粋で、透明で、美しく、儚い。
何処からともなく白梅の薫る春の夜闇に紛れ、羽瀬は独り、声を忍ばせて泣いた。
12
どうやら本格的に風邪を引いたらしい。
翌朝、起きた途端に鼻汁とくしゃみが止まらなくなり、夕方には熱も出て来た。躰の節々が痛み、手洗いに立つのも儘ならない。
朦朧とした頭の隅に、「オトコヤモメニウジガワク」と言う少年の言葉が過った。このままでは本当に死んで発見されぬまま腐乱死体となり、蛆が湧くやもしれぬ。今のところはまだ寒いから大丈夫だろうが、季節はすでに春。蟄虫戸を啓く……無数の虫がもぞもぞと己の躰から這い出る様を思い浮かべつつ、半ば気絶するようにカビ臭い寝床に倒れ込んだ。
❀
真夜中、闇の中で何かが動き回る気配に、羽瀬はふと目を開けた。
熱に浮かされ、霞んだ景色に、白くて丸い饅頭のような塊が映った。
「……なんだお前。万年雪のある北の山に行ったんじゃなかったのか」
熱に掠れた声で囁くと、ぴょこぴょこと近付いてきた雪ウサギは、僅かに首を傾げて羽瀬の顔をジッと覗き込んだ。そして汗に濡れた羽瀬の額にそっと体を寄せた。ひんやりと冷たい体が熱に火照った額に心地よい。
「……そうか、夢か……」
夢。眠りと共に訪れる幻。来るべき日々への願い。望み。儚いモノ。
「命にも まさりて惜しくあるものは 見果てぬ夢のさむるなりけり……」
「命にも まさりて惜しくあるものは 見果てぬ夢の さむるなりけり」
甘く薫る木の下で、黒髪の少年が歌を口遊みつつ、羽瀬の盃に酒を注いだ。
「命よりも惜しいのは夢の途中で目が覚めてしまうこと。壬生忠岑の言う『夢』ってのはもちろん夜の夢のことだけどさ、でもコレって、ヒトがみる人生の夢にも通じるものがあると思わない?」
年端もゆかぬ子供の癖に、妙に賢しげなことを言う。
そう言ってやると、己の悩みが馬鹿馬鹿しくなるほど明るく屈託の無い声を上げて、少年は笑った。
「見果てぬ夢を追い続ける人生、いいんじゃないの? そもそも七十歳なんて、俺から言わせて貰えばまだまだ若いって」
❀
眼が覚めると朝だった。
熱はすっかり引いて、躰の痛みもない。腹が空いて力が入らないが、昨日は殆ど何も食べなかったのだから仕方無い。
「どれ、味噌汁でも作るか」
そう呟いて、寝床から身体を起こした時だった。
丸い緑の粒がころころと足元を転がった。
湿って、ベタつき、何やら微かなバニラの香り漂う枕元には、グリーンピースやリンゴやニンジンの欠片と、白い花弁が散らばっていた。
エピローグ
此の世に生まれた小さな雪の精は、己の解熱剤となって消えてしまった。
そうと理解した瞬間、羽瀬は再び寝床に倒れ込んだ。
あのアイスボックスの蓋は緩んでいた。雪ウサギは、煉の隙を見て逃げ出し、家に帰ってきたのだろう。蓋に紐で縛って、鍵でも掛けておくべきだった。幾ら悔やんでも悔やみきれない。悔恨のあまり、立つ気力どころか生きる気力さえも残っていない。
男泣きに泣き疲れ、いつの間にやら子供のように眠ってしまったらしい。
「まぁ、あなた! まだ寝てるんですか?! もう夕方ですよ!」
懐かしいキンキン声に薄っすらと目を開けると、妻が心底呆れた顔で羽瀬を見下ろしていた。
「なんですか、全くだらしのない。お風呂が沸いていますから、サッサと入ってきて下さいな。どうせシーツも私が出て行ってから一度だって洗ってないんでしょ。全く、今時の若い子の方がよっぽどマシですよ!」
怒涛の如く文句を言われ、這々の態で寝床から這い出る。羽瀬の寝汗と溶けたアイスクリームでベタベタになった布団に妻が盛大な悲鳴を上げるのを背中に聞きつつ、急いで風呂場へ逃げ込んだ。
羽瀬が溜めていた大量の洗濯物を畳み、外へ郵便物を取りに出た妻が、しばらくすると薄汚れたダンボール箱を抱えて戻ってきた。箱の中で何かがごそごそと動き回る音に、羽瀬が読んでいた新聞から顔を上げた。
「……なんだそれは?」
「なんだって、知りませんよ、全く」
溜息と共に妻が床に置いたダンボール箱の中を覗き込む。紅い瞳と目が合った。
「う……ウサギ?!」
「うちの玄関の前に置いてあったんですよ。全く、捨て猫どころか捨て兎だなんて、こんな寒い時期に可哀想に……ウサギが食べれそうな物なんてあったかしら?」
ブツブツ言いながら冷蔵庫の野菜室を掻き回す妻の後ろ姿を、ダンボール箱の端に前足を掛けて背伸びした子ウサギが、期待に満ちた眼差しで見つめる。
「まだ子ウサギだから、擦った林檎なんかの方がいいかしらねぇ」
小松菜やリンゴの薄切りと共に、タオルで包んだ湯たんぽがダンボール箱に入れられるのを見て、羽瀬が悲鳴を上げた。
「イカン! そんなもの入れるな! ウサギが溶けるだろうがっ」
「何を馬鹿なこと言ってるんですか」
妻がほとほと呆れたとばかりに溜息をついた。
「ウサギが溶けるわけないでしょう? とうとう呆けちゃったんですか?」
はらはらしながら見守る羽瀬の事など見向きもせず、新雪のように白く、粉雪のように柔らかな子ウサギは、温かな湯たんぽに身を寄せて、その南天の実のように紅い目をうっとりと細めた。
「……おい、ウサギ」
妻に呆けただの何だのと余計な詮索をされぬよう声を潜め、羽瀬がそっと子ウサギに囁きかけた。
「お前、あの雪ウサギなのか?」
しかし子ウサギはまるで羽瀬の声など聞こえないかのように、知らんぷりしている。ふわふわの牡丹雪のような尻尾を指で突いてやると、煩そうに顔をしかめ、毛布の下に潜り込んでしまった。
当たり前だ。解けて消えた雪ウサギが、どうして生きた子ウサギなんぞになろうものか。そんな都合の良いことは、それこそ夢物語か御伽噺の中でしか起こらないだろう。間違っても己を名残り雪などと呼び、人生を達観した人間が口にするべきことではない。
だから、誰にも聞かれぬよう、小さな小さな声で呟いた。
「……バニラアイス」
子ウサギが紅い目を瞠り、小さな耳をピンと立てて羽瀬を振り返った。
(END)




