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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第二章 〜 煉
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終わりと始まり 〜 其の参・あの日(前編)

 生くべくも思ほえぬかな別れにし 人の心ぞ命なりける (続集 和泉式部)


     1


紫蘭(シラン)

 初夏。月明かりの中、いつもの岩に上がった煉が人魚を呼ぶ。

 パシャリと水を跳ね上げて銀髪の人魚が波間から顔を出し、煉から受け取った梨の実を美味しそうに食べた。紫蘭と並んで岩に腰かけ、雌の人魚達が集う岩場をのんびりと眺める。人魚達は煉の姿を見ても気にする風もなく、笑いさざめきながら唄を歌い続ける。

「紫蘭達がこの浜に来てから、もうすぐ一年だね」

 初めて人魚の唄を聴いてから一年近くの間、煉は泪の機嫌を伺いつつ、暇さえあれば(つまり一家が退魔の旅に出て村を留守にしている時以外はほぼ毎日)海に通い続けた。煉の連日の海通いに泪は何も言わない。そんな泪に対して僅かに後ろめたく思うものの、人魚の魅力にはどうしても勝てない。三日も子守唄を聴いていないと胸の内がざわざわとして、何も手に付かなくなる。しかしこの海通いのお陰で、煉は誰よりも、オオババや漁師達よりも人魚の生態に詳しくなった。


 群の中で雄は紫蘭一匹だけ。残りの十五匹は全て雌だ。子守唄はほぼ毎晩聴こえてくるが、それを歌う人魚の数は日によって違う。どうも月の光の強さが関係しているようだと煉は考えている。簡単に言えば、三日月の晩や曇った夜は数匹の人魚しか歌わない。反対に満月の夜はすべての人魚が歌う。新月の夜は雌の人魚達は誰も歌わずただ静かに休む。そして陽が昇ると、一~ニ匹を岩場に残し、全ての人魚が沖に狩りに出る。


「卵はだいぶ大きくなった?」

 紫蘭は何も言わずじっと煉を見つめるだけだが、煉は全く気にせず話し続ける。

「じーさんがさ、人魚の卵は一年くらいで孵るって言ってた。卵が孵ったら、人魚は沖に帰っちゃうって」煉がふと月を見上げた。「……紫蘭ももうすぐ行っちゃうんだね」

 人魚が暗い紫の瞳で煉を見つめ、僅かに微笑み、そしておもむろに低い声で歌い出した。紫蘭の唄は雌の人魚達の唄とは少し違う。低く高く、哀愁を帯びて暗い海原に響くその声は、まるで海そのものが歌っているようだと煉は思う。

 紫蘭が歌い出すと、雌の人魚達は口を閉じ、じっとその歌声に聞きいる。やがて一匹二匹と紫蘭の唄に加わりはじめ、やがて幾重にも重なった歌声が海に響き渡る。

 紫蘭は滅多に歌わない。紫蘭が歌うのは、月のない新月の夜。あとは二度程、煉が沈んだ気分の時に、まるで煉を慰めるかのように歌ってくれただけ。

(人魚は唄でお互いの気持ちを伝えあう……)

 人魚達を眺めながら考える。ヒトや他の物の怪達のように複雑な言葉を使って人魚同士が話しているのを見たことはない。歌わないときは、ルルルル、とかリリリ、とか、鈴を転がすような短い音を使うだけだ。人魚が酷く耳障りな不協和音のような声を出すのを煉が聞いたのは、後にも先にも一度だけだ。


 あの晩、珍しく夜中に沖に餌を狩りに行った紫蘭を待っているうちに、煉はどうしても人魚の卵を一目見てみたくなったのだ。その日は月が細かったせいか、殆どの人魚が沖に出ていて、岩の周りでは残された数匹の人魚が子守唄を歌っていた。雌の人魚達が煉に近寄ってくることはなかったけれど、紫蘭と共に岩に座って歌を聞く煉に敵意を示したり、まして攻撃するような様子は一度もなかった。

 だから油断したのだ。

 我慢出来なくなった煉は、いつも座っている岩よりも数個先の岩、卵の産みつけてある場所から三間位のところまで泳ぎ、波間にちらちらと見え隠れする卵を覗いてみた。拳大のそれは、半開きになった二枚貝の中で真珠のような柔らかな白い光を帯び、まるで静かに息づくように淡く光っていた。

「綺麗……」

 煉がうっとりと呟いた時、突如一匹の人魚がギギギ、と金属の擦れるような不快な音を出し、煉を睨みつけた。途端に歌がぴたりと止み、幾つものぬらぬらと光る金色の眼が一斉に自分を睨むのを感じて、煉は咄嗟に目を伏せた。そのまま静かにいつもの岩まで泳いで帰り、膝を抱えてじっとした。しばらくの間、無言で煉を睨んでいた人魚達は、やがて気を取り直したように歌い始め、紫蘭が狩から帰ってきても煉の行いを言いつける様子はなかった。


 しかしその日以来、煉は決して卵のある大岩に近づいたことはない。



     2


 月明かりの中、深い山奥を桜と椿が薬草を探して歩いていた。

「遅くなっちゃったわね。きっと伊吹兄様が心配しているわ」

 暗い夜空を見上げて桜が溜息をつくと、仕方ないじゃない、と椿が肩を竦めた。

月下香(ゲッカコウ)は夜遅く、月夜の晩にしか咲かないんだから」

「ねぇ、月下香って、なんだか茴香(ウイキョウ)叔母様に似ていると思わない?」

 桜の言葉に椿が無言で頷いた。桜も椿も、自分達がまだ幼い頃に亡くなった泪と煉の母、茴香が大好きだった。幼心にも、どきりとするほど美しかった茴香は桜と椿をとても可愛がってくれた。しかし鬼の前ではその横顔は凍える刃のように鋭く、無慈悲で、そして恐ろしいほどに強かった。

「強く、しなやかで、そしてとても綺麗なところとか……」

「顔だけなら泪兄様は茴香叔母様にそっくりよね。煉ちゃんはそうでもないけど」と椿が言うと、桜が不意に顔を赤らめた。

「そうかしら、よくわからないわ」

 あたふたと木の間に入っていく桜の後ろ姿を眺めつつ、椿がくすりと笑った。

(やっぱり桜は泪兄様の事が好きなのね。)

 女人のように優しい姿をした泪を思い浮かべる。濃い退魔の血統を保ち、より強い力を持った子孫を残すために、面使い達は多くの場合親族間で婚姻を結ぶ。穏やかで優しい桜と落ち着いた雰囲気の泪はお似合いだと思う。

 ……私は絶対にごめんだけど、と椿が心の中で舌を出す。別に泪が嫌いなわけではない。ただ、泪にはおまけとして、もれなく煉が付いてくる。

(煉ちゃんは可愛いけど、でも絶対に一緒になんて暮らせない。)

 椿は潔癖性だ。わけのわからない蟲だの小鬼だのを毎日家に連れ込まれては堪らない。気が狂ってしまう。それに、一見優しいけれど、何処となく裏表のありそうな泪よりも、兄の伊吹のようなさっぱりした漢の方が椿の好みに合う。

 藪にかがんで薬草を探しつつ、亡き茴香の面影を思い浮かべる。

(それにしても、確かに月下香の凛とした姿は叔母様に似ているわね……)


 ざわり、と不意に首筋を死人の凍えた手で撫でられた様な悪寒が椿を襲った。逃げ出したいのをじっと堪え、恐る恐る顔を上げた。暗い樹の間をナニカがゆっくりと歩いている。ソレがふと立ち止まり、暗い夜空を見上げた。梢から漏れる月明かりに浮かび上がった、ぞっとするほど美しい横顔に、椿が息を呑んだ。


「椿、月光香があったわよ」

 向かいの藪の奥から桜が現れた。

「さ……」

 頬に降りかかった生温かいモノの鉄の匂いが鼻を突く。喉元まで出かかった悲鳴を必死に呑み込み、込み上がる吐き気をぐっと堪えると咄嗟に身を伏せた。

(父様に……伊吹兄様に知らせなくては……)

 身を低くしたままじりじりと後ずさりながら、紅い椿の花をふわりと夜風に飛ばす。

 ……耐えろ。濡れた頬を拭った指先がぬるりと滑る。懸命に息を整えた。心を閉ざし、今は耐えねばならぬ。慎重に、気配を殺して──


 ぱきり、と下枝を踏む乾いた音が森に響いた。



(To Be Continued)

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