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第六話 苦い思い出

山もなければ谷もなく、波乱万丈なストーリーではありません。

ハラハラドキドキなお話をお求めの方にはおすすめできません。

 

 

 

 トントン、とドアがノックされた。

「姉ちゃん」

「何、修ちゃん」

 風呂上りに髪を乾かして戻ってくると待っていたかのように弟が顔を出した。

 理一郎にメールを送ってみようかと携帯電話を取り出していたが一旦置いて弟に向き直る。

「ハル兄のこと、もういいのか?」

「は……」

「俺、知ってたよ。姉ちゃんとハル兄が付き合ってたこと」

「……そ、そう……」

 膝の上で握りこぶしを作った。

 もう二年以上も前のことだ。

 それに、あれは付き合っていたといえるのだろうか。

 忘れたい。忘れよう。忘れられたと思っていたのに、早々に思い出されるなんて。

 

 藤代晴彦ふじしろはるひこは父方の従兄だ。

 そして、初恋の人であり、桜子にとって初めて付き合った男性でもあり、初めての男でもあった。

 彼の母親が陽介の姉で家が近かったこともあり、家族ぐるみでお互いの家を行き来しあっていた。

 晴彦は五歳も年上だったが優しくて穏やかな性格で、兄のいなかった桜子は彼を慕っていた。彼も一人息子だったので桜子のことを妹のように可愛がってくれたが、次第に彼に対して恋愛感情を抱くようになっていき、いつの間にか付き合うようになっていた。

 否、当時桜子は付き合っていると思っていた。

 子どものころから仲の良いいとこ同士ということもあって、お互いの家に行くのも不自然には思われなかったのでもっぱら家で会うことが多く、たまに外で遊びたいと言ってもなかなか頷いてはくれなかった。

 それもそのはずだと思ったのはかなり後のことだったが。

 桜子が短大二年になったころ、晴彦に会いに藤代の家に行くと伯母夫婦はおらず彼一人でいた。それもいつものことだったので彼に誘われるままに部屋まであがりこんだ。

 晴彦はすでに社会人として働いていて、たまの休みにしか会うことができなかったがそれでもいいと思っていた。

 付き合っていると伯母たちには知られてはいないようだったが、そのうちに恋人として紹介されるものと思い込んでいたのでそれまで待っているつもりだった。

 その日、晴彦の部屋で二人並んでテレビを見ていると、突然彼がキスをしてベッドに押し倒してきた。

 それまではキスをするだけだったのにいきなりすぎて驚いた桜子はかなり抵抗したのだが、晴彦にダメなのかと訊かれたら嫌だとは言えなかった。

 その日、桜子は伯母夫婦が帰ってくるまでに逃げるように藤代家を出た。

 初めてなんてちっともロマンチックじゃなかった。どうして昼日中から彼の部屋でテレビのお笑い番組をBGMにして痛い思いをしなければならなかったのか。

 普段は優しい晴彦なのに、その日はちっとも優しくなくてその行為はむしろ一方的だった。

 それからというもの、晴彦からの連絡がないことをいいことに藤代家に足を向けることはなかった。

 またそういう行為に及ばれるのが怖かったのだ。

 しかし、その一ヵ月後だったか、藤代の伯母から突然電話がかかってきた。

 晴彦がどこに行ったか知らないかと。

 

 伯母は、晴彦が会社を無断で辞めて駆け落ちしたのだと言った。

 

 ガン、と頭を殴られたような気がした。

 駆け落ちした相手の女性は父親が会社経営をしている資産家の令嬢で、晴彦が大学生のころから付き合っていたという。

 社会人になってそろそろ結婚をと考えていたが女性の父親に反対され、何度も許しを乞いに行ったのだが相手にされず、晴彦と女性は業を煮やして駆け落ちと言う手段に出たらしい。

 聞けば女性は既に妊娠していて五ヶ月目に入っていた。

 銀行から預金がすべて引き出され、携帯電話の契約は切られていて、連絡手段を全て絶ってから行方をくらましたらしい。

 ショックを受けた桜子は泣くに泣けないでいた。

 付き合っていると思っていた自分はいったいなんだったのだ。

 晴彦にとって自分はただの浮気相手で性欲のはけ口でしかなかったのか。

 もしくは二股をかけられていて、駆け落ち相手が妊娠してしまったために自分は捨てられたのか。

 ちっとも気づかないでいた自分が情けないやら悔しいやらで晴彦にではなく、自分への怒りが勝った。また彼との仲を誰にも話さなかったので、友人に相談することもはばかられて自分で怒りを鎮めるしかなかった。

 そのせいでしばらくは男性不信に陥り、合コンをするという友人に誘われても行かず、男性と付き合うことも避けるようになってしまった。

 当然のことながら藤代の家にも行かなかった。

 そのうちに瀧沢家が借金を作ってしまったため、藤代の伯母たちも巻き込まれるのを嫌がってこちらを避けるようになり、両家の交流は途絶えてしまった。

 

 その駆け落ちをして家を出ていた晴彦が戻ってきたという。

 相手の女性とは駆け落ち先で結婚をして一児を儲けていたが、仕事がなかなか定まらず職を転々としていた彼にもともと家が裕福でお嬢様育ちだった妻は耐えられなかったらしい。

 駆け落ちまでしたというのに結局は実家の父を頼って戻ってしまったのだ。

 子どもは彼女が引き取っていった。孫が可愛かったのだろう。資産家の父親は晴彦と離婚して孫と一緒に戻ってくるのを条件に受け入れたという。

 バツイチの身で戻ってきた晴彦はあの時は迷惑をかけたと謝りにきたのだった。

 

 

「姉ちゃん、いなくてよかったよ」

「う、うん……」

 ズキズキと胸が痛い。

 悲しみとか苦しみで胸が痛いのではない。

 どちらかといえば自己嫌悪に近い胸の痛みだった。

 床に座って胡坐をかいた修吾は怒りを露わにしていた。

「ハル兄が姉ちゃんはいるかっていうからハッキリ言ってやったよ。婚約者とデートしてるって」

「婚約!? ち、違うのよ、理一郎さんとは婚約はしてなくて、結婚を前提としたお付き合いをするってだけで」

「似たようなもんじゃん。俺が思うに、理一郎さんのほうがハル兄よりもはるかにいいよ」

「それは……」

 晴彦は優しい人ではあった。

 とても優しい人だと思っていたが、ただの優柔不断だと気づいたのは後になってのことだ。

 頭が良くていい会社に入っていたのに、子どもができたという本命の彼女に流されて駆け落ちしたあげくに離婚して戻ってきたと聞いては、いったい自分は彼のどこを好きだと思っていたのだろうか。

 けれどまだ理一郎と晴彦を比べたくはなかった。

 こうして考えてみると、自分が理一郎のことを心から信じきれずにいるのは晴彦のことを引きずっているからではないのかと唐突に気づかされた。

 心のどこかで怯えているのだ。

 理一郎は付き合っている人はいないと言っていたが、本当はいるのではないか。晴彦のように突然黙って自分ではない他の女性の手をとってしまうのではないかと。

「とりあえずこっちでまた職探し始めるっていうからしばらくは顔を出さないとは思うけど、店にいないほうがいいんじゃない? あと、日曜日は絶対に理一郎さんとデートしてろよ」

「も、もうっ、理一郎さんだってそんなに毎週暇じゃないわよ」

「そうかなあ。姉ちゃんに本気だったらそれこそ会えるかぎりは会いに来るんじゃない?」

「そんなことあるわけな、ひゃ!」

 いきなり携帯に着信が入った。

 飛び上がるように驚いた桜子だったが、かけてきた相手の名前を見てそういえばと思い出す。

 修吾はニヤリと笑う。

「噂をすれば理一郎さんじゃない?」

「違うわよっ。しずちゃんよ」

「静香さん? なあんだ」

 じゃあ俺は寝るわと修吾が部屋を出て行ったので、ようやく通話ボタンを押す。

「も、もしもしっ」

『ごめん。もしかしてまだデート中だった?』

「ううん、もう家に帰ってる。修ちゃんと話してたの」

『よかった。私も家に帰ってきたところなんだ。さあ、ゆっくりと洗いざらい吐いてもらうわよ』

 なんで尋問みたいな口調になってるんだろうと思いながらも、静香には祖父同士が友人でその縁でお見合いをしたことと、どうやら先方に気に入られたみたいで結婚を前提にお付き合いを始めたということだけを説明した。

 静香は店の借金のことは知っている。以前勤めていた会社を辞めるときに事情を説明したのだが、瀬川家にその借金の肩代わりをしてもらったことは言わないことにした。

『へえ~、いまどきそんな話ってあるんだねえ。でも瀬川さんってかなりのイケメンじゃないの。せっかく向こうから申し込んでくれてるんだから、玉の輿じゃない。甘えちゃいなさいよ』

「そうじゃないでしょう? 結婚て一生を左右するものだもの。私はずっと一緒にいたいって思えるような人じゃないと嫌よ」

『それじゃ瀬川さんはさっちゃんの好みじゃないってこと?』

「そんなことはないけど」

 顔はいいし、優しいし真面目で誠実そうだし。今日一緒にいてもちょっとお互いに気を遣うことはあっても、疲れたりはしなかった。むしろ居心地がよくて楽しかったのだ。

『まだ付き合い始めでしょ。少しずつ慣れていけばいいよ』

「うん、そうね」

『また来るでしょう? デートスポットだもんね』

「うん、あそこいいね。気に入っちゃった。もっと近かったらいいのにって思った」

 映画を見てショッピングもできる。ここなら一石二鳥であちこち動き回らなくて済むと理一郎は言っていたし、ちょっとしたドライブもできるからとまた行くことにしたのだ。

『そのときはまたうちの店に来てよね』

「えー、それじゃ他のお店の料理が食べれないじゃない」

『そういうこと言う!?』

 お互いに軽口を叩きあって笑いをおさめると、また何かあったら連絡すると約束して電話を切った。

 その途端、またもや電話が鳴りはじめた。

「わ、わわっ!」

 びっくりして思わず手の上で携帯電話をお手玉のようにしてしまい、再び通話ボタンを押した。

「もしもしっ」

『こんばんは』

「あ、は、はいっ、こんばんは!」

『……くっ……なんか焦ってる?』

「理一郎さんっ」

 笑いをこらえた声が電話向こうから聞こえた。

 メールだけでもしておこうと思っていたのに、また相手からかけさせてしまった。

 気を遣わせてるのかなあと思うと少々落ち込む。

『さっきまで電話してた?』

「あ、はい、あの、お昼ごはんを食べた店でバイトしてた友達と」

『ああ、作本さんとかいう……』

 もう名前を覚えてしまっていたのか。簡単に紹介しただけだったのにと思ったが、彼は営業職だ。人の名前や顔を覚えるのは得意かもしれない。

「理一郎さんとお付き合いを始めるきっかけを説明してたというか……あ、お金をお借りしてることは話してないんですけど」

『うん、それは言わないほうがいいだろうな。友達を不必要に心配させることはないよ。それに、俺個人としても君の友達に悪印象は与えたくない』

「そ、そうですよね」

 よくよく事情を知らなければ桜子が理一郎に嫁ぐというからには借金のかただと思われても仕方のないことだ。

 そんなことを知ったら静香は怒り狂うだろうし、それによって理一郎のことを悪く思われたくない。

『ところで、今度の日曜日は空いてる?』

「あ、空いてます!」

 空いているというよりも正直言って家にいたくない。そのことは理一郎には話せないが、これからしばらくは家にいないほうがいいかもしれない。

『水族館は好き? 遊園地のほうがいいかな』

「あ、私……」

『どっちがいい? 苦手だったら別のところにしようか』

 こういうときは気を遣わなくていいと教えられた。理一郎はどちらでもいいというのだから、桜子が行きたいほうを優先してくれるだろう。

 きっと理一郎が行きたい場所もあるだろうから、そのときはそちらを優先すればいいのだ。

「水族館に行きたいです。実は私、遊園地が苦手で……」

『あ、そうなんだ?』

 それはどうやら初耳だったようだ。理一郎の声のトーンが少し変わった。

「遊園地の乗り物が苦手なんです。アトラクションとかも好きじゃなくて……平気なのは観覧車くらいで……」

『そういう人、たまにいるよな』

「雰囲気は嫌いじゃないんです。友達とかが楽しんでるのを見てるだけでも楽しくなるので。でも、理一郎さんと行くなら……」

『水族館のほうがいい?』

 少し低くなった声が笑いを含んで艶っぽく聞こえる。

「は、い」

『俺も水族館は好きだよ。なんとなく落ち着くしさ。遊園地に行くなら子ども連れのほうがいいよな』

「そっ、そうですね!」

 お風呂に入って温まっていた体がさらに熱くなった。

 何を言うのだこの人は。

 子どもって誰の子だ。誰の!

 いやいやいやいや、妙な勘繰りをしてはいけない。

 きっと一般論。

 一般論だから!

 桜子は相手に見えないからとブンブン頭を振った。

『じゃあ、今度の日曜日は水族館に行こう。また九時に迎えに行くから』

「はい、わかりました。あの、理一郎さん」

『何?』

「私はいいんですけど、理一郎さんは大丈夫なんですか? 日曜日に他に用事とかは……」

『ああ、俺のほうは大丈夫。会社は土日が休みだから土曜日に用事を済ませてるし。桜子さんこそ、俺に合わせなくていいから、用事があるなら遠慮なく言っていいよ。たぶん、俺のほうが休みに余裕があるから合わせやすいと思う』

「すみません。いろいろと……」

『そういうことは言わなくていいんだよ』

 怒った口調ではなく柔らかな言い方にますます申し訳なくなる。

『俺のほうこそごめん。桜子さんて日曜日しか休みがないだろ? それなのに連れまわしたら疲れが抜けないんじゃないかと思うんだけど』

「えっ、大丈夫です!」

 電話で喋っているというのに、手を顔の前で振った。

「休みの日に家にいるとだらけちゃって、月曜日に仕事だと思うと体がだるいこともあるんです。今日はむしろリラックスできて楽しかったです」

『それならよかった。もう遅い時間だからこの辺で、おやすみ』

「おやすみなさい」

 電話を切った桜子は充電器に差し込むと布団の中にもぐりこんで目を閉じる。

 思い返すのは今日のデートのことばかり。

 理一郎のことをほんの一部だが知ることができた。

 見かけによらず甘いものが好きだったりする。三時のお茶にとショッピングモール内のカフェに入ったときに、桜子と同じくケーキを一緒に頼んだのには驚いた。

 あと、背が高いだけに足も大きくて、靴のサイズが二十八センチと聞いたときには思わず彼の足をまじまじと見てしまった。二十三センチの桜子の靴なんて、隣に並べたら子どもの靴みたいだった。

 他にもいろんなことを思い出す。

 なんだか妙に浮かれているなあと自分でも思う。

 そんなことばかり考えていたので、晴彦のことなんてすっかり頭の中から消え去っていた。

 

 

読んでいただきまして、ありがとうございます。

しばらくは更新ペースが早いです。

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