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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第三章 〜 Songs of Wren
100/123

病葉(終)

 

     13


 いつの頃からか。暗い部屋の片隅に、人の気配を感じるようになった。世界から消え入ろうとするかのように膝を抱えてうずくまる小さな影が、ともすれば震えそうになる息を必死に堪える。

 僕はその影に声をかけることもなく、無論手を差し伸べることもなく、唯無言のまま、夜の闇が凝ったようなその姿を眺める。それは少し、透明な水槽に入れられた実験動物を観察するのに似ていた。

 捕えられ、逃げ場を失った生き物は、時折思い出したように硬い硝子を細い爪で引っ掻く。そのキィキィと耳障りな音は、憐れみではなく、僕の中の加虐心を煽った。

 以前に一度だけ、ふとした気まぐれにこの話をしてみたところ、「弟さんじゃないかしら」と彼女は言った。

「きっとお兄さんのことを心配して、泣いているのよ」


「……泣いているのは弟じゃなくって、あんたでしょ」

 煉が吐き捨てるように呟き、夜空を見上げて嗤う由那人から目を逸らした。


 網膜剥離、肺気胸、手首の痣、折れた鎖骨と指、足首の捻挫、脱臼、脳震盪。

 いまだ幼く、己の身を守る術を知らなかったあの頃、母親と呼ばれる存在から与えられる痛みに、全身の骨が軋んだ。

「今から考えても、あの女のやり方は実に巧妙だった。彼女は間違っても火の点いた煙草を僕達の身体に押し付けたりはしなかったし、俗に言われるような内股などの外からは見えず、しかし医者が見れば虐待を疑うようなところに痣をつけるような真似もしなかった。元気で手加減を知らない子供がちょっと乱暴に遊んで怪我をした……そんな風に見せるのが上手かった。学校の健康診断前なんかは特に気を遣ってたみたいだしね。まぁ反動でその後が大変なんだけど」


 彼女はそれを愛だと、愛(ゆえ)の厳しさだと言った。

 自分を守って然るべき人間が自分への愛を語りながら自分を傷つける時、そして傷つけるだけではなく、その人間がその行為を楽しんでいると気付いた時、それは人が感じ得る凡ゆる痛みの限界を超えて、人を壊す。


「分かっているよ。精神的なものにしろ、肉体的なものにしろ、親から虐待を受ける子供なんて珍しくもない。そして多くの人間は、たとえ心や身体に生涯消えない傷を負うことがあっても、それで人間性を歪めることはない。僕の歪みは、僕が持って生まれたモノ。僕だけのモノなんだろう」


 冴え冴えと冷たい月明りの中、灰色の猫が由那人をじっと見つめる。怒りも、憎しみも、蔑みの色すら浮かべること無い翡翠色の瞳は、しんと静かで、全てのモノをありのままに映す透明な水鏡に似ていた。


「チワワを飼っていたんだ。犬の癖に猫より小さくて、でも人懐っこくて可愛いやつだった。でもある日を境に、チワワは人を避けるようになった。散歩に連れて出てやろうと思っても、ベッドの下に隠れて出てこないんだ。無理矢理引きずり出してみたら、後ろ足と尻尾の先が赤く腫れていた。足の腫れはどんどん拡がって、その内に下腹部や腰にかけて皮膚が爛れ出した。丸く、綺麗に輪を描いたように、下半身だけね」


 幾度あの光景を夢にみたことか。毛が抜けて、赤く爛れた皮膚が半透明な汁を滴らせる。硬く目を閉じて物陰にうずくまった犬は、時々不意に目覚めると狂ったように己の身を噛み、やがて膿んだ傷が異臭を放つようになった。


「チワワを連れて行った動物病院で、弟と僕は母親のいない部屋に別々に呼ばれて、眼鏡をかけた優しそうな獣医に何度も聞かれたよ。学校は楽しいか。友達は多いのか。両親の仲は良いのか。母親の仕事は忙しいのか。家ではどんな遊びをするのか」


 穏やかな笑みを口許に浮かべた獣医の眼は、全く笑ってなどいなかった。そして物言わぬ動物を観察するような眼で、幼い兄弟の一挙一動を注意深く見守っていた。


「だけどどんなに聞かれたって、言うわけが無い。弟が、煮え立った鍋の湯にチワワを漬けて遊んでいたなんてさ」


 獣医から処方された薬を、弟は哀れな犬の傷に丁寧に塗ってやった。そして怪我が癒えるのを待たず、再び煮え滾る湯に犬を浸す。犬は何故己がその様な目に遭わねばならないのか、全く理解出来なかったに違いない。恐怖に震え、開き切った瞳孔が救いを求めて弟を見つめる。苛酷な仕打ちの後、犬の爛れた皮膚に薬を塗る弟は実に優しげで、その眼差しは聖母のような慈愛に満ちていた。


「弟は……由貴人は別に、母親から受けた仕打ちを自分よりも弱い存在に与えることで、遣り場の無い悲しみや憤りを解消しようとしていたわけじゃない。あいつは犬に自己を投影し、そして自分が欲しくて堪らなかったモノを、どんなに求めても決して自分の手には入らなかったモノを犬に与えることで、自分の心を癒そうとしていたんだ」

「……そんなモノで癒される傷なんてない」

「そう、確かにその行為は由貴人を癒すこと無く、それどころか壊れたあいつの欠片をますます歪めていった。否応も無く、もう二度と後戻り出来ないほどに」


 人は壊れる。病に蝕まれた肉体が、生きながら腐り果ててゆくように、人の心もまた、初夏の風に散る病葉のように音も無く朽ちてゆく――


「ねぇ、楽しかった?」

 煉の平坦な声が夢想を破った。愛らしく、僅かに小首を傾げた少年の眼が、己の内を覗き込み、捉える。

「……自分の弟が壊れていくのを眺めているのは、楽しかった?」

 不意に腹の底から止めようの無い笑いが込み上げてきた。

「ああ、楽しかった」

 笑い過ぎて溢れた涙を指先で拭い、闇色の瞳を見返す。

「あいつが歪み、狂っていく姿に、僕は楽しいなんて言葉では到底語り尽くせないほどの愉悦を覚えた。でもそれだけじゃない……単に面白いだけではなくて、由貴人は、とても綺麗だったんだ」


 瞑った瞼の裏を、爛れた犬の死骸を抱きしめる幼い弟の微笑みが過る。

 歪んだ魂の欠片の色は、風を染める紅い病葉に似て、切なくも美しい。


 灰色の猫が何かに堪えられなくなったかのようにふるりと躰を震わせ、笑い続ける由那人から目を逸らした。けれども無言のまま由那人を見つめる煉の眼差しは一縷の揺らぎも無く、冴え冴えと透明だった。

 ふと思う。昏い夜空から、地上を這う蟻のような人の営みを見下ろす月は、その無関心にすら思える光りは、この少年の眼差しに似ているのかも知れないと。でも、だからこそ、この少年の眼には、きっと己と同じ景色が見えている。


「ねぇ、煉君。君が君の大切な誰かを犠牲にして生き延びたように、僕は弟が狂っていく様を目の当たりにすることで精神的に生き延びたんだ。自分よりも弱い人間の隣に立ち、その人間が壊れてゆく様を目の当たりにしたお陰で、僕は正気を保つことが出来た。僕は弟に救われたんだよ」


 弟という名の一片(ひとひら)の病葉に救われた。そしてその目の醒めるような紅さがこの躰を染め、魂に魅入る。


「そう、僕達はとてもよく似ている」

 闇色の瞳を正面から見返し、由那人が静かに嗤った。

「死者に囚われて生き続ける様が、まるで双子のようじゃないか」


 あの色を求めて僕は彷徨う。

 若葉の翡翠色を呑み込み、この眼に映る全てを真紅に染める病葉を求め、僕は彷徨い続ける。


「死者に囚われて生きる……か」

 煉が鼻先で笑った。

「まぁそれ自体は否定はしないけど、でも誰かに似てるって言われてここまで嫌な気分になれるのも珍しいよね。それにしても、母親に対するあんたの仕打ちってなんなワケ? 復讐は蜜より甘いってヤツ?」

「ああ、あれはね、事情を知った他人からすれば単なる復讐にしか見えないかも知れないけれど、でも実際は違う。あれは趣味と実益を兼ねた僕の一大プロジェクトだったんだよ。由貴人が死んで間も無く、僕には由貴人の代わりとなる存在が必要だと気付いた。あの女の中には由貴人と同じDNAが在る。だから、狂った彼女は由貴人のように綺麗かも知れないと思ったんだ。代理品となりうるモノを手に入れる為にわざわざ医者になり、長年の荒れた生活で当然の如く病気に倒れた彼女を時間をかけて精神的に追い詰めてみたんだが……残念ながら、結果は大失敗だった。肉体的なものと異なり、精神的DNAというものは遺伝しないみたいだね。まぁ、暇潰し程度にはなったかな」

「あっそ」

 面白くもなさそうな顔で僅かに肩を竦め、煉が陸橋の欄干に腰掛けた。

「じゃあ、あの(ひと)は? 屋上で彼女を殺したのも、単なる暇潰し?」

「彼女を殺したことに大した理由はない。敢えて言うなら、彼女はその存在自体がうんざりするほど退屈だった。唯それだけの事だよ」


 それまで大人しく煉の足下に座っていた猫の瞳孔が、由那人の言葉に反応するかのようにスッと細くなった。


 あの日、星明かりすら無い夜空の下に独り佇み、彼女は唯、雨に濡れそぼった惨めな仔猫を抱きしめていた。世界で一番儚い壊れものを扱うように、さも大切そうに。透明な雫が長い黒髪から滴り落ちる。濡れた後れ毛を薄く白い貝のような耳にかけてやり、行こう、と僕は囁いた。愛を囁くように、優しく、慈しみを込めて。そして頬を赤らめてこくりと頷き、細い手を差し伸べた彼女の背中を、僕は押した。


「堪えられなかったんだよ」

 由那人が嗤った。

「彼女の底の浅さに。安物のドラマを観るようなそのありきたりな姿に。自分よりも弱いモノに与えることで、その(ぬくもり)を得ようとするつまらなさに」


 ひかりと言う名の希望。

 ぬくもりと言う名の愛情。

 人は何故、その様なくだらないものばかりに縋って生きようとするのか。


「例えばあの時、彼女が生きた仔猫の内臓を抉り、指先から滴る血に命の温もりを得ようとしていたのなら、僕は彼女の存在に何らかの価値を見出すことが出来たのかも知れない」

「賭けてもいいけど」煉がつまらなそうに鼻を鳴らした。「それくらいの『歪み』じゃ、どうせ長続きしなかったよ」

「そうだね。確かに君の言う通りかも知れない」


 ひかりでも、ぬくもりでもなく、唯あの色だけを求めて僕は彷徨う。

 二度とこの手に戻らぬものを求め、僕達は彷徨い続ける。


 由那人がゆっくりと立ち上がった。コンクリートに容赦無く叩きつけられた躰の疼きを堪え、少年の待つ高い欄干にその身を引き摺り上げる。

 危ないよ、と再び少年が呟いた。

「死にたいの?」

「さぁ、どうだろう。よくわからないな」

 足下に広がる奈落の底を覗き込み、由那人が微笑んだ。

「僕は病葉が欲しい。それ以外の事はよくわからない。でも、もしもこんな僕が足を滑らせて、そして助けを乞えば、君は僕に向かってその手を伸ばすのかい?」

「ねぇ、正義ってなんだと思う?」

 静かな溜息と共に夜空を見上げ、少年が問うた。

「あんたの犯した罪をヒトの法で裁くこと? その為にあんたを警察に突き出すこと? でもあんたが彼女を屋上から突き落とした証拠なんて一つもないし、そしてたとえ俺があんたの罪を暴くことが出来たとしても、あんたは精神鑑定で異常って判断されて病院送りになるだけだ。なら、今ここであんたを突き落とすことが正義なのかな?」

「君は正しくありたいのかい?」

 口許に薄い笑みを浮かべたまま、由那人が僅かに首を傾げて煉の眼を覗き込んだ。

「不思議だな。君はとても優しいけれど、でも何故か、正しくあることに興味を持っているようには思えなかったんだが……まぁ、とにかく、僕としてはどちらでも構わないよ。唯、君が僕を失望させないことを心密かに願っている。楽しませて欲しいんだ。僕は君に期待している」

「……そう、あんたの言う通り、俺は確かに『正しくあること』にもヒトを裁くことにも興味はない。俺は正義の味方でも法の守護者でもないからね。俺はいつだって、俺のヤりたいようにヤる」

 胸の内にわだかまる何かを吐き捨てるようにそう言い放つと、煉が立ち上がった。風がごうと鳴り、細い欄干の上に恐れげもなく立つ少年の髪を乱す。

「翡翠色の若葉の中で、唯一枚紅く色づいた病葉には確かに独特な美しさがあるよね。でもその美しさは刹那のモノで、永遠には続かない。病いに蝕まれた葉はやがて散り、腐り、酷く目障りな存在になる」

 透明な月影が漆黒の髪にほろほろと零れる。初夏の翡翠色も、病葉の紅も、今は闇に沈み、そんな色の無い世界で、闇色の瞳が真っ直ぐに由那人を見つめた。

「あんたは目障りだ」

「目障りか」

 ふっと溜息のような笑いが漏れた。

「煉君。目障りと言うのなら、君は何故、そんなに悲しい眼で僕を見るんだい?」

 不意に強い光が少年の影を覆った。闇に馴れた眼にはその光はあまりに烈しく、射るような痛みに思わず腕で瞼を庇う。

「ヒトの闇には鬼が棲む。時としてヒトは、己の中の鬼を抑えることが出来ず、それに喰われ、そして自身が鬼と化す」

 静かな少年の声に、瞑っていた眼をゆっくりと開く。

「俺の火はヒトを闇から救う為にあると教えられたけど、そんな戯言を素直に信じるには俺は永く生き過ぎた。俺の火は鬼と化したヒトを救いはしないし、そもそもヒトを救うことに価値があると思うなら、それは余りにも安直で傲慢だ。でも俺はあんたの闇と、そこに棲むあんたという鬼を燃え散らす。あんたの為ではなく、俺自身の為に」

 底の無い淵のように暗い瞳の奥に、熾火が爆ぜる。血よりも濃く深い紅が闇を舐め、少年の影を浮き立たせる。

「……僕は、初めて君に出逢った時から、何故かひどく君に魅かれた。その理由が今ようやく解ったよ」

 これが全ての『終わり』であることを本能が告げる。終わりとは、闇に全てを帰する無か、それとも全てからの解放か。どちらでも構わない。此の世のどんな病葉のよりも鮮やかな紅に身を染める少年の姿に、何もかも忘れて唯陶然と見惚れた。

 どれ程の間そうしていただろうか。遠くで汽笛が鳴った。その音に我に返り、最早己に残された時間が多くはないことに気づく。名残惜しさを覚えつつ、少年に尋ねる。

「教えて欲しい。僕が君の火に呑まれたら、跡には何が残るんだい?」

「……何も」

 少年が淡々と答える。

「鬼に喰われ、鬼と化したあんたを俺が焼けば、跡には何も残らない。魂の無い脱け殻のような肉体を『ナニカ』と呼ぶなら別だけど」

 その言葉に思わず笑みが溢れた。

「煉君、君は嘘をつくのはあまり得意ではないんだね。君が僕という存在を消した跡に残るのは、君自身の『痛み』なんだろう」

 巨大な生き物の心音に似た振動が、ゆっくりと足下に近づいてくる。

 あの日、幼い弟の眼に映ったものを、もうすぐ知ることが出来る。

「自分を傷つけてまで、他者を救おうとするなんて愚かだよ」

 愛おしさに、伸ばした指先が震えた。

「煉君……君は愚かだ」


 その瞬間、世界が真紅に染まった。




     エピローグ



 新緑に染まる木陰のベンチで独り本を読む少年の姿に、思わず足を止めた。艶やかな黒髪に木洩れ陽がチラチラと躍る。絵心など欠片も無いものの、印象派の画家の絵から抜け出たようなその優しげな姿に溜息が出た。

 少年がふと視線を上げた。目が合った途端、その姿をじろじろと眺めていたことを無言で咎められたような居心地の悪さを感じて、それを誤魔化すように山崎が咳払いした。

「何を読んでいるんだい?」

「……つまんない話だよ」

 最後の頁をゆっくりと捲ると、読み終わったばかりの本をぱたりと閉じて、少年が顔を上げた。

「神とか悪魔とかって呼ばれる運命に弄ばれて、あまりに多くを得た弱く愚かな一人のニンゲンが、やがてその全てを失い、でも地獄に堕ちる寸前に元恋人の祈りに救われるっていう、溢れんばかりの愛と希望と御都合主義に満ちた話」

「凄まじい書評だな」

 思わず吹き出した山崎の腕から灰色の猫が飛び出し、少年の膝に乗ろうとした。けれども足の古傷のせいか、バランスを崩して落ちかけた猫を少年が急いで抱きとめる。その拍子にバサリと大きな音がして、本が地面に落ちた。

「ああ、すまない」

 慌てて本を拾い、砂埃を払って少年に返す。そして少年の隣に腰掛け、猫の喉元をくすぐってやる。少年の腕の中で、翡翠色の眼を細めて猫が喉を鳴らした。

「以前に担当していた患者が可愛がっていた猫なんだ。彼女が……いなくなってから、長い間姿が見えなかったんだが、数日前、窓辺にひょっこり現れてね。野良のせいか警戒心が強くてさ。今日ようやく抱かせて貰ったんだよ。君にはよく懐いているみたいだけどね」

 煉の腕の中から山崎を見上げた猫が、当たり前だろうとでも言いたげにニャアと鳴いた。

「こいつさえ良ければ、今週末にでもペットショップに行って、餌とかトイレの砂とか色々買ってさ、準備が出来次第、マンションに連れて帰ろうと思ってるんだ」

「……壊れてるから?」

「え?」

「足に一生癒えない傷を負った、壊れた猫だから連れて帰るの?」

 一瞬驚いたように目を見張った山崎が、やがて静かに首を横に振った。

「……違うよ」

 溜息と共に柔らかな灰色の毛をそっと撫でる。猫が喉を鳴らしてその手に頭を擦りつけた。

「こいつに側にいて欲しいと思うのは、俺自身が寂しいからだよ」

 絵から抜け出たような少年の存在が、あまりにも現実離れしているように思えたからか。その眼差しが妙に大人びていたせいか。初夏の風に誘われるように、胸に秘めた想いが言葉となり、口から零れた。

「友人を失ったんだ」

 怜悧に整った横顔を思い浮かべた途端、身の内に焼けつくような痛みが走った。

「――と言っても、決して死んだわけではないんだが、でも心が死んでしまった。医学的証拠も無いのに医者がこんな事を言うべきじゃないとは分かっているんだが、でも奴の心はもう二度と帰ってこない気がしてね。精神科医として、人が様々な形で心を失うのを見てきたけれど、でも、こんな形で友人を失うのは中々切ないものがあるね。もっとも友人だと思っていたのはこっちだけで、あいつは俺のことを友達だなんてこれっぱかしも思っていなかっただろうが」

 ……俺だけではない。あいつは相手が誰であろうと、決して必要以上に関わろうとはしなかった。窓際に独り佇み、何処か遠くを見つめるあいつの周りは、まるでそこだけ透明な硝子に隔てられたかのようにしんと静かで、そして俺はあいつが纏うそんな空気に魅かれた。

「この猫を可愛がっていた患者は若い女性で、彼女はその友人に惹かれていた。彼もこの病院の医者だったんだ。よくある話だけど、でも医者は患者に恋したりはしない。有能な医者としての客観性を保つ為には、恋なんて感情は邪魔にしかならないからね。だから多くの医者は自然と 私的感情を抑え込むことを学び、常に冷静であろうとする。そして俺の友人は、特にその傾向が顕著だった」

 ……本当は気づいていた。常に礼儀正しく、物腰穏やかなあいつが、どんな状況に於いても一欠片の感情すら表そうとしないのは、それはあいつが医者だからではなく、もっとずっと根の深いものなのだと。

「俺は、精神的に独立していない人間……特に精神科医の世話になるほど心の弱っている人間は、恋などするべきではないと個人的に思っている。それなのに俺は二人を近づけようとした。治療に行き詰まっていて、誰にも心を開こうとしない彼女の心を掴む切っ掛けが欲しかったのか、それとも能面のような友人の心が動くところを見たかったのか。今から考えても魔が差したとしか言いようが無い」

 それまで黙って山崎の言葉に耳を傾けていた少年が、ふと溜息を吐いた。

「……誰かを特別だと思うことは、別に悪いことじゃないと思うよ。まぁ、好きになる相手にもよるけどね」

「そう、誰かを好きになることは悪い事ではない。でも彼女は自殺した。それも友人の目の前で」

 後悔が心を苛む。苦渋に顔を歪め、山崎が吐き捨てるように言った。

「今でも分からないんだ。何故彼女が死を選んだのか……。どちらにせよ、患者の自殺の兆候を見逃すなんて、俺は医者として失格だよ」

「……誓ってもいいけど、その(ひと)が死んだのは、あんたのせいなんかじゃないよ」

 眼を逸らして小さく口を尖らせた少年を見て、山崎が表情を和らげた。

「彼女が自殺しても、彼に特に変わった様子は無かった。だがそれは、表面上のことだったんだ。全く、俺は医者としても友人としても失格だよ」

 白い病室に横たわり、身じろぎひとつせず虚空を見つめる一人の人間の姿が脳裏を過る。その暗く無機質な眼に映るものは何か、あいつが求め続けたものは何だったのか、いつか知ることができるのだろうか。

「人の心は、ぜんまい仕掛けの人形に似ている」

 溜息と共に澄んだ空を見上げる。あの日、屋上で白い花束を手にしたあいつと共に見上げた空も、蒼く澄んでいた。

「精密であればあるほど、完全な均衡を保つことは難しい。小さな螺子の歪みが、少しづつ、少しづつ、全てを狂わせ、気付けば手遅れになっている」

 瑞々しい若葉が少年の頬に翡翠色の影を落とす。

 透明な風に黒い揚羽蝶が舞う。

 何処か遠くで子供達の笑い声がする。

 そんな明るく平和な光景の中、固く目を瞑り、祈るように言葉を継いだ。

「でも、俺は願っている。誰かが彼のために祈りを捧げてくれることを。壊れた人形の心に、いつか救いが与えられることを。ファウストを許し、彼の魂を救った恋人のように……」

「残念だけど、無理だと思うよ」

「どうして?」

 ベンチから立ち上がった少年が、感情の無い淵のような眼で山崎を見下ろした。

「……だって、人形には、救うべき魂なんてないから」


 不意に吹きつけた一陣の風が少年の黒髪を乱し、自由を奪われた蝶の翅が蒼い空に舞った。



     ✿



「煉……何をやってるんだ?」

 真夜中。高い樹の枝に横になり、指先で紅い炎を弄び、千切った若葉を次々と燃やしてゆく煉の姿に、焰が訝しげに眼を細めた。

「ねぇ、焰。焰はいつから気付いてた?」

 振り返った煉が、あどけない口調で金色の狐に問う。

「俺の火は鬼を祓い、ヒトを壊すってこと」

「鬼に憑かれ、喰われた者はすでにヒトではない」

 くだらん、と吐き捨てるように言って、焰がふんと鼻を鳴らす。そんな狐の言葉に、宵風に漆黒の髪を靡かせ、煉が幽かに嗤った。

「……じゃあ、此の世にはヒトなんて一人だっていないのかもね」



(END)

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