狐火(後編)
5
「へええ、凄いもんだねぇ」
翌朝、帰って来た俺を見た途端に煉が目を瞠った。
「よっぽど大きなカケラだったんだね。前に見つけたカケラの時は、ここまでの違いは出なかったよね?」
「うむ、何処ぞの王室の紅玉くらいの大きさがあったぞ」
朝陽に艶やかに煌めく黄金色の毛並みを整えつつ、鼻唄混じりで答える。躯にも力が漲り、実に良い感じだ。これでもまだ集まったカケラは精々半分。俺は余程力の強い妖だったのだろう。カケラが全て集まり、ひとつとなる時が楽しみだ。
「……で、美鈴ちゃんはどうしてるの?」
「ふむ、カケラを取り出した途端に気絶した。朝まで一応様子をみたが、顔色も悪くなかったし、ただ眠っているだけのようだから放っておくことにした」
「放っておくって……」
「大丈夫だ。こういうこともあろうかと、カケラはあの娘のベッドの上で取り出したんだ。ちゃんと上に掛け布団も掛けてやったしな、風邪を引くこともないだろう。気になるならアフターケアはお前がやってやれ」
ハァ、とこれ見よがしに溜息する煉を尻目に樹から飛び降りる。
「どこ行くの?」
「ちょっと辺りをひとっ走りしてくる」俺は子狐のように笑いながら駆け出した。「躯が内側からウズウズして、じっとしていられないんだ!」
❀
四〜五日程で気分の高揚も治まり、取り戻したカケラが躯にしっくりと馴染むのを感じた。煉が次の町へ移るまでにまだ時間があったので、俺は奴の探しモノに付き合ったり、涼しい木陰で昼寝を貪るなどしてのんびりと過ごした。
それにしても最近の日本は暑過ぎる。特に街中は、アスファルトで固められて息の詰まった地の怨念が渦巻いているようだ。あまりにも暑くてやり切れない日には美鈴の部屋に逃げ込んだ。
あの日以来、美鈴の様子に特に変わったところはない。いつ会ってもニコニコと楽しげで、何がおかしいのか銀の鈴を転がしたような声でコロコロと笑い、そして相変わらずの狐好きだ。だからどうと言う事はないのだが、まぁファンは多いに越したことはない。
その日も俺は美鈴の部屋へ遊びに行き、そよそよと心地良い人工の風に癒されつつ、俺の為に常備されているバニラアイスに舌鼓を打っていた。美鈴は俺の艶やかな毛皮を如何にも大切そうに撫でながら、例によって例の如くキタキツネの映画を観ていた。もう何十回も観た映像に流石に飽き飽きとして、俺は大きく欠伸した。美鈴といえば、少なく見積もっても数百回はコレを観ていると思われるが、しかしまるで初めて観るかのように目を輝かせ、食い入るように画面を見つめている。いつも思うのだが、ヒトにしろケモノにしろ、頭の造りが単純であるとはシアワセなことだ。
アイスを食べ終わり、少しうとうとして、ふと目覚めると、映画は最初の悲劇、生まれつき目の見えない子狐が入水自殺するシーンを迎えていた。このシーンを見る度に美鈴はぽろぽろと涙をこぼし、「可哀想な子ギツネちゃん……優しいから、きっとみんなの足手まといになりたくなかったのよ」などと言いつつティッシュで鼻をかみ、かくして森林伐採と環境破壊は進む。俺に言わせて貰えばこんなモノ、ズボラな親狐共の監督不届きによる単なる事故なのだが。
森林伐採に手を貸す気は無いが、しかし鼻水に汚れた手で触れられるのも不快だ。美鈴の為にベッド横のティッシュの箱を取ってやろうとして、ふと首を傾げた。
「ミスズ……泣かないのか?」
「泣くって、どうして?」
画面から目を離さないまま、うっとりと美鈴が微笑んだ。
「見て、綺麗な海……きっと子ギツネちゃんは、この波とずっと一緒に遊んでいたかったのね。永遠にこの海で泳げて、きっとすごく幸せね」
「…………」
思わずぽかんと開けた口に、羽虫が飛び込んできた。慌てて虫を吐き出しつつ首を捻る。溺れ死ぬ子狐がシアワセとは、美鈴なりの新解釈のつもりだろうか。それとも同じ映画ばかり何百回も観るうちに、新境地にでも達したのだろうか。よく分からんが、ティッシュの無駄遣いが減るのは良いことだ。地球万歳。
気を取り直して毛繕いなどしているうちに、物語は佳境へと差し掛かった。雄狐が民家のニワトリを襲っている間に雌狐が罠に掛かり、犬に襲われるのだ。雄狐が囮となって上手く雌狐を逃すものの、巣に戻ってきた雌狐は子狐達を残して息絶える。ヒトなどに近付かなければ死なずに済んだのだろうが、しかし彼女の死の責任の一端は狩下手で甲斐性無しの雄狐にあるとも言える。雌狐にオトコを見る目が無かったゆえの不幸だろう。お前も選ぶオトコには気を付けろ……と美鈴に言いかけて、俺は口を噤んだ。いつもなら号泣している筈の美鈴が、うっとりと頬を紅潮させて画面に観入っている。
「……なんだ、ミスズ、お前どうかしたのか?」
「何が?」
「何がって……気味の悪いやつだな。一体何をニヤついているんだ?」
「だって幸せなんだもの」美鈴がにっこりと満面の笑みを浮かべた。「可愛い子狐達に看取られて死ねるなんて、素敵じゃない? このお母さん狐は本当に幸せね」
その曇りひとつない笑顔を眼にした途端、ヒクッとしゃっくりが出た。
その日、美鈴は最後までニコニコと幸せそうな表情を崩さず、俺のしゃっくりも止まらなかった。
❀
「ふ〜ん。それはちょっと美鈴ちゃんらしくないね」
夜、公園に帰って来た煉は、俺の話を聞くと微かに眉根を寄せた。
「熱があるわけでも鬼に憑かれているわけでもないんだがな。何やら意味も無く異様に幸せそうで、久々にヒトを薄気味悪いと思った」
「……異様にシアワセ、ね」
太い樹の枝に腰掛けた煉が、カチカチと左手の親指を噛む。これは煉が考え事をする時の癖だ。
「ねぇ、焰。焰のカケラはさぁ……」煉が何か言いかけて、ふと口を噤んだ。
「なんだ? 俺のカケラがどうした?」
「……いいや。やっぱなんでもない」
俺と目を合わせようとせず、カチカチと左手の親指を噛む煉を睨む。俺の視線に気付いた煉が肩を竦め、ふっと溜息をついた。
「つまりさ、俺は鬼退治は出来るかもしれないけど、でもそれだけじゃ、どうしようもないコトが世の中には多いってこと」
それだけ言うと、煉はジャケットのフードを深く被り直し、俺に背を向けて体を丸めた。
煉の寝息を聞きつつ、鼻面を柔らかな尻尾にうずめる。美鈴の事は明日考えればいい。不幸と言うならまだしも、シアワセだって本人が言っているのだから心配するほどの事も無いだろう。気になるなら、明日また様子を見に行けばいいさ。
眠りに落ちる寸前、うっとりとした高揚感漂う少女の微笑みが瞼の裏を過ぎり、ざらりとした不快感を舌に残した。
翌朝、我ながら馬鹿馬鹿しいと思いつつも、俺は日の出と共に起き出してそそくさと美鈴の家へ向かった。しかし淡いピンクのカーテン越しに覗き込んだ部屋には誰もいなかった。
美鈴は何やら発作を起こして救急車で運ばれていったようだと耳許で騒ぐ雀達の姦しい喋り声が、やけにぼんやりと遠かった。
6
「……病院に棲んでる猫又と話してきたよ」
夕方、辺りが薄暗くなり始めた頃、ようやく公園に帰って来た煉が疲れた顔で目にかかる前髪を掻き上げ、肩を揉んだ。
「あの猫さ、病院に出入りする患者全員の病気を把握してるんだよね。趣味なのか特殊能力なのか知らないけど、ちょっと変わってるよね」
切れかけているのだろうか。ジジジ、と公園の電燈が死にかけの蝉に似た音を立てる。
「……脳腫瘍」
煉が低い声で呟いた。
「美鈴ちゃん、脳腫瘍が原因で癲癇発作を起こしたんだって。あと、焰が言ってた、『異様に幸せそう』っていうのも多分脳腫瘍のせいだと思う」
俺は無言で煉の口許を見つめた。
「脳腫瘍はね、出来る場所や種類によっては、ヒトをすごく幸せな気分にするんだよ」
「……なんだと」
「うん、前に本で読んだんだけど、有名なのでは前頭葉の腫瘍、それからセロトニンを大量に分泌する腫瘍とかがあって──」
「そんな事はどうでもいいっ」目の前が暗くなり、足元の地面がぐらりと揺れた。「脳腫瘍ってなんだソレは?! 腎臓移植か?! 腎臓移植とやらが悪かったのか?!」
「違うよ、腎臓移植は関係ない」
「じゃあなんでだ?! なんでこんな事になった?!」
「それは……」煉が口ごもり、ふと目を逸らした。「……ヒトの病気はどうしようもない。これは誰のせいでもないんだ。運が悪かったと思うしかないよ」
――違う。
俺と目を合わせようとしない煉の横顔を見つめ、俺はぎりぎりと歯を鳴らした。コレは運の良し悪しなどではない。わかっていた筈だ。俺がカケラを取り返せば、カケラを失った神木は折れ、岩は砕け、山は崩れた。
ヒトが壊れても何の不思議もない。
7
「ホムラちゃん!」
ぼんやりと病室の窓から外を眺めていた美鈴は、俺の姿を見た途端に目を輝かせた。急いで窓を開け、腕に飛び込んだ俺に愛おしげに頬擦りする。若い娘に抱き締められて悪い気はしない……と言いたいところだが、今日の俺は流石にそんな気分ではない。それどころか俺に向けられる能天気な笑顔ですら忌々しい。
「ホムラちゃんはお日さまの匂いがするね」などと言いつつ俺の毛皮に顔を埋める娘の頭を押しのけ、その腕をすり抜けてベッドに降り立った。
「ホムラちゃん、おなか空いてるの? 病院のカフェテリアでアイス買ってこようか? ハーゲンダッツはないかもしれないけど、ふつうのバニラアイスならあると思うよ?」
「そんなモノはどうでもいい」俺はイライラを鎮めようと、美鈴に抱き締められて乱れた胸の白い毛を必死で舐めた。「……手術はいつだ? それまでそばにいてやる」
「手術? 手術って誰の?」
「誰のって、お前のに決まっているだろうが」
「ホムラちゃんったら、なに言ってるの? わたし、手術なんてしないよ?」
「……なんだと?」
「だって必要ないもの」何の屈託も無く、にっこりと美鈴が微笑んだ。「お医者さまが言ったのよ。手術はしませんって」
「必要ないというより、出来ないのさ」
病院の中庭で日向ぼっこしていた猫又は、俺の話を聞いても驚く風もなく、のんびりと欠伸した。
「あの雌の子のデキモノは、頭のかなり奥にあって、おまけに太い血管が巻きついているらしいからね。医者も手の施しようがないのさ」
「……手術出来ないなら、どうするんだ?」
「さあね。薬を使ったり、最近は色々とあるんじゃないのかい? ヒトは一分一秒でも長く生きることに対して貪欲だからね。まぁヒトが貪欲なのはそれだけじゃあ無いけどね」
考え込んだ俺を、猫がじっと見つめた。
「アンタはどうしてあの雌の子のことをそんなに気にするんだい?」
「……気になどしていない。アレは俺のカケラを長年に渡り無断借用していた、言わば盗人のようなモノだ」
「……そう、ヒトは皆盗人さ」猫が黄色い瞳をゆらりと揺らめかせた。「奴等は此の世の全てを盗んでゆく……食べ物も、住処も、命も、心でさえも」
ぱしり、と地面を打ち据える猫又の尾を眺めつつ、この猫にも何か他者には話せぬ物語があるのだろうな、と思った。コイツといい、煉といい、およそ此の世に生きて、物語を持たぬモノなどいないのだろう……俺の知った事ではないが。
「あともうひとつ」
無言で踵を返した俺の背を猫の嗄れ声が追いかけて来た。
「脳のデキモノってのは、普通はゆっくり成長するんだよ。だけどあの子の場合は、デキモノがいつ血管を喰い破ってもおかしくない状態らしい。今日か、明日か、一年後か。血管が破ければ、あっという間にオダブツだろうね」
❀
病室に戻ると、ベッドに美鈴の姿はなかった。乱れた毛布とそこにぽかりと空いた空間に一瞬ヒヤリとして、登っていた木の枝から足を踏み外しそうになったが、頭上から「ホムラちゃーん」と俺を呼ぶ呑気な声に我に返った。
屋上の金網に顔を押し付けるようにして、美鈴が俺を見下ろし、楽しげに手を振っていた。
「みて、すごくきれいな夕陽」
屋上に来た俺を抱き上げると、美鈴が眩しそうに目を細めて微笑んだ。
不吉なほどに紅く染まった空の下、高層ビルのシルエットが黒々と浮かび上がる。それはまるで巨人の墓場のようだった。
「……俺のカケラをお前に貸してやる。くれてやるわけじゃないぞ。お前が今生を終えるまで、貸してやるだけだ」
「いらないわ」美鈴がゆっくりと首を横に振った。「わたし、今のままでとっても幸せだもの。だからいらない」
「お前馬鹿か?」少女の余りの馬鹿さ加減に俺は思わず顔を顰めた。「俺のカケラを持って、手術を受けてこい。さもなければ今日明日にでも死ぬぞ」
「大丈夫よ」と言うと、美鈴がにこにこと笑った。「空がとてもきれいだから、わたしはとても幸せで、怖いものなんてないの」
「バカめ。そりゃお前の頭の中のデキモノのせいだ。ただの勘違いだ」
❀
来る日も来る日も俺は病院に通った。いつ会っても少女は朗らかな笑みを絶やさず、実に幸せそうで、俺はそれがひどく腹立たしく、そして無性に遣る瀬なかった。
窓辺に現れる俺の姿に少女は相変わらず目を輝かせ、俺を抱いて屋上へゆき、そして空を見上げる。その横顔が煉に重なる。
「……明日も空を見たくはないのか」
「だいじょうぶ。今日みれたから」
沈む夕陽に少女の影が黒く細く伸びる。何処かで日暮が鳴き、涼しげなその音が夜を呼び、そしてその闇に少女の影が溶ける。
「……明日の空はもっと綺麗かもしれないぞ」
「そんなことないわ。空はいつだって、今がいちばんきれいなのよ」
バカな奴だ、と吐き捨てるように俺は言った。
❀
「歓びも怒りも哀しみも、ヒトの感情は全て脳神経の発火と神経伝達物質に因るモノ……」
剃刀のように薄い三日月を見上げ、煉がふと呟いた。
「なんだそれは?」
俺にじろりと睨まれて、煉がくしゃりと髪を掻き上げ、肩を竦めた。
「脳科学者の言葉だよ」
「くだらん。ミスズはシアワセではない。あんなモノはシアワセとは呼べない」
「でも彼女が感じているシアワセを否定することは誰にも出来ない」
くだらん、と尻尾で鋭く樹の幹を打ち、俺は煉に背を向けた。
❀
夕立でも来るのだろうか。燃えるように鮮やかだった茜色の雲が見る見るうちに濃く、暗くなり、西の空を覆いはじめた。
「……空は、誰かと共に見るモノが一番綺麗なんだぞ」
「そうだね」
不意に吹きつけた一陣の風に髪を乱し、振り返った少女が、夢見るような眼差しで微笑んだ。
「ホムラちゃんのなかの、わたしのカケラは、これからも、ずっと、ホムラちゃんといっしょに、空をみる……」
ぽつり、と大粒の雨が瞼に当たった。じわりと滲んだ景色の中、少女の影がゆっくりと崩れ落ちるのが見えた。
8
「煉ッ」
刻一刻と激しさを増す雨風の中、俺は煉を探して公園へ駆け戻り、その名を叫んだ。樹の間から顔を覗かせた煉は、ずぶ濡れの俺の姿を見ると驚いたように樹から飛び降りた。その肩に駆け登り、雨音に負けじと大声で叫ぶ。
「俺の中からカケラを取り出せっ」
煉は即座に状況を察したらしく顔を強張らせたが、しかし動こうとはしなかった。
「グズグズするなっ、今すぐカケラが必要だっ」
「そんなこと言ったって……」煉が困った顔で俺を見た。「焰だって知ってるでしょ? 俺にそんなことするのは無理だよ」
「無理でもなんでもイイッ、とにかくヤレッ」
「そんな無茶な……」
煮え切らない奴の態度に俺は狂いそうになった。陰陽師だか退魔師だか知らんが、有名な一族の末裔の癖に全く使えない奴だ。千年近く生きてきて、魂割の術のひとつやふたつ使えなくてどうする。コイツには努力や向上心というものは皆無なのだろうか。
「時間がないっ、サッサとしろッ」
黙って動かない奴の腕に噛みつこうとしたが、奴は俺の牙をするりとかわした。
「もうイイッ! お前なんぞには頼まん!」
公園を飛び出し、大通りに向かって駆け出した。後ろで煉が何やら喚いているが、あんな役立たずとは絶交だ。大通りに立ち、辺りを見回す。向こうから砂利を積んだトラックが来る。アレに正面からぶつかるというのはどうだろう。いや、あの程度のモノで俺が割れるとは思えない。工事中の鉄筋コンクリートのビルを見上げる。これくらいなら? コレの下敷きくらいならイケるだろうか。いや、いつか俺が潰した岩山の方がコレよりまだ大きい。
大きな雨粒に横殴りされ、激しい風に躰が浮きそうになった。空に渦巻く黒い雲の隙間に龍の尻尾が見え隠れしている。
雷ならどうだろう? 龍に俺の声は届くだろうか。やってみる価値はある。煉が近くにいるから、龍はきっと此方の様子を窺っている筈だ。
空に向かって意識を集中する。龍なんぞに借りを作れば後々面倒なことになりそうだが、しかしそんな事に構っている暇はない。雲間から覗く龍の紅い眼と眼が合った。
「焰ッ」
視界が大きく揺れ、何処かで煉の叫び声がして、そして不意にプツリと糸が切れたように辺りが暗くなり、世界が音を失った。
✿ ✿ ✿
俺は走っていた。
茜色に染まるススキ野原を、声を上げて笑いながら、飛ぶように走っていた。
俺の横を走る人影に目を遣ったが、逆光でその姿は黒い影にしか見えなかった。
俺たちは何処へ向かって走っているのだろうか。不意に得体の知れない不安に駆られ、俺は足を止めた。
「……もう帰ろう」
「かえるところなどない」と黒い影が答えた。
教えてくれ、と冷たく嗄れた声が耳許で囁く。
俺たちは、何処からきて、何処へゆくのか。
お前が言ったのだぞ、と暗い湿り気を帯びた声がまとわりつく。
ヒトも獣も鬼も、還るところを求め、唯ひたすらに此の世を彷徨う、
ト、オマエガ俺ニ教エタ。
カエル処ナド、何処ニモ無イノニ、
無イモノヲ求メ、
唯ヒタスラニ
唯ヒタスラニ
唯ヒタスラニ……
無機質に繰り返す嗤い声に耳を塞ごうとした時、何処からともなく草笛が聴こえてきた。
❀ ❀ ❀
柔らかな音に導かれるように目を覚ますと、草笛がはたと止んだ。
「……焰」
黒々と濡れた懐かしい瞳が俺を覗き込み、暖かな手が何かを確かめるようにそっと俺に触れ、安堵の溜息が柔らかに耳をくすぐった。
「おかえり、焰」
意識がはっきりとするにつれ、暗い夢の残り香が俺の中から消えてゆく。
一体俺はどれ程の間眠っていたのだろうか。一日二日でないことだけは確かだろう。煉の懐から這い出して、大きくアクビしながら躯を伸ばす。あちこちの関節がポキポキと乾いた音を立てた。
「あの子の手術、無事に終わったよ」
「……そうか」
つまり雷を使った俺の作戦は上手くいき、煉は俺のカケラを取り出してあの娘にくれてやったということか。道理で足がふらつき、躯がダルイわけだ。
「あのさ、俺は確かに焰のカケラをあの子にあげたけど、でも焰を割ったのは俺でも龍神でもないから」と不意に煉が言った。
「どういう意味だ?」
「龍神は焰に雷を落としたりしなかった。俺がそばにいたから、遠慮したんじゃないかな。俺には焰の割り方なんてわかんないし、割るつもりもなかったんだけどね、でもあの瞬間、焰にヒビがいくのが視えたんだ。咄嗟に丁度良さそうなカケラだけ掴んで後は焰が砕け散らないように抑えたんだけど……」
煉が僅かに首を傾げた。
「大昔に焰を割ったモノが何かはわからない。物理的な力だったのかもしれないし、もっと心理的な、焰の内部からの力だったのかもしれない。ただ、今回に限って言えば、焰を割ろうとしたのは焰自身だった。普通のモノはそんなに簡単に割れたりしないけど、でも全てのカケラが揃って完全にひとつになるまでは、焰は少し不安定で割れやすいのかも知れないね」
だからもう少し気をつけた方がいいよ、と言って、煉が俺の背中を撫でた。
「ふん、余計なお世話だ」と鼻を鳴らし、俺は煉の懐で丸くなった。
大昔、俺を割ったモノは何だったのか。カケラが揃えば記憶も戻って来るのだろうか。果たして俺は、ソレを思い出したいのだろうか。
「……あの娘はまだ病院か?」
「会いに行きたい?」
「……別に」
「会いに行ってもいいけど、でもあの子、多分焰のこと憶えてないと思うよ?」
俺は黙って煉を見上げた。
「美鈴ちゃんの腫瘍は脳のかなり深い部分にあった。手術は成功したし、リハビリを頑張れば身体の機能は戻ってくる。でもやっぱり色んな事を忘れちゃったんだよ」
煉曰く、新しい記憶を作るのに支障はないらしい。しかし失われた記憶が戻ることはない。
ふと思う。失われた記憶は何処へ逝くのだろう。それは風に溶けて消え、その存在すらも無かったことになるのだろうか。それともこの空の何処かに、失われた記憶の眠る処でもあるのだろうか。煉がいつも見上げている、この広い空の何処かに。
夜更け、俺は煉が寝付いたのを見計い、そっとその懐から這い出した。
病室の窓際に座り、閉じられたカーテンの僅かな隙間から少女を眺めた。身体中に大小様々な管を生やしてはいたものの、その薄い胸は規則正しく上下している。
カーテンの隙間から射し込む白い月の光がゆっくりと動き、やがて人形のような少女の顔を照らした。柔らかな曲線を描く瞼がぴくりと動き、少女が薄っすらと眼を開けた。しかしその瞳が俺の影を捉えることは二度となく、少女は穏やかな笑みを口許の浮かべ、夢の続きを求めて静かに目を閉じた。
「……焰」
夜明け前、そっと煉の眠る樹に戻ってきた途端に名を呼ばれた。煉の奴、俺が出て行ったのを知っていて狸寝入りしていたらしい。まぁコイツの感覚は山の獣並みに研ぎ澄まされているからな。煉に気付かれずに何かするのは難しい。
「ねぇ、焰。俺達が初めて出逢った時のこと覚えてる?」
「……忘れるわけないだろうが。あのイケスカナイ鴉って奴が死んだ時だろう」
え、と言うと、煉が少し驚いたように身を起こして俺を見た。
「そうじゃなくってさ、一番最初に出逢った時のことだよ。ほら、焰がまだ狐火みたいな格好でフラフラしててさ」
「……お前、アレが俺だって知ってたのか」
「は? 何それ、そんなの当たり前じゃん」
おかしそうに笑う煉の黒髪が、蓮華色の風にさらさらと揺れて光る。
――そうか。こいつはずっとアレが俺だと知っていたのか。俺だけが見ていたわけではなかったと知り、なんだか胸の奥が妙にくすぐったかった。
「それでさ、あの時ね、俺、焰に『分けて』あげるべきか、それとも焰を『喰う』べきか、一瞬迷ったんだよね」
「…………なんだと?」
「だってさぁ」
思わず息を呑んだ俺の顔を眺めつつ、煉がニヤついた。
「焰ってめっちゃ美味しそうだったんだもん。属性が火の俺にとってはキャンディか栄養ドリンク剤って感じでさ。あの時は丁度夕飯を食ったばっかでお腹がいっぱいだったから、結局喰わずに分けてあげることにしたんだけどね」
――なんたること。どうせヒトの気紛れだろうとは思っていたものの、しかし心密かに針の先程の恩義を此奴に感じていた自分の愚かさに涙が出そうになった。これだからヒトなんぞ信用するべきではないのだ。
「だからまぁ、なんとなくわかるんだよ」
密かに傷ついている俺に構わず、煉が屈託ない笑顔をみせる。
「焰の中にはホンの少しだけ『俺』があって、だから俺が焰に感じるような親近感みたいなモノを、焰もあの子に感じてるのかなってさ」
「ふざけるな」と言って俺は顔を顰めてソッポを向いた。「俺のカケラを長年に渡って略取しているような奴に親近感など湧くわけないだろうが。お前と一緒にするな」
「略取って……」煉が呆れたように溜息をついた。「ま、焰が必要なら、俺はまたいつでも分けてあげるからさ、多少焰が欠けてたって心配いらないよってこと」
そう言うと、ヒトの姿でありながらヒトに非ざる力をもつ少年が、薄紅に染まる夜明けの風に髪を靡かせて笑った。
【 エピローグ 】
あれからどれ程の月日が過ぎたのであろうか。
「焰、例の街に寄って行く?」
「うむ、そうだな」と俺は欠伸混じりに答えた。「一目見ていくだけだからな、お前は来なくていいぞ」
何やら無言でにやにやと笑う煉にムッとする。
「勘違いするな。俺は俺のカケラの無事を確かめに行くだけだ。あの娘の死の間際にカケラを取り戻さんことには、カケラごと転生でもされたら大迷惑だからな」
夏の夕闇が忍び寄る庭に灯された狐火のように、白いフェンス沿いに幾輪もの紅い花が咲いていた。
「グロリオサ」と以前に煉が言っていたことを思い出す。「別名キツネユリ」
キツネユリの紅い花影に座り、白いカーテンが夕風に揺れる出窓を眺めた。
「おかあさーん」と家の中で子供の声がした。
はあい、と歌うように答える明るい声に耳を澄ます。
あの娘は最早娘などと呼ばれるような歳ではなく、三人の子持ちとなり、見違えるほど太くなった腕や腰周りにも母親の貫禄を滲ませ、可愛げなどというモノのカケラも残っていない。ただ、コロコロと銀の鈴を転がすような笑い声だけは昔と変わらない。
ふん、と俺は鼻を鳴らした。
「貸してやっているだけだからな。今生の寿命が尽きてお前が死ぬ時には、今度こそ返して貰うからな」
……お前が死んでも俺は泣かない。
そう呟いて、夕暮れの淡いひかりの中に駆け去る狐を見送るかのように、紅い花がゆらゆらと闇に燃える。
(END)




