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ミソサザイの歌  作者: 和泉ユタカ
第二章 〜 煉
10/123

狗神 (中編)

     5


 真昼間。岩穴の入口から数間離れた岩の上に、煉がちょこんと座っていた。のんびりと流れる雲を眺めたり、時折欠伸しながら背中を掻いたりしているが、一向に岩穴から離れる様子はない。と、何を聞きつけたのか、煉が不意にぴくりと顔を上げると、岩穴の入口に歩み寄り中を覗き込んだ。

「呼んだ?」

 煉が岩穴に声をかけると、暗闇の中で紅い眼が不機嫌そうに瞬いた。

「……小僧、毎日朝から晩まで、そこで何をしておる」

「うん、あのね、毎日来てれば、君がそのうち俺の匂いに慣れて、俺のこと空気だと思ってくれないかな、と思って。空気ならそばに行っても咬まれないし、そしたらその傷の手当ても出来るしね」

「……去れ。俺に構うな」

 煉がくすりと笑った。

「……何が可笑しい」

 低く唸る狗神の声に、堪え切らなくなったように煉がにやにやする。

「君、さっき、岩の隙間に溜ってる雨水飲んでたでしょ? 肉も食べてくれないし、最近は椀の水も飲んでくれないからさ、俺もこんな事したくなかったんだけど、君が寝てる隙にその雨水に薬混ぜておいたんだよね」

 唸りながら立ち上がろうとした狗神の躯がぐらりと揺れた。

「薬って言っても、ただの眠り薬だから心配しないで。じーさん直伝で超強力だから、ひとくち飲めば半日は目が覚めないけど」

 どう、と地響きを立てて倒れ込んだ狗神に、笑いを消した煉が静かに近付いた。


     ❀


 狗神の手当を終えた煉が、谷底で手拭いを洗っているところに、鴉が舞い降りてきた。しばらく何事か考えていた鴉がやがて嘴を開いた。

「伊吹の式神から聞いたのだが……」 鴉が一瞬迷うように口ごもった。「……狗神に襲われた男ってのは酒癖が悪く、その日も昼間から飲んだくれて、文句を言った女房子供を村中追いかけ回して殴りつけていたらしい」

「ふーん」

 煉が興味なさげに肩を竦めた。

「その男は狗神に喉笛をひと噛みで裂かれてオダブツだとよ」

「そんなことは別にどうでもいいけど……あのさ、狗神って普通は術者が式神として創るんだよね?」

「うむ、狗は賢く力もあり、おまけに主に忠実だからな。しかし式神と言えば聞こえはいいが、狗神作りは蠱毒(こどく)の一種で中々おぞましい。お前の一族は使わんだろう」

「うん、そうだね。俺は見たことないよ。あの狗神って結構年季がいってる感じがしたんだけど、鴉はどう思う?」

「確かに百は下らぬようだったな」

「それって、つまりあいつを創った術者はもういないってことだよね?」

「ふん、そりゃそうだろう。仙人でもない限り百を超えて生きるヒトなど滅多におらんからな」

「ねぇ、術者が死んだら狗神はどうなるの?」

「知らん。式神は普通、術者が死ねば消えてなくなるか、術から解放されて自由になるがな。狗神は主に忠実な分、色々と枷があるやもしれん」

「あのさ、あいつ、もしかして自分を創った術者を探してるんじゃないかな?」

「なんでだ?」

「う~ん、上手く言えないけど、なんかあいつって術者の命令に従ってるっていうよりさ、どっちかっていうと迷子で困ってるっぽいっていうか……あんまり式神らしくないんだよね」

 ふんと鼻を鳴らすと鴉が肩を竦めた。

「迷子という程の可愛げがあるようには見えんかったがな。どちらにしろ狗神は主以外には懐かん。傷の手当もしてやったことだし、お前の気も済んだだろう。桐刄ではないが、これ以上奴に関わるな」

 川辺に寝っ転がって流れる雲を眺めながら、煉がぽつりと呟いた。

「あいつを創った術者は、どこに行っちゃったんだろうね……」


     ❀


 翌日。

「おはよう、アカ。気分はどう?」

 岩穴に射し込む朝日と共に、煉が顔を覗かせる。そのまま恐れげもなく、自分を無視する狗神に近付くと機嫌良く鼻唄を歌いながら水の入った椀を差し出した。

「朝だ朝だ〜よ~ ♪ 元気良く、さぁ飛び起きて~ ♪」

 突如狗神がガッと牙を剥いた。煉がすかさず己の右腕を顔の前に上げる。その腕に噛みつきかけた狗神が妙な顔をすると、煉の腕を口から放し、唾を吐いた。

「……なんだ、この味は?」

 煉がにこにこと笑う。

「うん、あのね、ただ噛まれるのも癪だから、熱冷ましの薬を塗り込んどいたの。一番良く効いて、ついでに一番不味いヤツ」狗神の顔の前に左腕を差す。「ちなみにこっちは膿止めの薬なんだけど、どっちがいい?」

 狗神が忌々しげに舌打ちすると煉から顔をそむけ、目を閉じた。煉がふんふんと鼻歌交じりに狗神の背中の傷を洗い、薬を塗り直すと、ごわごわした狗神の毛を丁寧に梳き始めた。


     ❀


「おはよ~」

 背中に大きな風呂敷を背負った煉が岩穴に入ってくる。目を瞑ったまま、煉を無視して動かぬ狗神に近付くと、丁寧に傷を調べる。

「傷はだいぶ良くなったみたいだね。でも、アカ、なんか痩せちゃったね」

 煉が狗神の肋骨の浮いた躯を心配そうに撫でた。


 煉が岩穴の奥から薪や鍋を引っ張り出してくると、狗神の横で何やらごそごそと準備している。狗神が片目を開けて煉を眺めた。

「……今日はまた何をするつもりだ?」

「栗団子作ろうと思って。小鬼達に作ってあげるって言ったのに、中々約束が果たせなくってさ」

 鍋の中の栗が甘い匂いを漂わせ始めると、次々と物の怪達が岩穴を覗き込んだ。

「大丈夫だよ、入っておいで」

 煉に声を掛けられ、皆恐る恐る遠慮がちに岩穴に入ってくる。初めは巨大な狗神を横目でちらちらと見て大人しくしていた物の怪達も、煉が団子の粉を練り始める頃にはすっかりいつも通りになり、煉の横で楽しげにはしゃぎ、団子を丸めている。

「アカイノも喰うか?」

 一匹の小鬼が自分ほどの大きさのある栗団子を、よたよたと狗神の前に運んできた。小鬼を傷つけぬようそっと口を開けて狗神が団子を呑み込んだ。煉の手で丸められた栗団子はふんわりと温かく、ほんのり甘い。



     6


 そんなある日の事。まだ暗いうちに家に訪ねてきた伊吹が、げっそりと窶れた顔で、泪・煉と朝餉を共にしていた。

「どうだ、狗神はみつかりそうか?」と泪に尋ねられ、伊吹がハァ、と大きく溜息をつくとぽきぽきと首を鳴らした。

「それがさっぱりさ。隠れていそうな所は全て調べたし、水場などは昼夜式神達に見張らせているのだが、狗神の尻尾どころか影さえも掴めん」

「知らぬ間に出て行って、もうこの辺りにはいないという事は?」

「それはないだろうな。お前の知っているとおり、俺の式神の殆どは鳥類だ。昼は鷹、夜は梟や夜鷹など夜目の効く奴等に空から見張らせている。狗神がモグラかなんぞのように地に穴を掘って逃げぬ限りは、見逃すことはあるまい」

「つまり全く身動きせずに、ひとところに潜んでいるということか………」

 泪が箸をとめ、ふと考え込んだ。

「まぁ狗神といえども元は獣だ。腹も減れば喉も渇く。いつまでもじっとしてはおれまい……と、まぁ願ってはいるんだけどな、どうなる事やら」

「……ごちそうさま」

 黙って二人の話を聞いていた煉が、茶碗を片付けるとそそくさと居間を出て行こうとした。

「……煉」

 すれ違いざまに泪が煉の右肩を掴んだ。不意を突かれた煉が、傷の痛みに思わず息を呑んだ。しかし奥歯を噛み締めると、平静を装い泪を振り返った。

「なぁに?」

 煉の肩から手を離した泪が、食後の茶を啜りながらにっこりと微笑んだ。

「山に行くなら、ついでに薬草を探してきてくれないか? ツワブキ、シマカンギク、アカネ、ワレモコウ、オミナエシ、キキョウ、ヒオウギ……ガマも欲しいけど、季節外れかな。まぁ、血止めと解熱、炎症に効くものならなんでもいいよ。なぜか最近薬の減りが早くてさ」

「うん、まかしといて」

 煉があどけなく微笑むと泪と伊吹に手を振って家を出た。



     7


 狗神の横に新鮮な水の入った桶を置くと、煉がそっとその背中を撫でた。

 ……怪我が治ったら、桐刄に頼んで霧に隠れてここから出して貰うか。

 ちょっと鬼としてはあり得ないほど神経質で綺麗好きな桐刄の端麗な横顔を思い浮かべ、む〜んと唸る。狗を自分の結界に入れるとか、桐刄は絶対嫌がるだろうな。もうちょっと我慢してたらイブ兄が諦めてくれないかな。じーさんはどうせ知らん顔だろうし……。

 連日の毛梳きでふかふかになった狗神の毛に煉が顔をうずめた。

「でも、一番いいのは……」

 不意に背後にヒトの気配を感じて煉が振り向いた。岩穴の入口に暗い顔の伊吹が立っているのを見て、思わず息を呑んだ。

「イブ兄、俺のこと、尾けてきたの……?」

「……すまんな、煉」

 伊吹が気不味そうに煉から目を逸らした。

「お前を尾けろと言ったのは俺だよ」

 伊吹の背後から厳しい表情の泪が現れた。

「煉、一体いつからソレを匿っていたんだ?」

 黙って答えぬ煉に泪が近付くと、煉の着物の襟を乱暴に掴み肩をはだけた。痛みを堪え切れず僅かに呻いた煉を睨むと、血の滲んだ包帯に泪が舌打ちした。と、眠っていた狗神が不意に躰を起こし、泪に向かって低く唸りながら牙を剥いた。狗神の巨大な躰から洩れる妖気に、泪と伊吹が顔色を変えて咄嗟に身構えた。

「アカ、大丈夫だよ。俺の兄者だから」

 逆立った首の毛をそっと撫でて煉が囁くと、狗神が舌打ちして億劫そうに身を横たえ、泪から顔を背けた。

 そんな煉と狗神を交互に見比べた泪が、大きく溜息をつくと岩穴を出た。

「煉、帰るぞ。家で傷を見てやるからさっさと来い」

 落ち着いた泪の口調につられて歩き出した煉が、ふと足を止めて伊吹を見上げた。

「イブ兄は帰らないの?」

 伊吹が黙って煉から目を逸らすと、泪が煉の腕を掴んだ。

「……煉。これは伊吹の仕事だ」

 はっとして泪を振り返った煉が、掴まれた腕を振りほどき、岩穴に駆け込むと狗神を守るようにその前に両手を広げて立った。

「……煉、手助けしなくても良いが邪魔だけはするなと言ったはずだ。人喰いを見逃すことはできない」

「い、いやだっ! アカは人喰いじゃない!」

「そいつの口からはヒトの血の匂いしかしないだろうが。お前の肩の傷だってどうせそいつに咬まれたのだろう」

「違うっ!これは、その、単なる事故というか、偶然ちょっと歯が当たっただけで……」

「だあああ! もうっ!」伊吹が突如叫ぶと髪を掻き毟った。「だから俺は煉の後を尾けるなんて嫌だったんだっ、こうなるのは解り切っていたからな! 知らなけりゃ知らないで済んだのに……狗一匹見つけられんと、俺の評判が僅かに落ちたかもしれんが、俺はそんな事は気にしない」

「だが見つけたからには見逃すわけにはいかない」

「そうだ。目についた人喰いを見逃すわけにはいかん。それは面使いの掟に反する。だからここはひとつ、見なかったことにしよう」

 伊吹の提案に泪が素っ気無く首を振る。

「残念ながら、そういうわけにはいかない」

 背後から近付いてきた人の話し声を泪が顎で指し示した。

「先刻じじ様に使いを出した」

「泪、お前も抜かりが無いと言うか、また余計な事を……」

 焦る伊吹に答えず、泪がじっと煉を見つめた。

「煉、可哀想だと思うのは簡単だよ。思うだけなら誰にでも出来る」

 じじ様、父者、そして狗神狩りを依頼してきた二人の猟師が岩穴の前に現れた。と、同時に狗神がゆっくりと躰を起こし、無言で人々を睨んだ。狗神の紅い眼を見て猟師の間に緊張が走ったが、しかしその前に立ちはだかる煉の姿に困惑した様に顔を見合わせた。煉と泪の間の不穏な空気と困り顔の伊吹を見て状況を察した父者が、ふぅと溜息をついた。

「見事な狗神だな、煉」

 黙って答えぬ煉に父者が穏やかに話し掛ける。

「だがな、煉。残念だがそれはお前の手には負えんだろう。ヒトを殺して喰らったモノはもう元には戻れぬ。たとえ狗神であっても、ひとたび人喰いと相成れば永久に人喰いとして生きていくしかないのだよ」

「違うっ、アカはヒトを喰ったりなんかしない!」

「一度でもヒトを喰ったモノは必ず再びヒトの血を求める。たとえ本意でなくとも、躰がそうなってしまうんだ。これは絶対だ。だからこそ我等は人喰いを見逃すわけにはいかんのだ。お前だって本当はわかっているんだろう?」

「わかんないよっ! アカはヒトを喰わなくたって生きていける! 絶対なんて無いって、父者だっていつも言ってるじゃないか!」

「ええい、何をごちゃごちゃと言っておられる?! 命惜しくば御子息にそこを退くようにいいなされ!」

 苛立った猟師が怒鳴ると、もう一人がいきなり狗神に向かって矢を放った。しかし煉がヒトとは思えぬ素早さで飛んできた矢を掴み、一瞬にしてそれを燃え散らした。

「な、なんと…」

 驚きに眼を見張る猟師を煉が無言で睨みつける。煉の全身が熱を孕み、それに呼応するように狗神の毛がぞわりと逆立った。

「……アカは殺させない」 煉の両手がぼうっと光を帯びる。「アカは俺が守る」


 狗神の眼に映る煉の後ろ姿に、不意に少女の姿が重なった。


「やれやれ」

 じじ様が溜息をつくと、手振りで猟師を後ろに下がらせた。

「おやめなされ。あんたらではその小僧には勝てん。不用意に近づけば黒焦げじゃ」 煉にゆっくりと近づいたじじ様が、半眼でじっと煉を見やる。

「煉、そやつがヒトの血を欲した時、お前は責任を持ってそれを殺してやることができるのか。出来ぬのなら今ここでワシが始末をつけてやろう。しかし出来るというならその狗はお前にくれてやろうぞ」

「じじ様! 何ということを仰るのですか……」

 驚いて前に踏み出した泪をじじ様が軽く手で制す。

「どうじゃ、煉。お前にそやつを殺す覚悟はあるか」

 長い間、無言でじっと地面を睨んでいた煉が、不意に昂然と頭をあげた。

「……俺はアカを殺したりしない」煉が居並ぶ人々を睨みつける。「でも覚悟ならあるよ」

 そう言うなり、懐から取り出した小刀で己の掌をざくりと切ると、滴る血を狗神の額に垂らした。

「盟約を結ぶ。アカがヒトの血なしには生きていけないのなら、俺の血をやる。肉を喰いたいのなら、俺の肉をやる。盟約を結べば、アカは俺しか喰えなくなる」

「なにを馬鹿な事を言ってるんだっ」 と伊吹が怒鳴った。「そんな盟約なんぞ、ひとつ間違えばお前が死ぬだけだぞっ!」

「……もし俺が死ねば、その瞬間アカも死ぬ。だが俺が生きる限りアカも生きる。それが盟約だよ。誰にも迷惑はかけない」

「ふむ、よいだろう」と頷いたじじ様に伊吹が目を剥いた。

「な、耄碌したか、じい様?! 全然ダメだろうがっ」

 伊吹の喚き声など全く聞こえぬかのように、じじ様が岩山に背を向けて平然と歩き出した。

「煉、その覚悟が本物なら、俺は何も言うことはない」じじ様に続いて父者が頷いた。「お前の人生だ。お前の好きにすれば良いさ」

「ちょ、ちょっと待てよ、叔父さんまで何言ってるんだよ?! 放任主義にもほどがあるだろう?! おいっ、泪もなんぞ言ってやれ!」

「……煉」

 それまで無言で俯いていた泪が不意に顔をあげると冷ややかな眼差しを煉に向けた。

「……お前は最低だよ」


(To Be Continued)

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