夜烏 (其の四)
煉は茴香をも凌駕する程の凄まじい霊力を持って生まれたが、修行を嫌い、日がな一日物の怪や小鬼と遊んで過ごしていた。煉にとって幸か不幸か、何故か近親者は誰も煉に修行を強いるようなことはなかった。
しかし煉に対する他の面使い達の視線は厳しかった。村でも有数の遣い手である祖父と父親に遠慮して流石に面と向かって煉に何か言う大人はいなかったが、子供達はそうはいかない。彼等は子供同士の寄り合いにも修行にも参加しない煉を疎んじた。協調性の無さは母親譲りか。煉は村の子供達と馴染むことも馴れ合うこともできず、母のように拳を振り回すことこそ無かったものの、ただ益々ヒトを避け、物の怪ばかりと遊ぶようになった。
そんなある日。
「おい、煉」
従姉妹の桜・椿と連れ立って山に薬草を探しに行こうとしていた煉を数人の子供達が囲んだ。
「……なあに?」 あからさまに警戒した煉を見て、子供達がクスクスと笑った。樹の上からそれを見ていた鴉は嫌な予感がした。
「イイモノ見せてやるからさ、ちょっとこっちにこい」
「煉、行くことはないぞ」 と鴉が言った。
「煉ちゃんは忙しいの。私達、薬草探しに行くんだから邪魔しないでよね」
やはり何かおかしいと思ったのであろうか、勘の良い椿が煉を後ろ手に庇い、子供達を睨みつけた。
「俺たちだって煉と仲良くしたいんだよ。椿、従姉妹だからって邪魔するなよ」
椿がむっと押し黙ると、子供達が煉の手を引っ張るようにして村外れの田んぼに連れていった。青々とした田んぼの横の畦道で年嵩の子供達が煉を待っていた。その光景を見た途端に鴉が舌打ちした。田んぼの中程に小さな結界が張られ、そこに煉の家によく出入りしている小鬼が一匹捕らえられていた。煉が、あっ、と叫ぶと止めようとする桜と椿の腕を振りほどき、怯えて震えている小鬼に駆け寄ろうとした。ぴしりと硬い音がして、煉の躰が結界に弾き返された。
「お前がいると、式神でもない物の怪が村に増えて困るからな。俺たちが祓ってやることにした」
「ダメだよ!そいつはヒト喰いじゃないんだから!」
「ヒト喰いじゃなくても小鬼なんぞヒトの障りにしかならん」
「知らんのか? 実戦の修行はまずこんな小鬼を使ってやるんだぞ」
「俺はこの前式神の作り方を修得したからな、こいつで試し斬りしてやる」
「よしなさいよ、バカッ!」 気の強い椿が一人の少年に殴りかかった。椿が少年に突き飛ばされるのを見て、桜が伊吹と泪を呼びに駆け出した。椿を突き飛ばした少年が煉に向かって叫んだ。
「煉! 見とれ!俺たちの力は鬼を祓いヒトを守るためにあるんじゃ!」
少年の出した式神が次々と小鬼に襲いかかった。式神の爪が逃げ惑う小鬼の背中を引き裂き、小鬼がキィキィと甲高い悲鳴を上げた。その途端。
ぱりんっ、と音を立てて田の四隅に置かれた木の護符が爆ぜ、結界が壊れた。壊れた結界の外に逃げ出した小鬼を追おうとした式神が突如火を吹き、一瞬にして灰になった。と、結界を張っていた少年と式神を操っていた少年が突如悲鳴を上げて地面を転げまわった。何事が起こったのか分からず呆然とした椿が、直ぐに我に返ると暴れる少年達を押さえつけて着物をはいだ。ひとりは腕、もうひとりは背中が焼け爛れていた。生き物の焼ける臭いが鼻を突き、少年の背中の皮がべろりと剥けた。椿が息を呑み、煉を振り返った。
椿と目が合うと、煉が怯えたように一歩後ろに下がった。
「ち、違う、俺じゃない、俺はただ結界を……」
「馬鹿な奴等だ」 怯えて泣き叫ぶ子供たちを見て鴉がせせら嗤った。「結界にしろ式神にしろ、他の術者に呪詛返しされれば術を施した者に報いがくるのさ。呪詛返しから身を守る方法すら知らずに式神なんぞ使うからだ。いい気味だ」
「コラーッ、馬鹿もん共が! 何やってんだっ?!」
伊吹の怒鳴り声が聞こえ、道場の方から伊吹と泪が駆けてくるのが見えた。泪の姿を目にした途端、煉が山に向かって一目散に逃げ出した。泪がいくら呼べど叫べど煉は立ち止まりも振り返りもしなかった。
鴉も泪と伊吹に付き合って煉を探したが、何処に隠れたものやら、結局夜になっても煉は見つからなかった。「あまり心配するな」 涙目で蒼ざめている泪の肩を伊吹が軽く叩いた。「あいつはただのガキじゃないからな。一晩や二晩山で過ごしても支障はないだろう。ほとぼりが冷めた頃にけろりとして帰ってくるさ」
そうだな、と鴉が呟いた。そう、思い返せば茴香も時折山で独り夜を明かすことがあった。
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数えで十六になった頃から、茴香はしばしば修行がてら遠方での祓いに出向くようになった。
あれは丁度、今宵のように五月雨に闇の湿った夜だった。
都へ鬼祓いに出ていた茴香が数ヶ月振りに村に戻って来た。茴香と共に村を出た者のうち二人が帰ってこなかった。それは決して珍しい事ではなかったが、しかしそんな時、茴香はいつも独り山に入り、頂上近くの楠の巨木に登った。そして何を考えているのか、ただ無言で暗い空を見つめて夜を明かした。
ギョッギョッ キョキョキョキョ、と鋭い鳴き声が夜の闇を切り裂いた。
「……五月雨の空もとどろに郭公 何を憂しとか夜ただ鳴くらむ」
樹の幹に背を預け、暗い夜空を見上げていた茴香がふと呟いた。
「なんだそれは?」
「夜鳴きするほととぎすを詠んだ歌さ」
「お前に歌を詠むような風流な面があるとは、初めて知った」
ふふん、と茴香が鼻を鳴らして笑った。
「馬鹿にするな。暇な貴族でもあるまいし、私が歌なんぞ詠むわけなかろう。コレは何処ぞの妖魔の受け売りさ」
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ギョッギョッ キョキョキョキョ。突如響いたけたたましい鳴き声に、うとうとしていた鴉がびくりとして跳ね起きると頭の羽毛をけば立てた。キョキョキョキョ、キョキョキョキョ、と夜の闇を騒がす鳴き声に向かって、「うるさいっっ」 と鴉が怒鳴った。 ギョッギョ、ギョッギョ、と馬鹿にしたように声が応えた。一体何の嫌がらせか、ほととぎすの鳴き声は一晩中止まなかった。
昼夜もわきまえぬ馬鹿なホトトギスのおかげで一睡も出来なかった。苛々して軽く頭痛がする。仕方が無い。明け方の空はまだ暗かったが、気分転換に縄張りの見廻りをすることにした。もしホトトギスの影でも見つけようものなら捕まえて八つ裂きにしてやろう。
茴香が好んで登った樹は、数年前に雷が落ち、倒れはしなかったものの幹の先端が折れ、立ち枯れていた。 通り過ぎざまに枯れ木の天辺で何かが動いたような気がして眼を凝らすと、幹が折れて出来たウロの中に煉が膝を抱えて座っていた。
5-6歳のガキが、一体どうやってこんな高みまで登ってきたのだ。そして、よくもまぁこんな所で夜を明かしたものだ。先端が折れたと言ってもこの樹は他の樹に比べてもまだ遙かに高い。呆れて溜息を吐きつつ鴉が枯れ木に舞い降りた。
「……泪が探していたぞ」 と鴉が言うと、煉が無言で背中を丸めた。
「アレはお前のせいではない。徒らに術を操り、己よりも強いモノに手を出した方が悪いのさ。誰もお前の事を怒ってなんぞいないから、さっさと村に帰れ」
「……俺、大きくなったら空を飛ぶの」 煉が不意に言った。
「翼もないモノがどうやって飛ぶというのだ?」
「あのね、夢をみたの。背中に羽が生えてくるの。それで、ばたばたやったら、ふわってなってね、すーっ、て飛べたの」
「馬鹿め、やめんか、落ちて死ぬぞ!」
朽ちた樹の天辺で空に向かって大きく両手を広げ、ばたばたと羽ばたいてみせる煉の着物の端を鴉が慌てて引っ張った。
「羽が欲しいなぁ……」 濃紫から薄紅色に変わってゆく朝の柔らかな雲を見つめて煉が呟いた。
「お前、これ以上うろちょろして一体どうしようと言うのだ。お前に更なる移動手段が出来ては周りが迷惑するだろうが」
「……探しに行くの」 しばらく黙って空を見つめていた煉がぽつりと言った。「ここじゃないどこか」
「鬼とヒトが争わないところ。ヒトとヒトが憎しみあわないところ。こんな力を誰も必要としないところ。翼があればずっと遠くまで探しにいける」
「……ヒトは地を這う生き物だ。千年待っても翼など生えん」
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「近く嫁に行くことになった」
ある日、鴉がいつものように谷川で髪を洗う茴香を眺めていると、茴香がふと思い出したように言った。
「相手は面使いか?」
「うむ、村の中程に、大きな柿の木のある家があるだろう?」
「妖怪じみたジジイの棲む家か?」 少し考えてから鴉が訊ねると、茴香が面白そうに笑った。
「そうだ、その妖怪の息子に嫁ぐことになった」
鴉が首を傾げ、がっしりした躰つきの朗らかな男の顔を思い浮かべた。
「……煌か?」 と鴉が訊ねると茴香が頷いた。
「こう言ってはナンだが、彼奴はズボラな上、少し抜けていると物の怪の間ではもっぱらの噂だぞ」
鴉の言葉に茴香がからからと笑った。
「確かにズボラだが腕は良い。それにヒトなど少し抜けているくらいが丁度いい」
「……そうか。ではお前の顔を見ることも少なくなるな」 と鴉が呟いた。「あの一家は超移動型退魔師だからな、年中旅していて村には滅多に帰ってこんだろう」
「鴉」 茴香が微笑んだ。「私が旅先から帰った折には新居に遊びに来い」
「いや、遠慮する。あの家は面使いの村のど真ん中だ」
「私の客として来れば良い。面使いと言えども客を祓う者などいないだろう」
「遊びに来い」
帰り際、濡れ髪を艶やかに光らせながら、茴香はもう一度そう言って微笑んだ。
結局鴉が一度も訪ねることがないまま、茴香は死んだ。
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透明な風に茴香を想う。茴香もよく高く澄んだ空を見つめていた。空を映す蒼く冷たい水に身を沈める茴香。広がり揺れる漆黒の髪。茴香の翼。
アレは此の世で唯ひとり、翼をもつヒトであった。そして翼はその持ち主を遙か彼方、鴉の黒羽の届かぬ遠い空に連れて行ってしまった。
もう二度と逢うことのない、黒い翼をもつヒト。
「……ヒトに翼など要らぬ。お前は永遠に地を這っておればよい」
吐き捨てる様にそう言うと、不満気な少年を後に、鴉が漆黒の翼を広げ暁の空に舞い上がった。
(END)