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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第一章 〜 鬼
3/123

浪の花

浪の花 沖から咲きて散りくめり 水の春とは風やなるらむ

(古今和歌集 伊勢)


挿絵(By みてみん)


   プロローグ


 遠い昔の夢をみた。暖かな春の日差しの中、誰かの膝に抱かれた幼い俺に、懐かしい声が穏やかに語りかける。


『ヒトの心というものは、広く、深い森のようなもので、ヒトは皆、自身の森の旅人なのだよ。しかしその森はあまりに深く、一生を持ってしても決して全てを理解し得ることは無い。鬼の棲む闇があっても、往々にして自身ですらその存在を知ることもない。お前は鬼を視るその力で、ヒトが闇に呑まれぬよう、森の灯火(ともしび)とおなり。ヒトの闇のあまりの暗さにお前の火が揺らぐこともあろう。しかし憶えておきなさい。陰のない森などなく、ヒカリ無くば闇もまた無い』


 どう、と足元の岩を揺らす海鳴りに、俺は目を開けた。冷たい風が頬を刺し、白く柔らかな泡が花吹雪のように暗い空を舞う。


 春はまだ遠い。



     1


 冬。明け方の暗く荒れた海辺に、煉が独り佇んでいた。首に襟巻きのように巻きついた小さな狐の尻尾に顔をうずめて岩場に立つその足元に、荒波が砕けて散る。

『浪の花 沖から咲きて散りくめり 水の春とは風やなるらむ……』

 風に乗って切れ切れに掠れた声が聴こえくる。キシキシと濡れた砂を踏みしめて浜を歩いてきた老人が、独り暗い海に向かって佇む少年の姿に足を止めた。吹き荒ぶ風に浪の花が空を舞う。

「……浪の花とは、冬の海が死人に手向ける花吹雪のようなものだ。しかし今日は一段と酷い」

 無言で海を見つめる煉を、老人がじろりと睨んだ。

「こんな日に独りでいると、あの世とこの世の狭間に迷い込んでしまうぞ」

「……大丈夫だよ」

 薄く笑って答えた煉に、ふん、と老人が鼻を鳴らした。

「若いうちは誰でもそう思うもんだ。たとえ此の世の全てが死に絶えても、自分だけは大丈夫だとな。風邪を引いてもつまらんだろう。ついて来なさい」



 老人について浜辺の(ひな)びた小屋に足を踏み入れた煉が、僅かに眉をひそめると部屋をぐるりと見廻した。古いが丁寧に使い込まれた家具。片付けられた台所。しかし全てが余りに静かで殺伐としていた。しゅんしゅんと、お湯が沸く音だけが沈黙を埋める。老人が湯気の立つマグカップを煉に手渡すと、膝をかばうようにゆっくりと椅子に腰掛けた。

「最近よく浜を歩いているようだな。この近くに住んでおるのか?」

「爺さんこそ毎日海で何しているのさ? 何か探しているの?」

 煉の問いに老人の瞳がふと暗い光を宿した。

「……昔、海に大切なものを失くしてな。ずっと探し続けているのだが、中々見つからん」

「何を失くしたの? 俺、探すの手伝ってあげようか?」

「ふん、余計なお世話だ」

 老人が鼻を鳴らすと、人懐っこい笑みを浮かべる煉をじろりと睨んだ。

「そんなことより、海にはあまり近づくな。この季節、高浪ってもんはいつ来るかわからんからな。用心するに越したことはない」

 老人が億劫そうに立ち上がる。

「朝も遅い。たいしたもんもないが、パンを焼くから食っていけ。亡くなったばぁさんの直伝でな、中々イケる」

「俺もなんか手伝うよ」

 台所へ入った煉が、パンを焼く老人の背をじっと見つめる。と、煉の懐から狐がひょこりと顔を出し、興味深げに辺りを見回した。

「おい……気付いたか?」

「……うん」

 煉が僅かに眼を細め、かちかちと親指の爪を噛む。

 孤独な老人から滲み出るのは深く暗い哀しみと悔恨。なのに何故だろう。気配はするのに、老人の闇に棲む鬼が視えない。

 狐が鼻に皺を寄せると、くしゅんとひとつ嚔した。

「それにしても酷い匂いだな」

「そうだね。潮の匂いにしても、なんだろう、ひどく生臭い……」



     2


 老人の小屋を出た煉が、ゆっくりと海辺をゆく。やがて適当な岩場を見つけると、波打ち際に腰掛けて、老人に貰ったパンを千切って海に流した。しばらくぼんやりと海を眺めながら待っていると、小さなフウセンウオが数匹、岩の間からひょっこり顔を出した。ふっくらとしたフウセンウオの姿に、煉の足元に寝そべっていた狐が体を起こし、密かに舌舐めずりした。

「コレ美味しいね」

 フウセンウオが目を輝かせ、もぐもぐと口を動かす。

「浜の小屋に住んでる爺さんが焼いたんだよ。知ってる?」

「知ってる。ジーサン毎日海来る。もっとクレ」

 煉が小さく千切ったパンをフウセンウオ達の口に入れてやる。

「ねぇ、あの爺さんは何を探してるのかな?」

「知らん」

「じゃあさ、あの人、何か海のモノが憑いてるみたいなんだけど、知ってる?」

 不意に風船魚達が何かに怯えたように黙りこくった。と、それを見た狐が鼻に皺を寄せ、忌々しげに舌打する。

「役立たずな奴らだな。なぁ、煉、こいつら喰っちまおうぜ。油でカリッと揚げたら一口サイズでコラーゲンたっぷり、きっと美味しいぜ?」

 風船魚達が青ざめたのを見て、煉が慌てて狐の頭をはたいた。

「ねぇ、とても大切なことなんだ。約束する、君達に迷惑はかけないよ」

 煉の真剣な口調に風船魚達が顔を見合わせ、やがておずおずと口を開いた。

「……空のお月様死ぬと、海のお月様生まれる」

「でも海のお月様に近づいちゃイケナイヨ」

「アブナイから」

「コワイコワイの棲んでるから」

 無言で考え込んだ煉が、暗い海を見渡した。



     3


 数日後。明け方、浪の花の舞う暗い海辺を歩いていた煉が、小屋の近くで倒れている老人を見つけて慌てて駆け寄った。

「おいっ、爺さん、しっかりしろ!」

 答えぬ老人の冷えた体を抱え、引きずるように小屋に運んで寝かせる。悪夢にうなされているかのように苦しげな老人を介抱していた煉が、ふと躊躇いがちに老人の額に手を置こうとした。と、それを見た狐が軽く舌打ちした。

「おい、煉。やめておけ」

「だけど……」

「だけどもクソもあるか。ヒトがどうなろうと、お前の知ったこっちゃないだろうが。そもそも勝手にヒトの夢を覗こうなんて、趣味が悪いぞ」

 狐の声が聞こえたのだろうか。ふと目覚めた老人が、しばらくぼんやりと煉の顔を見つめ、やがて正気に返ると忌々しげに舌打ちした。

「……なんじゃ、やっとお迎えが来たかと思えば、小僧か。わしを助けるなど、余計な事しおって。礼など言わんぞ」

 煉が苦笑しながら立ち上がった。

「この前ご馳走になったパン、美味しかったからね。お返しだよ」

 煉が台所から温かなお茶を持って戻ってくると、ベッドに体を起こした老人が枕元の箱を開けて小さな赤い靴を見つめていた。黙ってお茶を枕元に置きながら、煉が箱の中の少女の写真にちらりと目をやった。

「……孫の七海だ」

 老人が写真の中の少女の影をそっと指でなぞった。

「一人娘の忘れ形見でな。月のない夜、白い岩に坐って子守唄を歌う人魚の話が好きで、同じ話を何度もせがまれたもんだ。しかしある晩、七海は家を脱け出して人魚を探しに海へ行き、それっきり……村中総出で探して、結局見つかったのはこの靴だけじゃ。もう十年以上昔の話さ」

 老人が重苦しい溜息を吐いた。

「今から思えば、何故あんなつまらん話をしたものか……わしがあんな話さえせなんだら、七海は死なずにすんだかも知れん……わしがあの子を殺したようなもんだ」

 不意に老人が激しく咳き込んだ。

「……持病があってな。医者は転地療養を勧めるんだが、どうしてもここを離れる気がせん。頭ではわかっていても、諦めがつかなくてな。あの子がまだ海にいて、誰かが見つけてくれるのを待っているような気がしてならん。雪に凍る波はヒトが眠るにはあまりに冷たい……」

 窓から見える曇り空に目をやった老人が、微かに嗤うと頭を振った。

「つまらん話をした。遺される者の哀しみなど、若いモンにはわからんだろう。わからん方がいい……」

 咳込む老人の背中を煉が暖かな手で優しくさすった。

「しばらくの間は俺が探すの代わってやるからさ、じいさんはゆっくり休みなよ」


 夕暮れ時、小屋を出た煉が西の空に浮かぶ細い下弦の月に鋭い視線を送った。

「月の死ぬ夜……新月は三日後か」

 煉を見上げた狐が溜息と共に肩をすくめた。

「ヒトなど放っておけばいいものを、つくづくお節介な奴だ」



     4


 三日後の新月の夜。煉が潮の引き始めた海辺に現れると、ゴツゴツとした岩に腰掛けた。そしてそのまま、海を見つめ、何かをじっと待つ。やがて、浅くなった波間に白く丸い岩が現れた。月の無い暗闇の中、ぼんやりと光る岩に人魚のシルエットが浮かび上がり、波間に微かな歌声が響く。しかしその歌声を聴いた途端、煉がにやりと笑った。

「ナンの物の怪か知らないけど、擬態が人魚ってどうなの? 少女趣味なの? それとも単に人魚の評判落としたいだけとか? でもそんなお粗末な歌で俺は騙せないよ」

 恐れげもなく白い岩に近づいた煉に、突如鞭のようにしなる影が襲いかかった。ひらりと横に跳んでそれを避けると、煉が潮風に鼻をひくつかせた。

「そもそもお前は酷く生臭い……歌ってる暇があるなら、まずその体臭どうにかしようよ」

 岩に腰掛けた鬼がじっと煉を見つめた。長い髪、銀色の瞳、端正な顔つきは人魚に勝るとも劣らない。しかし波間には、尾ビレの代わりに鱗の無い何本もの腕が不気味にうねる。

「……ここ数日、私の餌の周りを嗅ぎ回っていたのはお前かい?」

「教えてよ。海に棲むモノが、一体どうやって離れたところにいる陸のモノの精気を喰っているんだ?」

「さあねぇ」

 岩に残る浪の花を手にすくうとふっと息を吹きかけ飛ばし、鬼がにたりと嗤った。

「もう十五〜六年にもなるかねぇ……あの男の孫を喰ったのは。あの子は旨かったねぇ。年端のゆかぬ幼子ほど旨いモノはない。血は甘く、肉はとろけるように柔らかい」

 じっと自分を睨む煉に、鬼がにたりと嗤いかけた。

「お前も一度試してみるとよい。みたところ、おまえはヒトより我等に近いようだ」

  煉が不意に笑い声をあげた。

「やだな~、俺って一応人々に愛されるカワイイ系のつもりなんだよね。あんたみたいなグロいのと一緒にされるとか、すっごい傷付くんですけど」煉がふと真顔になると首を傾げた。「それにしてもわからないな。肉を好むなら、じいさんを生かしておく必要なんてない。年寄りを海に引きずり込むくらいお前ならお手の物でしょ?」

「喰うのは幼子に限る。年寄の肉など硬くて喰えたものじゃない。だが魂は別だ」

 吸盤の付いた腕がずるずると背後の海から何かを引き摺り出した。

「ごらん……悔恨と悲哀こそ、癒えることなき傷を負うた魂の最高のスパイス……」


 蛇のようにうねる腕に絡みつかれた小さな影が啜り泣く。

 痛い、痛いと、暗い泣き声が風に舞う。

 寒い……水が冷たい……帰りたい……おじいちゃん……

 不意に顔を上げた影が、水に引きずり込まれる瞬間、煉に向かって細い腕を伸ばした。


 オネガイ、誰カ助ケテ。


「……貴様、その子の魂は喰わなかったのか。孫の泣き声をじいさんに聞かせ続け、傷を抉り続けるためだけに喰わずに残しておいたのか……?!」

 顔色を変えた煉が懐から出した面を被ると足元の岩を蹴った。煉の手の中で燃える炎が物の怪に襲いかかり、一瞬にしてその腕を焼き切った。斬られた腕から噴き出す青い血が海を染める。煉の面に浮き出た模様に物の怪が目を細めた。

「……聞いた事がある。国中をさすらい鬼を祓う、火焔隈の面使い」

 無言で再び物の怪に襲いかかった煉がさらに数本の腕を焼き切る。

「聞きしに勝る腕前だねぇ。だが無駄だよ」

 煉に焼かれて千切れた腕がみるみるうちに生えてくる。

「何度やっても元通りさ。再生の養分には老人の精気を喰えばいい」

 煉の足元の岩を打ち砕き、物の怪がけたたましく笑った。

「しかしこの早さで喰えば、アレは朝まで持たんだろうな。そろそろ新しい餌が必要だ」

 舌打ちして自分を睨む煉を見て、物の怪が愉快げに肩を震わせる。

「どうした? 諦めるか? それともアレの代わりにお前が私の餌になるか?」

 物の怪の伸びた腕を避けようとした瞬間、濡れた岩に足が滑った。僅かにバランスを崩した隙を突かれ、体を絡めとられる。ギリギリと胸を締めつける腕を焼き切ろうと右腕に力を込めたが間に合わなかった。二の腕に巻き付いた太い蛇のような腕が煉の右腕を引き千切った。

 自分の右腕を舌舐めずりしながら鬼がひと飲みにするのを見て、煉が鋭く舌打ちした。咄嗟に体に巻きついた腕を左手で焼き切ったが逃げ切れず、足を掴まれ尖った岩に叩きつけられた。面が割れ、浜にぐったりと横たわった煉の周りの浪の花が、じわりと滲む血に紅く染まる。

「ふむ、紅い花というのも良いものだ。焔を操るお前によく似合う……皿の盛り付けは美しい方が食欲も湧く」

 物の怪が満足気に笑うと煉の体に手を伸ばした。しかしその腕が所々焼かれ、切れかけていることに気付き、憎々しげに舌打ちした。

「忌々しい面使いめが……しかしコレは稀な馳走。まずは身体を治し、ゆっくり味わうとしようか……」


 小屋で眠る老人の枕元の箱が黒い瘴気を帯び、その黒い影が蛇のようにうねり、蠢きながら老人の喉元に近づいた。次の瞬間、箱の中の靴が燃えあがり、一瞬にして灰と化した。それと同時に老人の周りの瘴気が消えた。


 物の怪が驚いたように息を呑んだ。と、浜に横たわる煉がくすくすと嗤い出した。物の怪がじろりと煉を睨む。煉が顔の血を拭いながらゆっくりと身体を起こした。

「……やっぱりね。祖父の元へ帰りたいという少女の想いが込もった靴を依り代にして、離れた場所の人間の精気を喰ってたんだね。鬼の癖にすっごい器用だね。師匠って呼んでいい?」

 喰い千切られた腕を抑えながら煉が立ち上がった。

「俺、力の遠隔操作とか苦手でさ。依り代に送られたお前の妖力にシンクロさせてもらったよ」千切れた物の怪の腕を眺め、煉が首を傾げた。「あんたの腕って、餌無しじゃ再生出来ないんだ? それってちょっと致命的じゃない?」

「……面の割れた面使いが偉そうな口を利く。片腕のお前に何が出来るというのだ? あの男を守って自分が代わりに餌になるつもりか? 忌々しい、お前は骨の髄までしゃぶってくれよう」

 怒りも露わに岩に叩きつけられた物の怪の腕を、煉が軽く後ろに跳んで避ける。

「なんか勘違いしてる奴が多いんだけどさ、別に俺、力を増幅させるために面をつけてるわけじゃないんだよね」

 物の怪の腹の中で、喰われた煉の腕が熱を孕んで光り始めた。

「……俺に力の使い方を教えてくれるはずだった人達、みんな死んじゃってさ。俺、超下手なんだよ。力のコントロールが」

 驚いて暴れる物の怪が上げた水飛沫が煉の顔にかかる。

「ホントここが海で助かったよ」

 顔を拭いつつ、煉が屈託無い笑みを浮かべる。

「面無しだと、力が大暴走しちゃったりするもんで」

 焼け爛れる腹の痛みにのたうちまわる物の怪の姿に煉が無邪気に首を傾げる。

「ねぇ、タコ焼きって知ってる? 俺の好物なんだけど」

 激しい業火に燃え上がる物の怪の断末魔の悲鳴に、煉が口の端を吊り上げるようにして薄く嗤った。

「……でもお前の肉じゃ、硬すぎて不味そうだよね」


 煉の焔に煽られて浪の花が空を舞う中、物の怪は跡形も無く燃え散った。炎が消え、辺りに暗闇が戻ると、煉が浅瀬にぽつんと残って波に洗われる己の右腕を拾った。肩に近づけられたそれは、ぐずぐずと何かが煮えるような不快な音を立て、やがて傷ひとつ残さず元通りに繋がった。岩場に隠れていた狐が煉の肩に飛び乗ると、腕についた血を小さな舌でそっと舐めた。

 跡形もなく綺麗に繋がった腕を暗い夜空に向かって伸ばす。不意に物の怪の言葉が脳裏を過った。


 オマエハヒトヨリ我等ニ近イ。


 煉がつまらなそうに鼻を鳴らすと、狐が煉の顔に優しくほおずりし、気にするな、と囁いた。暖かく柔らかな毛が鼻をくすぐる。

「別に……たださ、図星ってなんかムカつくよね」

 溜息と共に割れた面を拾い集めていた煉が、潮が満ち始めた暗い海辺にうずくまっている少女の影に気づいた。煉が近づくと少女が顔を上げた。

「……もう家におかえり」と煉が囁くと、少女が困った顔で俯いた。

「だめなの。帰りたいけど、靴を片っぽ失くしちゃったの」

 煉が黙って自分の靴を脱ぐと、それを少女に与えた。ちぐはぐな両足の靴を見て笑い声をあげる少女の髪に、白い浪の花をそっと飾ってやる。

「ありがとう。おじいちゃんが待ってるから、行くね」

 小屋に向かって暗い浜を駆け出す少女の後ろ姿を、煉が目を細めるようにして見送った。



    エピローグ


 早朝。煉が海辺で朝焼けを眺めていると、煉を見つけた老人が急ぎ足でやってきた。

「今朝方、不思議な夢をみた」と息を切らせて老人が言う。

「七海が家に帰ってきてな、『おじいちゃん、ただいま』などと言いながらわしに抱きつきよった。目が覚めた時、確かにあの子の感触が腕に残っておった。それで枕元の箱を開けたら、あの子の靴が灰になっておっての。写真の方は何ともなかったのに、不思議なこともあるもんだ」

 老人の言葉に、煉が無言で微笑んだ。と、老人がふと煉の足元に目をやると不審そうに眉をひそめた。

「なんじゃ小僧、靴はどうした?」

「……昨日海で失くしたんだ」

「阿呆、この寒空の中、靴を失くす奴があるか」

 更にじろじろと煉を見た老人が顔をしかめて溜息をついた。

「なんじゃ、よくよく見れば服も濡れてなにやら薄汚れておるのう。阿呆が、寒中水泳でもしおったか。風呂を沸かしてやるから、さっさと家に来い」

「……大丈夫だよ」煉が遥かな沖を見つめ、目を細めた。「俺、不死身だから」

 老人が不意に楽しそうに笑い出した。

「そうか、わしもじゃ」

 煉があきれた顔で老人を振り返った。

「よく言うよ、昨日まで三途の川の渡り賃を数えてたくせに」

 煉の言葉に、老人が悪戯を思いついた子供のような顔で微笑んだ。

「死にかけて思い出したのさ。婆さんの好きな言葉でな、“all men are immortal until they are dead”……人は誰でも死ぬまで不死身なんだと」


 不死身の少年と不死身の老人が、朝焼けに輝く穏やかな海を並んで見つめる。一陣の風に、朝焼けに染まった浪の花がふうわりと舞った。


 春はヒトが思うより近いのかもしれない。


(END)

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