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第十六話 静かな夜

山もなければ谷もなく、波乱万丈なストーリーではありません。

ハラハラドキドキをお求めの方にはおすすめできません。

 

 

 

 リビングのオットマン付きの一人用ソファに座り、光一郎は新しく購入してきたという本を読んでいる。

 元々この別荘は仕事を離れてのんびりと過ごすために作られたものなのだという。

 瀬川家の男は皆読書好きらしく、書斎には天井までいっぱいに作りつけられた本棚があり、そこにはそれぞれが持ち込んだ本が並べられているらしい。雑誌に実用書から文芸書、文庫、漫画まであるというのだ。

 暇があったら読んでみるといいと理一郎にも言われたので、あとで見てみようと思った。

 その理一郎はテラスデッキでバーベキューコンロの用意をしている。

「桜子ちゃんのおかげで準備がはかどっていいわねえ」

「マリちゃんがお手伝いしてくれるからですよ」

 瑠璃子も光一郎のそばに座って折り紙を折っている。隣には和佐が座って祖母の手元を見ては一生懸命に真似て折り紙を折っていた。

「ちゃんとお母さんのお手伝いしてるのね」

 麻里子の包丁を持つ手つきは意外としっかりしている。

「お母さんがどこに出ても恥ずかしくないようにっていうの」

 掃除も洗濯のやりかたも教えてもらっているという。

「そうなの。いいことだと思うわ」

 自分も中学生のころから家事をやってきた。だからこそ今役に立っていると思う。

 バーベキュー用の串に野菜や肉をさして準備を終えるとコンロのほうも用意ができたらしい。

 理一郎が声をかけてきた。

「桜子、火が落ち着いてきたからそろそろいいぞ」

「ちょうどこっちも準備ができたところです」

「あ、おれもやるー!」

 和佐もテラスデッキに出てくる。

「火がついてて熱いからな。すぐ近くで暴れたりするんじゃないぞ」

「うんっ」

 桜子から受け取った串を網の上に乗せていくのを和佐は興味深そうに見ている。

 ジュウジュウと焼ける音と匂いが辺りに広がっていく。

 ちょっと見ててくれと理一郎は言い置いて奥へ入っていった。

「さくらちゃん、まだたべれないの?」

 匂いをかいだせいで刺激されたのか、和佐はおなかが空いたと言った。

「もうちょっと焼けるまで待ってね。今食べたらお腹が痛くなっちゃうかもしれないから」

 一緒に作っておいたおにぎりを先に食べさせようと、そばのテーブルに置いてあった皿のラップをとろうと目を離したときだった。

「あ、かず」

「あつっ!」

「え」

 ガチャン!

 振り返った桜子はそれが見えた瞬間に腕を伸ばした。

 あとで自分でも感心したものだ。運動があまり得意ではないはずなのに、あれだけの速さで動くことができたとは、と。

 網が動いてその上に乗っていたバーベキューの食材が和佐に向かって落ちてくる。

 咄嗟に和佐をかばったが、焼けた野菜が腕に当たった。

「つ!」

「さくらちゃんっ」

 麦茶を取りに行っていた麻里子がサンダルを履くのもそこそこに駆け寄ってくる。

「どうした!」

 音が聞こえて理一郎も慌てて出てきた。

「何をやったんだ!」

「和佐くん、怪我してない?」

「あ……」

 和佐は目をまん丸にして桜子を見つめ返した。

「和佐! おまえか!」

 理一郎の剣幕に和佐の体がビクンと跳ねた。

「理一郎さん、怒鳴らないで」

「おまえは黙ってろ」

 初めて「おまえ」呼ばわりされて桜子はきゅっと眉根を寄せた。

「和佐、俺は火がついてて危ないから近くで暴れるなと言ったはずだ」

 声は抑えているものの、その分怒りが増しているようにも聞こえる。

「あ……あばれてないも」

「同じだ!」

「理一郎さん、やめてって言ってるでしょ!」

 桜子は立ち上がって背の高い恋人を下から睨みつけた。

「和佐くんが怪我してないか、確認するほうが先よ!」

 ぐ、と言葉に詰まる理一郎の後ろから低くて穏やかな、だが決して逆らうことができない声がした。

「そうだな。しかし、和佐よりは桜子ちゃんのほうを心配したほうがいい」

 光一郎は桜子が右腕を押さえていることに気づいていたようだ。ハッと気づいた理一郎が桜子の腕を引っ張って屋内へ入った。

「理一郎さ……」

 キッチンの流しまで連れてこられると水道水を腕にかけられた。

「あの、もうだいじょ」

「黙ってろ」

 理一郎はまるで自分のほうが傷ついているように口を引き結んだまま、それ以上は何も喋ろうとはしなかった。

 

「和佐は怪我してないのね?」

 麻里子に確認され、和佐は黙って頷いた。

 いまにも零れ落ちそうなほどに目に涙が溜まっている。

 ポンポンと肩や背中を安心させるように瑠璃子が叩いた。

「和佐に怪我がなくてよかったわ。桜子ちゃんのおかげね」

「う……ばぁばぁ~っ!」

 うわああああん! と和佐は大声をあげて泣き出した。

 それをキッチンで聞いた二人は肩を震わせる。

「お…おれぇ……お、おてつだ……」

「そう、お手伝いしようと思ったのね」

「……ぅんっ……」

「でも、熱かったからびっくりしちゃったの?」

「……ぅんっ……ごめんなさ……」

 和佐の嗚咽が聞こえる中、火傷の薬を腕に塗られながら桜子は「ごめん」と小さな声を聞いた。

 

 

「もういたくない?」

 屋根裏部屋のベッドで和佐は心配そうに桜子を見上げた。

「大丈夫よ。そんなにひどくないんだから、和佐くんは心配しなくていいのよ」

 本当に大丈夫だ。

 焼けた野菜が当たった程度なのだから皮膚も少しだけ赤くなった程度だ。風呂にも入れたのだから問題はない。

 あの後、気まずい空気の中で夕食を食べ終えて後片づけをし、少々早い時間ながらも桜子は麻里子と和佐と一緒に風呂に入った。

 すっかり落ち込んでしまった和佐は何度も桜子に火傷の具合を訊ねてきた。

「今日は疲れたでしょう? 早く寝て、明日の朝起きたら理一郎さんにごめんなさいって言いましょうね」

 そう言うと和佐はベッドにうつぶせた。小さな肩が震える。

「りーちにぃ、おこってるもん」

「ちゃんと謝れば許してくれるわよ。理一郎さんが怒ったのはね、和佐くんを心配したからなの」

 柔らかな髪をゆっくりと撫でる。まだまだ細い子どもの髪は桜子のものとは質が違う。

「大丈夫よ。理一郎さんは和佐くんのことが大好きだから」

 和佐はふたたび仰向けになると上掛けをひっぱって目だけのぞかせた。

「あした、りーちにぃにごめんなさいっていう」

「うん、そうしようね」

「さくらちゃんもなかなおりする?」

「え……? ええ、そうね」

 落ち込んでいながらもよく見ているものだと感心した。

 桜子も理一郎と一言も口をきいていなかった。というか、理一郎のほうが桜子を避けているように見えたのだが。

「さくらちゃん、りーちにぃのことすき?」

「うん…大好きよ」

「ケンカ……しないで」

 泣きそうに顔を歪める和佐を見ると、心の底から反省する。

 もしも子どもがいて、その目の前で夫婦喧嘩をしたらこんな風に心配されてしまうのだろうか。

 絶対にやめよう。

 悲しそうな顔をした子どもの顔なんて見ていられない。

 うとうととしはじめた和佐の体にしっかりと上掛けをかける。

 聞いていたとおり、夏だというのに夜になるとかなり涼しくなった。

 寝冷えしないように窓を閉める。

 反対側のベッドで本を読んでいた麻里子を振り返る。

「マリちゃんも、今日はごめんなさいね」

「ううん、私も和佐をちゃんと見てればよかった」

「お姉ちゃんがお手伝いしてるから、自分もやりたかったのね」

「うん、たぶん」

 家でもそうなのだと麻里子は言った。

 夕食の支度をしている母親にまとわりついて何かと手を出そうとするらしく、危なくない程度に箸を置かせたり、皿を並べさせたりしているという。

 なんでもやってみたい年頃なのだ。

 わかっていたようでわかっていなかった。

 目を離した自分がいけなかったのだと思う。

 理一郎がそばにいたらこんなことにならなかったかもしれない。

 この短い夏休みの間、気まずいままでは嫌だ。

 一番近い場所にいられるというのに。

「私も寝るね」

 ごそごそと上掛けの下に潜り込む麻里子におやすみと言って灯りを消して階段を降りた。

 

 理一郎は寝室にいないようだった。

 リビングにでもいるのだろうか。

 一階に降りるとリビングに続くガラスドアの向こうがほんのりと明るかった。

 天井の照明ではなく、フロアスタンドのみの柔らかな光だ。

「……うん、大丈夫。怪我はしてないから。……うん、わかってるけど……」

 ドアを開けると話し声が聞こえた。

 窓際にあるカウチに座って理一郎が携帯電話で話をしていた。

「ちょっと怒りすぎた……うん……うん……おやすみ」

 理一郎の言葉の内容から電話の相手が誰なのかはなんとなくだが察しがついた。

 冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出して二人分を注ぐと、理一郎が電話を終えるのを見てから近づいた。

「和佐くんのお父さん?」

 そっと訊ねると理一郎は携帯電話をテーブルに置いた。

「うん……」

 それっきり口を噤んでしまう。

 なんと言ったらいいものかと桜子は理一郎を見下ろした。

 ここは先ず最初に謝らねばと口を開く。

「ごめん」

「ごめんなさい」

 二人の声が重なった。

 思わず顔を見合わせると、どちらともなく苦笑した。

 理一郎が隣をポンポンと叩いたのでそこに座る。

「もう平気?」

 腕をとられると桜子は笑った。

「和佐くんと同じこと言ってる」

「……誰だって言うだろ」

 理一郎は洗いざらしの髪をかきあげた。

 半乾きの髪に目を瞬かせる。いつの間に風呂に入ったのだろうか。そんな気配はなかったはずだ。

「……理一郎さん、お風呂は……」

「ああ、部屋のシャワールームでシャワーを浴びた……ちょっと頭を冷やしたかったから」

 あの寝室にはシャワールームがあったのか。気づかなかった。

「ごめん、あのときは言い過ぎた……というか、乱暴な言い方だった」

「気にしないで、理一郎さんが心配してることはわかったから……それに、ちょっとだけよかったかなって思ってるのよ」

「……何が。おれはちっともよくない。あんなことで喧嘩なんて」

 ふて腐れたように顔を背ける理一郎の頬を両手ではさんでこちらを向かせた。

「喧嘩もしない仲なんて嫌だわ。喧嘩も必要ないような仲ならいいけど、私たちの場合はまだ相手に気を遣ってるもの。もちろん、気を遣わなければならないこともあるだろうけど、少なくともこんなことくらいで気まずくなるのは嫌よ。それにね、今日決めたことがあるの。私……子どもの前では絶対に喧嘩しないわ」

「うん……それは俺も思った」

 理一郎は桜子を見つめ返して笑った。

「敬語、なくなったな」

「あ……」

 大きな手が桜子の腕をとった。ほんの少し赤みが残っている部分に唇で触れる。

 そして手首の内側にも口づける。

「あ」

 思わず声が漏れた。

 桜子の目を見つめたまま、理一郎は一本一本の指先に口づけ、手の平へも触れた。

「これで仲直り……」

 さっきとは反対に桜子の両頬が大きな手のひらに包み込まれる。

「ん……仲直り」

 微笑んで目を閉じると温かくて柔らかいものが唇を覆った。

 

 

 静かな別荘のリビングにクスクスと抑えた笑い声が響く。

「……ゃんっ……くすぐった…」

 額に頬、まぶたから鼻の頭、耳たぶなどに唇が触れていく。

 くすぐったくて、ときどき快感が走る。

 大きな手が背中へと回され、体ごとしっかりと引き寄せられる。

 思った以上に真摯な瞳に見つめられ、惹かれるように目を閉じた。

 初めは啄ばむように、少しずつ濃度が増していくかのように深く口づけられていく。

 何度も角度を変え、微かに開いた歯列から熱い舌が侵入ってくるのを受け入れる。

「ふ……ふぅっ………ぁふ………んっ……ん、ん」

 時折、唇が離れてはお互いを見つめあい、どちらともなく相手を求める。

 桜子は自分こそが相手を離さないつもりで逞しい首に両腕をまきつけた。

 理一郎は荒い息を吐き出しながら、桜子の背中をカウチの上のクッションに押しつけた。

 何度も口づけを繰り返し、首筋に唇を這わせる。

 桜子も夢中で応えていたが、パジャマの裾から熱い手が入り、素肌に触れた途端意識がはっきりとする。

「あ……だめっ!」

「今日は駄目なんて言わせない」

 耳もとで囁かれる声は情熱を含んでいて、桜子は流されてしまいそうになる。

「そうじゃなくてっ……」

 必死に上へと進んでくる手を押し留めようとする。

 もう少しで指先が膨らみに達しようとしたときにパチンと軽く手を叩く。

「ここじゃだめっ!」

 むぅっと理一郎はおあずけをくらった子どものように眉根を寄せた。

「なんで」

「なんでって……誰かが来たら……」

 この別荘には二人きりというわけではない。

 すでに寝室にひきあげているが、光一郎夫妻や屋根裏部屋に麻里子たちがいる。もう寝てはいるだろうが、起きてきたらどうするつもりだ。こんなところ見られたくはない。

「ここはうちと同じで各部屋とも防音がしっかりしてるんだけど」

「そういう問題じゃ……」

 いくら物音が聞こえにくいからといっても、ここはリビングだ。

 誰だって出入りできる部屋ではないか。

「わかった」

 理一郎は起き上がると桜子を抱き上げた。

 いわゆるお姫様抱っこをされて桜子は理一郎を見上げる。

 こんな風に男の人に抱き上げられたのは初めてだ。

 店の手伝いをしてもらったときから思っていたが、理一郎は相当な力持ちだ。

 桜子は小柄だが痩せているわけではない。体重だってそれなりにあるはずなのに。

 自分たちの寝室まで連れて行かれると、そっとベッドの上に降ろされた。

 サイドテーブルのスタンドの明かりだけをつけて理一郎は部屋の内鍵を閉める。

 

 カチリと鍵の閉まる音を聞いて、桜子はそっと胸を押さえた。

 

 

 


この続きは「ムーンライト」さんで!

(同じ名義でやってますので、検索かけてください。申し訳ありません)

こちらの続きは朝になります(汗)

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