手が欲しい
て・て・て・手が欲しい、無くした手はどこですか。
暗い廊下の中を懐中電灯の光が心許無く照らす。男の顔には暗い影が差し、その表情は陰鬱としている。
今はもう使われなくなった山奥の旧校舎はつい今しがた犯罪を犯した男にとって格好の隠れ家だった。長い間雨に打たれた体は酷く冷たくなっており、死人と言って差し支えない程の無表情をしている。
殺す気なんてなかった、ほんの出来心だった、テレビによく出てくるありふれた言い訳も今の男にとっては正にその通りの心情だった。殺す気など始めから無かった、殺したら身代金も取れなくなってしまう。そのために周到に用意した策も人質が死んで全て無駄になってしまった。
頭から血を流し冷え切った床に倒れふす少女を思いだし身が震えるのを抑える事が出来無い。思わずあの部屋から飛び出してしまったが大丈夫だろうか。ひょっとしたら生き返って逃げ出してしまったのでは、一度でも考えてしまうと終わりだ。もうそれだけしか考えられない。学校の玄関に着くまでに何度も何度も引き返そうと思い立ったが、その度にえも言われぬ悪寒が背筋を駆け抜け前を向き俯いて歩を元に戻す。
そして、雷鳴轟く外の景色が見え始めた頃、ふと雨音に混じって妙な音が聞こえて来た。
―――て・て・て・手が欲しい、無くした手はどこですか。
それは少女の声で、歌の様に聞こえる。
しかし、雨音が強いせいで上手く聞き取る事が出来無い。
もしや少女が息を吹き返し生き返ったのでは、そうだ、そうに違いない。
疲弊しきった男の思考では最早不思議を感じる事など出来るハズも無く、男の脳は矛盾する部分を勝手に消去しながら少女のいた部屋へと一心不乱に駆けんだ。
少女が生きているのなら、少女を返して警察に自主をしよう。
少女が居る部屋まで来た男は扉に手を掛け、横へとスライドさせた。ギギギと木が掠れる音もなんのその、希望の眼差しを持って見つめるのは扉の向こう側。
……だが、そんな希望はあっさり打ち砕かれた。部屋の中は男が出て行った時と何一つ変わったところは―――否、一箇所だけ変わった場所が有る。
「ひぃ!」
無いのだ、少女の両腕が。
て・て・て・手が欲しい、無くした手はどこですか。
先程まで不透明だった、少女の声は今度ははっきりと鮮明に聞こえる。
歌いながら徐々に少女が近づいてきているのが分かる。
ま、不味い、今この現場を見られたら………
男の頭の中を様々な思考が縦横無尽に駆けずり回る。
どうしたら、どうしたら、どうしたら、どうしたら………
思考の袋小路に行き着いてしまった男は咄嗟に物陰に身を潜めた。
て・て・て・手が欲しい、無くした手はどこですか。
少女の声が近づいてくるに連れ心なしか雨が激しくなって来ている様な錯覚を覚える。
物陰から少しだけ顔を出しこの部屋の唯一の出入り口である開け放たれたスライド式の扉を見つめる。
しかし、見えるのは開け放たれた扉越しに見える窓の景色ばかりだ。窓の外に見える雨模様は止む気配など微塵も無くもう雨以外は何も見えなくなっている。
そこで男は自分が懐中電灯の灯りをつけっぱなしにしているのに気づき慌てて灯りを消す。
て・て・て・手が欲しい、無くしたてはどこですか。
もう目と鼻の先程に気配を感じる。それと同時に寒気が体中を襲い額にベッタリと冷や汗を浮かべ、段々と早くなる鼓動を抑えるべく胸に手を当て大きく、しかし、慎重に息を吸い、これまた慎重に息を吐きだした。
自分の鼓動が落ち着くのを確認してから改めて扉を見つめる。その瞬間雷が近くに落ち、辺りが一瞬だけ照らし出される。
「っっっっっ」
叫び声を上げなかった自分を褒めてやりたい、男は自分の口を覆い隠しながらそう思った。
目に映った光景―――両腕の無い少女が血走った目で辺りを伺いながら、口元には目とは真逆の笑みを浮かべている。
て・て・て・手が欲しい、無くした手はどこですか。
またあの歌が聞こえてくる。よく見ると両腕の無い少女の口元が蠢いているのが伺い取る事が出来るが、今の男のそんな余裕は無い。
に、逃げなきゃ、何処に、どうやって、堂々巡りの要領を得ない自問自答を繰り返しながら男は必死に考えを巡らす。
少女が辺りを見回しながら唸り、肝を冷やす。唸り声はおよそ少女の声と呼べる代物ではなく、野太く、まるで、苦しんでいるかの様な声を発する。
それに呼応して雨音が限界以上に強くなり、外の木々が揺らめき、雷鳴が轟く。
男にはもうアレを人間だと思う思考力は残っていなかった。今はただどうやってこの場から逃げ出すか、それだけが男の思考を支配していた。
どこかに行ってくれ、どこかに行ってくれ、どこかに行ってくれ! 頭を抱えながら心の中で強く念じる。
男の願いは通じる訳もなく、両腕の無い少女はゆっくりと、ゆらゆらと確実に男との距離を詰めていく。
来るな来るな来るな!
その足取りは重く弱々しいが、名状し難い恐怖を孕んでいる。
一歩、また一歩少女が近づく度に鼓動が早くなる。
て・て・て・手が欲しい、無くした手はどこですか。
少女の歌が耳元で聞こえた瞬間、男は耐え切れなくなって大きな叫び声を上げた。
「うわああああぁぁぁ」
恥も外見も関係無く、鼻水を垂らし、涎を垂らし、涙を垂らしながら部屋を飛び出した。
学校の玄関を一気に駆け抜け豪雨が吹きすさぶ中を脇目も振らず走る。
走って、走って、走り抜いた。気がつくと雨は止み雲の割れ目から月の光が溢れ出ているのを確認した時、男は初めて安堵の吐息を吐きだした。
心臓が脈打ち、生きているのを実感する。
良かった、生きている。言葉にすると何と素晴らしい事だろうか。生の素晴らしさを知るのと同時に少女を殺してしまった罪悪感に苛まれる。
少女の死に顔が頭を過ぎ、胸が痛くなる。自分はなんてことをしてしまったのだろう、罪を償わなければ、警察に自主しなければ、脅迫めいた感情に襲われ立ち上がろうとする。
「あ、あれ、お、お、おかしい……な?」
腕に力をいれようとしても何故か腕に力が入らない。
「こ、こ、腰がぬ、抜けたのかな、な」
分かっている、本当は分かっている。何故、腕に力が入らないのか。腰が抜けた訳では無い。理解したくないのに脳がそれを理解しようとしてしまう。
―――男の腕が無くなっていると言う事実に。
「ぎゃああああああ!」
鮮血が肩口から止めどなく吹き出し、激痛が全身を支配する。
「あああああああああ!」
地面をのたうちまわり、その度に血が噴き出し、肉が地に触れ激痛を呼び起こす。
あれからどれ程の時が過ぎただろうか? 男にはもう何も残っていなかった。
気力も体力も。
数分だったのかはたまた数時間だったか。
雨は再び降り出し、瞬く間に辺りを覆い尽くした。
心身共に疲れきった男はこれから体温も奪われようとしていた。血も止まるところを知らずに、今も次から次へと溢れ出している。何もせずとも命が残り僅かなのは明白だ。
これは男への罰かはたまた恨みによる罪か。
て・て・て・手が欲しい、無くした手はどこですか。
―――あ、聞き覚えの有る声に閉じかけていた目蓋を、文字通り、最後の力を振り絞っで開く。
誰でもいい、この際幽霊でも何でもいいから、助けてくれ。
そう願い開いた網膜に映像は――――
――――両腕の無い少女が、男の腕であろうモノを肩口にはめてはしゃいでいる姿だった。
「あ・り・が・と・う」
て・て・て・手が欲しい、無くした手はどこですか?
見つかりました、こっこですよ。
ありがとう。