夜烏 (其の弐)
大分モノが見えるようになってきたのだろうか。鴉が窓辺に現れると、赤ん坊がその姿を目で追うようになった。試しにちょんちょんちょん、と左右に動いてみた。赤子がきゃっきゃっと笑って手を伸ばしてきた。鴉がひょいっと窓の外に隠れると、あーうー、と実に残念そうなため息をつき、顔を出してやると再びきゃっきゃと喜ぶ。
「何やら鴉殿によく懐いているようですなぁ」
隣で見ていた物の怪の羨ましげな声に、鴉がふふん、と鼻を鳴らした。
「ヒトの子なんぞに懐かれても嬉しくも何ともない」 などと言いつつ鴉が胸の毛を膨らませていると、天井裏から一尺はあろうかと思われる大ヤモリが現れた。途端に赤子は鴉に興味を失い、アダアダなどと言いながらヨダレを垂らしつつ懸命にヤモリに向かって手を伸ばした。鴉がナントナクむっとした。
「やはり家守殿が煉の一番のお気に入りですな。流石に一つ屋根の下で朝な夕なと寝食を共にしているだけありますの」 物の怪が感心したように言うと、小鬼達が頬を膨らませ口々に文句を言った。
「家守はずるいぞ。尻尾があるんじゃもん」 「そうじゃそうじゃ、ワシとて尻尾があればもっと煉と仲良くなれるんじゃ」
「尻尾?」 鴉が首を傾げると小鬼達が頷いた。
「煉は家守の尻尾が好きなんじゃ」
ごそごそと籠に這い上がってきた家守を赤子が嬉しげに抱きしめた。炎の霊気のせいか、この赤子はやけに体温が高い。ひんやりとした爬虫類の躰が心地良いのだろうか。と、赤子が突如家守の尻尾に吸い付いた。
「な、な、な……」
「煉は家守の尻尾が好きじゃ。この前切れた尻尾を喰いよった」
「喰われても家守の尻尾はすぐ生えてくるから喰わせ放題じゃ。羨ましいの」
「餌付けるなっっ!!!」
首の羽毛をケバ立たせて鴉が喚くと、家守がひどく心外そうな顔をした。
「いやいや、鴉殿、それは違いますぞ。赤子というものは、本来なら母親の胸に抱かれ、その胸を吸って成長するもの。特に、吸うとゆう行為は哺乳類の本能にはとても大切でしてな。この時期にそのような経験をせず成長すると、大人になってから人格に歪ができ、妙な性癖に走ったりしかねませんからな。ワタクシはこの家の家守として赤子の将来をおもんばかってこの様なことをしているわけでして」
むむむ、と鴉が唸って首を傾げた。理屈は分からんでもない。しかし果たしてヤモリの尻尾など吸って、ヒトとしてまともな成長を遂げる事が出来るのであろうか。
*****
鴉の密かな心配をよそに、多くの物の怪達が見守る中、赤子はすくすくと成長していった。自力で寝返りがうてるようなったと思えば這って移動するようになった。もっともコレの匍匐前進運動はいわゆる “ハイハイ” などと言う可愛げのあるものではなかったが。どどどどっ、と畳の上を猪突猛進してくる赤子による軋轢死を怖れて小鬼達が悲鳴を上げながら右往左往した。
やがて赤子はよろよろと立ち上がり、伝い歩きするようになったかと思うと、外を駆け回りだした。そうするともうコレは手のつけようがなかった。何がそんなに嬉しいのやら、きゃはははは、と甲高い笑い声を響かせながら駆けまわり、泥の中を転がり、木に登り、そして時々落ちた。しかしコレが高みから転落する度に身を呈して下敷きになってやる小鬼達のお陰で、これ以上の阿呆になることだけはナントカ免れていた。
四季が幾度か巡り、赤子は見掛けだけは一応ヒトらしくなってきた。
夏になると、兄弟はしばしば西の山の淵に涼みにきた。二人とも泳ぎは達者であったが、特に弟の方は、死んでしまってもう二度と上がってこないのではないかと不安になる程長い間水に潜ることが出来た。
そんな夏のある日。
「みてみて、こんなの見つけちゃった」 ぽかりと水面に浮かんだ煉が掌に掴んだ紅い石を見せた。
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初めてソレを見つけた時、鴉は夕陽が水に映っているのかと思った。その石は三尺程の深さの川底でぼんやりと紅く光っていた。それが夕陽のように丸くて紅い石だと気付いた途端、鴉はそれが欲しくて堪らなくなった。しばらく迷ってから、辺りに誰もいないのを確かめ、意を決して川に飛び込んだ。鴉は常々鵜を馬鹿にしている。鳥とは大空高くに在るべきモノ。なにを好き好んで水なんぞに潜るのだ。それなのに、鴉が鵜の真似をしていたなどと噂になっては西の山の主の名折れだ。しかしこの時ばかりは鵜が羨ましかった。たった三尺程の深みに仲々辿り着けず、水を飲みすぎてむせ返り、腹がだぼだぼしてきた。
数十回の挑戦のあげく、ようやっと石を手に入れた時、鴉は喜びのあまり小躍りした。求愛のダンスすらここまで心を込めて踊ったことはない。半透明の紅い石をうっとりと眺めていると、遠くで鴉を呼ぶ声がした。見上げると、数羽の山ガラス達がこちらに向かって飛んでくる。鴉が慌てて紅い石を川辺に掘った穴に埋め、上にササッと土を被せた。
「鴉殿!谷の向こうで啄木鳥と四十雀が喧嘩をしておりますっ」
「それがどうした、奴等の喧嘩など珍しくもないだろう」
「しかし何やら双方合わせて百匹近くを巻き込んだ大紛争となっておりまして、それを栗鼠やら狸やらが囃し立ててもうスゴイことに…」
「あの近くには若いカラスの夫婦の巣がありまして、生まれたての雛が怯えるものでカラス達も気が立っておりまする。谷のカラスは気が荒い。下手するとカラスによる啄木鳥と四十雀の大殺戮にも発展しかねませんぞ」
知るか、放っておけ、と言いたいところだが、山のモノの争い事の調停も主としてのつとめ。石の埋まった地面にちらりと目をやると、鴉が不承不承、谷に向かって飛び立った。
物分かりの悪い啄木鳥とぴーちくぱーちく煩い四十雀を嘴で捻り潰し岩に叩きつけたいのをぐっと堪え、やっとの思いで双方を宥め、陽が傾きかけた頃、漸く鴉が川に帰ってきた。
川のすぐ上流は深い淵になっている。そこで見知らぬ少女が石切りをして遊んでいた。一体どんな仕掛けか、しゅっと少女が投げる石が小気味良く水面を跳ぶのを鴉が少し感心して眺めた。おっとこうしてはいられない。早くあの紅い石を掘り出し我がねぐらに持って帰らねば。今宵はアレを肴に酒でも呑むか。ウキウキと川辺に舞い降りた鴉が数秒後、やや青ざめた顔で少女を見た。
「……おい、此処に埋めてあった紅い石を知らんか?」
「平べったくて丸い石か? 赤っぽい色の?」 鴉が頷くと、少女が悪びれもせずにっこりと笑って言った。「アレはよく跳んだ。すごく良い石だった」
「……跳んだ?」
「うむ、こう水面をぽんぽんぽんってな、八回も跳んで、我が生涯における最高記録を達成した。青い水に赤色が映えて、とても綺麗だったぞ。もっとあんな石があったらくれ」
心的衝撃で一瞬気が遠くなった。鵜の真似までして手に入れた石を想い嘴が震えた。そんな鴉をじっと見ていた少女が、ややしてから、「アレはお前のモノだったのか?」 と尋ねた。返事をする気力もなく、鴉が無言で背中に哀愁を漂わせていると、少女が不意に淵に飛び込んだ。水蛇のように身体をくねらせると、少女があっという間に深い淵の底に消えた。5分程すると少女がぽかりと水面に顔を出し、荒い息を整え、深呼吸すると再び潜った。幾度も幾度もそれを繰返し、やがて冷え切った少女の唇が紫色になってきた。
「やめろ、もういい。石など別に要らん」 見兼ねた鴉が何度そう言っても、少女は無言で水に潜り続けた。夕闇が山に忍び寄ってくる頃、ようやく少女が川岸に這い上がってきた。
「だめだ、泥に埋まったか下流に流されたか、どうしても見つからん」
「だからもういいと言ってるだろうが。さっさと火でも熾して躰を暖めろ」 鴉が集めた小枝で作った焚火の前で少女が膝を抱え、無言でちらちらと踊る火を見つめた。鴉がねぐらに帰ろうと羽ばたくと、少女が不意に鴉を振り返った。
「お前、名は何とゆう?」
「……鴉」
「鴉……」 少女が切れ長の大きな瞳でじっと鴉を見つめた。鴉が痺れを切らせた頃、少女がようやく口を開いた。火に暖まり色の戻った薄紅色の花の如き唇から謝罪の言葉でも出てくるのかと思いきや、少女が豪然と言い放った。
「鴉。次にモノを隠す時は、もっと上手くやれ。土をかぶせた程度では隠したうちには入らん。傍迷惑だ」
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「…淵の底にあったのか?」
「うん、泥に半分埋まってた」
「そうか」
長い間無言で紅い石を見つめていた鴉が蒼く冷たい水を湛える淵に目を遣った。
「その石を投げてみろ。きっとよく跳ぶぞ」
煉が頷くと水面に向かって水平に石を投げた。紅い石は青い淵の水面を軽やかに8回跳ぶと、煉の歓声の中、再び深い水の底に沈んでいった。
その後、幾度煉が潜っても、二度と再び石を見つけることは出来なかった。
(To Be Continued)