火垂る
夕されば 蛍よりけに もゆれども 光見ねばや 人のつれなき
(古今和歌集 紀友則)
プロローグ
穏やかな初夏の午後。老人ホームの隣に広がる草むらの木陰で、車椅子に乗った老婦人が小さなピクニックテーブルにお茶の支度をしていた。ゆっくりと、丁寧な手つきで白い陶器のティーカップを並べ、皿に焼き立てのクッキーを盛る。老婦人がふと手を止めると、木洩れ陽に目を細めるようにして微笑んだ。柔らかにそよぐ風に、切れ切れに草笛の音が聴こえる。
「お茶が入りましたよ」
老婦人の声に、草笛がぴたりと止まった。
「そこにいるのはわかっているのよ。降りていらっしゃい」
数秒の沈黙の後、生い茂った樹の枝から一人の少年が飛び降りた。何も言わずに老婦人の背後に立った少年の艶やかな黒髪に、木洩れ陽がちらちらと躍る。しかし婦人は少年を振り返ろうとはせず、落ち着いた様子でお茶の支度を続ける。
「貴方、いつもここで草笛を吹いているわね。今時草笛なんて珍しい……でもとても上手ね」
老婦人がふと空を見上げた。
「懐かしいわ。昔、ずっと昔、草笛のとても上手な男の子と遊んだのよ……私の昔話、聞いてくれるかしら?」
少年が無言でひとつ頷き、老婦人の隣に座った。
1
初夏。ひと気の無い小さな神社の境内で、七〜八歳の少女が泣いていた。泣いても泣いても涙が尽きることは無く、目が腫れて、少し頭が痛くなってきた。でも構わない、と少女は思う。ここなら、私が泣いていることに気付く人はいない。だから、ここでなら、思う存分に泣ける。
しかし誰もいないと思ったのは間違いだった。こんもりと生い茂った樹の枝に、一人の少年が寝転がっていたのだ。しくしくと、いつまでも止まない啜り泣きに、少年の額に苛々と青筋が立ち始めた。とうとう我慢仕切れなくなったのか、少年が突如樹から飛び降りると、髪を掻き毟って叫んだ。
「だ~っ! うるさい! 昼寝の邪魔だ! 泣くなら何処か他所に行け!」
少女は驚いたように少年を見つめ、ヒクッとしゃっくりすると、一瞬だけ泣き止んだ。だがそれは時間にしてほんの一〜二秒のことだった。うるうると潤み始めた少女の目を見て、少年が僅かに怯んだ。少女が隣の木陰に逃げ込み、再びシクシクと泣き始めると、少年の頭上の木陰がザワザワと揺れて無数の小さな嗤い声が起きた。
「煉が泣かした、おなご泣かした」
「俺じゃねーッ」
頭上の嗤い声に向かって少年が怒鳴る。しかしやはり少し後ろめたかったのか。軽く舌打ちした少年が、少女の隠れる樹に背を預けると、手元の草を千切って口に当てた。
少年が吹く柔らかな草笛の音色に、木陰で身を縮めていた少女が泣くのをやめてそっと少年を盗み見た。そんな少女を少年が笑いながら振り返る。
「草笛。吹いてみる?」
声をかけられ、少女が怯えたように俯いた。しかし少年が草笛で次々と鳥を呼び寄せると、目を輝かせて樹の後ろから再び顔を覗かせた。
「お、結構集まってきたな。この辺はまだ結構自然が残ってるからね。俺の生まれたところは山ん中だったから、もっと凄かったんだけどね」
少し利かん気そうに眦の吊り上がった少年の眼は、笑うと優しげで、日焼けした肌に白い歯が眩しかった。肩に腕に鳥を止まらせた少年が、笑いながら少女に手を差し伸べる。
「河原に行こう、もっと面白いもの見せてやるよ」
恐る恐る握った手は、とても温かだった。
❀
老婦人が木洩れ陽に目を細め、懐かしげに微笑んだ。
「とても不思議な男の子だった。彼のまわりにはいつも色々な動物が集まってきて。信じられないでしょうけど、彼には普通の人の目には映らないモノも見えていたのよ。そして、彼といる時だけは私にもソレが見えたの」
2
「レ〜ン!」
少年の影を探し、螢は高い樹の枝を見上げた。
「レ〜ン!」
煉という名のその少年は、注連縄の結ばれた神社の樹の上でよく昼寝していた。一度、御神木なんかに登ったりしてバチが当たらないかと螢が尋ねたところ、「ここのヤツは知り合いだから大丈夫」と言って笑った。
「レ〜ン!」
何度も呼んでいると、生い茂った枝の上から煉が顔を覗かせた。
「おはよう、螢。早かったね」
何の恐れげもなく高い枝から飛び降りる煉をみて、螢が感嘆の溜息をつく。煉の身のこなしはまるで体操の選手か猿のようで、煉はどんなに高い樹でも簡単に登り、そして枝から枝へ軽々と飛び移ってみせた。
「今日はどこ行きたい?」
「山! 山にリスを見に連れってってくれるって言ったでしょ? リスやウサギと鬼ごっこするの。お母さんにお弁当作って貰ったよ」
「螢の母さんの手作り弁当か、イイねぇ」
螢から弁当包みを受け取った煉が愉しげに笑った。
出会ったその日から、螢はすっかり煉の虜だ。煉は色んな遊びを知っていて、ありとあらゆる生きモノと仲良しだった。そして虫でも蛇でも鳥や獣でも、煉は此の世の全てのモノに愛されているかのように見えた。
煉に連れられて登った山は楽しかった。しかし山の動物相手の隠れんぼは螢には絶対的に不利だ。動物達はみな保護色を使って上手に隠れるし、煉なんか森と同化してしまって、たとえすぐそばにいても気配すら分からなくなる。一度くらい自力で煉を見つけてやろうと躍起になった螢の視界の端で、何かがちらりと動いた。
「あっ、リスちゃんみ〜つけた!」
螢が歓声を上げ、藪の陰に隠れた小さな茶色い影に飛びついた。螢に捕えられた影がキキッと小さな叫び声を上げた。
「……ん?」
リスってこんなにガサガサしてたっけ。もっとふわふわだったような気が……。掴んだモノをよくよく観察する。ガサガサとした細い手足、シワシワと皮膚の弛んだ体。硝子玉のような大きな目玉。尖った耳。口の端から覗く針のような牙。額に生えた角……。手の中のソレが、螢を見つめ、キキッと鳴いて首を傾げた。
螢が盛大な悲鳴を上げてソレを放り投げると同時に、煉が慌てて頭上の枝から飛び降りる。
「螢?! どうしたのっ?!」
「そこっ! それっ! 変なのがいるっ!」
螢が煉の足下を半泣きで指差すと、茶色い小鬼がキィキィと小さな悲鳴を上げて煉の陰に隠れた。そんな小鬼を煉が笑いながら撫でてやる。
「怖がらなくても大丈夫。こいつは『枝枯らし』っていって、木に憑く物の怪だよ。木が好物なんだ」
「物の怪? 木を枯らすの?」
「うん、でも枯らすって言っても、精々下枝一〜二本だよ。よっぽど数が多くない限り、木を丸々一本枯らしたりなんかしない」
「ふーん」
煉の背後から顔を出した小鬼を、恐る恐る撫でてみる。小鬼が嬉しそうに目を細め、きゅいきゅいと鼻を鳴らした。爪楊枝か小枝のような手足も、見慣れると仲々可愛い……ような気がしないでもない。
「鬼ってみんなこんな感じなの?」
「うーん」煉が少し言い淀んだ。「俺のじいさんがよく言ってたんだけど、物の怪もヒトと同じで千差万別なんだよ」
「センサバンベツ?」
難しい言葉に螢が首を傾げる。
「つまりさ、人間だってみんながみんな、良いヒトってわけじゃないだろ? 物の怪や鬼だって、みんなが悪い奴らってわけじゃないんだよ」
「でも、じゃあ、もし悪い鬼に会ったらどうすれば良いの?」
螢の言葉に煉がふと微笑んだ。
「心配しなくても大丈夫だよ。螢は俺が守ってやるから」
「……ずっと?」
「ずっと。螢がいつ、何処にいても、螢が俺を必要とする時、俺はいつでも螢の傍にいる」
約束するよ、と言って微笑む煉の艶やかな黒髪が、風に優しく乱れる。沈む夕陽が眩しくて、茜色に染まる空の下、煉の笑顔がよく見えなかった。
3
とっぷりと日が暮れた頃、煉は遊び疲れた螢をいつものように家まで送ってくれた。
「そっかあ、螢はホタル見たことないのか。そういや、俺も最近見てないな。もうちょっと田舎に行けばいるんだろうけどなぁ。流石に夜中にお前みたいなガキを連れ出すわけにいかないし」
煉は時々妙に大人ぶって話す。自分だって子供のくせに、やけに螢を子供扱いするのだ。
「お父さんのね、田舎には夏になるといっぱいホタルが飛んでて、とても綺麗だったんだって」
『父さんと母さんは、あの柔らかくて優しいホタルの光が大好きで、だからお前の名前は螢なんだよ』
螢の記憶の中で、父は優しく、その微笑みは暖かだった。
のんびり歩いて家に着き、螢が煉に送ってもらった礼を言おうとした丁度その時、家の中から物が壊れる音が響いた。螢がビクリとして身を縮め、家を振り返った。と、螢の背中に暗い影のような小鬼が現れた。煉が小鬼をじろりと睨み、逃げようとするソレを素早く捕まえ、螢に気付かれないよう静かに握り潰す。じっと自分を見つめる煉の視線に気付いた螢が、少し慌てて微笑んだ。
「あ、あのね、私のお母さん、ちょっとドジなの。きっとまた何か落として割っちゃったのよ。もうしょっちゅうで、ホント嫌になっちゃう。じゃ、私もお母さんのお手伝いしなくっちゃ。ばいばい!」
「……螢」
立ち止まっておずおずと振り返った螢に煉が優しく微笑んだ。
「また明日」
3
なるべく音を立てないように玄関を開け、そっと靴を脱ぐ。家の中は電球が割れて暗く、酷く殺伐としていた。居間でテレビを見ながら酒を煽る父親の背中から目を背けると、螢が足音を忍ばせるようにして台所に入り、黙々と割れたガラスを片付ける母のそばに近寄った。螢に気付いた母が顔を上げた。母の顔の殴られた跡が生々しく、自分が殴られたかのように胸が痛む。
「……螢、お帰りなさい」
母が優しく微笑む。しかし喋ると傷が痛むのか、僅かに表情を曇らせ、頬に手を当てた。
「ごめんね、お母さんったらうっかりしてて、ご飯まだなの。すぐ作るから、自分のお部屋で待っててくれる?」
黙ってガラスの片付けを手伝おうとした螢の手を母がそっと押しとどめた。
「ここはいいわ。手を切るといけないから、お母さんやるから、螢は二階で本でも読んでらっしゃい」
突如、何やらぶつぶつと呟きながら父が立ち上がった。父の呟きは濁った沼に浮く泡が潰れる音に似て、耳にひどく不快だ。途端に青ざめた母が、螢に向かって叫ぶように言った。
「はやく、はやく二階に行きなさい!」
自分を掴もうとする父親の横をすり抜けるようにして階段を駆け上り、部屋に飛び込むとドアに鍵をかけてベッドに潜り込む。階下で両親の言い争う声と物の壊れる音が響く。
……何も見たくない。何も聞きたくない。
螢がぎゅっと目を瞑り、枕で耳を塞いだ。
お父さんがあまり会社に行かなくなって、いつも昼すぎまで寝ているようになった時、お母さんは言った。
「お父さんはね、会社で色々大変な事があって、でもとても頑張ったのに、お父さんの悪口を言う人達がいて、心が風邪をひいちゃったのよ。だから今はそっとしておいてあげて。少しだけ休ませてあげようね」
台所の空の酒瓶の数と、お母さんの身体の痣が増え始めた頃から、お父さんは少しずつ変わっていった。背中が曲がって、大きなコブができて、体がぬらぬらした鱗で覆われて、目が暗闇で光るようになった。黄色く長い牙を剥き出して、口から汚い泡を吹きながら部屋の隅で唸っている。もう言葉も喋れない。私やお母さんの言葉もわからないんじゃないかと思う。
……そう、アレは、もう、お父さんじゃない……
眠りに落ちた螢を、窓の外の樹に腰かけた煉が見詰めていた。螢の周りに踊るようにチラつく無数の黒い小鬼の影に、煉が苛々と親指の爪を噛む。と、煉の肩に座っていた小さな狐が諭すように囁いた。
「煉、あれはもうどうしようも無い。余計な事は考えるなよ。運命は変えられない。如何にお前でも、手出ししたら只では済まないからな」
翌日の早朝。窓をかりかりと引っ掻くような物音に、螢が目覚めた。カーテンを開けると、窓辺に小さな狐が座っている。これはいつも煉のそばにいる狐だ。狐の前には小枝に結んだ走り書きと、紅いリボンが置いてあった。
『ごめん、今日は遊べない。今夜は窓に鍵をかけないで』
リボンを手に取った螢に、狐が囁いた。
「……お守りだってさ」
4
木洩れ陽の下、老婦人がケーキを切り分け、少年にお茶のおかわりを勧める。
「煉は結局その日は帰ってこなかった。翌日も、その次の日も……煉に会えない毎日は、とてもさみしくて、つまらなかった。でも、不思議と怖くはなかったの。悪い夢もみなかった。結局煉が帰ってきたのは十日も経ってからだった。今でも良く覚えているわ。とても蒸暑い夜だった……」
両親がいつもより激しく言い争う中、螢は二階の部屋で身を縮めるようにして窓の外を見ていた。もう日が暮れてしまった。今日も煉に会えなかった。煉はどこに行ってしまったんだろう。また明日、って言ったのに、なんで煉は会いに来てくれないんだろう。もしかして、もう二度と煉に会えないのではないかと思ったら、鼻の奥がつんと痛くなった。
不意に響いた母の悲鳴と大きな物音に、螢が思わず部屋を飛び出し階下に駆け降りた。駆け込んだ台所には、冷たい床にぐったりと蹲って動かない獣と、包丁を手に佇む母がいた。
ぬらぬらと光る鱗に覆われた獣の体の下から、じわりと赤い色が染み出し、ゆっくりと広がる。そしてまるで意思を持つ生きモノのように、螢の足下に這い寄ってくる。逃げたいのに、なんだか鉛を呑んだように体が重くて、足が動かなかった。
赤い生きモノが螢のソックスをちろりと舐める。生温かいソレは、あっという間に白いソックスを赤く染め、螢の内側に染み入ってきた。
「……違う」
目を瞑り、呟いた。
「アレはお父さんじゃない。アレは違う。アレは……」
螢、と名を呼ばれて顔を上げると、母が目の前で微笑んでいた。
「ごめんね、螢」と囁き、母が螢を抱き締める。
「あのね、螢。お母さん、疲れちゃったの」
母の腕は柔らかいのに、なぜか濡れたようにひんやりと冷たかった。
「お母さん、頑張ったんだけどね。でも駄目だったみたい。ごめんね、こんなお母さんでも、許してくれる?」
「……大丈夫だよ」と囁く声が、僅かに震えた。「お母さんがすごく頑張ってたの、知ってるよ。私がいるから、いつも一緒にいるから、だから大丈夫だよ」
ありがとう、と母が微笑む。螢は優しいのね、と言って螢の頬に添えられた母の真っ赤な指先が不意に目に入った。思わず後退りした足が、ぬるりと滑る。
「螢、大好きよ」と囁き、母が螢の首に手をかけた。「安心して……大好きだから、あなたをひとりぼっちになんかしないから」
何が起こっているのか理解出来なかった。ただ息がとても苦しくて、頭がぼんやりする。金魚鉢の金魚のように、空気を求めて口をパクパクと動かした。不意に、台所の隅に蹲り、動かない獣の姿が瞼の奥に浮かんだ。
……あの獣。アレは何だったのだろう。ひとつだけ確かなのは、アレは、お父さんじゃない、と言うこと。眼を開けると、微笑む母の眼に自分の姿が映っていた。
……そう、あれは鬼だ。
意識を失う寸前、遠くで物が壊れる音がして、誰かの叫び声が聞こえた。
「螢ッ!!!」
台所に駆け込んだ煉が母を突き飛ばし、螢を後ろ手に庇った。煉の懐からビンが落ちて割れ、その音に我に返った螢は、ぜぇぜぇと喉を鳴らし、激しく咳込んだ。
ゆらりと起ち上がった母親の暗い淵のような眼を見た煉が、鋭く舌打ちした。
「まだ間に合う」
煉が螢の母に向かって低い声で諭すように話し掛ける。
「あんたは悪くない。でもあんたの中の闇には鬼が棲む。辛いとか、悲しいとか、絶望とか、ヒトの抱える闇は鬼を呼ぶんだ。あんたは自分の中の闇に負けちゃいけない。螢のためにも、あんたは、自分で──」
「黙れ」と母の嗄れた声が煉の言葉を遮った。「私の辛さが、この痛みが、他人にわかるものか」
普段の優しい母からは想像も出来ないような冷たい口調に、螢が息を呑んだ。
煉が覚悟を決めた顔で、螢を守るようにその前に立った。
「螢……こっちにいらっしゃい」
母が掠れた声で螢を呼んだ。自分に向けられた母の眼が闇にぬらりと光るのを見て、螢が後退った。差し伸べられた母の手を思わず払いのけた途端、母が般若の形相で螢を睨みつけた。
「あなた誰? なんで私の邪魔をするの?」憎々しげに煉を睨む母の声が、耳障りに掠れる。「螢を返して! 螢、いらっしゃい!」
煉の陰に隠れるように蹲った螢の恐れ慄いた目を見た母の肩が、不意に震えた。
「なんで……? 私達、あんなに幸せだったのに。私はいつも家族のことを一番に考えていたのに。どうして? 私がいけなかったの? 何でこんな事になったの?」
母が煉に向かって叫んだ。
「螢は私の子よっ、私のモノなの! 螢を奪わないで。お願い、もう、私から、奪わないで。もう、何も、ナニモ、ウバウナ、ナニモ、ナクシタクナイ……!」
螢に飛びかかろうとした母親が、次の瞬間、手にした包丁で深々と自分の胸を刺した。
「お母さん?! 煉っ、お母さんがっ、お母さんを助けてッ!」
倒れた母に駆け寄った螢の悲鳴に、煉が唇を噛んで俯いた。
「どうして……? お母さんは鬼じゃない……鬼なんかじゃないっ! お母さんを返して!」
何か言いかけて伸ばした煉の手を螢が振り払った。
「……来ないで。守ってくれるって言ったのに……約束したのにっ! 煉の嘘つきっ、煉なんかっ、煉なんか大嫌いっ!!!」
割れたビンからホタルが一匹這い出てきた。淡い光が瞬き、何かを求めるように暗い部屋を飛び、やがて開いていた窓から外に出ると、夜の闇に溶けるように消えた。
❀
「──あれが私が見た最初で最後のホタルだった。季節外れのホタルを探して、きっと煉は遠くまで行ってたのね」
老婦人がそっと吐いた溜息が、初夏の風に溶ける。
「誰が言ったのかしら……蛍はこの世に未練を残して亡くなった人の魂なんですって。でもあの蛍はすぐに開いた窓から行ってしまったわ。まるで、この世に何の未練もないかのように……」
遠い記憶の中で、微かに瞬く蛍のひかりを振り払うように、老婦人が首を振った。柔らかな銀髪が木洩れ陽に煌めく。
「煉はなにも悪くなかったのに、酷い言葉を投げつけられても何も言わず、私が泣き疲れて眠るまで、ずっと私を抱きしめていてくれた。でも目を覚ました時、煉はいなかった。そしてそれから二度と彼が私の前に姿を現す事はなかったの。もう何十年も前の話よ」
二人の間に沈黙が流れた。
やがて少年が俯いたまま小さな声で、「……幸せだった?」と訊ねた。
少年の問いに、「そうねぇ」と言って老婦人が僅かに首を傾げ、しかし清々しい表情でひとつ頷いた。
「そう、あんな形で親を亡くして、色々と苦労もあったけどねぇ。でも不思議と夜に寝ると、優しくていい夢をみるの。そして朝になると、もう一日だけ頑張ろうと思えたの。きっとこれのおかげね」
そう言うと、老婦人が懐から擦り切れた紅いリボンを出して見せた。
「私は、ずっと、ずっと、守られてきたの」
老婦人がそっと少年の頰に手を添え、艶やかな黒髪を指で優しくかきあげた。利かん気そうな、黒々と濡れた瞳に映る自分の姿を見つめ、老婦人が微笑んだ。
「随分待たされたわ。でもやっと帰ってきてくれた。とても、とても会いたかった、そして一言伝えたかった」
穏やかな微笑みと共に老婦人が囁いた。
「ありがとう、煉。大好きよ」
エピローグ
風の吹き渡る草叢に煉が寝転がって草笛を吹いていた。遠くに細い煙がたなびく。
高い煙突から流れる煙を目にした狐が、ちらりと横目で煉を見た。
「……あの娘は、本当はあの日に死ぬはずだった。そのさだめを変えるためにお前は神々と盟約を結び、娘が死ぬ日まで神々の為にタダ働きなんぞしやがって。おまけにいくらさだめに逆らって娘を生かしても、お前達が再び逢えるのは、あの娘の最期の日って決められていて……」
「ごちゃごちゃうるせーよ。昼寝の邪魔すんな!」
投げつけられた草笛をひょいと避けた狐が溜息をつくと、そっと煉の胸に飛び乗り丸くなった。
風が草原を渡る。
(END)