第十二話 約束の証(あかし)
山もなければ谷もなく、波乱万丈なストーリーではありません。
ゆるやかに話が進んでいきますので、ハラハラドキドキなストーリーをお求めの方にはおすすめできません。
理一郎にちょっと付き合ってと言われて、午後から出かけることになった。
夕飯も外で食べることにする。
またいらっしゃいと志保たちに見送られて家を出た。
街中まで車で出て立体駐車場に停める。
桜子は駐車場を出ると日傘を開いた。
夏の陽射しが厳しい。
「理一郎さん、暑くないですか?」
桜子は日傘をさしているので多少は緩和されているが、直接肌に当たる理一郎は大丈夫だろうか。
「ああ、これくらいは平気だよ。すぐ涼しいところに行くから」
理一郎に日傘が当たらないようにしながら手を繋いで歩く。
駐車場からしばらく歩いていると少し先に黒塗りの高級車が止まった。
(わあ、理一郎さんのところの車みたい)
ピカピカに磨かれた車は瀬川家の運転手付のものと種類が同じだった。
きっと恭一郎のような社長クラスの男性が乗っているのだ。
そんなことを考えていたら後部座席からスッとした女性のものと思われる足が出てきた。
「あ」
理一郎が立ち止まる。
夏らしい薄いブルーのスーツに身を包んだスラリと背の高い女性が車から降りてくる。
(カッコいい~)
まるでモデルのようだ。
背は十分に高いというのに、さらに踵の高いパンプスを履いている。
低すぎるというほどではないが小柄に見られる桜子からすれば、自分に自信がないとできないコーディネイトだ。
「アオイ」
「え」
足を止めた理一郎が女性に声をかける。
「あら、瀬川くん」
女性は理一郎に気づいて微笑んだ。
「行こう」
軽く手を引かれて再び歩き出す。
知り合いなのだろうか。
(元カノ……とか、かな)
近づいていくととても綺麗な女性だと気づいた。
スーツだからこそか、スタイルの良さがよくわかる。
夏物のジャケットを着ていても胸が形よく出ているし、ウエストはキュッと締まっている。流れるようなヒップラインから伸びた足は太からず細からずという肉がついていて足首も細い。
この女性ならば理一郎と並んでも見劣りしないだろう。
事実、通りを歩く若い男女の視線は、日傘をさしている桜子の上を通って理一郎たちを見ている。
暑いのも気にならないほど幸せな空気に包まれていたはずなのに、急に重苦しさを感じた。
しかしその不安を見せないように傘の柄をぎゅっと握りしめる。
「悪い、ちょっと早かったか?」
理一郎は女性に近づくと挨拶もそこそこにそう言った。
察するに、待ち合わせでもしていたようだ。
「時間通りよ。私のほうが遅くなってしまったから焦ったわ。お待たせしなくてよかった」
女性は理一郎にそう答えてから桜子に目を向けた。
「こちらの方が?」
「ああ」
「こんにちは」
桜子は慌てて日傘を閉じて挨拶した。
すると理一郎が桜子を陽射しから守るように体の向きを変えて、彼女の上に日陰をつくる。
「アオイ、中にいいか? 桜子が日焼けする」
女性は一瞬無表情になる。
「私のことはどうでもいいのね。……なぁんてね。涼しいところに行きましょう。ここで話をするよりはずっといいわ」
「行こう」
理一郎に促されて桜子はついていくだけだ。
先導する女性が入っていったのは道沿いにならぶ店舗の一角だった。
見上げると「月島宝飾」と歴史を感じさせる重厚そうな看板が掲げられている。
「いらっしゃいませ」
店に入ると数人の女性店員たちに出迎えられた。
店内は高級感に包まれていて、ショーケースの中には煌びやかなアクセサリー類が並べられている。
このような高級宝飾店に入るのが初めてな桜子はおっかなびっくりといった感じだ。
「おかえりなさい、アオイさん」
「ただいま、二階は空いてるわよね」
「ええ、アオイさんのご指示通りに」
「こっちよ」
アオイ、と呼ばれる女性に招かれて階段を昇る。
二階にはパーテーションで仕切られた応接セットが並べられている。
そのさらに奥のドアを開けて中へと促された。
明るい窓のそばに品のよいソファとガラステーブルが置かれていて、壁際には観葉植物があった。
「どうぞ、こちらへ」
理一郎と桜子が並んで腰をかけると、女性は向かい側に座った。
後から入ってきた女性店員が「お飲み物はどうしましょう」と訊ねてくる。
「コーヒー、紅茶、緑茶とオレンジジュースがあるんだけど、アイスのほうがいいかしら?」
「俺はアイスコーヒー、ミルクとシロップつけて。桜子は?」
「え? あ、私はアイスティーを」
「レモンとミルクとどっちがいい?」
「じゃあレモンで……」
「私はアイスコーヒーをお願い。それとアレもつけてね」
「承知しました」
女性店員が下がるとようやく女性は微笑みを浮かべた。
「はじめまして、月島葵と申します」
「瀧沢桜子です。はじめまして」
名刺を差し出されて受け取りながら会釈する。
近くで見ると本当に美人だ。
大きな目に長い睫はつけ睫なんてしていなさそうだし、ツヤツヤした唇はぽってりとしていて肉感がある。
さりげなく名刺を持つ指を見ると、派手ではないが綺麗で品のいいネイルが施されており、綺麗な人というのは指先まで気合が入っているなと感心した。
そして名字と店の名前が同じことに気づいて首を傾げる。
「ツキシマ?」
「彼女はこの店の社長の娘さんだよ」
「えっ!?」
「それと俺の大学からの友達でもある」
「お友達、なんですか」
「ええ、桜子さんのことは聞いていたのよ。といっても瀬川くんからじゃなくて、人づてなんだけど。友達だっていうわりにそういうことは教えてくれないんだから」
葵は理一郎を軽く睨んでから微笑んだ。
「それが昨夜いきなり本人連れてくるって予約の電話してくるんだもの。驚いたわよ」
「だから急で悪いって謝っただろ」
バツの悪そうな顔になって理一郎は言う。
「まあいいわ。せっかく紹介してくれるっていうんだものね。ハジメよりも早く会わせてくれたから許してあげる」
「そりゃどうも」
葵の話しぶりから、どうやら彼女は桜子に会いたがっていたようだ。
「ハジメ?」
「ああ、こいつの婚約者のことだよ。俺の知り合いなんだ」
「知り合いなんてものじゃないでしょ? 中学からの親友のくせに」
「あれは悪友っていうんだ」
嫌そうな顔になった理一郎を葵は笑い飛ばす。
「あら、ハジメが聞いたら泣くわよ」
「勝手に泣けばいい」
ずいぶんと仲がいいのだなと思う。
しかし婚約者がいるのか。これほど綺麗な女性ならいてもおかしくはない。
理一郎との関わりが男女の関係ではないことに安心する。
現金だとは自分でも思うが、重くなりかけていた心が軽くなってきた。
「お待たせしました」
ノックされ先ほどの女性店員がトレイにそれぞれの飲み物を載せて入ってくる。
飲み物に続いて皿に載せられたケーキも出されるとさすがに驚く。
「ここじゃ客にケーキも出すのか?」
理一郎も驚いたらしく訊ねたのだが、葵は違う違うと手を振った。
「これは私個人の奢りよ。瀬川くんが恋人を連れて来るっていうから頼んで買ってきてもらったの」
「なんだ、そうか」
「どうぞ、食べてちょうだい。おいしいのよ」
「あ、はい、いただきます」
時間が経つと美味しくなくなるだろうと早速手を伸ばす。
皿に乗ったイチゴのショートケーキは桜子も知っている店のもののようだ。
「これ、香美堂のショートケーキですか?」
「ええ、そうよ……もしかして香美堂のケーキは好き?」
「大好きですっ。ここのショートケーキの生クリームはほどよい甘さなのでいくらでも食べれちゃうんですよね」
「そうなのよ! だからこそ後が怖いのよねー」
「はい」
女性たちのケーキ談義が進んでいる中、理一郎は黙々とケーキを食べ終えた。
「うん、美味かった。俺は甘いものは平気だけど、甘すぎなくていくらでも食べれそうだな」
「でしょう?」
桜子と葵がケーキを食べ終えて飲み物を飲んで落ち着くとようやく話が進む。
「瀬川くんから予約をもらった時点で用件はわかってたけど」
「話は早いな。おまえに頼みたいんだ。デザインを」
「私に?」
葵は目を丸くすると、嬉しそうに微笑んだ。
「それは、嬉しいけれど……いいのかしら?」
「?」
なにやら話がよく見えない。
というか、理一郎と葵だけで話が通じている。
不思議そうな顔をした桜子に理一郎が説明した。
「葵はジュエリーデザイナーでもあるんだ」
「え、そうなんですか?」
「そんなたいしたものじゃないのよ。時々、趣味でやってるものだから」
「でもすごいです」
「その婚約指輪もおまえがデザインしたものだろ? モリシマに聞いたぞ」
理一郎が指差した葵の左手の薬指の指輪を見る。
「費用は俺が出す。自分がつけたいものを作れなんていうのはあいつしかいないわよ」
「俺もそれに近いことは言いたいんだけどな。桜子に合うものを作ってくれ」
「ええ、わかったわ。引き受けましょう」
それじゃちょっと待っててと葵は部屋を出て行った。
それを確認してから理一郎に訊ねる。
「あの、理一郎さん、私に合うものって?」
「婚約指輪」
「こんやくゆびわ?」
オウムのように繰り返してしまった桜子の左手は理一郎にとられた。
「指輪が出来上がったら正式に申し込むよ。それまで待ってて」
薬指に口づけられ、桜子はコクリと頷いた。
ドキドキしてきた。
体がふわふわとした風船になったみたいで落ち着かない。理一郎の口から「婚約指輪」という言葉を聞いてから、いきなり夢の世界に飛び込んだような気分だ。
「お待たせ」
ドアをノックして葵が戻ってきた。
手にはいくつかのファイルとカタログなどがある。
「瀬川くん、よかったらエンゲージとマリッジのセットで作らない?」
「セット?」
目の前に広げられたカタログを見る。
「こういうものもあるんですか?」
初めて知った桜子は写真を覗き込む。
「婚約指輪と結婚指輪の重ねづけもできるのよ」
実物ももってきて、手袋をはめた手で重ねてみせる。
「素敵ですね」
結婚指輪をつけている人はどこにでもいるが、こんな風につけているのは見たことがない。
うっとりとした表情で指輪を見つめていると理一郎は軽く頷いた。
「うん、いいな。それでお願いするよ。費用はいくらかかってもかまわないから」
その言葉にぎょっとして理一郎を振り返る。
「え!? あの、私、そんなっ」
「じゃあ実費だけはいただくわ。あとはサービスにしておくから」
「悪いな」
「いいのよ。どうせハジメがこの話を聞いたらまけてやれっていうに決まってるもの」
好きな人から婚約指輪をもらえるのは嬉しいのだが、いくらかかるのだろうかと不安になってくる。
理一郎は「こういうのは金額じゃない」と言いそうだけれど。
「二人とも、指輪のサイズは?」
「俺? 自分のなんてわかるわけないだろう」
「……だろうと思った。桜子さんは?」
「あ、私も……わかりません。指輪は持ってないので」
指輪なんて一つも持ってない。
ファッションリングを買ってみようかと思ったこともあるが、以前働いていた職場は既婚者の結婚指輪は大目にみられていたものの、基本的にはアクセサリー類は禁止されていたし、今は仕事中に店内の商品に疵をつけるかもしれないので嵌めることはできない。
そう考えると当然ながら買う必要もなかった。
無論、プレゼントされたこともない。
だから自分の指輪のサイズなんて知らないのだ。
申し訳なさそうに言った桜子に葵は何も言わずに微笑んで、それじゃサイズを測りましょうかとリングゲージを取り出して桜子と理一郎の左手の薬指のサイズを測る。
「よかったじゃない、瀬川くん。桜子さんが誰からもプレゼントされたことないなんて」
「桜子、よかったら……プレゼントしようか?」
「え!? い、いいですっ!」
慌てて手を振った。
催促のようなつもりで言ったのではない。
「誕生日プレゼントのつもりでいいから」
「でも私っ、誕生日は四月でっ」
「うん、だから俺たちが出会ったときはもう過ぎてただろ?」
こんなことならもっと早くプレゼントしておけばよかったと理一郎は言う。
「私、理一郎さんから初めていただくなら……婚約、指輪が……」
「……婚約指輪がいい?」
「は、い」
低く甘い声で囁くように言われ、桜子は真っ赤になった顔を伏せて頷いた。
「あら、お熱いわね」
葵の明るい声にハッと気づく。ここは二人きりじゃなかった!
「ご、ごめんなさいっ」
耳まで赤くなった桜子は慌てて頭を下げる。
「いいのよ~。仲がよくて羨ましいわ。というか……瀬川くんがこんなに甘い顔するなんて初めて見たわ。ちょっと気持ち悪いくらい」
「おまえ、気持ち悪いとか言うなよ……」
理一郎はげんなりとした顔になった。
しかしすぐに気を取り直したのか桜子を見る。というよりは視線は少し下だ。
「じゃあペンダントは?」
「え」
「ああ、それいいわね」
葵はすぐに立ち上がって出て行った。
「あああ、あのっ、理一郎さん」
なにがなんでもプレゼントしなければ気がすまない状態になっているのだろうか。
「桜子は気にしなくていい」
「でもっ」
黙ってというように人差し指で唇を押さえられる。
「俺がプレゼントしたものを身につけてて欲しいんだよ。ペンダントなら仕事でもつけていられるだろ?」
指輪をつけない理由の一つは理一郎にもわかっていたらしい。
桜子は素直に喜んでおこうと礼を言った。
葵が戻ってくると手には天鵞絨のはられたトレイを持っていた。
「どうかしら、いくつか見繕ってみたけど」
細い金鎖の先にちょこんとついたペンダントトップが可愛らしい。
「これはどう? ピンクゴールドで桜子さんの肌の色にも合うと思うのよ」
葵はスッと持ち上げて桜子の首元に近づける。
「うん、そのほうが派手じゃなくていいな」
「これはね、ダイヤじゃなくてジルコニアなんだけど桜子さんの名前からイメージしちゃって持ってきたの」
ピンクゴールドの花びらが五枚集まった中央にキラキラと輝く小さな粒がある。
「可愛い」
「普段使いにもちょうどいいんじゃないかしら」
それが決め手だったらしい。理一郎は頷いた。
「俺はそれがいいと思う。桜子は気に入った?」
「はい」
桜子も一目見て気に入っていた。名前にもついているせいか、桜には愛着がある。
「そういえば、さっき言ってたけど桜子さんの誕生日は四月なのね?」
「はい、そうです」
「じゃあ誕生石はダイヤモンドね」
「ええ」
アクセサリーは進んで身につけることはないが、各月の誕生石くらいは知っている。
「瀬川くんの誕生日は?」
「俺は八月」
「あら、もうすぐじゃないの。八月ということはペリドットね」
「ですね」
葵はそれを聞いてメモをとっている。何かの参考にするのだろう。
「ペリドットってどんなの?」
理一郎は見たことがないらしく、葵はカタログを開いて指輪の一覧の一つを指差す。
「この石よ」
「ふーん」
その程度の興味しかないらしい。
桜子と葵は顔を見合わせて吹きだした。
「なんだよ?」
「あ……あんまり興味ないんですね?」
「ないよ。誰がどんなのつけてたって気にならないからな。桜子がつけるものは俺が選びたいけど」
「ほんっとごちそうさまね」
葵はころころと笑った。
「これはこのままつけていく?」
「ああ、そうだな」
会計を頼むと理一郎は財布からカードを取り出して手渡した。
「はい、ありがとうございます」
葵はカードを受け取ると再び出て行った。
そこでようやく気づく。
いくらなのだろう。
値札なんてついていなかったし、理一郎も値段のことを口にしなかった。
「桜子」
こっち向いてと理一郎がペンダントの留め金をはずした。
首の後ろに手が回されドキリとする。
鎖骨より少し下に花の形のペンダントトップがきて、桜子は指先でそっと触った。
「……凶悪」
「は?」
ぼそりと呟かれ顔をあげると、理一郎は口元を押さえて顔を背けた。
「なんでもない」
さっきの言葉の意味はなんなのだろう。「キョウアク」って?
帰り際に葵と携帯番号とメールアドレスを交換した。
「うふふ、ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
「桜子さんとは個人的に仲良くなりたいの。これからもよろしくね?」
「私のほうこそよろしくお願いします」
こんなに綺麗で優しそうな人と仲良くなれたら嬉しいに決まっている。
しかも理一郎の友人だというのなら、大学時代の話とかもこっそり聞けるかもしれない。
「よかったらまた来てね。桜子さんには売りつけるつもりはないから」
「……俺には売りつける気満々なんだな」
憮然とした理一郎の表情を見て、桜子は吹きだした。
陽介のぎっくり腰も治り、夏休みに入った修吾の手伝いのおかげでずいぶんと楽になった。
理一郎は有休から復帰してずいぶんと忙しいらしく、今週は土曜日まで三泊四日の北海道出張なのだという。
日曜日には会えると楽しみにしているのだが、本当は休ませてあげたほうがいいのかもしれない。
風呂から出てくると陽介が電話で誰かと話をしていた。
「はい………いえいえ、とんでもない! いい勉強になると思いますので、ぜひお願いします。……そうですね。……あ、娘が来ましたので代わりましょう。……桜子、瀬川社長の奥様からだ」
「お義母さま?」
どうしたのだろう。
志保が電話をしてくるなんて初めてだ。
桜子はコードレスの受話器を手に取った――
いつも読んでいただきましてありがとうございます。
少しずつ糖度が増していきます。