・蛇と呪いと契約と(8)
「タカヤっ」
由起葉の声に目を開く。少し頭痛がして手で押さえた。
現実だ。多加弥は自分の右腕を見た。何か黒い影のようなものが絡みついている。その姿は鮮明にとらえることができないが、由起葉の目には蛇として映っているだろう呪いに違いなかった。
多加弥は左手で影をつかむと、引き剥がして真っ二つに引きちぎった。影は散って消えていく。
「タカヤ・・・?どういうこと?」
「話は後で。それより早くナイフを」
「う、うん」
由起葉は歩美の手からナイフを叩き落とした。落ちたナイフを蹴って遠くへやる。
歩美はそのまま崩れるように座り込んだ。
「どうして・・・。どうしてダメなの・・・」
「足立さん」
多加弥は歩美の前にしゃがみこむと、地に着けた両手の上に手を重ねた。
「山上教授は俺の知る限りではそんなに軽い人ではありません。だからあなたとのことも、ただの遊びだったとは思えない。けど、山上教授は今の家族を選んだんです。その気持ちを考えてはくれませんか」
「考えたわよ。私だって考えたの・・・。でも、そんなに簡単に割り切れないじゃない」
「そんなの勝手だよ。そもそも間違ったことしてるのは・・・」
「ユキハ」
怒りの収まらない由起葉を多加弥は制した。
「私にはあの人しかいないの。あの人だけが私を見てくれるの」
「今はそう思うかもしれない。けど、あなたには未来がある。もっと素敵な人を見つけられる可能性がある。でも、梢ちゃんには父親は一人しかいないんです。そのたった一人の父親をあなたは奪い、梢ちゃんまで手に掛けようとするんですか?」
「あの人より素敵な人なんて、見つからないわよ・・・」
「あなたに見せる山上教授の優しさや強さは、梢ちゃんがいるからできるものなんですよ。その大事な娘を失って、果たして今までのようにあなたに優しくできるでしょうか。たぶんできないと思ったから、山上教授はあなたと別れることを決めたんじゃないですか?」
「・・・・」
「もう一度冷静になって考えてください。ただ、俺にはあなたが新しい恋を見つけるのは不可能だと思えない。今は自分の思いにとらわれているだけです。ずっと先の未来まで笑いあえるような相手を、どうか見つけてください」
多加弥は歩美から離れると梢を抱き上げた。歩美は動かずに、ただじっと地を見つめていた。
「ユキハ、とにかく梢ちゃんを家まで運ぼう」
「う、うん」
多加弥は振り返らず歩きだした。由起葉は急いで後をついていく。多加弥の腕の中で、梢は静かに眠っていた。
梢の家に着くと、父親の山上教授がすぐに玄関までやって来た。
「梢っ。いったい何が?」
「えぇと・・・」
「今日は病院の日で、私も妻もついていってやることができずに一人で行ったんだ。なかなか帰ってこないから心配して、妻がちょうど病院まで向かったところなんだよ」
言葉を探す多加弥の横から由起葉が出た。
「梢ちゃん薬が効きすぎちゃったみたいで。私一緒に帰ってきたんですけど、薬の作用のせいか途中で寝ちゃったんです。一人じゃ運べなかったからタカヤを呼んだりしてるうちに遅くなってしまって。心配かけてすみません」
「そうなんですか。いや、こちらこそご迷惑を。タカヤ君も梢を連れてきてくれてありがとう。妻にもすぐ連絡して戻ってきてもらいます」
山上教授は多加弥から梢を受け取った。
「よかったですね。薬、すごく効いたみたいですよ」
「えっ」
「私、梢ちゃんと同じ病院に通ってるんです。ユキハといいます。梢ちゃんによかったねって、伝えておいてください」
山上教授は梢の手や足に視線を落とした。そこで初めて痣が消えていることに気付く。
「あ、あの」
「今日はこれで失礼します。お大事に」
由起葉は頭を下げて背を向けた。多加弥も同じように去ろうとして、呼び止められる。
「タカヤ君」
「はい」
「また・・・。またいつでも遊びにおいで」
「はい。ありがとうございます」
多加弥はにっこりと笑い返した。山上教授はほっとした顔を見せる。空白の時間はこれからゆっくりと埋まっていくだろう。
外はもうすっかり暗くなっていた。二人でふらふらと歩きながら、冷たくなった風を感じていた。
「とっさにあんなこと言えるなんて、すごいね」
「え?」
「梢ちゃんのこと」
「あぁ。薬の話は嘘だけど、病院で一緒になったのは本当なの。梢ちゃん、体中に痣みたいな跡ができてて、それを診てもらってたみたいでさ・・・」
由起葉は足を止めた。思い詰めた顔になる。
「タカヤ。いったい何をしたの?」
「何って?」
「だって、その・・・あのとき見えてた、よね?」
「ユキハ」
多加弥はゆっくり近付くと、由起葉をそっと抱きしめた。
「俺を生かしてくれたのはユキハなんだね。ありがとう。今まで俺は、何も知らずにユキハを独りにさせてたんだ。これからはユキハの足りないところを俺が補っていくから」
「タカヤ・・・何で?」
「フキっていう男と会ったんだ。左腕と引き替えに契約もした」
「どうしてっ」
「生身の腕じゃユキハを守れないからだよ。俺はユキハを失うわけにはいかないんだ。俺の手で守れるなら、腕の一本くらい惜しくない」
「タカヤ・・・」
由起葉は涙がこぼれた。
「なんでなのかな。苦しいのに・・・うれしい」
多加弥はその涙を拭うと、静かにキスをした。
「好きだよ、ユキハ。もう独りにさせないから」
多加弥のささやきは、夜の闇の中で由起葉を優しく包んだ。