第五話 手さぐり
山もなければ谷もなく、波乱万丈なストーリーではありません。
ハラハラドキドキなお話をお求めの方にはおすすめできません。
映画館を出てきたところで理一郎は腕時計で時刻を確認した。
「昼すぎたな……。腹も減ったし、どこかで食べようか」
「はい」
上映開始時刻から考えて映画を見終わるのはお昼をまわるだろうと思っていたので、朝ごはんはしっかり食べてきたつもりだったがエンディングのテロップが流れ始めたころにお腹が鳴りそうになって焦った。
いまも鳴り出しそうなのだが、必死にお腹に力を入れている。
力を緩めたら派手な音を立てて鳴りそうだ。
絶対駄目。
この人の前でお腹が鳴るなんて絶対に駄目だ。
「この時間だとどこもいっぱいだよな」
レストラン街もフードコートも人がいっぱいだ。
「和洋中、何が食べたい?」
「あ、えっと……」
桜子は迷ったがはっきり言うことにした。
「お腹すいちゃったのでなるべく早く食べれそうなところにしませんか? 理一郎さんがそれでよければ、なんですけど」
「俺も同意見。早い時間で席がまだ空いてるって状態なら吟味するけど、どの店も人が多そうだしな」
結局、和食のレストランが早く座れそうだったので、そこで並んで待つことにする。
次に呼ばれるだろうというところで理一郎がふと口を開いた。
「君と休みが合ってよかった」
「え?」
「いまどき変わってるよな。日曜日に休むスーパーなんてあまり見ないけど」
「私もそう思うんですけど、おと……父がうちで働くパートさんは主婦の方がほとんどだから、子どもさんや旦那さんが休みの日曜日には休んだほうがいいって言うんです。開店当初からだから、お客さんもそれが当たり前だと思ってるので、今さら日曜日に店を開けられないですよ」
「へえ、そうなのか」
そのうちにようやく席が空いたので案内される。
お互いに注文し終えるとお腹が空いているためか、自然と食べ物の話になる。
「桜子さんは好き嫌いとかある?」
「私は……どうしても食べられないっていうのは梅干しです」
「梅干し?」
「はい。ちょっとだけなら平気なんですけど、丸ごと食べろって言われても無理です。お弁当とかに入ってる小梅もダメなので。……理一郎さんは?」
「俺は特にダメっていうのはないな……出されればとりあえず食べるから。ただ、食べ物……というよりは、酒が苦手だな」
意外なことを聞いた。
外見で判断してはいけないと思うのだが、なんとなくお酒に強そうなイメージがある。
「まったく飲めないってことはないんだけど、遺伝的に酒に弱いんだろうな。親父も好き好んで飲まないみたいだし、弟は一滴も飲めないらしいんだ。去年のバレンタインデーに、親父が女性社員からもらった洋酒入りのチョコを間違えて食べてぶっ倒れたから」
「そうなんですか」
桜子もあまり酒は飲まないのだが、弱いというわけではない。友人たちと飲みに行くことだってある。
しかし、会社の営業マンだったら付き合いで飲まないといけないこともあるのではないだろうか。
「会社の飲み会とか接待は大丈夫なんですか?」
新年会や忘年会などはどうしているのだろう?
酒を飲まなかったら顰蹙をかったりしないのだろうか。
「飲みに付き合わないわけにはいかないけどね。最近は飲酒運転に厳しいこともあるから無理に勧められることはないよ。運転手代わりにはされるけど」
「ああ、帰りは送っていくんですね」
「そう。でも飲みに誘われないよりはいいよ。付き合いは大事だし」
「でも、なんだか意外です」
「何が?」
注文していた料理が運ばれてきて箸を手に取る。
先日のお見合いの席でも思ったが、理一郎の箸の持ち方は綺麗だ。食事の仕方にも育ちの良さが出ている。
「なんとなくですけど、理一郎さんはお酒に強そうに見えます」
「そう見える? 桜子さんさ、俺のことどんな風に見えてるの?」
「え、えーと、そうですね。会社を出たら高級そうなバーに行ってウィスキーをロックで飲んでそうなイメージが……」
「それはないだろ」
理一郎は肩を震わせて笑う。
どうもひどくウケたらしい。ひとしきり笑うと食事と一緒に運ばれてきたお茶をすすった。
「俺はそんなに寄り道したりしないよ。残業で遅くなるっていうのもあるけど、付き合いで飲みに行かないかぎりはまっすぐ家に帰ってます。お袋の作った晩飯食べてるよ」
「あ、そ、そうですか」
実に普通の生活だ。
彼を見るのに妙なフィルターがかかっているみたいだ。
「桜子さんは?」
「え?」
「お店のパートさんたちだと難しいかもしれないけど、友達と飲みに行ったりする?」
「時々、高校や短大の友達と予定を合わせて行ったりはします。ほとんど金曜か土曜の夜ですけど」
そういえばこのところ慌しかったせいか親しい友人たちと連絡をとっていない。
お見合いをしたこととか、理一郎と付き合い始めたこととか報告したい人もいるのに。
「お待たせしましたー……あ?」
アフターコーヒーとデザートを持ってきた店員が間延びした妙な声をあげたので思わず顔を上げると、桜子も同じく声をあげた。
レストランの制服を着た若い女性は桜子の見知った顔だったのだ。
「さっちゃん?」
「しずちゃん?」
同時に声をあげ、「えー、何してるの!?」とまた同じ言葉を言った。
「何って見てのとおり、アルバイトよ。さっちゃんのほうは……ふーん、そういうこと」
彼女は桜子の向かい側に座った理一郎を見て得心したように頷いた。
「これはその……あ、理一郎さん、彼女は私の高校の同級生で作本静香さんです。しずちゃん、こちらの方は瀬川理一郎さんです」
お互いに挨拶を交わしてから静香は「で?」と訊いた。
「で、さっちゃんはこちらの瀬川さんと何してるの?」
「何って映画を見に……」
「そうじゃなくってぇ~っ! ……と、ここで話してるわけにはいかないんだった! 夜、電話するからね!」
静香は同じバイト仲間の店員に注意され、慌ててテーブルから離れていった。
それを見送ると理一郎が怪訝そうな顔で訊ねた。
「彼女はこの辺に住んでるの?」
「え、ええ、そうなんです。実家は高校のすぐ近くだったんですけど、大学がこちらにあるので通うのは大変だからと一人暮らしをしてるんです。でもまさかここでアルバイトしてるなんて知りませんでした」
彼女は高校以来の親友で、大学に進学してからは会う回数は減っていたけれど、なんでも話していた仲だ。
見合いのことも話したかったのに、連絡しそびれていたのだ。
バイトで忙しいとはメールで知っていたのだが、働いている場所までは知らなかった。
店を出るときにもう一度店内の静香の様子を窺うと彼女はこちらに気づいて小さく手を振った。
それに応えて店を出ると財布を取り出した。
「あの、私の分……」
「だからいいって」
映画のチケット代のときのこともあったので、店を出てからにしようと思ったのだが理一郎は再び桜子の手を止めた。
「さっきも言っただろ。俺が誘ったんだし、気にしなくていいよ」
「はい。ありがとうございます」
それでも礼は言わねばなるまい。
桜子の言葉に理一郎は軽く頷くと腕時計を見た。
「まだ十分時間があるな。この中を見て回ろうか」
「はい」
実はかなり興味があったのだ。
ショッピングモール内にはたくさんのテナントが入っている。
高級ブランド商品を扱っている店もあるようだが、興味がないのでそちらを見るつもりはない。それでも十分見て回れるだけの数の多さだ。
「どこを見たい? それとも順番に見ていこうか」
「理一郎さんの見たいところでいいです」
「俺を立ててくれるのか、それとも遠慮してるのかわからないけど、言いたいことは言ったほうがいいよ」
思っていたこと両方を指摘されて桜子は口ごもった。
「桜子さんは、もっとはっきりモノを言う人かと思ったけどな」
ため息混じりに言われて少々傷ついた。
初対面ではないにしても、会って数回の人に言いたい放題やりたい放題なんてできるわけがない。
どこまで遠慮すべきなのか距離を測りかねているというのに。
もう帰りたい。でも帰りたくない。
顔を上げていられなくて微かに俯く。
通路の端に立ち止まっているというのに、誰も気に留めていないように通り過ぎる。
周囲のざわめきが妙に遠くに聞こえる。
「ごめん」
謝ろうと思っていると、理一郎の口からその言葉が出てきた。
「車の中でのこと思い出した。ほとんど初対面って言ってもいいのに、遠慮なく言えって言っても簡単にはできないよな」
「いえ、私のほうこそごめんなさい」
理一郎はわざわざ自分に訊いてくれたのだから、ちゃんと答えればよかったのだ。
「順番に見てまわってもいいですか?」
ここに来たときに思いついたように、理一郎の欲しがりそうなものをリサーチするにはちょうどいい。
それに自分も夏用のバッグが欲しかったところだ。
これから理一郎と頻繁に会うようなことがあれば、バッグや靴ももう少し買っておいたほうがいいだろう。
(とりあえず、下着関係だけはパスしよう)
女性の下着専門店にカップルで入っている人たちもいるが、自分には絶対にできそうもない。
というか、そんなところにいる理一郎を見たくないと思うのだった。
下着売り場は別としてもレディース専門の店に入るのを嫌がる男性もいるが、理一郎はすんなりと店内にもついてきた。
しかしこの外見だ。店に入っただけで女性客や店員の視線を集めてしまう。
そばにいる自分までもが注目を浴びてしまって、なんとなくそわそわしてしてきた。
「それ買うの?」
「え? あ、いえ」
なんとなく手に持ってしまっていたチュニックを慌てて戻す。
「桜子さんにはこの色よりはこっちのほうがいいと思うけど」
手に取るまではしないが、理一郎は桜子が持っていたチュニックと同じデザインの色違いを指した。
「え、あ、そうですね……」
そう答えはしたが、たまたま手にしただけのもので欲しいとは思わなかった。
「えっと、じゃあ……」
桜子は別のデザインのチュニックの色違いを両手にとった。
「これとこれだと、どっちの色がいいと思います?」
「桜子さんならこっちだな」
理一郎が指したのは桜子が気に入ったものと同じ色のものだった。
念のために鏡の前で服を合わせてみる。サイズも合っているようだし、値段も手ごろだ。
(これ、買っちゃおうかな)
選んでもらったというのも嬉しかったが、もしもまた今日のように出かけることがあるのなら服が欲しい。
もちろん毎回新しいものを着るわけにはいかないので、着まわしのできるデザインがあればいい。
「じゃあ、これ買ってきます」
「ん、わかった。じゃあ外で待ってるから」
「あ、はい」
店の外へと出て行く背中を見送って、ホッと一息つく。
この服まで買うと言われたらどうしようかと思っていたのだが、どうやらお金を出してくれるのはチケット代や食事代くらいのようだ。
桜子とて個人の買い物にまで財布を出されたくはない。
結婚しているのなら話は別だが。
(違う違う。そうじゃなくて)
微かに頬が熱くなりかけて深呼吸する。
支払いを終えて店を出ると柱に寄りかかって待っていた理一郎が身を起こす。
その姿すら様になっていて、そのままメンズ雑誌のモデルができそうだ。
彼は本当に気づいていないのだろうか。
周囲の女性たちの視線を集めていることに。
「じゃあ他を見てみようか」
そう言いながら桜子が持っていた店のロゴ入りの手提げ袋をさりげなく手にとった。
「あ」
チュニックが一着入っているだけなので重たくもない。
それなのに有無を言わさない自然な流れで持ってくれた。
「ありがとうございます」
変に意固地になって自分で持つなどと言わないほうがいい。
理一郎は穏やかに微笑むと桜子を促して歩き出した。
デートというのはこんな感じだっただろうか。
何気ないフリを装っているが、本当は今朝からドキドキしっぱなしだ。
最初は緊張からだと思っていたが、途中からはそうではなかった。
「ごめん。ちょっといい?」
「え?」
理一郎が指差したのは時計店だった。
男性用の腕時計を眺めはじめた理一郎に訊いてみる。
「新しいのを買われるんですか?」
「どうしようかと思ってさ」
そう言って自分の腕に嵌めている腕時計を桜子に見せた。
「これ、大学入学のときに叔父さんにお祝いで買ってもらったんだけど、けっこうな値段のするものなんだよ」
「そうなんですか?」
桜子のものよりずっと太い手首につけられた時計はとても高そうというのだけはわかる。
「うちの会社でもそうなんだけど、出先なんかでちょっと時計に詳しい人に見られると『なんでこんな若造が』って顔で見られるんだよな。くれた叔父さんには悪いけど、プライベートならともかく、仕事用には少なくとも入社二年目の平社員が持っててもおかしくないものにしようかと思うんだ」
よくよく見てみると文字盤のところにブランド名が入っている。
それを見た瞬間、心の中で悲鳴をあげた。
安いものでも桜子の給料数か月分をつぎこまねばならないようなブランド品だ。
確かにこんなものを普段身につけていたら、厭味の一つも言いたくなるかもしれない。
「使い勝手はすごくいいんだ。さすがに高級ブランドだけはある。だけど仕事には不向きかもしれないから」
「そうかもしれませんね」
桜子はそれならばどのくらいの価格帯のものがいいのだろうかとショーケースを覗き込んだ。
しかしそこは理一郎がつけている時計とは別のブランドものだったが、値段はそう変わらないものだ。
「高いっ」
思わずそう呟いてしまったが、それが聞こえたのか理一郎は声を抑えて笑い出した。
「そこら辺のものは買う気しないな。向こうのほうを見てみようか」
さりげなく、そっと背中に手のひらが添えられて歩き出す。
その手はすぐに離れてしまったが、高鳴った鼓動はすぐにはおさまらなかった。
「ただいまー」
日没から約二時間後に桜子は帰宅した。
「おかえりなさい。晩御飯はどうする?」
「食べてきたからいい。お母さんが夕飯くらい食べてきたらって言ったんじゃないの」
晩御飯はショッピングモールではなく、帰路の道中にあるイタリアンレストランで食べた。
理一郎が気に入っている店らしく、いつもは仕事で外回りのときにランチを食べているという。
「理一郎さんは車の運転してたんでしょう? お酒が飲めなくて残念ね」
「そうでもないみたい。理一郎さんね、お酒に弱いらしくてあまり飲まないんだって」
「あらまあ、そうなの?」
自分は夕飯を食べてきたからいらないが、それでも家族の会話につきあうためにダイニングテーブルにつく。
「じゃあうちにきたらあまり勧めないほうがいいかなあ」
陽介はわりと酒に強いほうだ。かなりの量を飲むのだが、へべれけに酔っ払ったところを見たことがない。
「お父さんにつき合わせたら誰だって付き合いきれないわよ」
唇を尖らせて桜子は言った。理一郎のことだから付き合いで飲むかもしれないが、父の酒量に合わせたらきっと倒れてしまうだろう。
付き合いといえばと百合子が内緒話をするかのように声をひそめた。
「そういえばね、お昼にハルちゃんがきたのよ」
「ハル?」
「ハル兄だよ。藤代の」
桜子の隣で修吾がブスッとした顔で言った。
「帰ってきたんですってよ」
「え……」
桜子は目を見開いた。