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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
56/123

閑話・アヴェマリア

挿絵(By みてみん)


 天使かと思った。


 高い樹の枝に腰掛け、夜空に凍える星々の光を見つめる少年を見た時、何故か、天使かと思ったのだ。


 それはイブの夜のことだった。最後のミサに来た人々を丘の上の小さな教会から送り出し、若い牧師は無事にミサを終えたことに安堵の溜息を吐いた。ひと気の無い質素な居間に戻り、レコードを蓄音機にかける。祖父から受け継いだ蓄音機から流れる、重厚でありながらも深く、暖かな音が彼は好きだった。

 建て付けの悪い窓から吹き込む隙間風に、半開きのカーテンが揺れる。雨戸を閉めようと立ち上がり、ふと窓から見上げた樹の枝に、その少年はいた。思わず眼を疑った。彼の目に映ったのは仄かな星明かりに浮かぶ黒いシルエットでしかなかったのだが、それでも何故か、少年の長い睫毛や、蒼白い頬や、冴え冴えとした月の光を見つめる倦んだ眼差しがくっきりと見えた気がした。

 天使のわけがない、と自分に言い聞かせる。天使の存在を否定するわけではないが、しかしたとえ存在したとしても、天使は自分などの元には来ないだろう。

 最初の驚きが過ぎ去ると、樹の上の見知らぬ少年の姿に彼は改めて慌て、窓を開けた。身を切るような冷たい空気が部屋に流れ込む。

「君……! そんな所で何をしているんだい?」

 窓から身を乗り出すようにして頭上に声を掛けると、少年はゆっくりと振り返り、そして軽く枝を蹴って飛び、まるで翼でも生えているかのように音も無く地面に舞い降りた。

 驚きに言葉も無く目を瞠っていると、少年は窓の桟に凭れかかるようにして部屋を覗き込み、あどけない表情で彼を見上げた。

「綺麗だね。コレって何て題名?」

「え?」

「曲だよ、曲」

 少年が蓄音機を指差す。

「え、あ、あぁ……湖上の麗人……シューベルトのアヴェマリアだよ」

「ふうん」

 僅かに首を傾げると、天使の少年が不意にその黒々と濡れた瞳を細め、口許に小悪魔的な笑みを浮かべた。

「……イブの夜に、ヒトがいなくなってから独りでコッソリとコレを聴いているのは、あんたがプロテスタントの牧師だから?」

「え? それは一体どう言う意味――」

「だって殆どのプロテスタントの宗派には、聖母信仰って無いんじゃなかったっけ?」

「……よく知ってるね」

「古いモノから新しいモノまで、ある程度力のある宗教や信仰は、一応目につく限りチェックしてるからね」

「私は……宗教や宗派の主義主張を超えて、良いものは良いと、認められる人間でありたいと思うんだよ。そもそも誤解されていることが多いけれど、シューベルトのアヴェマリアは、別に宗教音楽ではないし……」

 目を逸らして口の中でごもごもと言い訳じみた言葉を呟く彼を見て、少年が楽しげに笑った。



 寒い夜に立ち話もなんだから、と誘うと、少年は素直に頷き、窓から居間へ入ってきた。

「こんな夜更けに、あんな高い樹に登って何をしていたんだい?」

「うん、ちょっとね、待っているモノがあって……星を観てたんだ」

 手渡された熱いカップの紅茶にふうふうと息を吹きかけつつ、椅子に腰掛けた少年が答える。

「空の星と、地上の星」

「地上の星?」

「うん、ここは丘の上だからさ、あの樹から見下ろした街のイルミネーションが綺麗で、気に入ってるんだよね」

「……まぁ、確かに綺麗かもしれないね。でも、夜に樹に登ったりしてはいけないよ。君はとても身が軽いみたいだけど、万が一と言うこともある」

 背中に羽があるのかと見紛うような少年にとって、そんな心配など余計なお世話と言ったところか。焼き菓子を頬張りながら、少年はただ軽く肩を竦めてみせた。

「……まぁとにかく、それを食べ終わったら、家まで送って行こう。あまり遅くなると、家の人が心配するだろうからね」

 指先に付いた菓子を舐めながら、少年が首を横に振った。

「ありがとう、でも大丈夫だから」

「いや、大丈夫という事はないだろう。そうだ、先に家に電話をしておいた方が――」

「心配する家の人なんていないよ。ついでに言うと、家もない。だから電話をする必要もない。そもそも電話を掛ける家が無いんだからさ」

 思わず返答に詰まり、まじまじと少年の顔を見る。家出だとか、家庭内暴力だとか、施設で生活しているとか、そんな事ではないのだと、少年の眼を見て悟った。しかし事情を詳しく尋ねるのは憚られた。その瞳は笑みを含んでいたが、しかし他人がそれ以上踏み込むことを許さない何かがあった。

 ふっと溜息を吐き、こめかみを揉む。

「……君を最初に見た時、一瞬、天使かと思った」

 ブハッと盛大に少年が紅茶を噴いた。

「天使〜?!」

 激しく咳込みつつ、きゃはははは、と少年が笑い転げる。一頻り笑った後、目尻に滲んだ涙を拭きつつ、ねぇ、と少年が訊ねた。

「キリスト教では、神はヒトを愛するって教えるでしょ? なら天使はどうかな?」

「どうって……?」

「天使はヒトのことが好きなのかな?」

「……これは私の解釈だが、天使は神の愛する者を愛し、神は人の子を愛する……ならば当然、天使は神に愛されている人間を愛しているのではないかな」

「じゃあ、俺は天使じゃないね」

 顔にかかる艶やかな黒髪を掻き上げると、僅かに眦の吊り上がった猫のような眼を細め、少年がニヤリと笑った。

「天使よりも悪魔に近いかも知れない」

「そんな、悪魔だなんて……」

 少年はふざけているだけかも知れない。これくらいの年の子供にありがちな、何か奇抜な、人の神経を逆撫でるような事を言って、人の気を引こうとしているのかも知れない。しかし彼に向けられた試すような眼差しには、どこか本気でその言葉を信じている節があった。

「君は、その……もしかして、人があまり好きではない……のかな?」

「ヒトは傲慢で、欲深く、おぞましい」

 何の躊躇いも無く言い放たれた言葉に、彼は思わず顔を顰めた。胸に微かな苦味が広がり、苛立ちを覚える。それは無論少年に対してではなく、少年の言葉に反論出来ない自分に対して。

 無言で目を逸らした彼を見て、少年が柔らかな微笑みを口許に浮かべた。

「けれども同時に、ヒトは何かを慈しみ、労わり、愛することが出来る。世界には何億何十億という人間がいる。その全てをヒトというひとつの単位に括り、その存在の是非を問うことは無意味だと思うな……ねぇ、祈りはヒトを救うと思う?」

 不意に投げつけられた問いにどきりとして少年を見た。深い淵のような瞳が彼の顔を覗き込む。何故、この少年は自分を試すようなことばかり次々と口にするのだろう。やはり、聖夜に自分の信仰を試しに来た天使か悪魔なのかも知れない。

「ねぇ、祈りはヒトを救うと、あんたは本気で信じているの?」

「……当たり前じゃないか。祈りは信仰の礎だよ」

 我ながら自分の言葉を白々しいと思う。軽い咳払いと共に威厳を持って答えたつもりが、声が僅かに震え、掠れた。少年の視線に耐えられず、思わず目を泳がせる。

「違うね」と言った少年の声に含まれた小さな棘のような嘲りが、彼の胸にちくりと刺さる。

「唯祈っているだけじゃあ、何も変わらないよ」

 そうだね、と彼は諦念の溜息と共に呟いた。

「……でも、祈りは願いだから、その願いを口にする事で、人はそれに向かって進む切っ掛けを得るのではないかな。それは、本当に小さな一歩かも知れないけれど、でも、全てはその一歩が無ければ始まらないから……」

「祈りは世界を変えたりはしない」

 少年の言葉が彼の抵抗を呆気無く斬り捨てた。俯いた彼の横顔に見え隠れする哀しみと苦渋を、少年の深い瞳が見つめる。ふと柔らかな微笑みがその口許を掠めた。

「……だけど祈りは、この世界を覆う空気を揺らめかすことは出来る。ほんの一瞬だけど、でもそれはとても特別なことなんだ」

 少年が不意に立ち上がると、窓を大きく開け放った。部屋に吹き込む夜風に艶やかな黒髪が乱れる。

「世界には、本当に稀にこんな日があるんだ。世界中の多くのヒトが、大切な何かに向かって暖かな気持ちを持つ瞬間。そして大切なモノの幸せを祈る瞬間。祈るヒトの数が一定数を超えると、一種の力になって、空気が揺らめく」


 ほら、もうすぐ始まる。そう囁くと、少年が夜空を指差した。

 漆黒の夜空が、不意にその深さを増した。次の瞬間、冷たく澄んだ空気が揺らぎ、いく筋もの滝のような光が現れた。翡翠色と薔薇色、そして真紅のオーロラが鮮やかに夜空を染め、輝き……消えた。それは本当に、瞬きするほどの間の一瞬の出来事だった。

 しかし一瞬でありながら、その閃く光の永劫の美しさに彼は陶然とした。此の世に奇跡というものが存在するなら、天に溢れたあの光こそが奇跡なのかも知れない――


「じゃあ、俺はもう行かないと。お茶、ごちそうさま」

 少年の声に我に返り、慌てて周囲を見回した。そこにはオーロラなど無く、星の瞬く遠く暗い夜空と、窓から吹き込む風に冷え切った質素な部屋と、古い蓄音機から流れるシューベルトの旋律があるだけだった。

 自分の前に立つ少年を改めて眺める。何やら悪戯の成功を喜ぶような笑みを浮かべている少年には、翼も角もない。自分は夢でもみたのだろうか。ふっと嘆息して、軽く額を揉む。

「今日はもう遅い」

 どんな事情があるにしろ、帰る家は無いと言い切った少年が、一体何処に行くと言うのだ。身寄りの無い(らしい)子供が夜更けに外をうろつける程、世の中は安全ではない。

「……その、もし良かったら、今晩はここに泊まっていくといい。ゆっくり休んで、君の行き先は明日考えればいいだろう」

「ありがとう。でも、イブの夜に忙しいのは牧師とサンタクロースだけじゃないんだよ。俺の仕事は今から始まる」

「仕事?」

 首を傾げた彼に向かって少年が微笑む。

「知ってる? クリスマスは一年で一番自殺者が多い日なんだ」

 口許に甘い笑みを浮かべた少年の眼は、全く笑っていなかった。

「星が輝くのは闇があるからだよ。光が一点に集まれば、その分だけ闇は濃く、暗くなる。そして一銭にもならない俺の仕事が増える……他のみんなが酔っ払ってワイワイ楽しくやってる時にさぁ、全くもって迷惑しちゃうよね」

 おどけた仕草で肩を竦めると、少年が開け放たれた窓の桟にひらりと飛び乗った。

「あんたが何を悩んでいるのか知らないけど、でもあんたはきっと、悩みながらもヒトを光に導き、そしてその光と共に生きていくことが出来る人間だよ。でも俺は違う」


「俺は、ヒトの闇と共に生きる」


 肩越しに振り返った少年の鮮やかな微笑みが、アヴェマリアの旋律と共に闇に仄かな余韻を残した。


   ❄


 イブの夜。

 彼は今宵も黒く艶やかな円盤にそっと針を置く。その澄んだ旋律が、開け放たれた窓からこの夜風に乗り、彼の祈りと共に、あの少年に届くようにと。




 ……メリークリスマス。

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