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始まりの歌

 初夏の公園をゆっくりと歩いてきた青年が、木陰で足を止めた。肩にかけていたカバンを地面に下ろし、涼しい樹の根元に腰かけてスケッチブックを開く。そしてちびたチャコールを握りしめ、静かに目を閉じた。

 ひんやりと湿った土の匂いを含んだ風が汗ばんだ首筋を撫でる。小鳥達の囀りが耳に心地良い。目を開いた青年が、その目に映る様々なモノの姿の切れ端を白い紙の中に捉えてゆく。ジョギング中の若者の躍動感、枝から枝へ飛び移る小鳥たちの影、杖と共に歩む老人の穏やかな溜息、子供達の笑い声、ベンチに腰掛け缶ジュースを飲む少年の艶やかな黒髪を揺らす風ーー

 白い喉を仰け反らせるようにしてジュースを飲んでいた少年と不意に目が合った。

「絵描きさんなの?」

 手の甲でキュッと口許を拭うと、黒目勝ちの猫のような眼を僅かに細めるようにして少年が尋ねた。

「違うよ。でもなれたらいいな、とは思ってる」

「夢?」

「……そうだね、夢だよ」

 この眼に映り、自分というフィルターを通した世界の煌めきを誰かに伝えたい。けれども全てを投げ出して夢を追う程には子供ではなく、しかしそれをただの夢と言い切って現実を受け入れるほど大人でもない。諦念を知るには彼は若過ぎた。

「ふ〜ん、そう」

 缶ジュースを飲み干す少年の眼が、微かに笑った気がした。

「……君は? 君は将来何になりたいの?」

「俺?」

 少年が立ち上がると缶をくしゃりと潰し、ひゅっとゴミ箱に向かって投げた。缶が綺麗な曲線を描きゴミ箱に入る。それを見た少年がふふんと得意気に口の端を上げた。そんな少年の横顔を青年がじっと見つめる。

 整った顔立ちのせいであろうか。無地のTシャツに膝丈のパンツとシンプルな出で立ちにもかかわらず、少年は独特の雰囲気を醸し出し、そしてどこか超然としていた。ふと、風の色という言葉が頭に浮かんだ。この少年は、その身に纏う風の色が違うーー

 少年が不意に振り返り、目にかかる艶やかな黒髪を邪魔臭そうに掻き上げた。大きく黒々と濡れた瞳に見つめられ、なんだかドキリとした。

「俺はミソサザイになりたいな」

「え?」

「ミソサザイだよ。鳥、知らない? 日本の野鳥では最小種のひとつでさ、すごく綺麗な声で鳴くんだよ」

「えっと、君はその、将来トリになりたいと……?」

 少年が笑いながら青年に近付いてきた。思わずさらさらと手を動かし、その深い淵のような瞳の色を白い紙の中に捉える。

「ミソサザイってさ、ちっちゃいし、地味だし、群れとか作んないし、おまけにすばしっこくて、すぐそばにいても中々見れないんだよね。でもすごくよく響く声で鳴くんだ」

 ミソサザイは何処にでも現れ、遙か遠くまで歌声を響かせ、しかしその姿を捉えることは難しい。


 ミソサザイになりたい、と言って少年は笑った。

 俺はミソサザイになり、この透明な風に舞う、命の歌を紡ぎたい。

 俺の歌声に耳を澄ませてくれる、何処かにいる、誰かのために。


 冗談か本気か、青い空を見上げて笑う少年の真意は図り難かった。

「それって俺だよね?」

 少年がスケッチブックを覗き込んだ。

「え? あぁ、うん」

「いいね、それ。頂戴?」

 甘えるように僅かに首を傾げて自分を見上げる少年に、青年が無言でひとつ頷き、スケッチブックから破り取ったページを渡した。別に構わなかった。一度描いたモノは決して忘れない。何度でも描ける。

 ありがとう、と言うと、少年は軽く手を振り、公園の小道を歩きだした。

 少年の姿が木立に消え、我に返った青年がチャコールを握り直した。あの不思議に深い瞳の色をもう一度スケッチブックの中に捉えようとして、ふと首を傾げた。


 どうしても、少年の顔が思い出せなかった。


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