第一話 美青年来る
山もなければ谷もないという、波乱万丈なストーリーではありません。
ゆるやかに話が進んでいきますので、ハラハラドキドキなストーリーをお求めの方にはおすすめできません。
昨夜遅くから振り出した雨は朝になっても降り続いている。
今日は客の出足が悪いかもしれない。
桜子は店の外でテントの下から空を見上げた。
もう店の開店時間を過ぎているというのに、店内にはお客の姿がない。
天気のいい日なら近所に住んでいる顔見知りのおばちゃんたちがやってくるのだが、今日はチラシ特売日でもないので特に買い物をする必要がなければ来ない可能性がある。
その点も考えていたのだろうか。
今朝、父親が市場から仕入れてきた野菜はいつもよりも量が少なめだ。
陳列棚やワゴンへ野菜を並べていると、パートで働いている店員が手伝いにきた。
「さっちゃん、店長の姿が見えないみたいだけど?」
さっちゃんとは桜子のことだ。「さくらこ」とは呼びにくいので、子どものころからあだ名で呼ばれている。
桜子は肩をすくめて苦笑した。
「それがね、昨夜から奥歯が痛みだして、今朝早々に歯医者に予約を入れて行っちゃったのよ。市場にはなんとか仕入れに行ってくれたんだけど、我慢できなかったみたい」
「歯の痛みって特別痛いもんねえ」
「仕入れさえしてきてくれれば、あとは私達でできるから問題はないわよ」
桜子の予想通り、今日は客足があまり延びないまま、お昼をすぎてしまった。
「今日は楽で助かるんだか、困るんだか」
いつもならお昼休みもろくにとれないのだが、今日はゆっくりできた。
「さっちゃんも今日はお休みしてもよかったかもね」
「そうねえ、店長か奥さんがいてくれれば困ることもないし」
ここで働いているのはパートタイムの店員ばかりで、正社員は桜子だけだ。その彼女が店の休業日以外は休もうとさえしていないことを皆が知っている。
そのためパート店員さんたちはそう勧めてくれるのだろうが、まさかこんなに暇になるとは思わなかったし、いまさら休みをとったってしょうがない。
「別にいいわよ。休んだからって特に用事もないんだし」
「デートくらいできるじゃない」
「あははは」
笑ってごまかしたけれど、デートできる相手なんていやしない。
デートなんていうものをしたのはいつだっただろうか。
(それだけ誰とも付き合ってないってことだけど)
今はまだそれでいいと思う。
短大を卒業して一年しか経っていないことだし、無理にデートしたいとも思わない。
「今はそれどころじゃないもんねえ」
独り言のようにつぶやいて、店内を見回って商品棚への補充をする。
お客が多いとやりにくいのだが、こういうときこそやっておかねば。
そのときだった。
店の入口の自動ドアが開いたのが目の端に入ったので、つとめて明るい声を出した。
「いらっしゃいませー!」
桜子の声に気づいた他の店員達も同様に声を出す。
が、その客の姿を見た途端、皆が目を瞬かせた。
見ただけでオーダーメイドとわかる仕立てのよいスーツを着た若い男性がそこにいた。
郊外の小さなスーパーに用があるとは思えない。
コンビニと間違えたのではないか。
外を見ればいままでなかったシルバーの車が横付けしてある。
あんなところに車を停められては困る。
ここは駐車禁止となっている場所だ。すぐに移動してもらわねば。
桜子が注意をしようとすると、男性のほうから声をかけてきた。
この場合、桜子が一番近い場所にいたからだ。
「あの、すみません。ちょっとよろしいですか?」
ああ、なんだ。道でも聞きたいのか。
それならばすぐに立ち去るだろうから注意する必要もないかもしれない。
そう思ったのだが、男性は桜子が目を丸くするようなことを訊いてきた。
「瀧沢陽介さんはいらっしゃいますか?」
それは店長であり、桜子の父親でもある人の名前だった。
取引先の問屋の営業マンだろうか。でもその場合は大抵が「店長」または「社長」と呼んでいるので、個人的な知り合いだろうか。
桜子は誰なのだろうかと思いながらもぎこちなく頷いて奥の事務室に行こうとした。
「あ、あの、奥にいますのでお待ちくだ」
「理一郎くんじゃないか」
ちょうど店内に戻ってきた店長が嬉しそうな声をあげる。
今朝、歯医者に行って痛みのあった奥歯を治療してもらったおかげで機嫌がよくなっている。あと何回か治療を続けなければならないらしいが、痛みがなくなっただけでも楽なのだろう。
男性は店長に会釈すると穏やかに微笑んだ。
「アポイントも取らずに来てしまって申し訳ありません。近くに用があって来たものですから、ご挨拶をと思いまして」
「いやいや、こんな店ですからね。そんなに仰々しくしなくてもいいですよ。今日はちょうどいいことに娘も女房もいますからね。どうぞどうぞ、奥へ」
「ではお邪魔します」
店長に促されて男性がついていきかけたので、桜子は慌ててとめた。
「あのっ、すみません!」
「はい?」
「あの表の車はあなたが乗っていらしたものですよね?」
桜子が指差した車を見て店長が外へと向かう。
「こりゃいかん。うちの前は駐車禁止なんですよ」
「すみません。気づきませんでした。どこか車を停めるところはありますか?」
「うちの駐車場でよければ店の横にありますよ」
店長が駐車場に案内すると、男性はスムーズに車を入れた。
「あら上手ねえ」
パートの店員たちも外を眺めて感嘆した。
店横の駐車場はあまり広くないので、初めて車で来た客などは車を停めるのに四苦八苦しているというのに。
そして店長と連れ立って戻ってくると、桜子を見つけて軽く頭を下げた。
「注意してくださってありがとうございました。ご迷惑をおかけするところでした」
「あ、いえ、それよりもこれ……使ってください。肩が濡れてますよ」
洗濯をしてあるタオルを差し出すと男性は戸惑ったように桜子を見たが、すぐに礼を言って受け取った。
「桜子、お父さんにはないのか?」
「お父さんは別に濡れてもいいようなブルゾンじゃない。せっかくのいいスーツが濡れたら大変だと思ったからよ」
「あなたが、桜子さんですか?」
男性はびっくりしたような顔で桜子を見下ろしていた。
そういえば名乗っていないのだった。
というよりも、何か訳知りのような口ぶりが気になる。
「瀧沢桜子です。はじめまして」
深々と頭を下げると、男性もきちんと頭を下げた。
「瀬川理一郎です」
店の事務所よりは自宅の応接間のほうがいいだろうということで、どういうわけか事務所にいた母も一緒に店の二階にある自宅へ移動する。
お茶を出してから応接間を出て行こうとすると呼び止められた。
「桜子もここにいなさい」
「はあ」
どうしたのだろうか。
両親二人とも神妙な顔つきになっている。片や瀬川理一郎と名乗った青年は穏やかな表情だ。
店に入ってきたときから思っていたが、理一郎はかなりの美青年だった。おまけに背も高い。
桜子は百五十五センチと同年代の女性の平均身長よりも低いのだが、彼はゆうに百八十センチは越えているだろう。桜子よりも頭一個分は高い。
ヒョロリというよりはスラリという表現があっているようなしなやかな体つきをしている。スーツが似合うのは肩幅が広いからだ。メンズ雑誌のモデルをしていると聞いたら信じてしまいそうだ。
銀縁のメガネをかけているせいで表情はわかりにくいが、微笑んだ顔はとても優しげだ。
桜子は怪訝な顔をしながらも両親と理一郎の斜め向かいの椅子に腰掛けた。
「理一郎くんはな、『セガワ商事』の次期社長なんだ」
「えっ」
次期社長という言葉を聞いただけでびっくりしてしまう。「セガワ商事」とは浅からぬ縁があるため余計にだ。
「次期といいましても、社長である父がまだまだ現役でバリバリに働いてますからね。正式に跡を継ぐのは当分先のことですよ。それに私は新卒で採用されて二年目に入っただけの平社員ですから」
謙遜するでなく淡々と事実を述べる彼の様子にそれがたいしたことではないように聞こえる。
「あのう、もしかして、『借金』のことで何か……?」
恐る恐る口にすると理一郎は眉根を寄せて首を傾げた。
「瀧沢さん、彼女に何も話してらっしゃらないんですか?」
「す、すまん! その、なんと説明したらいいものかと……」
二人、否、母もどうやら何かを知っているらしい。桜子だけが知らない事情があるのか。
「お父さん?」
「う……実はな、お金を借りた家というのが」
「だから『セガワ商事』さんなんでしょ?」
「それがな、そのお金を貸してくれた理由というのが、『セガワ商事』の会長さんが親父……おまえのお祖父さんと幼なじみだったっていう縁なんだ」
「そうなの?」
陽介が言うには、「セガワ商事」の会長というのが理一郎の祖父ということで、彼らが成人して結婚し、家庭を持ってからも交流があり、お互いに困ったことがあったら助け合ってきた仲なのだという。
しかし、桜子の祖父が亡くなってからは疎遠になってしまい、祖母が時候の挨拶の手紙を送る程度の交流しかなかったという。
そんな矢先、陽介が経営しているスーパーマーケット「マートタキザワ」が大きな損失を出してしまった。桜子も新卒で採用された会社を辞めて借金返済のために店で働いていたのだが、こればかりは自業自得に近いものがあるのでしょうがない。
その借金を肩代わりしてくれたのが「セガワ商事」だったのだが、その会長に頼み込んだのが今は離れて暮らしている祖母だった。
「おばあちゃんが!?」
それは初耳だった。
「どうしておばあちゃんがそんなこと……」
「何か困ったことがあったら瀬川さんに頼るようにと親父に言われてたらしいんだ。実際に助かった。無利子無期限で肩代わりしてもらえたんだから」
「そんなおいしい話なんてあるわけないじゃないの」
慈善事業じゃあるまいし、「ウマイ話にはウラがある」というのを知らないはずがない。実際、それで痛い目にあったではないか。
「……」
「え、何? やっぱり何かあるの?」
「それがなあ、桜子」
陽介は申し訳なさそうな顔をした。
「お袋……ばあさんが借金を頼みに行ったときに、向こうの会長さんが言ったらしいんだ。孫同士を結婚させたらどうかって」
「結婚…………孫!?」
孫って誰だ。
一瞬考えたが、自分を指差し、そして……
「祖父が、是非とも親友の孫娘を自分の孫の嫁に欲しいと言ったそうで」
理一郎は穏やかに微笑んだままそう言った。
「ちょ……待って……ええっ!?」
「驚くわよねえ、さっちゃん」
「おかっ……のんきそうに言わないでよ! おばあちゃんもなんでそんな勝手なこと!」
一人で慌てふためいている桜子の目の前で理一郎と両親は話を続ける。
「陽介さんとは会社のほうで何度かお会いしていましたが、百合子さんにも前もってご挨拶しておこうと思ったものですから、今日は突然お邪魔して申し訳ありませんでした」
「あらあら、いえいえ、私も主人から聞いてはいたものの、ちょっと不安だったんですよ。お話はとてもありがたいんですけど、娘を嫁がせる相手がどんな人かもわからないのにお受けできないと思って」
母、百合子はおっとりした性格だが、こんなときまでのんきに喋らなければいいのに。
「おかあさんっ」
「それで日取りはいつにしましょうか? お店の定休日のほうがいいですよね」
「うちはそれでいいけど、理一郎くんのほうはいいのかい?」
「こちらの定休日は日曜日でしたよね。会社は土日休みですから問題ありません」
「日取りって何!?」
まさかいきなり結婚式というわけではないだろうが。
なんとか話に割って入ると、両側から視線が向けられる。
「お見合いの日取りですよ」
「お見合い!?」
「ええ、ここでお会いしているのになんですが、一応正式に顔合わせする席を設けたほうがいいかと思いまして、私の両親にも会っていただきたいですからね」
それはお見合いというよりもさらに一歩進んでいるのではないだろうか。
呆気にとられて何も言えないでいると陽介は少し不安そうな顔つきになった。
「桜子、嫌なのか? どうなんだ?」
「桜子さんがお嫌でしたら、この話はなかったことにしてもいいんですよ」
理一郎はそんなことを言う。
しかし、ここで話を断ったら、店はどうなるのだろう? もしかすると借金の話までなかったことになるのだろうか。
もしそうなったらそれは困る。
「お、お見合いして、ちゃんと話を通してくれるのでしたら……」
「わかりました」
そこで話は終って理一郎は帰ることになった。
「会社のほうは大丈夫かい? 帰りが遅くなったりは……」
「大丈夫です。今日は直帰すると伝えてありますから。それでは失礼します」
外はまだ雨が降り続いている。
強い雨ではないが、細かい雨粒が理一郎のスーツを濡らす。
桜子は咄嗟に傘を差して追いかけた。
「あの、傘をどうぞ。濡れますよ」
「ああ、ありがとうございます」
駐車場まで傘を差してついていこうとすると、ひょいと傘を取り上げられた。
「すみません。私は背が高いから差すのは大変でしょう」
「あ、いえ、そんなことは……」
自分の背が低すぎるからだと思うのだが、逆に傘を差しかけられて理一郎の肩が濡れていく。
ああ、そんなつもりで傘を差し出したのではないのに。
「今日はお仕事中にお邪魔して申し訳ありませんでした」
「気にしないでください。雨のせいでお客さんも少なかったですし」
結局、車に乗り込むまで付き合ったのだが理一郎は終始穏やかに話をしていた。
「それじゃ失礼します」
「あ、はい」
わざわざ車の窓を開けて挨拶をして出て行った。
「おぼっちゃん、なんだろうなあ……」
見るからに育ちのよさそうな感じだった。
あんな美男子ならば結婚相手にも不自由しなさそうだ。恋人の一人や二人、いや二人いたら困るが、恋人くらいいるだろうに。
なぜお見合いなんてするのだろう。
桜子は考えてみたが、祖父からの話ならばそう簡単には断れまい。一応、お見合いをするということで話をつけて、それから正式に断ればいいと考えたのかもしれない。
「それならそれで気楽でいいけどね」
店内に戻ると、店員達が次々と訊ねてきた。
皆、彼は一体何者だと気になっていたのだろう。
桜子はお見合いだの結婚だのという話は避けて、あたりさわりなく答えるしかなかった。
初めての投稿でドキドキしています。
淡々と話が進んでいきますので、そういうお話でも平気な人はお付き合いください。