第三話 交際開始
山もなく谷もなく、波乱万丈なストーリーではありません。
ハラハラドキドキなストーリーをお求めの方にはおすすめできません。
理一郎サイドの話と時間が多少前後しますのでご了承ください。
嘘でしょう!?
このまま池に身を投げたら目が覚めはしないだろうか。
桜子はクラクラしながらもなんとか足をふんばった。
「あの雨の日」
突然理一郎が話し始めたので、桜子の意識は現実に引き戻される。
「本当は俺のほうこそ、この話をなかったことにしてもらおうと思って店に行ったんだ。君に話が通っていたら傷つけてしまうかもしれないけど、それはそれで仕方ないと思ってね」
桜子はどういうことかと眉をひそめた。
「さっきも言ったと思うけど、いくらじいさんから言われたからって結婚する気はなかったからね。じいさんも無理にとは言わないって言うし、だったら君に知られないうちに断ったほうがいいだろうと思ったんだ。もちろん、お金の返済に関してもきちんと対応させてもらうつもりでね。でも、店に行ったら君がいた」
「わ、たし?」
「君が桜子さんだとわかったら気が変わった。このまま話を進めてしまおうと思ったんだ」
それはどういう意味だろうか。訊きたいのに訊けない。
理一郎は桜子に手を差し出した。
指の長い大きな手。
「だから、結婚を前提としてお付き合いするということを考えてもらえますか。もちろん、どうしても俺を受け入れがたいというのであれば、その時はハッキリ断ってもらっていいですよ」
「え、は……」
桜子は差し出された手と理一郎の顔を交互に見た。
いいのだろうか。この手を取ってしまっても。
でも、そうしたら最後まで行き着いてしまいそうで恐い。
少し躊躇っていると理一郎がさらに言った。
「もしかして、付き合ってる人がいる?」
ブンブンブンと首を横に振った。
結い上げている髪に差した飾りが音をたてる。
「……それとも、俺みたいなのじゃダメかな」
「とんでもないっ!」
これほどの極上の相手はそうはいないだろう。
長身の美男子というだけでなく、それなりにお金持ちで性格も良さそうなんて、何拍子揃っていると言えるのか。
自分のほうが申し訳なくて気後れしているだけなのに。
差し出された手をとれないでいると、向こうから手を伸ばしてきた。
初めて触れてきた手はとても大きくて、ほんのりと温かかった。
「じゃあ、付き合う?」
「は……………はい」
桜子は頷いた。
断る理由がまるで見当たらないのだ。
違う。
そうではない。
心のどこかで断りたくないと思っていたからだ。
もうすでに彼を好きになりかけている自分がいる。
だからちょっとだけ勇気を出してみよう。
こんなに素敵な人と結婚を前提に付き合えるなんて、一生に一度あるかどうかもわからない。
もしかしたら、こんなはずじゃなかったとこちらが振られることになるかもしれないが、それはそのときだ。
心の準備だけは忘れずにしておけばいい。
そうすればきっとそんなに傷つかなくても済む。
「それじゃ、俺と君の両親に報告に戻ろうか」
「あ、はい」
和やかに談笑していたらしい両家の親たちに理一郎が付き合うことを報告すると、瀧沢家の両親は意外そうな顔をして桜子を見た。
断ると言っていた手前、なんとなくあわせる顔がなくてかすかに俯く。
「そうか、それはよかった。親父も喜ぶだろう」
恭一郎が親父というからには、理一郎の祖父ということだろう。
「桜子さん、今度うちにも遊びに来てくださいね」
志保も嬉しそうに桜子に言った。
「は、はい。お邪魔します」
両家公認の付き合いということはお互いの家に行くというのも当然の如くついてくる。
「それじゃ今日はこの辺でお開きということにしましょう。申し訳ないのですが、これから予定がありまして」
それは恭一郎のみの予定のようだが、桜子たちは恐縮したように頭を下げた。
「いえ、とんでもありません。今日はわざわざお時間いただきましてありがとうございます」
「うちの車で送らせましょう」
ホテルのロビーを抜けて表へ出ると、見計らっていたように黒塗りの高級車が目の前に止まった。
運転席にいたスーツの男性が降りてきて後部座席のドアを開ける。
「どうぞ、お宅までお送りしますよ。佐々木、頼んだぞ」
「はい、社長」
恭一郎の車は運転手つきのようだ、陽介は慌てて首を振る。
「と、とんでもない! 瀬川社長は別の予定があるんでしょう? 私たちはタクシーで帰りますから大丈夫です」
「ここからお宅までは距離がありますよ。タクシーだと相当かかるでしょうから、今日のところはうちの車でお帰りください。私は理一郎の車がありますからお気になさらず」
「お父さん」
桜子は後ろから父のスーツの袖を引っ張った。
あまり固辞すると逆に不快感を与えてしまうかもしれない。
「そ、それじゃご厚意に甘えまして」
桜子たちが乗り込むと理一郎たちに見送られて車は滑らかに動き出した。
さすがに高級車なだけに乗り心地がいい。
家の住所も道順も教えていないのに、車は何の問題もなくマートタキザワの前に停まった。
降りようとすると、佐々木のほうがすばやくドアに回って外から開けた。
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
「お世話になりました。瀬川社長によろしくお伝えください」
「はい、それでは失礼いたします」
佐々木は無駄なことは一切喋らずそのまま車を発進させて走り去った。
「すごいわね。うちの場所まで把握済みだったのね」
「うん」
最初から送り届けるつもりで準備していたのだろう。
ひとしきり感心してから二階の自宅へと戻る。
着替え終わった桜子はセットされていた髪も洗って元通りにおろした。
晩御飯までは少し時間がある。
自室のベッドに腰掛けて先日手渡されていた紙を手に取る。
どうせ断るのだからと目を通していなかったので、いまさらだが確認のために見ておかねばと思った。
ちゃんとした釣書きではなかったが、父が理一郎から聞いていた彼の経歴や瀬川家について書き出したものだ。
理一郎は桜子の二歳年上で、昨年大学を卒業したばかり。新卒で父親が社長を務める会社に入社し、今は営業部に所属している。
「きっと早く出世するんだろうなあ」
大学では経営学を学んでいたようだ。
しかし驚いたのは瀬川家についてだった。
理一郎が卒業したK大学の創始者の家だというのだ。代々瀬川宗家が理事職を継いでいるらしく、現理事長は理一郎の祖父であり、セガワ商事会長の瀬川光一郎だという。
次期社長というだけでなく瀬川宗家の家長となる生粋のお坊ちゃまなのだとわかって、付き合いを承諾してよかったのだろうかと思ってしまった。
初めて会った日から思っていた。
どうして? という気持ち。
今日のお見合いで理一郎と話していても気になっていたこと。
結婚を前提としたお付き合いをするということは、もしかすると結婚するかもしれないということ。
結婚を考えるということは、つまり、理一郎は桜子のことが好きということで……
「まさかっ! ないないないないっ!」
顔を合わせたのは二回だけ。
それだけで好きだなんて思わないだろう。
とりあえず付き合ってみようという程度の気持ちなのではないか。
「モテそうだもんね。女の子との付き合いなんて慣れてるのよ、きっと」
つい口から出た言葉に自分でショックを受けてベッドに突っ伏す。
ますます気が滅入った。
でも、心の準備さえしておけば、きっと辛くない。
本人だけでなく、彼の両親も誠実で優しそうだった。この話が破談になったとしても、借りたお金については理不尽な要求をされないだろう。
そこまで考え、うつぶせになったまま自嘲の笑みを浮かべた。
「結局はお金、か」
本当はそんなこと考えたくないのに。
彼はどう思うだろうか。
こんなこと絶対に口にはできないのだけれど。
「さっちゃん、晩御飯よ~」
母の呼ぶ声に返事をして立ち上がる。
正直、食欲はあまりなかったが両親を心配させるわけにはいかなかった。
それからお見合いなんてなかったかのように数日が過ぎた。
理一郎からもなんの連絡もない。
お見合いさえしてしまえば用事は終ったということなのだろうか。
あの日、お互いに携帯電話の番号とメールアドレスを交換したというのに、一切連絡を取り合っていない。
携帯電話のアドレスを開いては電話をしてみようか、メールを送ってみようかと考えるのだが、なんの話題もなくて最後には連絡なんてしたら迷惑かもと思ってしまい、躊躇していたのだ。
その日の夜のことだった。店の閉店時間の午後七時になって後片づけをしていたら、ジーンズのポケットに入れていた携帯電話が鳴った。
ディスプレイを見ると「瀬川理一郎」という名前に心臓が大きな音を立てた。
「も、もしもし」
上ずった声になってしまい、一人恥じて顔が赤くなる。
『桜子さん? こんばんは』
「こ、こんばんは」
『ごめん、今よかったかな?』
「え、ええ」
チラリと店内にいた父親を見ると、事情を察して軽く頷いてくれたので裏口から店の外に出た。
五月半ばともなるとずいぶんと温かくなってきたので外に出てもそれほど寒く感じない。
『もっと早くに連絡したかったんだけど、このところ残業して遅くなってたから、あまり遅い時間に電話すると迷惑かと思って』
「あ、いえ、私のほうこそごめんなさい。何の連絡もしなくて」
『いや、それはいいんだけど』
「メールでもよかったのに……」
『うん。でも、せっかく初めて連絡するなら君の声を聞いたほうがいいから』
「っ」
何を言うのだこの人は。
本気で言ってるのか。
天然? 天然なの?
顔が熱くなるのがわかる。
「あ、あのっ、それでご用件は」
まるで仕事の話でもするかのような口調になってしまった。
慌てて言い繕おうとしたのだが、理一郎は気にした様子もなく話を続けた。
『今度の日曜日に映画でも観に行かない?』
「映画?」
『遊園地でもいいんだけど、君が行きたいところでいいよ』
「え、映画、行きたいです。あの、ちょうど観たいのがあって……」
『うん、そういうと思った。陽介さんに君はよく映画を観に行ってるって聞いたから』
低く笑う声が聞こえた。
それはすでにリサーチ済みだったということか。
『観たいのって何? 今から予約する』
電話向こうでカチカチと小さな音が聞こえる。
「予約?」
『ネットでチケット予約しとくんだよ。並ぶ面倒なくていいし、観たい席で観れるだろ?』
桜子が映画のタイトルを告げると、「あ、それ俺も観たかったやつだ」と言われた。
『映画館はこっちで勝手に決めさせてもらったけど、よかった?』
「あ、はい。おまかせします」
『じゃあ、日曜日十時二十分開場のやつにしておくから、九時には迎えに行くよ』
「九時!?」
ずいぶんと早い時間ではないか。並ぶ必要がないというのなら早く出かける必要がないのでは。
『ちょっと遠出するから時間かかるんだ』
「わかりました。あの、私はどこで待ってれば……」
『ああ、俺がそっちまで迎えに行くから、家にいて』
「え? いえ、場所を指定していただければ、そこでお待ちします」
『いいよ。車で行くんだから、どこで待ってようと同じ』
「そ、そうですか」
迎えに来てもらうなんて申し訳ないと思っていたのだが、理一郎がそういうのなら素直に言うことをきいておいたほうがいいのだろう。
すると、理一郎がまるで心を読んだかのように言った。
『あのさ、俺がやりたくてやってるんだから気にしなくていいんだよ。それと、あんまり硬くならなくていいから』
「は、はあ」
そうは言われてもいきなり男女交際をしろというのは無理だ。
ましてや相手のことをほとんど知らないのだから。
少しずつ慣れていくしかないのだろうなと思っていると、冷たい風が吹いてブルッと震えた。
「ックシュンッ!」
『え、君、今どこにいるの』
「店の外です。片づけをしていたところで……」
『ごめん』
理一郎は焦ったように言った。
『もう切るから早く中に入って温まって。まだ外は寒いんじゃないの?』
「大丈夫です。もうずいぶんと温かいですから」
『うん、わかってるけど、今風邪をひかれて日曜日にデートできなくなったら困るだろ』
「で、デートッ!?」
柔らかな声が笑った。
『じゃあ、今日はこれで』
「あのっ」
『ん?』
「わ、私、夜は十一時くらいまでは起きてますから!」
もう少し遅い時間でも大丈夫。
そう言いたいのが伝わっただろうか。
『うん、俺もそのくらいまでは起きてる』
笑いを含んだその声はひどく甘く聞こえた。
『それじゃ、おやすみ』
「お、おやすみなさい」
電話を切るとホッと一息つく。
うー、心臓に悪いっ。
いままで気がつかなかったけれど、声までいいのだ。
この前の見合いのときよりも格段に甘くなっているような気がする。
意図しているのか、そうでないのか判別しかねる。
もしくは電話だからそう聞こえるのか。
ここで突っ立ったままで考えていてもしょうがない。
いまはまだ仕事中だ。
早く店内を片づけてしまわなければ。
そしてもう一つ問題が残っている。
自室のクローゼットの中のチェックだ。