夜烏 (其の壱)
暁と 夜烏鳴けど この山上の こぬれのうへは未だ静けし (万葉集)
茴香が死んだ。
子を守らんが為、己の身を毒と化し鬼に喰わせたと聞き、鴉は顔を顰めた。何故もう少しましな呪術を思いつかなかったのか。鬼を祓う為とは言え、己が死んでどうする。ヒトの思考回路とゆうモノはどうもよく分からぬ。
ヒトの死など珍しくもない。奴等は羽虫の如く簡単にこの地に湧き、簡単に死ぬ。それが鬼殺しを業とする面使いともなれば尚更だ。しかしそれにしてもアレはもう少し保つと思ったのだが。女でありながら若くして村でもイチニを争う霊力を誇り、頭も切れた。烏の濡れ羽色の髪もヒトのモノにしては見応えがあった。
「それでな、ウイキョウの忘れ形見と成った赤子じゃが」 鴉に茴香の死を伝えた物の怪が先を続けた。「なにやら珍しい赤子だそうな。それで村まで赤子見物にゆくモノが絶えぬとか」
ふん、と鴉が鼻を鳴らした。「翼が生えているわけでもあるまいし、ヒトの子などどれも似たり寄ったりであろうが」
「ほんなら鴉は観に行かんのか?」
「行かぬ」
「さよか。ワシらは行くぞ」
羽繕いしながら鴉が再び鼻を鳴らした。「暇な奴らめ、さっさと行け」
わいわいと騒ぎながらぞろぞろと連れ立って村へ向かう物の怪達の後ろ姿を鴉が鼻先で嗤った。
「ヒトの子なんぞを見にわざわざ面使いの村に行くとは、全くもって物好きな奴らだ」
さて、縄張りの見廻りにでも行くかと鴉が飛び立とうとしたその時、不意に漆黒の髪からこぼれる雫を光らせ微笑むヒトの姿が脳裏に甦った。
『鴉。遊びに来い』
「……やっぱり俺も行く」
物の怪達の後を追い、鴉が樹から飛び立った。
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集まった鬼や物の怪共に混じって、鴉が蔓で編んだ籠の中でうとうとと眠るソレをつくづくと眺めた。わざわざ見に来た甲斐もなく、やはり生まれて間もないヒトの子などひと握りの柔らかな肉塊以外の何物でもなかった。
「それにしてもヒトの赤子とは、実におかしな姿形でありますなぁ」
赤子を覗き込んだ小鬼の感想に、鴉が思わず返答に詰まり、むむむ、と唸った。
確かにヒトの子など別に可愛いとは思わぬ。しかし子鴉も姿形のおかしさではいい勝負なのだ。鴉は以前、黒羽も艶やかな見目麗しい雌を娶ったことがある。妻は五つの美しい卵を産んだ。青みがかったその色は空を棲み処するモノに相応しく、鴉はその美しさに心から感嘆した。
しかし三週間後、孵ったヒナを見て仰天した。しわしわと皮の寄った今にも折れそうな細い首、妙な具合に浮き出た背骨、調理前の毟られた山鳥の如く羽根など一本もなく、それどころか眼玉すら無かった。いや、眼が在るべきところには肌色の皮で覆われたやけに大きな黒い玉があり、それが薄皮の下でぎょろぎょろと動く様は実に不気味であった。
驚きのあまりカー、とひと声鳴くと、その出来損ないのヤモリ共がギョエギョエギョエなどと叫びながら躰の半分以上ありそうな嘴をぱかりと開けた。胃の腑の奥までもを晒す穴に再度驚き、鴉は木から落ちそうになった。こんなバケモノが自分の血を引いているとは到底思えず、満足気に悪夢のような我が子を見つめる妻に、何故この様な奇形児が産まれたのかと尋ねたところ、怒った妻に羽根を毟られ巣から蹴り出され、挙げ句の果てに離縁状を叩きつけられた。以来鴉は独りモノを通している。
こう言ってはナンだが、コレは毛が生えているだけ仔鴉より幾分ましやも知れぬ。頭頂に僅かに生えている毛をそっと嘴で梳いてやった。艶やかな黒髪にふと茴香を思い出した。
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茴香の実家は面使いの村からやや外れた西の山の麓にあった。茴香は三日に一度程村の道場に通っていたが、後は朝から晩まで独り山の中で修行していた。西の山は鴉の縄張りであったので、鴉は暇に任せてしばしば幼い面使いの娘の修行を見物した。一日の終りに茴香は冷たい淵で汗を拭った。鴉は茴香が髪を洗うのを観るのが好きだった。夕暮れ時の淡い光の中、茴香が髪をほどいて水に潜ると、長い髪がゆらゆらと川面に揺れ、あたかもその白い背に漆黒の翼が生えたかのように見えた。
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不意に赤子が目を覚ました。黒々と濡れた大きな瞳に思わず鴉が見入っていると、何を思ったか、突如赤子が鴉の脚を掴んだ。
「こら、やめろ、離さんか」 鴉が慌てて羽をばたつかせると、赤子はンマンマ、などと言いながらもう一方の手を伸ばしてきた。
「やめろ、そのヨダレでねとねとの手で触るな!」
水風船のような頬を嘴で突ついてやろうかと思ったが、そんな事をして赤子が破裂でもしたらナントナク後味が悪いような気がしないでもなかった。鴉が脱出を試みて藻掻いていると、がらりと戸が開いて年嵩の子供が入ってきた。
一瞬茴香が現れたのかと思った。年の頃7-8といったところか。その子供は茴香の幼い頃に瓜二つであった。
鴉が赤子と格闘している姿を見て、子供が息を呑み、手に持っていた水桶を床に落とした。大きな音に赤子がびくりとして目を見開いた。その途端。突如躰が焼けつくような熱に襲われた。必死で飛び立つと、盛大な悲鳴をあげる子供の足下で床に飛び散った水の中を転げ回った。這々の体で家から逃げ出す直前、ちらりと後ろを振り返ると、燃えて灰と化した籠とその真ん中にころりと転げて此方を見ている赤子の姿があった。
まさか茴香の子が火焔の霊気をもっていようとは。危うく焼き鳥になるところであった。これだからヒトなどに関わるのは嫌なのだ。それが面使いともなれば尚更だ。全くもって忌々しい。こんな所、二度と来るものか。所々焼け焦げた羽根を整えると鴉が憤慨の面持ちで山へ帰った。
村に赤子を見に行ってから10日程経ったある日。
鴉がねぐらにしている楠の香りを胸一杯に吸った。ようやく羽根の焦げ臭さが鼻につかなくなった。我が美しき黒羽根を燃やせし忌々しい赤子の黒い瞳が目の裏にちらつき、それを振り払うように慌てて頭を振った。楠の巨木は初夏の柔らかな若葉が艶々として美しい。数日続いた雨も上がり、風も爽やかだ。しかし蒼い空を見ても鴉は何故か気が晴れなかった。ここ数日、鬱々と苛々の混じったひどくツマラナイ気分を持て余していた。気のせいか、それは日が経つごとに段々酷くなってきている。
そうだ、天気も良いことだし、宝物の虫干しでもして気分転換しよう。長年に渡って溜め込んだ数々の宝のことを思い出すと少し気分が明るくなった。鴉がいそいそと楠の幹のウロに頭を突っ込んだ。
鴉はヒカリモノが好きだ。鼻歌交じりで何処ぞの古墳から掘り出してきた銅鏡を引っ張り出した。大粒の砂金や黒曜石の鏃もある。鴉は丸くて艶々したモノも好きだ。丁寧に磨かれた丸い綺麗な石を幾つも取り出した。丸くて艶々して光っていればもう最高だ。螢のように淡い光を放つ大粒の真珠は海烏がくれたものだ。
最後にウロの一番奥から出てきたモノを見て、鴉の鼻歌がはたと止んだ。
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「鴉、土産だ」 都から戻った茴香が袂から何か取り出すと鴉に投げてよこした。それは大粒の紅い珠のついた櫛だった。透きとおった珠が陽の光に煌めき、まるで夕陽の雫のようだった。
「これはなんだ? 綺麗な石だな」
「瑠美偉とか言っていたが、つまりは紅玉だろう。異国のモノか異界のモノかは知らんが、お前好みだと思ってな」
「しかし祓いの報酬は村で分けるのが慣わしであろうが」
「これはいいんだ。報酬ではないからな」
「……またどこぞの殿上人にでも見染められたか」
鴉に答えず、茴香がふふんと笑った。若き美貌の退魔師に贈った舶来の品が、まさかカラスの巣を飾ることになるとは、贈り主は夢にも思わなかったに違いない。
「気に入ったか?」 鴉が頷くと茴香が笑った。「それは良かった。ではあの紅い石のことはこれでチャラだな」
櫛を陽に透して眺めていた鴉が茴香を振り返った。「石?」
「カラスとは執念深いモノ、まさか忘れたとは言わせんぞ」 茴香がにやりと笑った。「私とお前が初めて出逢ったあの時の、あの石さ」
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虫干ししていたモノをウロに仕舞うと、鴉が村に向かって飛び立った。
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例の家は相変わらず赤子見物の物の怪で賑わっていた。庭の木に舞い降りた鴉が、赤子を背負って水仕事をしている子供を窓越しに眺めた。
「数年前に息子が産まれたとは聞いていたが、娘までいたとは知らなかった」
鴉の呟きに、一匹の物の怪が振り返った。「いや、アレは長男だ」
驚いてもう一度つくづくと赤子を抱く子供を見た。目鼻立ちは茴香に生き写しだが、茴香よりも全体的に色素が薄く儚げで、歳に似合わず落ち着いた立ち振る舞いは、名立たる剛の者あった茴香よりも遥かに女らしいのではなかろうか。烏の雌雄は見分け難いなどと言うが、ヒトのほうが余程紛らわしい。と、外から覗き込む物の怪達に気付いた少年が、顔を僅かに歪めるとぴしゃりと障子を閉めた。
「……なんだ、感じの悪い奴だな」 鴉が舌打ちすると、小鬼達がキシシ、と笑った。
「案ずるな。泪はじきに道場に行くからの。そうすれば煉と遊び放題じゃ」
小鬼達の言った通り、ものの数分もしないうちに道着を着た少年が家を出た。待ってましたとばかりに小鬼達が戸の隙間から中に入ると座敷の障子を開け放った。我も我もと物の怪共が家に上がり込み、赤子の眠る籠を覗き込んだ。家人が留守とは言え、面使いの家なんぞに上がり込むとは恐れ知らずなのか単なる馬鹿なのか。かく言う鴉も座敷に入ると、少し離れた棚の上から赤子を眺めた。
「煉、煉、起きろ。起きてワレラと遊ぼうぞ」 小鬼が赤子に馬乗りになると籠をゆらゆらと揺らした。寝る子を起こすような真似をするなと鴉が注意しようとした矢先、赤子が目を開けた。半開きの眼でぼんやりと辺りを見廻した赤子が、目の前に差し出された小鬼の指を小さな手できゅっと握り、小鬼が嬉しげにきゅうきゅうと笑った。
突如乱暴に襖が開けられ、大柄な男が部屋に乱入してきた。警戒した鴉が急いで逃げようと羽ばたいたが、他のモノ達は慌てた様子もなくのんびりと男を見上げた。
「なんじゃ、煌。なんぞ探し物か?」
「うむ、俺の式神が2-3匹見当たらんのだが、お前達知らないか?」
「それならさっき、連れ立って谷川の方に行ったぞ。今日は暑いからの、水浴びでもしてるのではないか?」
「おお、そうか。ならいいんだ。確かに今日は暑いな」
にこにこと笑う男に鴉が白い目を向けた。此奴、術師の癖に己の式神の居場所すら碌に把握しておらんのか。おまけに確か此奴は捕えた妖魔を式神として使役しているはず。そんな危ない奴等を勝手に出歩かせてどうする。全く、ウドノタイボクとは良く言ったものだ。
「それでは皆の衆、邪魔したな。子守御苦労さん。水屋に貰い物の酒がある。暑気払いに良かったら皆で飲んでくれ」
大男がにこにこと笑いながら片手を上げると部屋を出て行った。
それにしてもこの家には物の怪が多過ぎやしないか。面使いの家の癖に、小鬼やら何やらがひしめき足の踏み場もないではないか。と、襖が再びからりと開いた。一瞬妖怪の総大将、ぬらりひょんが現れたのかと思った。やけに妖怪じみた老人の背後には、これまたやけに独創性に溢れた式神達が百鬼夜行の如くぞろぞろとついて歩いている。鴉が密かに舌打ちした。此奴は確か煌の親父、名の知れた結界師だったはず。
籠の中で機嫌良さげに小鬼と戯れる孫にちらりと目を遣ると、老人が部屋にひしめく物の怪達を振り返った。
「半刻程したら隣の家の嫁子がコレに乳を与えにくるはずじゃ。ワシは村の寄り合いで家を空けるが、お前等、嫁子が来たら隠れておけよ。嫁子が驚いて乳の出が悪くなってはいかん」
「あい、わかり申した」
ふむ、と頷くとそのまま部屋を出て行こうとした老人を鴉が呼び止めた。
「おい、じいさん、お前、結界師だろう。赤子が鬼に喰われんよう、結界くらい張ったらどうだ?」
「ふん、ワシを誰だと思っておるのだ。無論手は打ってある」 老人がふふんと得意気に鼻を鳴らした。「煉を本気で喰えるようなデカイもんはこの家には入れん。その他は出入り自由じゃ」
「なんだ、ザルみたいな結界だな」
「わしらは忙しい。頼まずともお前達がせっせと子守をしてくれて仲々具合が良いからの。タダの子守を使わん手はない」
このじいさん、本当に分かっているのだろうか。鬼や物の怪は皆、本当はこいつをひと舐めしてみたくて仕方が無いのだ。放って置けば、ちょっとひと舐めがひと齧りになり、はっと気づけば頭が半分欠けていました、などという事になりかねん。
「案ずるな」 鴉の胸の内を読んだかのように老人がにやりと笑った。「わしの結界を通り抜ける程度の鬼ならば、いざという時は煉が己の力で始末しようぞ。なに、これも修行のうちじゃ」 自力で寝返りも打てないような赤ん坊に一体何を期待しているのだ。この家の者はどうもヒトとしての常識に欠ける。からからと高笑いして家を出てゆく老人を鴉が呆れた顔で見送った。
この家の者共は赤子の保護者としてはどう考えても不適格であり信用がおけぬ。仕方が無い、気は進まぬが、ここはひとつ良識と常識を兼ね備えたモノが監視してやらねばなるまい。鴉は三日と空けず面使いの村の柿の木のある家に通い詰めるようになった。
(To Be Continued)