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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第二章 〜 煉
6/123

ほととぎすの唄

 声はして 涙は見えぬ 郭公 我が衣手の ひつをからなむ (読み人知らず)


挿絵(By みてみん)


    プロローグ


 え~ん、え~ん。

 目を瞑り、昔を思い出す度に記憶の底に蘇るのは、自分の泣き声だ。

「母上……」

 あれはまだ俺が数えで三つ四つにもならない頃か。鬼に追われた俺は、泣きながら母の袂に隠れた。


 (ルイ)、と女にしては低く、澄んだ声が俺を呼ぶ。

「泪は本当に泣き虫ね」

 長く、艶やかな黒髪を風に靡かせ、美しい母が優しく微笑む。

「恐れを見せてはいけません。弱さ、怖れ、憎しみ、憤り、傲り、迷い、哀しみ……心に付け入らせぬよう、己の闇を面で覆いなさい」

 面を被った母から眼を射る強い光が放たれ、俺を喰おうと追ってきた鬼が溶けるように消えた。

 母は気高く、凛として美しく、そして恐ろしいほどに強かった。鬼は怖い。しかしその鬼を無表情に、有無を言わさず祓う母は、もっと怖い……。

 俺は、本当はいつも、表情のない白い面を被った母の姿に、そしてその強さに、心密かに怯えていたのだろう。

 そんな俺を振り返り、面を取った母は、ただ鮮やかに笑った。

「強くおなり、泪。いつの日か、己の道を選びとる為に。お前が選んだモノを守る為に」



     1


 ごうっ、と激しい風が樹々の幹を打ち鳴らし、粉塵に舞った幾枚もの護符が異形の鬼を切り裂く。地に倒れた鬼が溶けるように消えるのを見て、ふう、と肩で大きく息を吐いた泪が面を外し、額に流れる汗を拭った。

 大昔、ヒトの生活に鬼・物の怪の類がまだ深く根ざしていた頃。ここは深い山隘の村の北端。その山道から、眼下に広がる村を泪が見下ろした。

「村を護る御神木が折れて村の結界が緩んだとは言え、凄い数の妖魔だな。この地形の所為もあるとは思うが……」

 泪が溜息をつくと、薄く黒ずんだ霧のような瘴気に覆われた村を厳しい目でみつめた。

「一匹づつばらばらに祓うのは時間と体力の無駄だな。見付け次第結界に捉えて後でまとめて祓った方が効率が良いか……」

 泪が難しい顔で考え込んでいると、道の向こうから嬌声が響いてきた。振り返れば、祖父が数人の村娘と戯れている。と、祖父が泪に気づき、こっちへ来いと手招いてきた。

「噂をすれば何とやらじゃな。紹介しよう。ワシらの逗留の世話をしてくれる村の収め役方の女子衆じゃ。お前も煉も、着いた早々挨拶もそこそこに山に出てしまったからの、今宵は顔合わせも兼ねて彼方の一家の夕餉に招待された」

 泪が微笑みながら丁寧に頭を下げると、泪の美しさに見惚れた娘たちがもじもじと挨拶を返す。涼やかな切れ長の瞳、抜けるような色白の細面、艶やかな髪。数えで十六になった泪は女と見まごうばかりの美形だ。母に似たことを感謝せねばなるまい。父に似ていたら、熊と間違われるところだった。

「ふむ。やはり山里の娘は足腰が引き締まっておって良いのう。あの鍛えられた肉体美に敵うものなどそうそうあるまいて」

 楽しげに笑いさざめきながら家に向かって走り出す娘達を見送る祖父ことじじ様が、あご髭を撫でながらしみじみと呟く。

「……じじ様。先日京に行った折り、『京女の嫋やかな柳腰に勝るものはあるまい』とか言っておられませんでしたか。確か雪国に行った折りには、色の白さと餅肌がどうとか……」

 自分に白い目を向ける泪を見て、じじ様がにたりと笑った。

「泪よ、この世に在る美のカタチは千差万別よ。ひとつふたつの美しさしか愛でれんようでは、人生謳歌には程遠いぞ」

 じじ様がつくづくと泪を眺め、溜息をついた。

「それにしてもお前の眉目形は秀でておるのう。我が孫ながら、コレが男とは実に勿体ない。まぁ、世の中にはこういった形の美の愛好家というモノもおるから、全くの無駄にはならんとは思うが……」

「じじ様! そんなことより、折れた神木の代わりとなる新しい結界の(かなめ)は見つかりましたか?!」

 全くこの色ボケジジィときたら、俺にばっか苦労させてマジメに仕事してんのか? 今回は父者が他の依頼で別行動だから、退魔の殆どは俺の両肩に重くのしかかってくるのだ。

 剣呑な表情を隠そうとはしない泪に向かって、じじ様が重々しく首を横に振った。

「うむ。それが帯に短し襷に長しでの、中々気に入ったモノが見付からん」

 やはりこのじじい、女子衆にちょっかいでも出して遊んでいるだけなのでは……。泪が祖父に疑いの眼差しを向ける。

「まぁそう睨むな。山峡の村とはいえ、中々の大きさじゃし、この地形もある。生半可なモノでは結界が保たんのじゃよ。もうひとつ問題もあるしのう……」

「は? 問題とは一体……」

「まぁ、それは夕餉の時にでも話そう。それより泪、夕刻までに煉を捕まえておけ。あやつめ、東の谷辺りでうろちょろしておったが、ワシの顔を見た途端、尻に火のついた(ましら)の如く逃げよった」

「いや、しかし私もまだ西の原の見廻りが……」

 猿の捕獲なら暇そうなじじ様の方が適役だろうが。ナンでもカンでも俺に押し付けるな。

 と、じじ様が突如泪の後ろを指差して叫んだ。

「あっ! 妖怪砂かけババァ!」

「えぇっっっ?!」

 泪が顔を引きつらせ、悲鳴を上げて背後を振り返った。

 ……何もいない。やられた。むっとして振り返ると、じじ様はニヤつきながら既に村に向かう路を半ば下っている。

「ひひひ……スカした面をしおってからに、お前が実は大の怖がりなどと知ったら、女子衆は何と言うじゃろな。お前如きがワシをパシろうなど、十年早いわい」

 泪が祖父の後姿に向かって鋭く舌打ちした。忌々しい色ボケのヒト三化け七め。いつか成敗してくれる。



     2


 面倒だが仕方ない。重い溜息と共に、東の谷まで煉を探しに行く。細く急な山道のすぐ脇は深い谷だ。谷底から強い風が吹き上げる。泪は別に高所恐怖症ではないが、夕暮れ時の谷など余り気持ちの良いモノではない。俺はアイツとは違うのだ……と舌打ちする。

「ったく煉の奴、どこまで世話を焼かすつもりなんだ。こんな足場の悪いところで鬼に出くわしたりしたら……」

 ふと谷底から煉の笑い声が聞こえたような気がして立ち止まった。しかし深い渓谷を見下ろして首を振る。

「いや、いかにあいつが人より猿に近いとしても、まさかこの谷には下りれんだろ……」

 とんとん、と誰かに軽く肩を叩かれ、無防備に振り向いた。

 木の枝からぶら下がったひとつ目の鬼が、ニタリと嗤い、思わず立ち竦んだ泪の顔をべろりと舐める。悲鳴も出ぬ程驚き、後退ろうとして足を滑らせた。体勢を整える間も無く谷に落ちかけた瞬間、何かが凄まじい勢いで背中に当たった。

「兄者?!」

 背後の谷底から現れた煉に突き飛ばされ、お陰で谷に落ちるのはまぬがれたものの、二人でもんどり打って顔から泥に突っ込んだ。

「煉?! ってお前、何だその格好は?! っていうか、お前、今、谷底から……?!」

 混乱する兄を気遣う様子もなく、葉と布で作った羽の様なものを手足にくくりつけた不肖の弟が、壊れたソレを残念そうに見る。

「うん、今ね、烏天狗が飛び方を教えてくれるっていうからさ」

「猿どころかモモンガかっ! お前、ますますヒト科から外れていくな!」

 艶やかな黒羽の烏天狗がふわりと煉の横に舞い降りた。

「なんとなんと、ここだと谷から吹き上げる風で飛びやすいかと思いましたが、まさか煉殿の兄上様が降ってくるとは想定外でしたな」

 泪を驚かしたひとつ目鬼も泪の顔を覗き込み、申し訳なさそうに頭を掻く。

「いやはや、これはこれは、大変な御無礼をつかまつりました。気配が似ておりましたもので、てっきり煉殿と勘違いいたしまして。煉殿は拙者に驚かされるのを大変お気に召されておりましてな。しかしまさか煉殿の兄上様とは……」

「びっくら坊はド近眼だもんね~」

 親しげにすり寄って来る物の怪達にビクつく泪の横で、煉がきゃははは、と呑気な笑い声を上げる。

 笑う愚弟に泪が憮然とする。何故コイツはいつもこう呑気なのだ。このびっくら坊とかいう奴に驚かされたせいで、俺は二秒ほど心停止した……っていうか谷に落ちかけて、ちょっと走馬燈見えたし。でも何がイヤって、たとえ気配のみとは言えコイツと間違えられたというのが地味に一番イヤだ。

 次々と集まって来た物の怪とじゃれる煉の姿に、泪がひとつ大きく溜息した。

「煉、帰るぞ。夕餉は収め役の一家と共にする事になっているからな。泥を落として顔くらい洗っておけ」

「えぇ~、俺は遠慮しとくよ」

 逃げようとする煉の首根っこをむんずと掴む。

「人生における選択権の付与は、お前がヒト科に属すようになったら考えます」



     3


 泪の見たところ、村の収め役は中々の好人物で、その妻も優しげだった。ヒトは往々にして自分達には無い力を使う面使いを頼りつつも恐れ、時に偏見を持つものだが、この一家にはそういったところはなさそうだ。

 泪が隣に座る煉にちらりと目を遣る。人体モモンガ化に憧れる愚弟はこのような社交の場を苦手とするが、今のところは次々と運ばれてくる料理を消化吸収するのに忙しく、特に問題を起こす様子はない。大人しく黙っててくれるなら、それに越した事はない。動物の躾は餌付けが一番簡単なのだ。栗を甘く煮付けたものを、そっと弟の方に押しやった。


「捉えた鬼を一挙に祓う場所ですか。村のはずれに潰れた道場がありますが、あそこならあまり人も来ない。宜しければご自由にお使いくだされ。それにしても、面使い殿が手を焼く程の鬼が村に集まってきているとは……」

 泪の話を聞き、心配気に考え込んだ収め役に向かって、泪が頷く。

「御神木が折れて村の結界が緩み、元からこの地に棲む物の怪の力が強くなっていることは確かです。その上、ここは山に囲まれた低い盆地。かような地形には低きに流れる水が堰に止められ溜まるが如く、鬼の類が集まりやすいのです。やはり一刻も早く結界を結び直すことが重要かと……」

 泪にチラリと視線を送られ、じじ様がこほんと咳払いした。

「結界を結ぶ要となるモノは、そのモノの位置と神性の他にもうひとつ、そのモノを依り代とする守りが大切でしてな」

「守り?」

「さよう、簡単に言えば善を成す物の怪のようなものですな」

「まぁ、物の怪に良し悪しがあるんですの?」と収め役の妻が驚いたように首を傾げる。

「ヒトと同じく、物の怪も千差万別。善を成すものもいれば、悪を成すものもいる。そしてその(さが)は決して不変ではないのです」

「物の怪の中でもヒトに多大な害をもたらす疫神やヒトの肉体や心を喰うモノ……ヒト喰いを祓うのが我等面使いの主な仕事なのです」と泪が付け足す。

「話を戻しますとな、例え良き要となりうる岩や樹があっても、ソレに憑く守りがいなければ結界の力は格段に落つるゆえ、かような地には不十分。先の神木に憑いていたであろう守りを探してみましたが、どうやら樹が折れた際に消えてしまったらしく。依り代と守りは往々にして一心同体ですからな」

「つまり、結界の要となる依代と守り、この二つを探しておられると」

 なるほど、と納得がいったように収め役が幾度も頷く。

「さよう、まぁここらの山々は豊かですからな、良きモノはぼちぼちみつかりましょう。結界がないとて当分は心配召さるな。村に近づくヒト喰いの類は、孫が片しましょうぞ」

 闊達な笑い声を上げる祖父を、泪が横目でじろりと睨む。このじじい、他人事だと思って簡単に言ってくれる。ぼちぼちではこちらの身が持たんではないか。

「面使いの中でも相当の腕前だとか。今日山で泪殿の退魔を見た者に、その術の凄まじさを聞き申した」と収め役に言われ、泪が慌てて姿勢を正した。おや、見られていたのか。退魔に必死で全然気付かなかった。

「そんな若くていらっしゃるのに……」

 妻と女子衆がうっとりと泪を見やる。泪がその美しい顔にヨソ行きの微笑みを浮かべ、落ち着いた仕草で頭を下げた。

「祖父や父に比べれば私などまだまだ未熟でお恥ずかしい限りです。 村の警護は責任を持って務めさせていただきますが、並々ならぬ鬼の数、どうかなるべく村の外にはお出にならぬよう、他の方々にもお伝え下さい」

「わかりました。煉殿とおっしゃいましたかしら、そちらの御子も退魔をなさるの?」

 話を向けられても顔すら上げず、むっつりと押し黙ったまま煉が飯をかき込む。相変わらず愛想の無い奴だ。泪が密かに溜息をついた。しかしこいつは口を開けば何を言い出すか分からんからな。黙っていてくれる方がマシと言えばマシである。

「煉はまだまだ修行中の身でして、実戦には程遠く…… 」

 愛想の悪い弟に代わり、泪がにこやかに答える。

「でもお面は持っているのね。自分で作ったの? 見せてくれる?」

「さ……触んなッ」

 収め役の妻が自分に向かって手を伸ばした途端、煉が飛び退く様に立ち上がった。その場にいた全員が、驚いたように煉を見る。

「俺は……俺は兄者とは違う! 修行なんか大っ嫌いだ! 面使いになんぞならんッ」

 吐き捨てる様にそう言うと、唖然とする一同を後に煉が部屋を飛び出した。

「……申し訳ありません」

 気まずい沈黙を破って頭を下げた泪を、じじ様がそっと手で制した。じじ様が穏やかに泪を見ると、収め役とその妻に向かって話し始めた。

「これらの母親は、煉を産んですぐ身罷りましてな。周りにオナゴもおらず、煉は母親というものを知らずに育ちました。儂等も物の怪の相手に忙しく、たいして構ってやりませなんだが、煉は泣くことも愚図ることもなく、独りでいつまでも遊んでいるような子でした。ただ、母親ほどの歳のオナゴに会うとどうして良いかわからんようでしてな。恥ずかしいような、寂しいような……あれの中にも様々な葛藤が在るのでしょう。まぁ、かような態度も一種の甘え、お気に障られたとは思いまするが、どうかじじぃに免じて許してやって下され」

 泪が一礼して席を立つと、座敷の外廊下に出た。内庭に季節外れの蛍が一匹ふわりふわりと飛んでいる。ふと、昔、煉と川辺で見た蛍を思い出した。



 あれはまだ煉が四〜五歳の頃のことだったか。どこに遊びに行ったのか、いつまでも帰って来ない弟を探して、俺は日が暮れた川辺を歩いていた。

 あいつは昔からそうだった。立つこともできぬ赤子の頃から、ちょっとでも目を離すとすぐ何処かへ行ってしまう。そしてあいつを見つけるのはいつも俺の役目なのだ。あの日も一刻程歩き回り、辺りがすっかり暗くなった頃、ようやく葦の間にひっそりと蹲り、蛍を眺めている煉を見つけた。淡く、儚く、夕闇に瞬く光を、あいつは唯ひたすら無言で見つめていた。

 ヒトにも面使いにも馴染まぬ弟。ふと思った。こいつはいつも、自分の居場所を探しているのかも知れない――

「……煉」

 俺に呼ばれ、我に返った弟は、背後に立つ俺を見て、何やら少し嬉しげに目を細めた。夜風に艶やかな黒髪が靡く。母から譲り受けたのであろう弟のその髪を、俺はそっと撫でた。

「兄者、ミレンってなぁに?」

「未練?」

「オオババが言ってた。コノヨニミレンヲノコシテシンダモノノタマシイが蛍になるんだって」

「うーん、諦め切れない思いとか……だめだってわかってても欲しがったりする気持ちかなぁ」

 煉が黒々と濡れた大きな瞳でじっと俺を見つめた。

「……母上も蛍になったと思う?」


 どきりとした。

 少し迷ってから、わからない、と答えた。その時不意に、母の言葉が胸を過った。

『泪、面使いたる者、明日死ぬ覚悟で今日を生きなさい。そして愛しいモノを守る為、己の総てをもって明日を生き抜くのです』


 でも、と俺は煉に言った。でも、俺は母上は蛍になんかならなかったと思う。母上はとても心の強いひとだったから、と。


「母上はもう転生したのかなぁ」

 それには答えず、俺は唯、無言のまま蛍の淡い光をみつめた。

「いつかどこかで会えるかもしれないね、転生した母上に」

 そうだね、と呟き、俺は弟の無邪気な微笑みからそっと目を逸らした。



     4


 収め役一家との夕食から数日後。村はずれの道場で、捕獲したヒト喰い達を祓い終えた泪が、汗を拭って一息ついた。ヒトの気配を感じて道場の水屋を覗くと、煉が何やら水屋の隅でごそごそしている。その姿に、祖父の言葉をふと思い出す。

「……様々な葛藤ねぇ」

 ハッキリ言って、何も考えてないような気がするけど。

「おい、煉。何やってるんだ?」

 泪が背後から声をかけると、煉がぎくりとして飛び上がった。

「ななな、なんでもない」うそつけ。この挙動不審者め。

「今、何か隠しただろう。怒らないから言ってごらん」

「……山犬の仔」

 おずおずと答えた煉の背後から、黒っぽい毛むくじゃらな生き物が顔を覗かせた。そのままずるずると泪に向かって這ってくる。

「山犬の仔……? って確かに尻尾はあるけど……」

 なんだか動きが微妙に犬っぽくないようなのは気のせいであろうか。煉が慌ててその妙なイキモノを捕まえる。

「あぁ、勝手に出てきたらダメだろ、ニクキュー」

「にくきゅー?」

「うん、こいつの足の裏がさ、あんまりふくふくしてて可愛いから」

 ふと下を見れば、ニクキューの這った後がてらてらぬらぬらと濡れて光っていた。

「ちょっ、ちょっと待て……!」

 煉がにこにこしながらニクキューを抱き上げると、その足の裏を泪の目の前に突き出した。

「ほら~、ぷよぷよ~♡」

 ナメクジのように不気味なぬめりを帯びた肉球が顔に触れ、ねっとりと納豆のような糸を引く。先日に続き二度目の心停止中の泪を、煉が上目遣いで可愛らしく見上げた。

「飼ってもいい?」

「……捨ててきなさい」

 悪趣味な弟への怒りをぐっと堪えつつ、(ぬめ)る頬を必死に拭う。これはいつもの事なのだ。怒るだけ無駄なのだ。ヒトとヒトモドキでは解り合えるわけがないのだ。

「え~、お願い、ちゃんと面倒みるから~」

「やっぱお前、何も考えていないだろう?!」

 泪がニクキューの這いずった後を手拭いで拭きながら喚く。

「俺を過労死させる気か?! お願いだからこれ以上俺の仕事を増やさないでくれっ」

 煉が慌ててすがりついてきた。

「ホトトギスは?! ホトトギスの雛は飼ってもいい?!」

「ホトトギス?」

「うん、風で飛ばされて巣から落ちちゃったらしくって……でもまだ飛べないし、親鳥も見つからなかったんだ」

「それなら仕方ないけど……」

 俺だって鬼ではない。無害な小鳥如きで騒ぐつもりはないのだ、などと思いつつ、泪が煉の手元を覗き込んだ。

「……って、何かコレ違くない?」

 弟の手の中で眠る不思議な生き物の姿に、泪が首を傾げた。

 煉と違って泪はあまり動物には詳しくない。しかしコレはどうみてもホトトギスではない。そもそも鳥であるかすら怪しい。タラコ唇の鳥なんていたっけ? おまけにむくむくしたウブ毛に隠れているのか、眼がどこにあるのかすらよくわからない

 煉が愛しげにトリモドキを撫でる。

「鳴き声がね、ホトトギスにそっくりなんだ。最近兄者、よく眠れないみたいだから、子守唄代りにどうかと思って」

「ふーん、それはお前にしては風流な……」

 ちょっとキモイけど、でもまぁこれくらいなら許容範囲か。と、ホトトギスが不意に目を覚まし、何を思ったか泪をみて首を伸ばし、短い翼の先を震わせ、餌をねだるかのようにパカリと口を開けた。

「メシメシメシげろろろろろ」

 風流とは程遠い大声で喚くその口からでろりと出た舌の先で、血走った目玉がぎょろりと泪を睨む。驚きで腰を抜かさんばかりの泪にホトトギスが飛びつき、口に吸い付いた。泪が必死で己の口からホトトギスをもぎ取ろうと格闘しているのを見て、煉が呑気に笑う。

「あはは、お腹が空いてるんだよ」

「おまッ、舌入ってた! ってか精気吸われたッ! 俺を殺す気かッ?!」

「ホトトギスはそんなことしないよ。好物は花の蜜と樹液なんだ」

「へ、へぇ~」 それはちょっと意外だ。

「イモムシと蛇も食べるけど」

「……雑食じゃないか。とにかく、変なモノの持ち込み禁止」

 こいつ、イモムシ食った口で俺に……。泪がおぞましげにホトトギスを見ると身震いした。しかし煉はがっかりした顔でホトトギスを撫で、「こんなに可愛いのに」などと言って口を尖らせている。

「何が怖いって、コレを心から可愛いと思えるお前の存在が此の世で一番怖いわ。とにかく、村の瘴気が濃くなってきて、ただでさえ村人が疑心暗鬼になっているんだ。頼むから変な噂や誤解を招くような真似だけはしないでくれよ」


挿絵(By みてみん)



     5


 兄者はどうしてこんなに愛らしい生きモノ達をあんなに怖がるんだろう。ホトトギスの柔らかな羽毛を撫でつつ、煉が頬を膨らませる。以前、「蛇は手足が無いから嫌だ」 と言っていたから、煉が丹精込めて育てた黒い甲冑に紅い足が美しい百足(むかで)を綺麗な箱に入れて贈ろうとしたら、兄は喜ぶどころか死にそうな悲鳴を上げて逃げ出した。百足は足が多過ぎて嫌らしい。なら何本までならいいのだろうか。イモリはぬめるから嫌だという。しかしサラサラした肌のヤモリも同じく忌み嫌う。そのくせ手足もなく、ぬるぬるした魚は平気で捌いて食う。嫌悪の基準が全くわからない。

 釈然としない面持ちで兄が去った方を眺めていると、藪の陰から数匹の物の怪が姿を現した。

「どうしたの? みんなして、そんな所でこそこそと」

 煉が声をかけると物の怪達が泪の去った方を恐ろしげに見やった。

「煉殿の兄上様は行きはったか?」

「ん? 兄者がどうかした?」

「失礼ながら、我等は煉殿の兄上様が苦手でござる」

「どうして? 兄者はとても優しいよ?」

 驚いて煉が声を高めた。兄者は確かに蟲や物の怪を嫌悪しているが、だからと言って害のないモノを傷つけたりはしない。

 口籠った烏天狗達に代わり、三つ子の小鬼達が甲高い声を上げた。

「煉の兄様、怖い術使う」

「ワレラ見てた」

「怖い術使って鬼消した」

 煉が慌てて手を横に振る。

「違う違う、兄者が祓うのはヒト喰いだけだよ。だから君たちは大丈夫」

「いや、そう言いはってもなぁ」

「兄様コワイ」

「ワレラ消す?」

「消されるのはいやじゃ」

「兄上様にそのつもりが無くとも近くに居てはとばっちりを喰らうということもござるでの、我等、此処から出て行こうと思いまして、今日は別れを告げに参った次第でござる」

「そんな……ここを出て行く当てはあるの?」

「心配めさるな。棲み慣れた地を離れるは心許なくはありますが、我等も物の怪の端くれ、何とでもなりましょう」

「でも……キミ達はヒト喰いでもないし、それにヒトよりずっと前からここに棲んでいたんでしょ? なのにキミ達が出ていかなくちゃいけないなんて……」

 顔を曇らせた煉を見て、烏天狗が口許を綻ばせた。

「煉殿はお優しい。しかし残念ながら強きが弱きから奪うは此の世の常。ヒトは強い……しかし我等もそれなりに生き抜いてみせましょうぞ」

 そんなのは間違っている、と煉は思った。上手く言えないけれど、本当に強いモノは弱いモノから奪ったりなんかしない。山も空も河も海も、ヒトの為だけにあるわけではない。

「お願い、一日だけ待ってくれる? 君たちがここを出て行かなくても済む様に、何かイイ案がないか考えてみるよ」

 煉の嘆願に物の怪達が束の間逡巡し、顔を見合わせた。無言の物の怪達を見て煉がしょんぼりと項垂れる。

「せっかく仲良くなれたのに、キミ達がいなくなったら、つまんないな……」

 そんな煉に、物の怪達が笑顔で溜息をついた。

「煉殿にはかないませんな。其処まで言わはるなら、明日の朝まで待ちましょか」

「そうじゃの、我等とて、住み慣れた地を出て行かずに済むなら有難い」

「ありがとう! じゃあ、明日の朝、他のみんなも呼んでここで待っててくれる?」

 三つ子の小鬼達が嬉しげに頷いた。

「みんな来る」

「約束」

「煉待ってる」



 物の怪達が藪の陰に姿を消した。独り残された煉は木の枝に逆さまにぶらさがり、考えを巡らせた。

「うーん、兄者があいつらを見分ける方法か。何か印とか……? でも兄者って退魔のときは必死過ぎて、あんまり細かいとことか見えてない感じだしなぁ。 兄者にとって目立つモノか……」

 煉は知っている。礼儀正しく、見目形も麗しく、真面目で修行熱心な兄。しかし生まれ持った力は、弟である自分の方が遥かに上である事を。けれどもヒトには向き不向きと言うモノがある。鬼祓いという家業は自分にはどう考えても決定的に不向きだ。そしてそれは、本当は兄も同じなのだろう──

「あ!」

 頭を捻っていた煉が突如目を輝かせた。

「イイ事思いついた!」

 木から飛び降りた煉が、収め役の家へ向かって駆け出した。



     6


 翌朝。収め役の家で朝餉を終えた泪が疲れた顔で肩を揉んだ。

「っつう……流石に連日の退魔はこたえるな……」

「なんじゃ、筋肉痛か」

 通りがかったじじ様が泪のふくらはぎに遠慮のない蹴りを入れる。痛みにその整った顔をしかめ、自分を睨む泪を見て、じじ様がにたりと笑った。

「若いくせに情けないやつじゃ。ヒト喰いの祓いぐらい、修行がてら煉に手伝わせれば良かろう」

「……私に猿廻しにでもなれと?」

 俺だって己の事で精一杯なのだ。そこまで手が回るわけがない。そもそも煉に修行させるのに比べれば、猿に芸を教え込むほうがまだ易しい。

 しかしまるで泪の考えを読んだかのように、じじ様が肩を竦め、ふんと鼻を鳴らした。

「あれ程の力を持ちながらその使い方も知らずにおれば、いずれ痛い目に会うのはあいつじゃ。猿に芸を教え込む気が無いのは別に構わんが、お前も精々近くにいて巻添えを喰わんようにすることじゃな」

 痛いところを突かれ、思わず言葉に詰まった。返事に窮した泪を尻目に、じじ様はひとりさっさと家を出てゆく。

 じじ様を見送った泪が、辺りを見回し再び溜息した。

「それにしても煉のやつ、昨夜は遅くまでごそごそして、今朝は朝餉も食わずにどこに飛び出して行ったんだか」

 お陰で俺は筋肉痛の上に寝不足だ。ぶつぶつと独り言を言っていると、通りかかった女子衆が泪を振り返った。

「煉様なら、今朝早くに道場の方へ行かれたようですよ」

「それはそれは……」

 女子衆の言葉に泪が首を傾げる。修行のわけないし、ホトトギスに餌でもやってるのか。物好きな奴め。じじ様はああ言ったが、しかし弟を育ててきたのは祖父でも父でもなく、この俺なのだ。あいつの事は俺が一番よく解っている。そしてあいつに多くを期待するのは時間の無駄だ。 俺の邪魔にならないならば、よしとするしかあるまい。

 自分も早く出掛ける仕度をしようと寝間を通りかかった泪が、その奥の小部屋が開いているのに気付いて何気なく覗き込んだ。泪や煉の旅の行李が開けっ放しで、引っ掻き回されたその中身が辺りに散乱している。前言撤回。やはりあいつは俺の邪魔をするためだけに此の世に存在しているのやもしれぬ。

「ったく、俺の仕事を増やすなっつーの!」

 ぶつぶつ言いながら散乱した着物を片付けようとした泪がふと手を止め、袖のもげた紅い着物を見つめた。数秒後、着物を掴んだ泪が無言で家を出た。



     7


 ひと気のない道場には、大小様々な物の怪が集まっていた。煉がその一匹一匹に、丁寧に紅い布の切れ端を結んでやる。

「これ、元は俺と兄者の産着だったんだ。これなら俺たちの匂いが染み付いているから、退魔の最中でも兄者も気付き易いと思うんだよね」

 三つ子の小鬼が嬉しげに細い腕に結ばれた紅い紐を見る。

「ワレラ印付き?」「印付き消されない?」「煉と遊べる?」

「うん、兄者にちゃんと言っておくから。でも、お前達、絶対にヒトを傷つけちゃ駄目だぞ。面使いはヒト喰いを見逃すことは出来ないからな」

 三つ子の小鬼達が真剣な顔で頷く。

「約束」「ワレラ人喰わん」「煉ワレラ守る」

 と、煉が道場の入口に立った人影に振り返った。

「あぁ、兄者、ちょうど良かった……」

 泪が物も言わずいきなり煉を殴りつけた。煉はただ驚きに息を飲み、殴られた頬を抑えて呆然と泪を見上げた。いつも穏やかな笑みを絶やさぬ兄が、紅い産着を握り締め、煉が生まれて初めて見る激しい眼差しで自分を睨んでいる。

「……お前、わかっているのか?」

 道場まで走ってきたのだろうか。荒々しく肩で息をする兄の顔は、蒼白だった。

「……これは、この産着は母上がご自分の着物をほどいて作られたものなんだぞ」

 低く掠れた声でそう呟き、泪が指が白くなるほど強く握り締めた産着を煉の前に突き出した。

「し、知ってるよ……」

「いいや、お前は何もわかっていない。母上は病気で亡くなられたんじゃない。生まれたばかりのお前を狙ってきた鬼に喰われたんだ。母上は、お前を守るため、お前の身代りとなって……」

 不意にこみ上げてきた乾いた嗤いに、泪が肩を震わせた。

「鬼に喰われた魂は無に還る。母上は蛍になんかならないし、まして転生なんてできない。あのひとはもう何処にもいない。だから、これが、ここに残されたものだけが、母上が此処に在ったという証の全てだ。もう二度と此の世に在ることの許されない、母上の……!」

「見ろッ! ワシの言ったとおりじゃ!」

 突如道場に響いた人の声に泪が振り返った。険しい表情の村人達が道場を覗き込んでいる。そのうちの一人が煉を指差すと叫んだ。

「昨日見たんじゃ! この餓鬼、鬼と仲良く遊んでおった! こいつら、魔を祓うなどと抜かして、その裏で村に鬼を集めてやがるんだ!」

「村を襲わせるつもりか?」

「わからねぇ、おれらを助けるふりして金儲けしてるのかもしれねぇ」

「収め役に取り入って、婿にでもなるつもりか」

「気味の悪い……言わんこっちゃない、だから面使いなんて、こんな得体の知れない奴らを村に入れるのは反対だったんだよ!」


 ……しまった。

 瘴気に当てられた村人達の肩に無数の黒い鬼が蠢くのを見て、泪が鋭く舌打ちした。収め役が言っていたではないか。『今日山で泪殿の退魔を見ていた者が……』と。俺は見られていた。無論煉も。疑心暗鬼に取り憑かれた人々に、物の怪好きの弟が鬼と遊ぶ姿を見られるとは、何という失態か。もっと早く気付くべきだった。これは決して煉の責任ではない。兄である俺の責任だ。


「ち、違う……!」

 猛る村人達の前に立ち竦んだ兄を庇うように煉が前に出た。

「なにが違うんじゃ! 違うって言うならお前がこいつら祓ってみんかい!」

 怒った村人が煉を突き飛ばした。村人の背後に憑いた黒い影のような鬼が突如大きく膨らみ、村人と煉を喰うかのように牙を向くのをみた瞬間、反射的に泪が腕を振った。

 ぴしり、という音と共に道場に結界が張り巡らされ、泪の創り出す空間の歪みに伴う耳鳴りに、人々が頭を抱えて呻いた。村人に憑いた鬼諸共、結界に囚われた印付き達がか細い悲鳴を上げる。

 ヒトと鬼が騒ぐ中、泪が懐から出した面を静かに被った。泪の白い面に一本隈の模様が現れるのを見て、村人達は慌てふためき、我先にと道場の外に逃げ出してゆく。

「あ、兄者……」

  結界の隅で震える物の怪達を見た煉が、泪の着物の端を掴もうとした。

「煉、外に出ろ」

「兄者……」

 泪がじろりと煉を睨んだ。

「二度言わせるな。邪魔だ、行け」

 それでも動こうとしない煉に背を向け、捉えた鬼に向き直る。どうせこの結界の中では、修行不足の煉に出来る事などないのだ。己は鬼を祓うことだけに集中すればよい。……けれども何故だろう。結界の隅に固まって震える印付き達の声にならぬ悲鳴が、やけにきんきんと頭に響く。

 護符に力を込める度に、イヤダ、イヤダと鬼が泣く。消えたくない、怖い、憎い、と鬼が哭く。空気を切り裂く護符の中で、ヒトは嘘つきだと、約束を破ったと、鬼共が噎ぶ。約束とは何だろう。何故鬼如きに、面使いともあろう者が嘘つき呼ばわりされねばならぬのか。

 村人達に憑いていた鬼の爪を間一髪で逃れる。

 煉は言った、と鬼が弟の名を呼ぶ。ワシラはトモダチだと、トモダチを守ると、煉は言った──

 物の怪共の声が煩くて、集中出来ない。心を乱されるな、と必死で己に言い聞かせる。迷うな。俺は面使いだ。俺の力は、鬼を祓う為のモノ。この力で護るべきモノは唯ひとつ。

 息を整え態勢を持ち直した泪が、素早く九字を切る。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前──」

「煉!!!」

 不意に大きく響いた物の怪達の悲鳴に集中を乱され、体勢が崩れた次の瞬間、鋭い鬼のかぎ爪が泪の面を割った。

 ──護るべきもの。薄らぐ意識の中、ふと母の声を聴いた。オレノマモルベキハ……



「泪、お前の力は何の為にあるのだと思う?」

 神木で出来た白い面を取ると、振り返った母が俺に尋ねた。

「鬼を祓うためです」

 幼い俺は、母を見上げて答えた。しかし母は微笑みと共に首を横に振った。

「違うわ。お前の力は、お前が守りたいと願うモノの未来を守る為にあるのよ」

 蒼い空を見上げた母の横顔は、凛として強く、しかし何処か寂しげだった。

「私達は誰も、此の世の全ての鬼を祓い、全ての人を救うほどには強くはない。でも私は、己の心に決めたモノを守ることが出来るほどには強く在りたいと思う」

 ……母は異端だったのだろう。父や祖父は何も言わなかったが、母亡き後、他の面使い達に護るべきはヒト、と教えられてきた。繰り返し、繰り返し、まるで俺の内に眠る記憶と消そうとするかのように、皆口を揃えて『掟』を語る。

 鬼は祓うモノ。

 人は守るモノ。

 でも、本当は、俺の守りたいモノは──



 意識を手放す寸前、背中に凄まじい衝撃が走った。煉が泪の背を蹴り、間一髪鬼の爪を避けさせたのだ。霞む目に、自分を守るように鬼の前に立つ弟の姿が映る。煉が懐から出した面を被ると、赤く燃えたつような火焔隈がくっきりとその面に浮かび上がった。

 鬼殺しを生業とする一族の中でも一際強く、希少な力を持って生まれた弟は、何故かヒトよりも鬼を好み、自身の力をひどく忌み嫌い、修行を怠り、面を被ることすら滅多になかった。けれども泪は知っている。煉がその身に秘める力は、泪などでは及びもつかないという事を。それを口惜しいと思ったことはない。唯、そんな弟を哀れだと思う。

 煉が襲いかかる鬼の腕を掴んだ瞬間、激しい業火が鬼を呑み込んだ。それは母に似て、有無を言わさぬ圧倒的な力だった。即座に荒れ狂う炎を止めようとしたのか、煉が炎を抱くように身体を丸め、歯を食い縛る。しかし一気に放ったその力は、その程度で収まるほど生易しいモノではない。

 煉の全身から迸る熱に、道場の隅に隠れていた印付き達が巻き込まれ、悲鳴を上げる間もなく一瞬にして消滅した。

 泪の張った結界も壊れ、道場が灰塵に帰した頃、ようやく最後の火が消えた。面をかなぐり捨てた煉が、燃え残った紅い布の切れ端と、唯一匹焼け残った半死のホトトギスに近づいた。

「煉。それはもう助からん。憐れと思うなら、お前の力で逝かせておやり」

 ホトトギスの前で項垂れる煉を前に、言葉なく立ち尽くす村人の間からじじ様が現れ、穏やかに語りかけた。

「面使いが祓う全ての魔は無に還る……」

 ふと顔を上げた煉が、口の端を歪めるようにして幽かに嗤った。

「知っていたよ。誰も何も言わなかったけど、でも知ってた。俺が生まれたから母上は亡くなられたって」

「煉……」

 泪が一歩煉に近づこうとした時だった。

「寄るなッ!」

 激しく燃え上がる炎が泪を威嚇した。呆然と自分を見る泪から目を逸らすと、煉がホトトギスを抱きしめ立ち上がった。

「俺は今晩ここを発つ」

「一人でか? 何処に行くつもりじゃ」

「何処でもいい」

 煉が泪にちらりと目をやると、すぐに目を逸らした。

「……兄者のいないところなら、何処でも」

「れ、煉……」

「兄者」

 恐ろしく静かな声が胸に突き刺さる。

「二度と俺の名を呼ぶな」

 道場を出て行く弟の後姿を、泪はただ呆然と見送った。


「泪は泣き虫ね」と母が笑う。


 泣き虫だった俺は、母の亡き後、泣くことを己に禁じた。守るべきモノのために、強くなるためと己に言い聞かせて。でも本当は、母を失った哀しみを受け容れられず、守るべきモノも、守りたいモノもわからず、ただ何も考えたくなかっただけではないだろうか。

 不意に乾いた嗤いが込み上げてきた。俺に向かって繰り返される言葉に身を任せ、掟に従う振りをして、俺は泣かず、考えず、心を閉ざして、ただ弱き己を守ろうとしたのだろう。

 溺れる、と思った。胸の内に溜めた想いに、俺は溺れる。


 じじ様がふんと鼻を鳴らした。

「なんじゃ、不出来な弟に見捨てられたのがそんなに堪えるか?」

 黙って俯いている泪にじじ様があきれたように溜息をついた。

「あれは大した痴れ者じゃが、しかしあれは己の守りたいモノを知っている。その分お前よりは賢いかもしれぬ」

 しばし黙考した後、泪がはっとしてじじ様を見上げると外に走り出た。懸命に走り、折れた神木の前で煉に追いついた。

「煉!!!」

 振り返った煉が険しい眼つきで泪を睨み身構える。

「兄者、俺に近づくなって……」

「この大馬鹿野郎ッ!!!」

 走ってきた勢いに任せて泪が煉の頭を思いっきり殴った。油断していたのだろうか。煉の小さな体が吹っ飛んだ。

「お前、自分がいつか俺を危険な目に合わせるかもしれんと怖れているのか? 馬鹿にするのもいい加減にしろッ」

 荒い息をつきながら、泪が煉の肩を強く掴んで怒鳴った。

「いいか、よく覚えておけ! 俺は、お前に壊されるほどヤワではない。そして俺はこれからもっともっと強くなる。大器晩成型だからな。だから……」

 自分を見つめる弟の艶やかな黒髪をくしゃりと掻き上げ、微笑んだ。

「お前はずっと俺の側にいればいい。お前の居場所は俺が守る」


 胸の内で何かが溶けたような気がした。不意に自分を取り巻く霊気が色と形を変えるのを感じた。なにか、透明で、ひんやりとしたモノに。

 泪に触れたホトトギスがふわりと光ると、大きな鳥の姿になった。兄弟が驚いて鳥を見上げていると、じじ様が近づいてきた。

「ふん、男二人が抱きあって、気味の悪いことよのう」

 面を被ったじじ様が、ホトトギスに守りの印を結ぶ。ホトトギスが折れた古木から萌え出た若芽の守りとなり、結界の結び目となるように。自然と、そこに生きる全てのモノと、人々の祈りを護っていくように。

 村を覆う瘴気が晴れ始めたのをみて、じじ様が面を取るとじろりと泪と煉を睨んだ。

「浄化の焔と再生の水、お前達の力は二人でひとつ。精々仲良くすることじゃ。お前達が上手く足並みを揃えぬ限りは、子供の火遊び水遊びと大して変わらんがな」

 お互いを無言で見つめ合う煉と泪に向かってじじ様が忌々しげに舌打ちした。

「やめんか。美人姉妹ならさぞかし絵になったろうが、男同士で見つめ合ってもキモチワルイだけじゃ。そんな暇があるなら修行でもせんか」



     エピローグ


 哀しみを受け容れ、もっと優しくなりたいと願いつつ、泪は日々修行に励む。……当たり前だ。泪は真面目で、己に厳しく、人生に向き合うことに対して真剣なのだから。

 それに対し、煉は相変らず修行嫌いの物の怪好きだ。……当たり前だ。奴は目の前の遊びと食べ物にしか興味がなく、他者にも己にも甘く、人生において常に楽な方へと流されていくのだから。人間の性格は一昼夜で変わることはない。しかしそんな煉も、泪と二人で、というのは気に入ってるらしい。


 己の背丈ほどもある巨大な大山椒魚の物の怪を引きずりつつ、泪を見つけた煉が嬉しげに駆け寄ってくる。またか。今日はこれで三度目だ。煉と二人で、という修行は泪にとっては精神的苦痛を伴う。

 逃げようとする泪に煉が笑顔でタックルした。

「こいつね、沼の守りになりたいんだって。さ、兄者! 俺と一緒にイチニサンで、心を込めてぎゅ~♡ってしてあげて♡」


 ……泪の修行の道は険しい。



(END)

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