・見えざるモノ(2)
数日して、由起葉は無事退院することができた。先に退院していた多加弥が迎えにきてくれる。
「ユキハ、準備できた?」
「うん」
いろいろと動くようになって、片目の見えない不自由さを少し感じるようになった。今も荷物とのバランスをとるのによろけてしまう。
「大丈夫?」
「平気」
多加弥は荷物を持って由起葉を支えた。
二人で病院から出る。空は曇り、昼間だというのにどんよりと薄暗かった。せっかくの退院を祝うような天気でないのが残念だ。
由起葉たちは病院前のバス停を通りすぎ、街の方へ歩いていった。
「せっかくだし、ちょっとデートしようよ」
「いいけど、退院できたからって本調子なわけじゃないんだよ?無理しない方がいいんじゃ・・・」
「なに保護者みたいなこと言ってんのよ。自分だって私よりちょっと退院が早かっただけじゃない。あ、もしかしてタカヤ、調子悪いの?」
「俺は元気だよ。いいよ、ユキハのしたいようにしよ。でも、具合が悪くなったらすぐに言ってよ」
「わかってる」
今日は真っ直ぐ家に帰ってもよかった。なのに病院を出て空を見上げた瞬間、多加弥との時間を作りたいと思ってしまったのだ。
明日でもできること。でも、その明日は必ずやってくるとは限らない。時間は流れる。日は昇る。だからといって全ての人に明日があるとは限らないのだ。それを由起葉はあの黒い世界の中で知った。
由起葉は多加弥の手をそっと握った。温かい。生きている。
二人は駅前の通りに出た。夏休み中ということもあって、子供が多い。同年代の子たちもたくさんいる。
「友達に会ったりして」
「事故のこと、塾の子しか知らないから」
「塾ではもう知れ渡ってるの?」
「見てた子がいたみたい」
「そうなんだ」
「ユキハ、ここ人多いしちょっと外れない?人混みって疲れるっしょ」
多加弥は気遣っているのか、由起葉を駅前から連れ出そうとした。特に目的があるわけではなかったので、由起葉はそれに従おうと足を踏み出す。
そのとき、何気なく目を向けた駅前デパートのウィンドウに映る自分の姿を見て、由起葉は息を呑んだ。片目が。見えなくなった方の右目が、赤く光っている。
その色は、あの不生という男の目と同じ色だった。
「な・・・に、これ・・・・」
「ユキハ?」
振り返った由起葉を多加弥は不思議そうに見つめている。
(タカヤには見えてないんだ)
もう一度ウィンドウをのぞいたが、由起葉の右目の光はすでになくなっていた。なんだったのだろう。でも確かに見えた。
「どうしたの?大丈夫?」
「うん。なんでもない」
由起葉は歩きだした。二人で駅の裏通りの方に回り、公園につながる道を歩いていく。晴れた日には木陰がちょうどよい道なのだが、あいにく今日は曇っている。
由起葉たちの横を小学生と思われる三人組が元気よく走り抜けていった。これから公園で遊ぶのかもしれない。
「ねぇ、タカヤは事故の後からおかしなこととかない?」
「おかしなこと?なんだろう。・・・・生きてることがおかしい、とか?」
「なにそれ」
由起葉は笑ったが、本当は多加弥の言うとおりだ。生きているはずのない多加弥を、由起葉の魂が再び呼び起こした。多加弥の体の中には由起葉の命が半分宿っている。
そこまでしてでも助けたかった。多加弥の意志など確認することもなく、ただただ必死に生き長らえさせた。わがままだったかもしれない。多加弥が生きたがったわけではない。自分が生きていてほしかっただけだ。
「タカヤが生きててくれて、よかった」
「俺も、ユキハが生きててくれてよかった。本当なら、俺の目が見えなくなってればよかったのに・・・」
「そんなこと言わないでっ」
思わず大きな声が出た。
「ご、ごめん・・・」
「あ、ううん。私の方こそごめん・・・」
気まずくなって、由起葉は多加弥を引っ張ってベンチに座った。
手をつなぐ。何も言わなくても思いが伝わればいいのにと思った。
そのまましばらく無言で座っていると、前方を一人の女性が歩いていくのが見えた。主婦だろうか。片手に買い物袋を提げている。なんということもない、普通の光景だった。
ただひとつ、彼女の足元を除いては。
(な・・・に、あれ・・・)
空は雲で覆われ、日の光はわずかにしか届かない。なのに、その女性にだけ真っ黒な影ができていた。影ははっきりとした人型をしており、女性の動きに合わせることもなく、その形のままで一緒に移動していく。
由起葉は空いている方の手で目をこすった。そしてもう一度見てみると、女性の足元から影は消えていた。
「タカヤ、もう行こう」
嫌な感じがして、由起葉はその場から立ち去ることを決めた。気のせいだと思い切ることができない。
多加弥はわけもわからず由起葉に引っ張られて公園から出た。
「急にどうしたの?顔色悪いけど、大丈夫?」
「あぁ・・・うん。やっぱちょっと無理しちゃったのかな」
「今日はもう帰ろう。家まで送るよ」
二人はなだらかな坂を並んで歩いていった。病院の前からバスに乗ればこの坂は登らなくてすんだのだが、一度街へ下りてしまったので仕方がない。
坂の途中に神社へと続く階段がある。林の中へ消えるように伸びる石段だ。これが見えたら由起葉の家まであと少しだ。
ただでさえ曇り空で薄暗いのに、石段は周りの木々のせいで余計に暗く、少し気味悪かった。
前を通り過ぎようとして何気なく上を見た。すると、ちょうど誰かが神社から出てくるところだった。石段をゆっくりと降りてくる。
まだ若い女の人だった。知った顔ではない。だが、由起葉はそこから動けなくなってしまった。
「どうしたの?あの人知り合い?」
由起葉が止まったので、多加弥も一緒になって上を見る。多加弥には女の人の姿しか目に入らない。だが、横にいる由起葉にはあり得ないモノが見えていた。
真っ白な毛。人の背丈を超える大きな体。金色の目に巨大な口。どう見たってペットじゃない。そもそも動物なのだろうか。あんなに大きな犬を、由起葉は見たことがない。
巨大な犬は、女の人の後ろにぴたりとくっついて石段を降りてくる。その動きはあまりに軽やかで、体重を感じさせない。
「ユキハ?」
やはり多加弥には見えていないようだ。いったいなぜ自分にだけ見えるのか。あれは何なのか。危険なものなのか。放っておいていいものなのか。
目が合った。女の人とではない。巨大な犬と目が合ってしまった。
(まずい)
犬が心なしか構えたように見えた。由起葉は背筋がぞわりとして、思わず逃げ出した。振り返らずに必死で走る。
またもやわけのわからない多加弥は、荷物を持って追いかける。なだらかとはいえ坂道だ。退院したばかりの由起葉はもちろんのこと、多加弥も息があがってしまった。なんとか家の前まで来て二人でへたり込む。
「ど・・・どうしたの?今日・・・おかしいよ?」
「・・・・」
言葉が出ない。呼吸が整わないせいもあるが、落ち着いていたとしても、なんと答えていいかわからない。
多加弥の言うとおりだ。おかしい。どうかしている。自分がどうにかなってしまったのか、周りがどうにかなってしまったのか、それはわからないが、おかしいのは事実だ。
多加弥には見えないものが自分には見えている。気のせいじゃない。あの犬と目が合ったとき、どこかで確信してしまった。でも、信じたくない気持ちがある。
「タカヤ・・・」
自分の知らないことが次々と起こる恐怖で、由起葉は思わず多加弥に抱きついた。こうして顔を押し当てている間は何も見なくてすむ。それは安心につながった。
「ユキハ、ここ家の前だよ?」
「だからなに?今放したら、私死んじゃうから」
そんな風に言われて突き放せるわけもなく、多加弥は黙ってされるままにしていた。
由起葉は事故のショックで混乱状態にあるのかもしれない。だとしたら時間をかけて安心を与えてやらねばならない。多加弥は今の状況をそう考えた。
変わらぬ日常が由起葉を落ち着けてくれるはず。見えない多加弥は信じていた。