忘れ草(後編)
7
「アキコとはどう書くのですか?」
「え?」
初めて出会った見合いの席で、高校で古典を教えているという堅物そうな男が発した第一声がソレだった。言われた意味がよく分からなくて、あき子が首を傾げた。
「アキコの漢字です」
釣書を見ていないのかしら、と思いつつ、少し慌ててあき子が答えた。
「漢字ではありません。平仮名であき、と書きます。子は子供の子です」
と、男が重々しく頷いた。
「それは良いですね」
「はぁ」
「平仮名の名前は自由です。漢字は往々にして意味を持ち、名前とそれを持つヒトを型にはめますが、平仮名なら自由です。自由に、その日の気分に合った字を当てはめることが出来る」
「……はぁ」
「例えば僕の名前は正臣です。字面が四角過ぎる。これでは四角く堅い人間にしかなれない」
「……」
何か冗談でも言っているつもりなのかと思い男の顔をまじまじと見たが、男は生真面目な顔でにこりともせずそれだけ言うと、自分の前に置かれたお茶を飲み、後はただぼんやりと窓の外を眺めていた。
「いいヒトやと思うぞ?」
帰り道、父母の代理で見合いの席についてきた兄が言った。
「落ち着いた大人の男や。お前みたいないつまでもガキくさいオッチョコチョイには丁度や」
❀
なんだか酷くイライラした。集中出来なくて、編み物の目を何度も数え間違えた。幾度も解き、編み直しているうちに益々わからなくなってくる。解けた毛糸を巻き直しているうちに、それが手元にあるのか頭の中にあるのかすらわからなくなってきた。頭の中の解けた毛糸を幾度綺麗に巻き直しても、白い根と緑の茎の絡まった左手が上手く動かなくて、紅い毛糸玉はすぐにころころと転がり出し、あき子の手元から逃げ出してゆく。解けた毛糸をいくら手繰り寄せてもそれに終わりはなく、その先に在るはずのモノがみえない。ころころと転がる紅い鞠が川に落ちる。ぷかぷかと水に流される鞠を追って泣いているのに、誰も助けに来てくれない。
「兄ちゃん、兄ちゃん、どうして来てくれへんの? 鞠がのうなったやん。流されてしもうたやん」
ぽろぽろと涙を零しながら解いた毛糸を幾度も巻き直すあき子の様子を、崇志とハジメが障子の陰から蒼褪め、泣きそうな顔で窺っていた。
❀
「煉くんのお兄さんはどんなひとなん?」
「糞真面目な奴だよ。泳ぐのが得意でさ、高校の水泳部のエースなんだ」
8
夫の教え子から、モサクという夫のアダ名を聞いた時、あき子はさもありなんと思った。イニシエの書より人生のコトワリを追求する、『模索のヒト』からきているんですよ、とその生徒は笑いながら教えてくれた。しかし、あのむっつりと口数少なく、もっさりと垢抜けない夫を陰でモサクと呼ぶ時彼等が思い浮かべる字面は『模索』ではなく精々『茂作』であろう。田吾作でなかっただけまだマシと言うしかない。
むっつりもっさりの夫だが、教え子達には何故か人気があったらしい。進路や交友関係に悩む生徒などが時々家を訪れてきた。あんな無口な世捨て人のようなひとが、交友関係の適切なアドバイスなんて出来るのかしら、とあき子はいつも不思議に思っていた。
そんなある日、家に訪ねてきた生徒のためにあき子がお茶の用意をして夫の書斎に行くと、きちんと正座した少年を前に、夫は何を話すでもなく、縁側で煙草をふかしながらぼんやりと空を眺めていた。
「徒然草は好きか?」と不意に夫が生徒にたずねた。生徒が、はぁ、と困ったような顔で頼りない返事をした。古典の教師に向かって、いえ嫌いです、とは流石に言えないだろう。あき子が気の毒に思っていると、夫が、「枕草子とどちらが好きか?」と訊いた。
ここでこっちの方が好きですとか適当なことを言ったら、夫のことだ、きっと「ではどの辺りが好きなんだ」とか言いそうだ。生徒がモジモジしていると、夫が空を見上げたままふと呟いた。
「ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよのう慰むわざなる」
古の文を書きし先人を友と思うのはあなたの勝手でしょうけど、この子は今現在生きし友との交友関係に悩んでるんですよ、と思わず突っ込みたくなった。あなたじゃあるまいし、前途有望な青少年に、学問のススメならぬ引き籠りのススメをしてどうするんですか。
少年もぽかんとして夫を見ている。いや、とあき子が考え直した。夫だって曲がりなりにも教師なのだ。きっと今の言葉にもわたしのような凡人には分からない深い意味があるに違いない。
「空蝉と蜉蝣ってのは似てると思わんか?」
あき子が密かに悩んでいると、再び不意に夫が言った。
「は?」と少年とあき子が同時に言った。思わず少年と目を見交わす。
「蜉蝣だよ、カゲロウ」と言って夫が縁側の障子の隅を指差した。長い糸のような尻尾を持つ虫が、薄い羽を弱々しく動かしていた。
「……かげろふの ほのめきつれば 夕暮の夢かとのみぞ 身をたどりつる」
後撰集の歌だ、知っているか?と夫に訊ねられ、少年が首を横に振った。
「寝ても見ゆ 寝でも見えけり おほかたは 空蝉の世ぞ夢にはありける。これは紀友則の歌だ。なんとなく似ていると思わんか?」
それだけ言うと、夫は再びぼんやりと空を見上げた。
模索のひとか、茂作のひとか。はては喪策のひとか。夫の考えていることはさっぱり分からなかった。しかし帰り際、あき子に挨拶した少年は、来た時とは打って変わった清々しい顔で笑顔をみせた。
数年後、夫と街を歩いている時、偶然その生徒に出会った。立派な社会人になった青年が、「先生、お久し振りです」と言って嬉しそうに挨拶すると、夫はうむ、と重々しく頷いた。
「まぁあの時はまだまだ子供っぽかったのに、立派になったわねぇ」
頭を下げながら名残惜し気に立ち去る青年の姿にあき子が感心したように溜息をつくと、夫が少し驚いたような顔であき子を見た。
「なんだお前、あいつと知り合いか?」
「知り合いって、家に来たやないですか。ほら、お友達のことで何か悩んでて、あなたに相談したいって」
そうだったかな、と言って夫が首を傾げた。
「そうですよ、それであなたが蜉蝣と空蝉は似てるとか言い出して」
夫が胡散臭そうにあき子を見た。
「なんで友人関係で悩んでいる人間に蜉蝣や空蝉の話なんぞしなきゃならんのだ」
そんなのこっちが知りたい。不思議そうに頭を捻る夫の姿に、思わず噴き出してしまった。
❀
ヒトに逢うのが恐ろしく、外に出るのが怖かった。
ヒトが皆わたしをおかしな眼でみるから。
知らないヒトが親しげに話しかけてくるから。
見慣れたはずの景色が突然に見知らぬものに変わるから。
息を吸い、吐く度に、自分が自分でなくなるようで、ただひたすら怖かった。
早朝の道を、誰とも目を合わせないように俯いて、迷子のような覚束無い足取りで公園に向かった。
❀
茎に生い茂る細く鋭い葉が風に揺れると、その音に合わせて胸の内がザワザワした。
「お兄さんはきっと、煉くんがみつけてくれるんを、ずうっと信じて待ってるんでしょうねぇ。早う見つけてあげないと、お兄さんも可哀相やねぇ」
朧月が無言のまま、口の端を歪めるようにして笑った。
9
ゴールデンウイークに北海道に旅行に行こう、とある日突然夫が言い出した。
「まぁどうしたの? あなた、いつも連休の人混みの中に出るなんて馬鹿馬鹿しいって、家に籠っているじゃないの。それにそんな突然言われたって、崇志だって大学のお友達と予定があるだろうし」
「崇志はどうでもいい。お前と俺と、二人で行くんだから」
むっとした口調で言われ、あき子は益々驚いた。一体どういう風の吹き回しか、二人で旅行だなんて、二泊三日の新婚旅行以来ではないか。
「いいんじゃない? たまには二人で行っておいでよ。俺は適当にやっとくから」と隣で聞いていた崇志が楽しげに笑った。
「でも、もう四月半ばですよ? 切符が取れるかしら?」
「切符ならもう取ってきた。宿の予約もしてある」
思わず崇志と顔を見合わせた。古典の世界に引きこもり、学校と家を行き来するだけで普段は電話に出ることさえ嫌がる夫に宿の予約をするような甲斐性があったとは、四十年近く一緒に暮らしてきて今初めて知った。
五月の北海道はまだ肌寒かった。
所々に雪が残り、道は雪解け水でぬかるんでいた。しかし食べ物は美味しく、遙か遠くまで広がる牧草地も物珍しく、そしてそこかしこに見える愛らしい仔馬やキタキツネなどの野生動物の姿にあき子は若い娘のように頬を紅潮させてはしゃいだ。
「まぁいい景色ねぇ。広々として、なんや心まで伸びやかになるみたいねぇ。見てあなた、地平線がまぁるく見えるやないの」
展望台の上で、遮るもののない景色にあき子が歓声を上げた。夫の返事が聞こえないので、ふと振り返って驚いた。どうしたことか、夫が自分に向かって深々とお辞儀をしていた。気分でも悪くなったのかと慌てると、顔を上げた夫がやおら直立不動の姿勢をとった。
「私は言葉も足らず、良き夫とは言い難い事も多かったかとは思いますが、しかし貴女が私と人生を共に歩んで下さったことを心から感謝しております」
なにを突然改まっちゃって、一体どうしちゃったのよ、と言おうとしたが、驚きのあまり言葉が出てこなかった。水から上がった魚のように口をぱくぱくさせているあき子に向かって夫がもう一度深々と頭を下げた。
「貴女に逢えて良かった。ありがとう」
旅行から帰ってきて僅か半年後、定年を間近に控えた夫がこの世を去った。癌だった。
❀
「あら、お義母さん、お仏壇のお掃除ですか? ちょうど良かった、さっきお花を摘んできたんですよ。庭のコスモスが綺麗に咲いていて。お義母さんお好きでしょう?」
仏壇の前で亡き夫の写真をぼんやりと見つめるあき子に嫁が首を傾げた。
「どうかしました?」
「お仏壇に……」あき子が額縁を指差した。「うちのお仏壇に知らないひとの写真が飾られているんですよ。何処のどなたさんやろうね、あれ」
10
疲れているのだろうか。最近、時間の感覚が曖昧になり、日の高いうちから頭がぼんやりして、ふと気づくと編み物を膝に置いたままうつらうつらしている。そうやって昼間寝てばかりいるせいか、夜になると目が冴えて、なかなか寝付けず、寝ればおかしな夢をみて目が覚める。
またうたた寝していたらしい。ふと目を覚ますと、手に編み棒を持ったまま、縁側に置いた座椅子に座っていた。なぜか久し振りに頭がすっきりとして、気分も不思議なほど落ち着いていた。
紅い毛糸玉はいつの間にか、もう転がることもできない程に小さくなっていて、マフラーは編み上がり、最後の仕上げを待つばかりになっていた。膝の上のマフラーを手に取ると、ゆっくりと丁寧に仕上げ、最後に鋏でぱちんと糸を切った。深い臙脂色のそれを紙袋に入れると、蝉時雨に霞む白い景色の中、あき子がゆっくりと立ち上がった。
「もう来ないかと思ったよ」
木陰のベンチに座っていた少年があき子を見上げて言った。あき子が無言で朧月の隣に腰掛け、公園の小道をゆく人々を見つめた。今まで気付かなかったが、こうして見ていると時折胸や腕に白い根と緑の葉を絡ませたヒトがいる。その多くは年寄りで、若い人は稀だった。
「あと少し」と言うと、朧月があき子の肩先のうっすらと色づいた細長い蕾を見て微笑んだ。「ごらん、もうすぐ花が咲く」
「……煉くんは?」とあき子が囁くような声で尋ねた。「煉くんはお兄さんに会えた?」
「うん、会えたよ」と朧月が答えた。
「雨の降りしきる街角で、煉は懐かしい兄貴を見つけた。人混みに消えそうになるその背中を懸命に追って、煉はそのヒトの服の端を掴んだ」朧月がうっすらと嗤った。「だけど振り返ったそのヒトは、僅かに首を傾げると、自分を必死の眼差しで見つめる少年に向かって、『君は誰?』と尋ねた」
「……なんで? どうしてなん?」
「煉はね、あんたのお陰で転生した兄貴を見つけることが出来たけど、でも残念ながら兄貴の方はあいつの事を憶えていなかったのさ。だって当たり前だろ? ヒトは前世の記憶なんて無いのが普通なんだから。だから、兄貴は、目の前で震える弟を一瞥もせず、ただ素通りしていった」
ようやく見つけた懐かしいひとが自分を覚えていない。煉の心情を思い胸が痛んだ。ねぇ、と朧月が囁いた。
「最後は、あんたの中の煉の記憶だよ。あんたが煉を忘れれば、兄貴は弟を思い出す」
目を瞑り、明るい陽の下で微笑む少年の艶やかな黒髪を想う。暖かな手、無邪気な笑い声、あき子を見つめる深い瞳。全てのモノの幸せを祈り、求めるモノ全てに手を差し伸べ、誰にでも惜し気なく与えるあの優しい微笑みの影で、あの子はどれほど飢えていたのだろうか。誰も入り込めない暗い場所で独り、どれほどの苦い涙を飲み続けてきたのか。もう泣かないで、と胸に浮かぶ少年の面影に囁きかけた。
「これね、今朝ようやく編み終わったんよ」
あき子が臙脂色のマフラーを紙袋から取り出した。しっとりと深い色はきっと煉の黒髪によく映えたことだろう。あき子がマフラーをふわりと朧月の肩にかけた。
「よう似合っとうよ」と言って、あき子が微笑んだ。「あなたの綺麗な髪に、よう似合っとう」
「……これ、あいつのために編んだんだろ?」
あき子から目を逸らした朧月が口の端を歪めるようにして呟いた。
「そうやけどね、でもあなたにもよう似合っとうし、あなたにはお世話になったからねぇ。もっとちゃんとお礼が出来たら良かったんやけど、なんやもう頭がぼうっとして、なんもちゃんとしたことなんか出来そうにないしねぇ。こんなもので悪いけど、良かったら貰ってやってちょうだいな」
綺麗な髪や、よう似合っとう、と言ってあき子が笑った。
あき子の腕に絡みついた忘れ草の蕾が突如綻んだ。少年の髪の色と同じ鮮やかなオレンジ色の大輪の百合がゆるゆると花開き、幸せの象徴のように夏の朝陽に輝いた。
不意に少年が手を伸ばし、オレンジ色の花を手折った。
ごちそうさま、と少年が呟いた。
11
「また無駄足だったな」
公園の小道を歩く煉の足元で、焰狐が溜息をついた。
「うん、でもまぁ仕方無いよ。最近は兄者の事を憶えているヤツが少なくなってきたし、どんなものであれ情報を提供してくれるだけでもありがたいと思わなくちゃ」
煉の言葉に焰がふんと鼻を鳴らした。
「いつもいつも根拠のない噂話やら半ボケの年寄り妖怪共の勘違いに振り回されて、俺はもうウンザリだ」
「でも俺は……」煉がふと空を見上げた。「兄者のことを憶えていてくれるモノがいるだけで嬉しい。最近、時々わからなくなるんだ。あのヒトは本当に存在したのか。俺は狂っていて、全ては俺の想像の産物で、俺は在りもしないモノを求め、探し続けているんじゃないかって。だから、そんな時に兄者のことを知っているヤツに会うとほっとするんだ。あぁ、兄者はやっぱりいたんだな、って」
それでもやっぱり俺は狂っているのかもしれないけれどさ、と言って煉が笑った。
そんな煉をじっと見つめていた焰が再びふん、と鼻を鳴らした。
「俺はお前の兄貴とやらに会ったことはない。だがお前が狂っちゃいないことは知っている」
物好きな奴だとは思うがな、と言って焰が肩を竦めた。
「それにしても何故わざわざこの町に戻ってきたんだ? ここはこの前来たばかりだろう?」
「うん、そうだけど。冬が来る前にここでヒトと会う約束してて」
「あのちっこい婆さんか? 甘ったるい饅頭みたいな面の?」
煉が頷くと焰が顔をしかめた。
「お前はつくづく年寄りに好かれるな。いや年寄り好きと言うべきか」
「だってすごく優しいヒトなんだ。決して苦労がなかったわけじゃないのに、いつもニコニコしてて、あのヒトのまわりを吹く風はいつも暖かくって柔らかくってさ。あんなヒトって滅多にいないから、ちょっと癒されちゃうんだよね」
つまらなそうにケっと言うと、焰が後ろ足で耳を掻いた。
「お前とは趣味が合わん。俺はどうせなら皺々よりピチピチに癒されたい」
「あっ、いた!」
煉が突如大声を上げて公園のベンチを指差すと、そこに腰掛けた老女に嬉しげに駆け寄った。
「ばあちゃん!久し振り! 元気だった?」
あき子が顔を上げ、虚ろな眼で煉を見た。
「……どうしたの? ばあちゃん、ねぇ、大丈夫?」
煉がふと眉をひそめると、あき子の顔を覗き込み、その膝を揺すぶった。はらり、と萎れたオレンジ色の花弁が一枚、あき子の手から零れ、風に舞った。
「忘れ草……」 煉が花弁を見て息を飲んだ。「朧月がここに来たのか?! ばあちゃんっ、あいつに何されたの?! ねぇっ、ばあちゃんってばっ」
「煉、よせ、やめんか」 必死であき子の肩を揺さぶる煉を焰が暗い声で諌めた。「婆さんの様子をみれば何が起こったかくらいわかるだろうが。朧月はヒトの記憶を喰う鬼だ。運が悪かったと思うしかない」
「……許さない」
長い間無言で歯を食いしばり肩を震わせていた煉が、やがてゆらりと立ち上がった。
「あの野郎、絶対にばあちゃんと俺のこと知っててわざとやりやがったに違いない」
コロシテヤル、と低い声で呟いた煉を、焰がぎょっとした顔で見上げた。
あはははは、と不意に頭上からけたたましい笑い声が降ってきた。高い樹の枝に腰掛けた朧月が煉を見下ろし腹を抱えて笑っていた。
「あははは、ご覧よ、まるで赤ん坊じゃないか」
虚ろな目でゆらゆらと体を前後に揺らしながら手毬唄を口遊むあき子を指差して朧月が笑う。
「ヒトは赤ん坊として産まれ、赤ん坊に戻って死んでゆくのさ。赤ん坊以上として生きる短い時間にナニカを得たように思い、ナニモノかに成ったつもりでいても、結局は全てを失って終わる。ヒトの生なんて全く無駄で無価値さ」
勿論お前は別だよ、と言って朧月が煉を見た。
「お前は永久にその姿をとどめる。それ以上のナニカになることもないが、それ以下になることもない」
「……わざとか?」と煉が低く押し殺した声で訊いた。「知っててわざと喰ったのか?」
何を?と言うと、朧月が勝ち誇った顔で煉を見下ろした。
「誤解が無いように一応言っておくけど、その婆さんは自ら喜んで記憶を投げ捨てたんだぜ? お前の為に、とても喜んで、誇らしげに、満足感さえ漂わせて」
「……俺の為だって?」
朧月がにたりと嗤った。
「婆さんの埃の積んだ記憶と引き換えにお前の探しビトをみつけてやるって言ったら、そりゃもう嬉々として……」
煉が朧月に襲いかかった。樹を駆け登り自分の頸を掴もうとした煉の手を朧月がするりと避けた瞬間、煉の両手が熱を帯び、一瞬にして朧月の姿が炎に包まれた。
「馬鹿っ、やめろっ!」と焰が喚いた。「ヒトに見られたらどうするっ?! 時と場所をわきまえろ! さっさと火を消さんか!」
慌てふためく焰を尻目に、朧月は燃え上がる樹の枝に平然と腰掛けたままケラケラと笑い続けた。朧月を睨み肩で荒い息をつく煉の肩に飛び乗った焰が、「馬鹿が、よく見ろ」と舌打ちした。
「ありゃ朧月の影、つまりただの幻だ。本体はとっくの昔に異界に帰ってるだろうさ。あいつだって馬鹿じゃない。お前と素手でやりあうような下手は踏まん」
「……お前は嫌な奴だ、煉」
朧月が不意に笑いを止め、憎々しげに煉を睨むと首に巻かれた紅いマフラーの端を握り締めた。
「お前はヒトの癖にヒトに非ざる力を与えられ、その癖鬼と馴れ合う。俺はお前が大っ嫌いだ」
そう吐き捨てるように言うと、煉を睨む朧月の姿が炎に揺らめき、ふっと掻き消えた。後にはただ、樹の枝に結ばれた臙脂色のマフラーの切れ端が残されていた。
「……ばあちゃん」
火の消えた枝から飛び降りた煉がベンチに歩み寄ると、あき子の前に跪き、項垂れた。
「ごめんね。本当にごめん。俺にはばあちゃんの記憶を取り戻すことは出来ないんだ。この仇はいつか必ずとるよ。でも、たとえあいつを殺しても、喰われた記憶は戻らないんだ」
煉の言葉などまるで耳に入らないかのように、あき子は楽しげに梢から覗く青い空を見上げて歌を口遊んでいた。
「俺は多くのヒトを見てきたが、未だにヒトというものが掴めん」と焰が溜息をついた。「ヒトは醜く、傲慢で、嫉妬深く、自分勝手で、そして同時に見返りを求めず行きずりの誰かの幸せを願うことができる。実に愚かで不可思議な生き物さ」
「……いい子、いい子」
不意にあき子が俯いた煉の頭を膝に抱き寄せると煉の手に何かを握らせ、その手をぽんぽんと優しく撫でて微笑んだ。
「泣かんでええんよ。笑っとればええんよ」
いつも笑っとれば、いつかいいことがあるからね。 そう言ってあき子が微笑んだ。
「お義母さん! 大丈夫ですか?! 怪我とかしてませんか?!」
血の繋がらない息子の嫁が息を切らせながら駆けてくるとあき子の手を握った。
「だめですよ、勝手に家を出たら。危ないでしょう? お散歩は一緒にしましょうって言ったでしょ?」
噛んで含めるように義母に言い聞かせていた嫁が、ふと傍らに立つ煉に気付いて首を傾げた。
「あの、どちら様でしょう? おばあちゃんが何か……?」
「いいえ、なんでもないです」 煉が首を振ると二人に背を向け歩き出した。
公園の出口に向かって歩きながら、煉がそっと手を開いた。紅い飴玉がころりとひとつ手のひらを転がった。煉が立ち止まり、ベンチを振り返った。
「ヒトとは哀れなもんだな。たとえ鬼に喰われなくても歳を取れば記憶は曖昧になり、己が何者かも解らなくなる。まぁそれはヒトに限ったことではないが」
「……違うよ」
煉があき子の後ろ姿を見つめた。義理の娘に手を引かれ、小さな老女がゆっくりゆっくりと歩み去る。彼女が煉を振り返ることは二度とない。美しい銀髪が夏の陽射しに煌めいた。
「たとえ記憶を失っても、ばあちゃんは、ばあちゃんのままさ」
紅い飴玉を頬張る。
口いっぱいに広がる甘酸っぱい香りが、煉の内を満たした。
(END)




