樹氷(前編)
雪の内に 春はきにけり うぐひすの こほれる涙 今やとくらむ (二条后)
プロローグ
生物学的に父と呼ばれる存在であったあの男にとって、俺を殴ることは息をするよりも自然な行為だった。それは物心が付くよりも以前から繰り返された、我が家の日常だった。
俺が逃げれば姉が代わりに殴られた。だから俺は逃げなかった。しかし俺が逃げなくても、姉はよく俺を庇って殴られた。
「私が高校を卒業したら家を出よう」
母の腕に包帯を巻きながら姉は言った。
「大丈夫、お姉ちゃんが働いてイツキとお母さんくらい食べさせてあげるから」
だからあとちょっとの辛抱ね、と姉が俺の頭を撫でた。私達は今は蛹のように動けないけれど、でもいつか蝶のように自由になる。そう言って、殴られた頬を腫らした姉は微笑んだ。
その日はクリスマスイブだった。
細い腕でいつも俺を守ろうとしてくれる優しい姉を喜ばせたくて、何か贈り物をしたいと思った。しかし小遣いも貰えない子供に買える物など無く、俺はただ、クリスマスソングの流れる街を当ても無く彷徨った。せめて花でも摘もうと河原に行ってみたが、師走の野に花など咲いているわけもなく、諦めて家に帰ろうとした時、俺はそれを見つけた。
それは、季節外れの蝶だった。
氷でできたかのように輝く半透明の羽を頼りなげに動かし、それは冬の風にゆらゆらと流れていた。やがて疲れて休むかのように葦にとまった蝶の羽を、俺はそっと手で覆った。淡く柔らかな羽は氷のように冷たかった。驚いた蝶が激しく羽を動かし、粉雪のような鱗粉が手から零れて風に舞った。
「お願い」と俺は手の中で暴れる蝶に囁いた。
「君はとっても綺麗だから、お姉ちゃんに君を見せたいんだ。約束する、君を傷つけたりしない。お姉ちゃんに見せたら自由にしてあげるよ」
まるで俺の言葉を理解したかのように蝶が大人しくなった。手の中でそっと息づくように透明な羽を動かす蝶を早く姉に見せたくて、こんな綺麗な蝶をみたら姉はどんなに驚き喜ぶだろうと想像し、俺は弾むような足取りで家に帰った。
息せき切って居間に駆け込んだ時、俺は一瞬、間違えて他人の家に入ってしまったのかと思った。床も壁も、天井ですら、ペンキをぶちまけたかのように真っ赤だった。
クリスマスだから、と俺は思った。クリスマスだから、俺を驚かせようと、姉が家を飾りつけようとしたに違いない。
赤いペンキに濡れた床の上に母が俯せに倒れていた。手足が妙な具合に折り曲がったおかしな姿勢のまま、母はぴくりとも動かなかった。壁にもたれかかって座っている姉を見つけ、歩み寄った。
「……お姉ちゃん……?」
囁くような声で姉に呼びかけながら、俺は無言で俯いている姉の顔にかかる長い髪をそっと掻き上げた。べっとりと濡れた髪が指に絡みついた。
ぴちゃん、ぴちゃん、という断続的な音がやけに大きく耳に響き、俺は、姉の潰れた頭部から滴る赤い雫を見つめながら、水道の蛇口がちゃんと閉まっていないんだな、早く立って止めにいかなければ、と考えていた。
みしり、と床を踏む重たい足音に振り返ると、ゴルフクラブを手にした父が立っていた。濁った眼が俺を捉え、ぶつぶつと、暗い沼に浮く泡が潰れるような不快な呟きと共に、父が俺に近づいてきた。
足が震えて立ち上がることもままならず、這って逃げようとした俺の目に、足元の床でゆっくりと透明な羽を動かす蝶が映った。なぜか、俺が逃げたあと父に踏み潰される蝶の無残な姿が目に浮かび、不意に金縛りにでもあったかのように身体が動かなくなった。腕を振りかざす影が濡れた床に映ったその時、姉が動いた。
顔の半分潰れた人間の何処にそんな力があったのか。それとも姉は既に事切れていて、姉の中に巣喰う鬼が彼女の骸を動かしていたのかもしれない。立ち上がった姉の手にした包丁が、深々と父の背中に刺さった。
長い絶叫が止み、赤い泡をぶくぶくと蟹のように口から吹いた父が動かなくなっても、俺は唯、濡れた鉄の匂いに沈む真っ赤な部屋を見つめ続けた。やがて全てのモノは色を失い、匂いは消え、俺は音の無い世界にいた。
霧氷が俺を包み、此の世の全てを覆い隠す。
1
「──課長、氷上課長」
自分を呼ぶ声に我に返った。
「すみません、このグラフなんですが」テキパキとした動作で新入社員の奥田が氷上の机にグラフを置く。「このグリーンのバーグラフがですね……」
「あ、ちょっと待って」氷上がペンで奥田の差し示したバーに印を付けた。「ここか?」
「え? あ、はい……」奥田が不思議そうに氷上を見て、不意にはっとした。「あ、もしかして課長って色盲ですか?! うわっ、すみません、変な色とか使っちゃって……確かあれって緑とかが見えにくいんですよね? すみません、グラフ作り直してきますっ」
慌てる部下に氷上が首を横に振り、穏やかに微笑んだ。
「気にしないでくれ。それに見えないのは緑だけじゃないから」
事件のショックによる後遺症です、と医者は言った。心理的なものなので、時間が経てば治るでしょう、と。確かに音と匂いは時と共に戻ってきた。しかし氷上の世界に色が戻ることは無かった。
白と黒と静かな灰色で成り立つモノクロームの世界。それが氷上の棲む世界だった。
師走の日暮れは早い。仕事を終え、六時過ぎに会社を出て見上げた空はすでに暗かった。しかし街には空の暗さを補って余りある程の光が溢れている。そこかしこでチカチカと点滅を繰り返す無数の光の渦とクリスマスソングの中を、人々がせわしなく、しかし少し浮かれた足取りでゆく。
「お父さん、あしたシュッチョウから帰ってくるの?」
ぼんやりと交差点で信号待ちをしていた氷上の耳に、不意に高く澄んだ少女の幼い声が飛び込んできた。
「そうよ。お夕飯までには帰るって言ってたから、明日はお父さんの好きなものを作ってあげなくちゃね」
少女の母親であろうか、両手に買い物袋を提げた女性が少女に答えた。と、何を思い出したのか、うふふ、と少女が笑った。街のイルミネーションに照らされた左頬にえくぼが出来る。
「あのね、お父さん、『つかれた~ビールビール』って言いながら、一番にれいぞうこを開けるんだよ。それでね、ビールにするかハッポウシュにするかですご~く悩むんだよ。それでお母さんに怒られるの。『れいぞうこを開けっぱなしにしないで!』って」
母親が笑った。母親の左頬にもえくぼがあった。
「じゃあ、久し振りだし、明日は迷わなくて良いように、ビールばっかり冷やしておいてあげようか」
「お父さん、クリスマスはお休みかなぁ?」
「さぁ、でも土曜日だから午前中だけで帰ってくるんじゃないかしら。今年もクッキー焼くの?」
うん!と少女が嬉しげに頷く。「あとね、ケーキも作ってみた~い。イチゴとクリームいっぱいのケーキにサンタさんのロウソク立てるの。あ~あ、はやくサンタさん来てくれないかなぁ」
お揃いのえくぼをみせて笑い合う親子の会話に、氷上は唯ぼんやりと、聞くともなしに聞き入っていた。それは余りにも自分の棲む世界とはかけ離れていて、羨ましいとも疎ましいとも思わなかった。ただ、こんな家庭を築き、こんな人生を送る者も此の世にいるのだな、と思うだけだった。
不意に十年来逢う事もなかった息子の存在が脳裏を過った。
あなたがこの子を見る眼が怖い、と妻は言った。憎いと思って見てくれる方がまだましよ。あなたはまるで物のように、いえ、まるでそこに何も無いかのように、この子を見る。
──俺はどんな眼で息子を見ていたのだろうか。
華やかにライトアップされたショーウィンドウに映る自分の姿を見つめる。夕刻の闇にぼんやりと浮き上がる己の顔に父親の濁った眼が重なり、思わず顔を背けた。不意に眩しい光が眼を射た。
細めた眼に、手を繋いで道を渡る親子の背中と、そこへ突っ込んでいくスリップした乗用車が映った。
2
ヒトは脆い。
肉体という容れ物が壊れれば、暗い色の液体と共に命は簡単に流れ出し、地面を染め、消えてゆく。
事故現場の阿鼻叫喚騒ぎと混乱の中から、氷上はやっとの思いで抜け出し、帰宅した。酷く疲れ、食欲も無い。明かりを消した部屋のソファーに腰掛け、うつらうつらと過去を振り返る。しかしあの冬の日以来、静かなモノクロームの刻の流れに身を任してきた自分には振り返る程の想い出などなく、瞑った瞼の裏に浮かぶのは、ただ色彩感覚を狂わすほどの赤さ──
頭の芯に痺れたような鈍い痛みが走り、何処か遠くで赤ん坊の泣き声がした。
貴方ハマルデソコニ何モ無イカノヨウニ、コノ子ヲ見ル。
頬を撫でる冷たい風に目を開けると、そこは見慣れぬ街の駅前だった。
──ここは何処だ?
気怠い午睡から醒めたかのように、ぼんやりと霞んだ目頭を揉みながら駅名を見て、思わず苦笑を漏らした。別れた妻の実家のある田舎町。彼女が実家に帰ったと風の便りに聞いていたことをふと思い出した。ジジジ、と鳴る蛍光灯に照らされた駅前には人影も無く、辺りは暗かった。しかし東の空だけがうっすらと僅かに白くなりかけている。もうすぐ明け方ということか。
こんな時間に、こんな所で俺は一体何をやっているのだろう。おまけに今日は平日だ。早く戻らなければ会社に遅れる。
次の列車の時刻を調べようとして、始発までまだだいぶ時間があることに気付いた。ふっと吐いた溜息が、目の前の空気を白く染める。俺は、全く何をやっているのだか。
遮るもののない吹きさらしの駅は余りにも寒く、仕方無く始発まで辺りをぶらつくことにした。しかし都会から離れた田舎町には、こんな時間に開いている店とてない。唯ぼんやりと、当てもなく暗い空の下を彷徨っているうちに川の近くに出た。
別れた妻とは上司の紹介で出会った。付き合い始めて間もない頃、この河原を共に歩いたことをふと思い出し、何となく土手を降りてみた。
夜明け前の薄暗い河原は酷く寒かった。葉の落ちた樹を凍った風が吹き抜け、梢を震わせ、その幽かな音に指先が痺れる。
樹氷、と彼女は言った。
「あなたの会社でのあだ名よ。凍った霧を身に纏う樹氷。でもね、たとえ氷に覆われていても樹は生きていて、春になれば花を咲かせるわ。だけどあなたは違う」
あなたは永久に凍ったまま、花を咲かせはしない。
前方に橋がみえた。橋の下なら風が防げて幾らかましかも知れないと思い、コートの襟を立てて俯いたまま足早に橋に近付いた。
橋の下には先客がいた。
肩に小さな狐のような動物を乗せた黒髪の少年が、氷上と目が合うと人懐っこい笑みを浮かべ、オハヨウ、と言った。少年の吐いた息が真っ白で、しかしそれはまるで少年の身体の暖かさの象徴のようで、寒そうには見えなかった。
「……こんな朝早くから、散歩かい?」
「氷が解けるのを待ってるの」
少年が足元の凍った水溜りを指差し微笑んだ。橋の上を走り去る車の光を受けて、薄い氷が煌めく。何故か不意に、異世界、という言葉が頭に浮かんだ。小さな、煌めく、異世界への入り口。
「これが解けるとね、俺の知り合いが目を覚ますんだ。おじさんは?」
「列車が来るまで時間を潰してるだけだよ」
「誰かに会いにきたんじゃないの?」
思わずはっとして少年を見てから、「……違うよ」と呟いた。
長い間、少年は無言で足元の氷を見つめていた。朝陽が川面に差し始める頃、ようやく顔を上げた少年が眩しそうに目を細めた。
「ヒトに与えられた時間に永遠なんてない。そんな限られた時間の中で、逢えるのに会わないなんて、勿体ないね」
川の流れを見つめる少年の横顔はあどけなく、しかしその口調は妙に大人びていた。決して不愉快ではないけれども、しかしそこに確かに存在する違和感に、氷上が僅かに眉を顰めた。
「氷が解けたから、もう行くね」
土手を跳ねるように駆け上がった少年が、不意に振り返るとにやりと笑って手を振った。
「またね、ヒガミさん」
冬の薄い朝陽にひかる水溜りに、風が小さなさざ波をたてた。
(To be continued)




