第十一話 通じあう気持ち
山もなければ谷もなく、波乱万丈なストーリーではありません。
ハラハラドキドキをお求めの方にはおすすめできません。
「久しぶり……」
気まずそうな表情に笑顔を貼り付けたような、なんともいえない顔で晴彦は立っていた。
桜子は視線をさまよわせ、結局足元を見下ろす。
「どう、したの」
意識するまいと思ったら、妙に平坦な声になった。
「その……就職が決まったんだ。ようやくね。ご心配をおかけしましたって叔父さんたちに言おうと思ってさ。それに、叔父さんが腰を痛めたって聞いたから……言ってくれれば手伝ったのに」
「いいわよ、別に。人手がないわけじゃないんだから」
「そ…そうだよな、ごめん」
「用はそれだけ?」
何故だろう。こんなつっけんどんな喋り方をするつもりはないというのに。
晴彦に再会した場合のシミュレーションは密かにしていたはずだ。
しかし実際に対面すると思うようにできない。
視界に晴彦が入らないように歩き出す。自宅に戻るには彼の目の前を通らなければならないがやむを得ない。
「さっちゃん!」
通り際に腕を掴まれるが咄嗟に振り払った。
そのまま後ずさって距離をとる。
「何……まだ何かあるの!?」
「あのときのこと、謝ろうと思って……」
弱弱しい小さな声に、手をぎゅっと握りしめた。
「謝ってもらうようなことなんて、何もないわ」
「あのときはイライラしてたんだ。美和子が……別れた妻に妊娠したって言われて、結婚をせまられて……責任とらなきゃいけないってわかってるのに、向こうの親父さんが許してくれないし……どうしたらいいのかってずっと考えてて」
そんな事態になっているとは露知らず、自分はのこのこと行ってしまったということか。
飛んで火にいる夏の虫ではないが、憂さ晴らしの相手にちょうどよかったのだろう。
桜子は笑い出したくなった。
「ごめん。本当に申し訳ないことをしたと思ってるんだ。それにそのあともいろいろあって」
「いいわよ、別に。合意の上だし、私だって自己責任だと思ってるんだから」
いい訳めいた謝罪は必要ない。
もういい。
この話はもういいから、早く帰って。
「でも、初めてだって知ってたら、俺は」
「は」
ブチッと何かが切れたような気がした。
「何よ、それ……」
笑うしかない。
怒りの上限値を超えると笑いしかこみ上げないのだと初めて知った。
その怒りの矛先は自分。
バカだ。
なんてバカなんだろう自分は。
こんな人を好きだと思い込んでいたなんて。
「私、そんな軽い女だと思われてたわけ」
「さっちゃ」
「もういいって言ってるでしょ。帰ってよ」
ここで大きな声をあげるわけにはいかない。
近所迷惑だし、家にいる両親にこの声が聞こえたら――
いや、そうではなくて――
ハッ、と顔を上げる。
「桜子」
低くてよく通る声がタイミングよく彼女の名を呼んだ。
「り、いちろう、さん――」
砂利を踏みしめて長身の青年が近づいてくる。
聞かれた。
絶対に聞かれた。
否、彼は間違いなく聞いてたのだ。
激しく動揺してそれ以上言葉を継げない桜子のもとまで来て首を傾げる。
「どうしたんだ? こちらの方は? 何か言われたのか?」
あくまでも桜子を心配するように寄り添い、そっと背中に手をあてる。
それだけでホッとして力が抜けそうになる。
触れられた手はいつもと同じで優しく力強いものだった。
理一郎は桜子よりも少しだけ前に立ち、晴彦に真正面に向き直る。
「あ……い、いとこです。お父さんのお姉さんの息子さんで藤代晴彦さんといって」
なんだか子どもみたいな説明だと思ったが、理一郎はすぐに理解したようだった。
「そうでしたか。これは失礼しました」
途端に愛想よい声にかわる。
桜子から見えるのは理一郎の背中と後頭部だけで表情はわからない。けれどこれはわざとだと桜子は気づいた。
「はじめまして、瀬川理一郎といいます。桜子のいとこということはいずれうちとも親戚になるかもしれませんね」
「え……じゃ、じゃあ、修吾が言ってたさっちゃんの婚約者って……」
晴彦は理一郎と桜子を交互に見た。
「桜子とはいいお付き合いをさせてもらってます。近いうちに結婚式の招待状をお送りしますので、ぜひおいでください」
「え、あ、はい」
理一郎に畳み掛けるように言われて晴彦はぎくしゃくと頷いた。
「すみません。こちらの話ばかりで。で、ご用件は?」
「いや……もう、終りましたから、それじゃ……さっちゃん、また」
晴彦はチラリと桜子を見たが、俯いたまま理一郎の陰に隠れた。
砂利を踏む足音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなってから桜子は理一郎から離れた。
「聞きましたよね、さっきの話」
問いではなく確認だった。
視線を合わせられなくて、俯いたまま足元を見る。
「声が聞こえたから、どうしたんだろうと思って……」
もうおしまいかもしれない。
きっと呆れた。
嫌になったに違いない。
バカな女だなんて思われたくなかったのに。
「バカでしょう、私」
「いや」
「バカなんですよ。今になって気づくなんて……」
中学から女子校育ちで周りに男の子なんていなかった。
身近にいたのは父親と弟と、年上の晴彦だけ。
だから憧れた。優しい従兄に。
周りの友達には彼氏ができて、楽しく男女交際をしているのが羨ましいと思っていた。
街で同じ年頃の男子に声をかけられることも多かったが、穏やかな性格の晴彦が妙に大人に思えて、彼とくらべると子どもっぽくて軽そうに見えて相手にしなかった。
女子ばかりの短大に進めばさらに進んだ話を聞かせられ、妙な焦りすら感じた。
もしかして自分はおかしいのではないか。どうして心から好きだという人に出会えないのだろうか。
それはきっと晴彦のことが好きだからだと思ったのだ。
そう思うことで無理矢理に自分を周りに合わせようとした。
晴彦に会いたくなかったのは、彼と会ったらつらいからではない。
そうではなくて――
「ごめんなさい。こんな話を聞かせてしまって……」
「桜子」
理一郎は何も言わず名前だけを呼んで抱き寄せた。
「もういいんです!」
両手で広い胸を押し返す。
ゆるく首を振った。
「もう……私は」
「何がもういいんだ」
低く唸るような声に首をすくませる。
大きな両手で頬をはさまれ上向かせられた。
「桜子、何がもういいんだ? はっきり言えよ」
「だ……って」
「だって、何?」
身をかがめて見つめてくる理一郎の真剣な目を見ていると、ここにきてようやく涙が溢れた。
「嫌、になったでしょう? こ、こんな、いいかげんで、私……お、見合いのとき、から、ちゃんと、覚悟、して、た、のに」
この話はなかったことに、と言われてもちゃんと受け入れようと思っていた。
なのに今、嫌だと心で叫んでいる。
「なのに、ど、して? 知られたくなかっ……」
本当はまともな男女交際なんてしたことがなかったとようやくわかった。
好きだと思っていた人に抱かれたときも、心を占めたのは後悔の気持ちばかりだった。
こんな自分を知られたくなかった。
嫌いにならないで。
離れていかないで。
お願いだからそばにいて。
「わた、わたし……」
たとえこれからどうなろうとも。
これだけは伝えたい。
零れた涙が理一郎の手を濡らしていく。
「理一郎さんが、すき、です……」
ぎゅっと目を閉じて、はあっと大きく息をつく。
もう呼吸もうまくできない。
「ぜんぶ、初めて、だったらよかった……」
涙でぼやける理一郎を必死に見つめる。
「理一郎さんが、全部、初めてだったら、私……」
信じて全てを委ねていたのに。
それがつらくて、胸が痛い。
「桜子」
頬をはさんだ両手の親指が涙を拭う。
「俺はどうしたらいい?」
どういうことかと瞬きする。
すると再び目尻から大粒の涙がこぼれ落ちていく。
見上げた理一郎は柔らかな笑みを浮かべていた。
和佐たちと初めて会った日、自分も行っていいかと言ったときに見せたのと同じ笑顔だった。
「俺の気持ちをどう伝えたらいい? やっと君の気持ちが聞けた……」
嬉しくてたまらない、と言う。
「俺も、君が好きだ。初めて会ったときから好きだったよ」
「理一郎さん」
「キスしたい」
もう唇に吐息がかかるような距離で囁かれ、微かに頷く。頬をはさまれているのでそれだけでも伝わるはずだ。
最初に軽く触れられただけで、ビリッと電流が走ったような気がした。
何度か触れるだけのキスを繰り返すと、しっかりと唇を重ね合わせてくる。
上唇を吸い、下唇を吸い、幾度となく甘噛みを繰り返す。
はあっと唇が一旦離れたところで大きく深呼吸すると、すかさず深く重ね合わせてきた。
「んっ……ふぅ……」
口内に舌が侵入してきた。
上下の歯列をなぞり、ゆっくりと奥深くへ入ってくる。
上顎から下顎まで蹂躙するように移動して、桜子の舌を突いてくる。
応えるためにおずおずと動かすと絡め合わせてきた。
「んんっ………あぅ…ん……」
だんだんとぼうっとしてきた。
理一郎の両手はいつの間にか片方は桜子の腰へ回され、もう片方は後頭部へ添えられている。
「んふ……はぁっ……」
苦しくなって一旦離れようとすると逃すまいとするようにさらに激しく口づけられる。
唾液が混ざり合い、たっぷりとした量を嚥下するとようやく解放される。
しかしもう桜子は立っていられなかった。
くったりとした彼女を理一郎は抱き寄せる。
「あーまいった。夢中になりすぎた。すごすぎる」
「……え」
すごいってなに。ぽわんとした顔で見上げると、その顔今ダメと言われた。
それからしばらく二人とも何も喋らないままお互いを抱きしめあった。
言葉などなくても居心地など悪くならない。
温かい気持ちでいられる。
ドキドキして照れくさいけれど、でも、このままがいい。
桜子の頭の上に理一郎が顎を乗せる。
「桜子」
「はい?」
いつの間にか呼び捨てになっていたがそれすらも気にならない。
「明日、うちに来ないか?」
小さく身じろぎして理一郎の胸に頬をつけたまま見上げる。
「理一郎さんのお家に?」
「この前は急だったけど、そろそろ家に連れて行こうと思ってたんだ。ちゃんと家の中も案内したいし、じいさんたちがうるさくて……」
はーっと理一郎は大きくため息をつく。
「うちは桜子大好き人間が多すぎる……」
何それと思ったが表現がおかしかったので笑いが零れる。
「何笑ってんだ」
「きゃ」
理一郎の顎が痛くない程度にゴツンと頭にあたる。
抱きしめられたまま体を左右に揺さぶられ再び笑い声があがる。
じゃれあいが落ち着くと瀬川家に行くのならちゃんとした格好をしなくてはと考えた。
「あ」
「ん?」
理一郎が優しい目で見下ろしてくる。
それだけで心が温かくなって笑みが浮かんでくる。
「おみやげは何がいいですか?」
「気にしなくていいって言っただろ。桜子がみやげのようなものだって」
ちゅ、と額に唇で触れてくる。
「気にしますよ。お父さんたちだってきっと持って行けって言うだろうし……手作りのお菓子……とかじゃダメですか?」
焼き菓子くらいなら今から作っても間に合いそうだ。明日の朝までに冷めるだろうから持って出るにはちょうどいい。
「桜子が料理上手なのはわかってるからそれはいいと思うけど、じいさんが泣いて喜びそうだな」
まさか泣くとは思わないけれどと桜子は笑ったが、今晩中に急いで作らねばと思った。
翌日、迎えに来た理一郎に連れられて再び瀬川家を訪れた。
今度は理一郎から知らされていたので、家族全員に出迎えられる。
「こんにちは、お邪魔いたします」
「いらっしゃい、桜子ちゃん。どうぞどうぞ」
「あの、お義母さま……っじゃなくて、あの、ええと」
口をついて出てしまった言葉に焦る。
いきなり「お義母さま」などと呼ぶべきではなかっただろうか。しかし、理一郎がいつの間にか自分の両親を「お義父さん、お義母さん」と呼んでいたし、志保のことは「理一郎さんのお母さん」というイメージがあったので「おかあさん」という言葉が浮かんでしまったのだ。
「まあっ、いいのよ、私のことはおかあさんと呼んでちょうだい」
志保は嬉しそうに微笑んだ。
「うちは男ばかりなんだもの。女の子がいなくて寂しくて……マリちゃんはいるけど、私はあの子のお母さんじゃないものね。やっぱり女の子はいいわね! うちが華やかになるわ」
「悪かったな、むさくるしい男で」
理一郎と、今日はしっかりと起きていた拓海も言われなれているのか口調ほどには怒ったような顔はしていない。
「母さんはいつも言ってたもんな。俺か兄ちゃんの嫁さんが来るのが楽しみだ。可愛い子じゃないと嫌だってさ」
拓海はリビングのソファに座って頭の後ろで手を組んだ。
今日はこの前のような値踏みするような目で桜子を見ていない。むしろもっと親しげな笑顔を見せてくれた。
「この前は手土産もなくてすみませんでした。よかったらこれを……」
バスケットを差し出す。
「あら、なあに? ……フィナンシェね! いい匂いがするわ」
蓋を開けた志保は中身を見て微笑んだ。が、すぐに怪訝そうな顔になる。
「もしかして、手作りかしら?」
「すみません。やっぱりいけませんでしたか?」
最初の訪問でいきなり手作りの手土産はまずかっただろうか。理一郎に頼んでどこかの店に寄ってもらったほうがよかったかもしれない。
「ああ、ごめんなさい。違うのよ。桜子ちゃんが作ったのかしら?」
「はい、そうです。時間がなかったものですからあまり凝ったものができなくて……」
昨夜作ったものは何も入っていないプレーンタイプのものだ。時間があれば紅茶の葉を混ぜ込んだり、チョコレート入りにしてみたりするのだが、そこまでしている時間がなかった。
「すごいわ、これで凝ったものができないなんて……理一が桜子ちゃんはお料理上手だって言ってたけど、お菓子も作れるのね」
「あ、いえ、そんな」
手放しで褒められて悪い気はしない。
「じゃあ今日のお茶請けはこれにしましょう。お義父さんが喜ばれるわね」
それから光一郎や瑠璃子たちもやってきてリビングで話をした。
光一郎も瑠璃子も、恭一郎や志保を「お義父さま、お義母さま」と呼ぶのなら、自分達も「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼んでくれなくては嫌だと言った。
さすがに馴れ馴れしい呼び方はできないので「おじいさま、おばあさま」という呼び方に落ち着いたのだが。
「ごめん、うちのじいさんたち強引だろ?」
「いえ、いろいろと気にかけてくださって嬉しいです」
お昼ごはんの支度ができるまで待っていてくれと言われ、理一郎に家の中を案内される。
桜子は手伝いを申し出たのだが、そのうち手伝ってもらうだろうが今日はお客様だから待っていてくれと言われて引き下がった。
「ここが俺の部屋」
「失礼します」
ドキドキしながら足を踏み入れた。
「わ、広い、ですね」
「そう? 十畳くらいだけど」
いや十分広いだろう。
六畳の洋間にベッドやタンスなどを置いている桜子の部屋と比べると圧倒的に広く感じる。
幅の広い木製のデスクにはパソコンが置かれ、すぐ脇の壁には背の高い書棚が作りつけられている。
ベッドも桜子が使っているものよりも少し大きめに見えるし、クローゼットがあるためにタンスなどはない。
部屋の真ん中にはソファとテーブルがあり、ソファと向き合う形で大きなテレビが壁際に置いてある。
他のオーディオセットも充実している。
「隣は拓海の部屋だけど、防音はしっかりされてるからここでよく映画のDVDを見てるんだ」
「で、和佐くんたちも戦隊ものを見るんですね」
クスリと笑ったのは映画のDVDの隣にヒーロー戦隊のDVDが並べられているからだ。
「子どもだからかな。物覚えがいいんだ。すぐに操作を覚えたから、一人で入り込んで見てることもあるよ」
どうぞと促されてソファに理一郎と並んで座る。
理一郎はリモコンに手を伸ばしてテレビを点けたが二人の視線はそちらへは向かない。
「しばらくは、ここでいいか?」
「何がです?」
首を傾げて理一郎を見上げる。
理一郎は照れくさそうに首筋をかいた。
「その……俺たちの部屋、というか、その」
パチパチと瞬きしてその言葉の意味を考えるとふわりと頬に熱が上がってくる。
お見合いから始まって結婚を前提としたお付き合いをしているのだ。それに昨日はお互いの気持ちも通じ合った。ということはそういう話になってもおかしくはない。
正式にプロポーズされたわけではないけれど。
「は、はい、い、いいんじゃないで、しょうか……」
座った大勢で上半身のみ理一郎に向けて頷く。
理一郎は片方の腕をソファの背もたれにおき、もう片方の腕は桜子の背中に回して引き寄せた。
コツン、と額同士を当てる。
「さっきも言ったけど、うちは各部屋とも完全防音だから」
「はい」
「中の音はよほどのことがないかぎりは聞こえないから大丈夫だよ」
「あ、はい………」
頷いた桜子はよく考えてからその意味に気づいて顔が赤くなった。
理一郎は熱くなった頬に手を当ててクスリと笑う。
「桜子、何を考えた?」
「べっ、別に、何も」
「その割には顔が赤いな」
「理一郎さんっ」
「期待してる?」
「な、にを」
「わからないのか?」
本当に? と親指の腹で唇をなぞられ、ぞわりと何かが背中を這った。
「あ……」
「桜子」
乞うような視線にゆっくりと目を閉じる。
誘うように、受け入れるように微かに唇が開いた。
トントントン
リズミカルにドアを叩く音によって、桜子は勢いよく目を開いた。
間近に迫った理一郎と視線がぶつかる。
「くそっ」
小さく悪態をついた理一郎は立ち上がってドアを開けた。
桜子は咄嗟に居住まいを正す。
「ごめん、お邪魔かなーとは思ったんだけどさ」
「……いや、いい。メシだろ」
「あれ、ホントにお邪魔した?」
「うるさいっ」
すぐ行くと一旦ドアを閉めて桜子に向き直った。
「そういうわけだから、メシに行こう」
「はい」
桜子は立ち上がるとささっと身なりを直す。そんなに乱れてはいないが。
ドアノブに手を伸ばすとそこを押さえられた。
どうしたのだろうかと振り返って見上げたところで唇が触れてくる。
「……とまあ、ちょっとしたスリルも味わえるけど、やっぱり昼間はダメだな」
「え……え!?」
先に出て行った理一郎の背中を恨めしげに見つめて頬に手を当てる。
「もうっ……」
頬が熱い。
このまま食事の席に行ったら、それこそ何か言われそうだ。
顔の火照りがおさまるまでを誤魔化すためにトイレを借りる。
一人でいると落ち着いてきたので廊下に出ると拓海とばったりと出会った。
軽く頭を下げて通り過ぎようとしたら声をかけられる。
「桜子さん……さくらちゃんて呼んでもいいかな。麻里子と和佐がそう呼んでるのを聞いたから」
「あ、はい」
頷くとありがとうと言われて親しげな笑みを向けられた。
この前と随分と違うなと思っていると、拓海のほうから暴露してきた。
「あ、安心して、俺はさくらちゃんに女として興味は持ってないから」
「……はい?」
何が言いたいのだろうかと思っていると、拓海はいきなり頭をさげた。
「兄貴のこと、よろしくお願いします」
「拓海、さん?」
「兄貴はさ、あんまり見せないようにしてるけど、責任感が強いんだよ。家のこととか、会社のこととか、全部背負わなきゃならない。それをいつも考えてる。会社のことは俺が助けてやれるけど、家ではさくらちゃんが支えてほしいんだ」
拓海の意外な告白に桜子は黙って聞き入った。
「この前はこの人で大丈夫かなってちょっと心配だったけど、一週間ほど一緒に働いてちょっと雰囲気が変わったみたい見えたんだ。兄貴はもちろんだけど、さくらちゃんも兄貴を大事にしてるように見えたから安心したっていうか……あ、俺がこういうこと考えてるってことは兄貴には内緒にして!」
お願いされて桜子は頷いた。
仲良く育ってきたのだろう。理一郎を兄として慕っているのがよくわかる。
「理一郎さんのことが大好きなんですね」
そう言うと拓海はあんぐりと口を開けた。
「あのね、そういう言い方する? そりゃ兄弟だから好きか嫌いかと訊かれればね……」
照れくさそうに笑う拓海を見て、どうやら拓海ともうまくやっていけそうだなと思えたのだった。
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