第十九話 祖母への報告
山もなければ谷もなく、波乱万丈なストーリーではありません。
ハラハラドキドキをお求めの方にはおすすめできません。
九月の最初の土曜日。
まだまだ暑い日が続いているが、それでも着実に秋が近づいているのか、日が暮れるのが早くなってきた。
その日の夕方、仕事を早退した桜子は自室でそわそわと落ち着かないでいた。
姿見を見ては何度も服装を確かめる。
華美ではないが、ちょっとだけよそいきを意識したノースリーブのワンピースにボレロを羽織る。首元は理一郎からプレゼントされたペンダントが飾っている。
玄関のチャイムが鳴って、急いで玄関に走った。
いつもなら母に叱られるところだが、今は店にいる。
玄関のドアを開けるとスーツ姿の理一郎がいた。
見合いのときとはまた違った三つ揃いのスーツで、仕事用とは違うようだ。
涼しげな微笑みを浮かべて、あんなに着込んでて暑くないのかと思ったが、夏用なのだろう。
理一郎は桜子を上から下まで眺めて満足そうに頷いた。
「すぐに出られる?」
「はい」
理一郎はお泊りグッズの入った桜子のバッグを受け取ると玄関を出た。
店の裏口から事務所に入り、母に出かけることを知らせる。
「あら、さっちゃん、もう行くの?」
「うん、それじゃ、行ってきます」
「理一郎さんや瀬川さんたちにご迷惑はかけないのよ?」
「わかってます」
「理一郎さん、よろしくお願いしますね」
「もちろんです」
夕方の忙しい時間帯なので、店の店員たちは桜子たちが車に乗って出かけようとしていることにも気づいていない。
一安心、と息をついたところで理一郎が車を発進させた。
今日は理一郎に夕食を誘われた。
ホテルのレストランで食事をしたい。
その後はうちへ泊まりに来ないかと言われたのだ。
それを聞いてドキリとした。
ホテル、そしてレストラン。
このキーワードから、もしかして、という期待が湧き上がる。
ドレスコードはないけれど、それなりの格好をしてきてくれと言われ、わざわざワンピースまで買いに走った。
理一郎の服装を見れば、期待が確信へと変わる。
鼓動がどんどん早くなっていく。
そのうちに自分の心臓は口から飛び出やしないかと思うほどだった。
連れて来られたホテルは見合いをしたときと同じホテル「ディア・フォレスト」だった。
「今日は上へ行こう」
見合いのときは一階の料亭だったが、今回は最上階のレストランだった。
窓際の一番いい席へと案内される。
個室はないためにパーテーションで区切られているのだが、周りの席と離されているので十分にプライベートは確保されている。
「持つべきものは友人だな」
チラリとそんなことを口にしたので、どうやら杜島に頼んで無理矢理予約をねじ込んだらしいと気づいた。
理一郎がアルコール類を一切口にしなかったので、桜子も遠慮する。
車を運転しなければならないので当たり前だとは思ったのだが、桜子は今日はお酒は飲めないと思った。
酒を飲まなかったおかげで食事は早く終った。
食後のデザートとコーヒーが運ばれてくると理一郎はおもむろに口を開いた。
「桜子」
「はい」
顔を上げると真剣な目がこちらを見ていた。
ドキリとする。
「これを」
理一郎は内ポケットから小さな箱を取り出した。
深紅の天鵝絨の真四角な蓋を開くと、そこには思っていたとおりのものがあった。
「あ……」
「気が早すぎるかもしれない。出逢って、半年も経っていないのに、他の人が聞いたらちゃんと考えたのかって言われそうだけど、これが出来上がってきたら、もう、我慢ができなくて……」
理一郎は居住まいを正すと背筋を伸ばして言った。
「瀧沢桜子さん」
「はいっ」
桜子もつられるように姿勢を正した。
「私と結婚してください」
ストレートな言葉だった。
何の飾りもない。
真っ直ぐな気持ちそのままだった。
だから桜子も返す。
「はい」
それだけで十分な答えになる。
わかっていたのだろうに、理一郎はそれでもホッとしたような表情になった。
ケースから指輪を取り出す。
「手を」
そろり、と左手を差し出した。
緊張で手が震えている。
ゆっくりと指輪をはめ込まれると手を近づけてとくとくと見た。
「かわいい……」
中央のダイヤモンドはごくシンプルなものだが、そのダイヤを留めるツメが花びらの形になっており、その横に小さなピンクダイヤが花のように形作っている。流れるような曲線を描くアームはごくごく細く、桜子の指にしっくりとなじんだ。
「そのピンクダイヤは桜の花のイメージなんだって」
「すごい、葵さん」
シンプルなのに可愛くて、まさに桜子が好むデザインだった。
「うん、俺のイメージにぴったりだった」
「あの、マリッジリングのほうは?」
こうなるとそっちのほうも気になってくる。
しかし理一郎は意味ありげに微笑むだけだ。
「籍を入れて、正式な夫婦になってからのお楽しみ」
ずるい、と唇を尖らせた。理一郎だけが見ているなんて。
そういうと理一郎は困ったように笑った。
「だって、桜子に見せたら、すぐに嵌めたくなるかもしれないから」
ここに、とエンゲージリングが嵌っている部分を撫でた。
そろそろ行こう、と促されて席を立つ。
エレベーターに乗るとすぐ下の階のボタンを押したので首を傾げる。
「理一郎さん?」
どこに行くのかと思ったら、エレベーターを降りると腰を抱き寄せられた。
「今日はここに泊まるから」
「えっ!?」
てっきり瀬川邸に泊まるのだと思っていた。
「あ、でも私のバッグ……」
このホテルにきたときにフロントに預けていたはずだ。
あの中に着替えの服や、洗面道具にメイク道具も入っている。
「もう部屋に届けてもらってる。それに、アメニティグッズも充実してるってさ」
カードキーを通してドアを開けたそこは、桜子がいままで見たこともない部屋だった。
「うわあ」
思わず感嘆の声をあげる。
「すごい」
としか言いようのない部屋だった。
少なくとも、桜子はこんな部屋に泊まったことはない。
まるでヨーロッパのどこかの屋敷の一室のようだ。
ソファやテーブルなどの家具はクラシックなデザインで、部屋にもしっくりとなじんでいる。
ふかふかと足が沈み込んでしまいそうな絨緞の上を歩いて窓辺に近づく。
上の階のレストランよりも一階下だが、それでも十分に綺麗な夜景が見えた。
「理一郎さん、ここって」
「うん、エグゼグティブ・スィートってやつ? このホテルの中では三番目くらいにいい部屋かな。一番いい部屋はここよりも眺めのいいところにあるらしい」
「た……高かったんじゃ……」
「だから言っただろ。持つべきものは友人だって」
その言葉だけで納得した。
予約をねじ込んだだけではなく、宿泊費までまけさせたということか。
「こっちにおいで」
手をひっぱられて室内のドアをくぐると、そこが寝室だった。
「スカイビューってやつらしい。ベッドで横になったまま、外の景色が見れるんだって」
周りに高い建物がないせいか、遠くまで見渡せる。
「桜子」
抱き寄せられるとドキドキしてきた。
「ベタだとは思うけど、今日は二人きりでいたいから」
「うん……」
顎を指先でつままれて上向かせられる。
すぐに柔らかな唇が降りてきた。
少しずつ深くなる口づけに夢中になっていると、大きな手がワンピースの上から撫で回し始めた。
「んっ……理一郎さんっ」
慌てて理一郎の手を押し留める。
「待ったは聞かないけど?」
「あの、お風呂……入らせて」
「……わかった。でも、俺も一緒に入る」
「ええっ!?」
「別に初めてじゃないんだからいいじゃないか」
戸惑う桜子の腕をとって理一郎は室内のもう一つのドアを開けた。
どうやら寝室とバスルームは直結しているらしく、ドアを開けると正面には洗面台があった。
左手はトイレらしい。右側にはシャワーブースまであり、その奥にバスタブが見えた。
「あ、ここってバスタブの外で洗えるんだな」
よく見るとシャワーブースや洗い場がガラスで仕切られている。
念のためなのか、下方は見えないようにすりガラスになっていた。
大きな籐のバスケットが置いてあり、そこにバスタオルやバスローブなどが入っていた。脱いだ服も入れられるということか。
「桜子、見てみろよ。女の子はこういうのが好きじゃないのか?」
洗面台を見ると、カゴにはアメニティグッズがたくさん入っていた。
「わ、すごいっ、ほとんどそろってる!」
クレンジングはもちろんだが、マッサージクリーム、あろうことかネイルケア製品まである。しかもミニボトルに入っているので、残った分はこのまま持ち帰ってもいいということだろう。
自分が普段使っているものとは違うが、あとで一通り試してみようと思っていると、背後で衣擦れの音が聞こえた。
ハッ、と顔をあげると洗面所の鏡越しに理一郎がスーツの上着を脱いでいるのが見えた。
ベストも脱いでネクタイをはずす。
シャツの袖のボタンをはずし始めたところで、ようやく我に返ってうろたえた。
「り、理一郎さんっ」
視線をさまよわせると理一郎はニヤリと笑った。
「俺の体なんて見慣れただろ?」
上半身裸になると、ベルトに手をかけた。
この場を出ていこうにもドアは理一郎の後ろにある。
目を逸らしていると、全裸になった理一郎はバスルームのドアの取っ手に手をかける。
「先に入ってるから準備してから来いよ。……逃げたらお仕置きとして、桜子が恥ずかしがることを思いっきりしてやる。俺は嬉しいことだけど」
お湯が出る音が聞こえはじめると観念してアメニティグッズが入っているカゴに手を伸ばした。
どっちにしたって逃げられない。逃げる気もないけれど。
とりあえず、化粧を落とそう。
すっぴんは何度も見られていたので、いまさらだった。
デジタル音が聞こえた気がして微かに目を開けた。
どうやら朝というよりももっと日が高くなっているようだ。
昨夜、一度もカーテンを閉められなかった窓の外を見ると、雲がほとんどない青空が見える。
それがわかるというのも、桜子は窓のほうを向いて眠っていたからだ。
しかも背後から抱きしめられている。
腕はお腹にまわされているし、足まで絡められている。
持参のパジャマを着ていてよかった。
自分を抱きしめている人物はかろうじて下着を身につけているだけだ。
「ん……」
低くかすれた声が頭上から聞こえた。
小さく身じろぎした理一郎は大きく吐息をつくと桜子を抱きしめなおす。
そのままもう一度寝入るのかと思ったら、もぞもぞと手が動き始めた。
「ひ」
パジャマの裾から侵入した温かな手は、邪魔とばかりに布をめくりあげる。
その手は腹部を撫で回していたかと思うと、スススッと胸の膨らみに移動した。
「やっ……理一郎さんっ」
「んー?」
その生返事に桜子は覚醒した。
起きてる、この人!
胸を揉み続けるその手を無理矢理はずし、強引に姿勢を変えて理一郎に向き直った。
「おはよう」
ちゅうっ、と音がするような口づけをされ、一瞬ぽうっとなりかけたが慌てて厳しい顔をする。
「朝からなにするのっ」
「なにって……朝だから、ナニかな?」
「何言ってるのっ。というか、朝って時間じゃ……」
「朝だろ、まだ九時だ。ここのチェックアウトは二時だから十分時間がある」
だからなんだと思ったら、組み敷かれた。
太腿のあたりに熱くて固いものが当たる。
「え」
身を震わせると、「わかった?」と爽やかな朝に似合わぬ艶やかな笑みを向けられた。
ホテルを出たのはチェックアウトの時間ギリギリだった。
朝食だか昼食だかわからない食事を終えてから出たのだが、桜子はぼんやりとしていた。
「桜子、眠ってていいぞ」
「だいじょうぶ」
眠気のために呂律がうまくまわっていない。理一郎は苦笑した。
「着くまで少しかかるから、ちょっとでも眠っておいたほうがいいぞ」
何故元気なのだ。
そして自分が眠気と闘っているのは誰のせいだ。
理一郎はすこぶる快調とでもいうようにハンドルを握っている。
ともすれば落ちてきそうな瞼を必死に開けるが、車の微かな振動が心地よくていつの間にか意識を手離した。
気がついたのは理一郎に揺り起こされたときだ。
「桜子、着いたぞ」
眠気を覚ますために何度か瞬きを繰り返していると、しばらく見ていなかった日本家屋が視界に入った。
あまり広くはないが、庭先を車が三台ほど停められる駐車場に作り変えた家は桜子の祖父母の家だった。
元々は一緒に住んでいたのだが、大介が引退して息子に店を譲り渡したときに土地を購入して家を建て、こちらに引っ越したのだった。
というのも、祖母の佳美は書道の師範の資格を持っており、趣味の一環で書道教室を開いているからだ。
以前は週に一回、近所の公民館を借りて書道を教えていたのだが、家を建てた際に一部を書道教室用に造ったので現在はそこで教えているのだった。
今日は祖母が一人で暮らしているこの家に二人のことを報告に来たのだ。
以前から理一郎は佳美に挨拶がしたいと言っていたので、両親への報告よりも早くなってしまったがちょうどいい機会だから婚約の報告を兼ねようと相談して決めた。
車を降りたときに、駐車場に一台停まっていることに気づいた。
今日は書道教室はないと聞いている。
誰かお客でも来ているのだろうかと思いながら玄関に近づくと、横開きの玄関扉がいきなり開いた。
「あら、ごめんなさい」
家の中から出てきた人物に驚いて目を丸くする。
「沙絵子おばさん?」
「まあ、さっちゃん」
相手も驚いたような顔をした。
沙絵子は父方の叔母だ。といっても彼女とは血の繋がりはない。彼女の夫が陽介の弟だからだ。
叔母はかなり仕立てのいいスーツを着ていた。夫の仕事を手伝っているのだから仕事着なのかもしれないが、少し派手ではないだろうか。
この人はこんな格好をする人だっただろうかと記憶を探る。
「あの、お久しぶりです。今日はどうしたんですか? 沙希ちゃんは?」
「たいした用じゃないのよ。ちょっとお義母さんに用があって……それじゃあね……あら?」
沙絵子は桜子の傍にいた理一郎にようやく気づいた。
「さっちゃん、こちらの方は」
「あ、えっと……」
「初めまして、瀬川理一郎といいます。桜子さんとは結婚を前提にお付き合いさせていただいてます。今日はおばあさまにご挨拶にきました」
「あ、あら、そうなの? ちっとも知らなかったわ」
「正式に決まったらお知らせするつもりでした」
「よかったじゃないの、さっちゃんっ。お義兄さんのところもどうなるかと思ってたけど……」
「おばさんっ!」
「あ、ごめんなさい。言わないほうがよかったのかしらね。それじゃあね」
沙絵子は桜子たちと入れ代わるように駐車場から車を出して、そそくさと帰っていった。
「どうしたのかしら……」
桜子の母の百合子とは違い、沙絵子は姑である佳美が一人で住んでいる家にはなかなか寄り付かなかった。もちろん、叔父たちが一緒の時は別だったが。
沙絵子が運転する車が去っていった方向を見ていた桜子は恋人に促される。
「桜子、おばさんのことはとりあえず置いといて、俺たちも」
「あ、はい」
チャイムを鳴らすことなく玄関のドアを開ける。
子どものころからの習慣だ。
「こんにちはー、おばあちゃん!」
桜子が大きな声をかけると、奥から返事があって祖母がいそいそと出てきた。
「まあ、さっちゃん、よく来たわねえ……あら……?」
佳美はにこにこと桜子を出迎えたが、すぐそばにいた理一郎を見て首を傾げ、ポンと手を打った。
「理一くん! まあ~……立派になって! おばあさんのことは覚えてる? 中学生くらいのときに会ったことあるわよね?」
「お久しぶりです。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません」
理一郎は穏やかに微笑んで頭を下げた。
二人は奥座敷に通され、佳美はお茶を出す。
「瑠璃子さんからも連絡いただいてたのよ。あなたたちがとってもいいお付き合いをしているみたいだってね。本当に何があるかわからないものね」
「私は感謝しています。もしもおばあさまがうちを訪ねて来てくださらなかったら、一生、桜子に出会うことはなかったかもしれません」
実はそのお礼も兼ねて来たんです。と理一郎は言った。
佳美は目を丸くしてからころころと笑った。
「あらまあ、じゃあ、私が恋のキューピッドというわけね」
「お、おばあちゃん……」
いまどき恋のキューピッドなんて言葉を使うのだろうか。といっても、祖母は昔の人なので自分ではいいことを言ったと思っているかもしれない。
「はい。それと結婚のご報告もさせてもらおうかと」
「理一郎さんっ」
いきなりそこからの報告かと慌てる桜子に理一郎は苦笑気味に言った。
「ごめん。でもお義父さんたちや、うちの親たちはもう決まってるようなものと思ってるから、おばあさまには早く報せたくて」
理一郎の言うことももっともなことだ。
桜子の家族や瀬川家では、すでに結婚は認められていると思ってもいいだろう。桜子と理一郎が「結婚します」と言えば、すぐに頷いてくれるはずだ。
しかしここで一人離れて暮らしている佳美だけが蚊帳の外ということになってしまう。
そこで理一郎は祖母に真っ先に報告することにしたのだろう。
「それじゃあ、陽介たちや瀬川の家の方たちにはまだ?」
「はい。昨夜プロポーズを受けてもらったばかりなんです」
愛しげに見つめてくる理一郎の視線を受けて、桜子は顔を赤らめた。
「まあっ! おめでとう、さっちゃん!」
「あ……ありがとう、おばあちゃん」
「大介さんにもご報告させていただきたいのですが」
「そうね。ええ、もちろん、教えてあげて」
仏壇が置かれている和室に通されると、二人は手を合わせた。
「うふふ、大介さんたら悔しがってるでしょうねえ」
「どういうこと? おばあちゃん」
「さっちゃんのことを一番可愛がっていたから、こんなに早くお嫁に行くなんて、思ってもいなかったでしょうよ。ある意味、陽介よりも手ごわかったかもね」
「そ、そうでしたか」
理一郎は苦笑いを浮かべた。
佳美は仏壇を見上げて目を細める。
「でもね、理一くんのことはよく褒めていたのよ」
「え……」
「光一郎さんのお宅に行くたびにあなたに会うでしょう? 挨拶ができて礼儀正しいし、お勉強も頑張っているいい子だって言ってたの。『恭ちゃんも立派になったし、孫の理一くんもいれば瀬川家は安泰だな』ってね。それにね……入院する前だったかしら、こうも言ってたのよ……『光ちゃんのことはもう何も心配いらないな』って、ポツリとね……思えば、あのときにはもうわかってたんじゃないかしら。自分が長くないってことを」
「そう、だったんですか」
「光一郎さんには言わないでね。また泣いてしまうかもしれないから」
「じいちゃんが!?」
思わず普段の呼び方をしてしまった理一郎も知らなかったようだ。
「大介さんが入院していた病院の片隅でね……瑠璃子さんだけがそばにいたのよ。……あっ、これも言っちゃダメよ?」
二人はコクリと頷いた。
神妙な顔つきになった恋人同士を見やった佳美はすぐにクスリと笑う。
「でも、そのあとで『それでも、万が一に桜子を理一くんの嫁にくれと言っても、絶対にやらん!』とも言ってたけど……これも内緒よ、お願いね? でないと、光一郎さんがガッカリするから」
「……」
おじいちゃん、何を言ってたんですか。というか、その万が一の事態になってますけど。
理一郎は苦笑いしながらも頷いた。
元の奥座敷に戻って腰を落ち着けると桜子はここに着いたときのことを思い出した。
「そういえば、ちょうどここに来たときに沙絵子おばさんと会ったんだけど、どうかしたの? おばさんがここに来るなんて珍しいわよね」
祖母と叔母の折り合いが良くないことは気になっていたのだが、一人でここを訪れるということはよほどのことがあったのだろう。
「たいしたことじゃないのよ」
理一郎のことを気にしてだろうか。それ以上は口を開く様子がない。
「何かありましたか? うちで力になれることなら……」
「いいえ」
佳美はきっぱりと言った。
「この件に関しては瀬川さんのお世話になりません。ええ、絶対に。だいたい、自業自得で……」
「おばあちゃん?」
「あ、ああ、ごめんね、さっちゃん。あなたも気にしなくていいのよ。せっかく結婚が決まったんですものね。何かお祝いしないと……」
気分を切り替えるように明るくなった佳美に、桜子も理一郎も何も言えないまま、祖母の家をあとにした。
読んでいただきまして、ありがとうございます。




