駆け落ちした姉の代わりに嫁いだら、婚約者の子爵様が毎晩、姉の駆け落ち相手に手紙を書いています
姉の名前で呼ばれて「はい」と答えたとき、わたしは一つ目の嘘をついた。
その少し前まで、わたしは馬車の中で、姉の名前を書く練習をしていた。
膝に板を置き、便箋の裏に、イヴリン・ハロウェイ、イヴリン・ハロウェイ。姉の字は右上がりで、Hの横棒が長い。わたしの字は小さくて、まっすぐだ。十四の年から、家の帳簿をつけてきた字だった。
揺れで線が跳ねるたびに、紙を裏返した。
便箋の表には、姉の置き手紙が書いてある。
もう何度も読んだので、目を閉じても言えた。
『ごめんなさい、エミリー。子爵様の書記の、トビアス・ヘイルという方と行きます。北の訛りがあって、剣だこがあって、笑うと子どもみたいになる人です。探さないで。父様には、あなたから上手に言って』
上手に言えるはずがなかった。
父は手紙を三度読み、暖炉に投げかけて、やめた。それから、わたしを見た。
「子爵家で、イヴリンの顔を知っているのは、あれと逃げた書記だけだ」
エスクフォード子爵ローレンス様は、今年の一月に叔父上から爵位を継いだばかりで、王都には一度も顔を出していない、と父は言った。婚約は亡くなった先代様と父の約束で、婚礼は夏至と決まっている。
跡継ぎの男子のいないハロウェイ家にとって、この縁談は、娘三人の行き先そのものだった。
「お前が行け。イヴリンとして」
ばれたら、名義の詐称になる。父は牢へ行き、家は潰れ、十二になったばかりの末の妹ポリーの縁談も消える。
わたしは「はい」と言った。家の中で、わたしが言える言葉はたいていそれだった。
出発の朝、ポリーが玄関まで追いかけてきた。
「エミリー姉さま、いつ帰ってくるの」
「……しばらく、帰れないの」
「じゃあ、手紙を書く。毎週書く」
父がポリーの肩をつかんで、低い声で言い聞かせた。手紙を書くなら、イヴリン姉さまに書きなさい。ポリーは分からない顔で、わたしを見上げた。
わたしは妹の髪を撫でて、馬車に乗った。
国境の城は、川のほとりの丘の上にあった。
灰色の石の塔が二つ。五月の終わりだというのに、風が冷たい。
「川向こうがグレトナ・ミルでさ」と、御者が鞭で北を指した。「鍛冶屋の前で誓えば、親の許しがなくても夫婦になれる村です。先月も、南から若い二人が駆け込んだって話で」
わたしは窓から目をそらした。
姉だ、と思った。
城の前庭に、若い男の人が一人で立っていた。
痩せていて、背が高い。黒い上着に、飾りのない襟。首に細い鎖をかけていて、その先に、指輪が一つ下がっていた。
馬車の段を降りるとき、その人が手を貸してくれた。手のひらは柔らかく、右手の中指の先に、インクの染みがあった。
「遠いところを、ようこそ」
その人は、わたしの顔を長いあいだ見ていた。
何かを確かめるような目だった。わたしは息を止めた。
「……イヴリン嬢」
「はい」
声は震えなかった。練習したからだ。
あてがわれた部屋に、姉の頭文字の刺繍が入った荷が運びこまれた。鞄も、手袋も、ハンカチも、E・H。
イヴリンとエミリーは、頭文字が同じだった。
わたしの持ち物に、わたしの名前は一つもなかった。
その夜の夕食は、長い食卓の端と端ではなく、角をはさんで二人だった。
子爵様は、王都からの道中のことを少しだけ訊き、わたしは少しだけ答えた。姉ならもっと笑って、もっと喋っただろう。わたしは姉の笑い方を思い出そうとして、うまくいかなかった。
食事が終わると、子爵様は立ち上がって言った。
「ここを、あなたの家だと思ってください。……しばらくのあいだでも」
しばらくのあいだ。
その言葉が、寝台に入ってからも耳に残った。
*
城の家政婦のマーシュ夫人は、先代様の代から四十年この城にいる人で、よく喋った。
「旦那様がお着きになったのは二月でございます。書記のヘイル様とお二人で。ヘイル様は着いて三日で王都へお使いに出られて、それきり」
それきり。
わたしはお茶を飲んで、何も言わなかった。
子爵様は丁寧な人だった。
朝は「よく眠れましたか」と訊き、夕食では、わたしが手をつけない皿を黙って下げさせた。けれど、それ以上は近づいてこない。廊下ですれ違うと、半歩よける。
言葉は王都の人のようにきれいで、北の訛りはどこにもなかった。
三日目に、わたしは帳簿を見つけてしまった。
食料庫の棚に、先代様のころからの家計簿が積んであった。蝋燭の数と、小麦の量と、使用人の給金が合わない。最後の半年は、日付さえ飛んでいる。
黙っていられなかった。十四の年から、ハロウェイ家の帳簿はわたしがつけてきたのだ。
書斎に持っていくと、子爵様は机で、別の帳簿を開いていた。
「……ご自分で、おつけになるのですか」
「ええ。ほかにできる者がいないので」
子爵様は少し困った顔をして、椅子をもう一つ引いた。
その晩から、わたしたちは同じ机で帳簿をつけるようになった。
子爵様の数字は几帳面で、繰り上がりの小さな点まで揃っていた。ペンを持つ指のたこが、中指の第一関節に硬く盛り上がっている。剣を握る人の手には見えなかった。
蝋燭が、毎月十二本ずつ足りなかった。
わたしが三晩かけて古い帳面を突き合わせると、先代様の代から、礼拝堂の燭台の分が台所の帳面に入っていなかっただけだとわかった。盗んだ人はいなかった。
「……見つけましたね」
子爵様が、わたしの指さした行を覗きこんだ。肩が近かった。
「わたしは二月から、ずっとこの十二本を探していたんです」
「ほどけば、たいていは一本の糸です」
言ってから、しまったと思った。姉は、こんなことは言わない。
子爵様は何も言わずに、その行に小さく印をつけた。それから、少しだけ笑った。口の端が、ほんのわずかに動くだけの笑い方だった。
ある晩、子爵様が一枚の書類を脇へ寄せた。
「それは、子爵が——」
言いかけて、止まった。
「……わたしが、落ち着いてから署名します」
言い間違えたのだろうと思った。
わたしも、姉の名前を書く欄のある書類には、手を伸ばさなかった。
子爵様は毎晩、帳簿を閉じてから、手紙を一通書いた。
「毎晩、どなたに?」
「王都に。夏至までに、片をつけなければならないことがあるので」
婚礼のことだと思った。
封をして、宛名を書く。その晩、わたしは見てしまった。蝋燭の明かりの下で、インクがまだ濡れていた。
『王都フェアヘイヴン カナル通り トビアス・ヘイル様』
わたしは、持っていたペンを置いた。インクが一滴、帳簿の余白に落ちた。
この人は、知らないのだ。
自分の書記が、自分の婚約者と逃げたことを。そして毎晩、帰ってこない友に手紙を書いている。
わたしは帳簿に目を落とした。数字が一つも頭に入ってこなかった。
姉の嘘の上に、わたしの嘘がある。そのどちらも、この人に向いている。
その週の日曜の朝、村の教会へ向かうとき、使用人たちは馬に乗り、子爵様は歩いた。
「馬は、お嫌いですか」
「向こうが、わたしを嫌うので」
わたしも歩くことにした。丘を下る道に、野生の薔薇が咲いていた。
教会で、最初の結婚予告が読まれた。
「エスクフォード子爵ローレンス・エスクフォードと、ハロウェイ男爵家の長女イヴリン・ハロウェイは、夏至の日に結婚する。この結婚に異議のある者は、申し出よ」
わたしは膝の上で手袋を握り、目を伏せた。
隣を盗み見ると、子爵様も目を伏せていた。
疑われている、と思った。
*
二週目の終わりに、雨が三日続いた。
帳簿は片づいてしまって、わたしたちは暖炉の前で、することもなく座っていた。
「ご家族のことを、聞かせてください」
子爵様が言った。わたしは火を見たまま、少し考えた。
姉のことなら、いくらでも嘘がつける。けれど口から出てきたのは、別の話だった。
「すぐ下に、妹がいます」
「どんな方ですか」
「地味な子です。舞踏会では、いつも姉の隣に立っていて、誰かに声をかけられるときは『妹さん』と呼ばれます。名前で呼ばれることは、あまりありません」
子爵様は黙って聞いていた。
「帳簿と繕い物ばかりしています。十四から家の帳簿をつけていて、銀貨が一枚合わなくても、夜中に起きて数え直すような子で。……刺繍の糸を解くのが上手なんです。人が失敗したところを、きれいにほどいて、やり直せるようにする」
喋りすぎた、と気づいて、口をつぐんだ。
子爵様は火を見ていた。
「その方は、何を望んでいるんでしょう」
「え?」
「帳簿と繕い物のほかに。何か、欲しいものは」
考えたことがなかった。
暖炉の中で、薪の端が赤く光っては消えた。
「……たぶん、名前で呼ばれたいんだと思います。一度くらいは」
子爵様は、しばらく何も言わなかった。
「わたしの書記も、そういう男です」
胸が冷たくなった。
「トビアスは、乳母の息子です。子どものころから、主人の後ろを歩いてきました。王都の言葉しか話せなくて、剣は下手で、馬に乗ると必ず落ちる。面白みのない男です。主人の役に立つことだけが取り柄で、それがなければ、ただの書記です」
子爵様の声は、ずいぶん細かかった。
裏切られてもまだ庇っているのだ、と思った。
「……その妹さんに、会ってみたい」
子爵様が言った。わたしは膝の上で指を組んだ。
「わたしも、トビアスさんにお会いしてみたいです」
二人とも少し笑った。笑ってから、どちらも黙った。
薪がはぜた。
「あなたは」と、子爵様が言った。「この結婚を、望んでいますか」
わたしは答えを探した。
はい、と言うのが正しい。イヴリンなら、そう言う。
「……望んではいけない、と思っていました」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
子爵様は長いこと黙って、それから、火に向かって言った。
「あなたは、もっと良い人と幸せになれます」
その晩、わたしは寝台の中で、天井の梁を数えた。
八本あった。何度数えても八本だった。
わたしは、あの人を好きになってしまったのだ。姉の婚約者を。姉の名前のまま。
翌朝、マーシュ夫人が夏至の支度の話をした。
「夏至の晩は、村じゅうで火を焚くんでございますよ。恋人同士が手をつないで跳ぶと、一生離れないって申しましてね。ヘイル様なんか、いらしたら三度は跳んだでしょうねえ。よく笑う、陽気なお方で。着いた日には、馬で丘を駆けおりていかれて」
馬に乗ると必ず落ちる、と子爵様は言っていた。
友のことは、控えめに言うものなのだろう。わたしは笑えなかった。
二度目の予告が読まれた日曜も、子爵様は目を伏せていた。
*
六月の半ば、父が城に来た。
子爵様の前では愛想よく笑い、娘をよろしくと頭を下げた。
夕食の席で、父は先代様との昔話をした。若いころ、海で溺れかけた先代様を、父が引き上げたのだという。わたしも初めて聞く話だった。
「ですから、この縁談は、わしと先代様の約束でしてな。顔もご覧にならずにお決めいただいた縁で、さぞご不安だったでしょうが」
「いいえ」と子爵様は言った。「お会いできて、よかったと思っています」
父の手が、葡萄酒の杯の脚をいじった。子爵様は、わたしを見なかった。
食事が終わって二人きりになると、父の声が低くなった。
「式が済むまで、絶対に気づかれるな。書記のことは、死んでも言うな」
父は鞄から、ハロウェイ家の帳簿を出して机に置いた。
「ついでに、これも片づけておけ。お前がいないと、合わん」
わたしは帳簿の表紙を見た。わたしの字で、年号が書いてあった。
父はしばらくその字を見ていた。それから、疲れた顔で目をこすった。父が年を取ったことに、そのとき初めて気がついた。
父は村の宿屋に泊まると言って、帰っていった。
その夜、わたしは父の置いていった帳簿の最後の頁に、折りたたんだ紙が挟まっているのを見つけた。
ポリーの字だった。父の目を盗んで、挟んだのだろう。
『イヴリン姉さまへ』
表にはそう書いてあって、開くと、一行目が違っていた。
『エミリー姉さま。お父さまにはないしょです。きょう、姉さまの縫ってくれたエプロンのすそがほつれました。姉さまみたいに直せません。早く帰ってきて』
わたしは手紙を二度読んで、蝋燭の火にかざした。
紙の端が茶色くなって、燃えあがる前に、手が止まった。
姉の名前を書いた紙なら、きっと燃やせる。わたしの名前が書いてある紙は、燃やせなかった。
手紙は、帳簿の中に戻した。
同じ週、王都から郵便の束が届いた。
子爵様の手紙だった。毎晩書いていた、あの手紙。十何通が紐で括られ、一番上に、郵便局の判が押してあった。
『宛所に尋ね当たらず』
子爵様は紐を解かないまま、束をしばらく両手で持っていた。
わたしは何も訊けなかった。書記は、姉と一緒に消えたのだ。この人も、とうとう何かあったと気づいたのだ。
その晩、帳簿を閉じたあとで、子爵様が言った。
「式の前の晩に、あなたにお話ししなければならないことがあります」
わたしは「はい」と答えた。
声が、少しだけ震えた。
ばれたのだ、と思った。姉と書記のことも、わたしが偽物だということも。
帳簿の中の、ポリーの手紙のことも。
式まで、あと五日だった。
三度目の予告の日曜は、よく晴れていた。
牧師様が同じ文句を読み、最後にこう言った。
「この結婚に異議のある者は、今、申し出よ」
わたしの膝が、勝手に浮いた。
立ち上がって言ってしまえば、全部終わる。
腕を、父の手が押さえた。指が食いこむほど強かった。
わたしは座り直した。
視界の端で、子爵様の手が、前の長椅子の背を握っていた。
指の関節が、白くなっていた。
*
夏至の前の晩、わたしは部屋で、姉の名前を書いた紙を膝に広げていた。
馬車の中から、ずっと練習してきた紙だった。イヴリン・ハロウェイ。今ではもう、姉の字と見分けがつかない。
明日、黙って「はい」と言えば。
家は救われる。ポリーは守られる。わたしは、あの人の妻になれる。
ただしそれは、姉の名前の「はい」だ。その結婚は最初から嘘で、あの人は一生、イヴリンという女を妻だと思って暮らす。
わたしは、どこにもいなくなる。
本当のことを言えば。
あの人を失う。家を失う。牢に入るのは父かもしれないし、わたしかもしれない。そのうえ、あの人の友が婚約者を連れて逃げたことまで、この口で告げることになる。
どちらを選んでも、誰かが傷つく。
わたしは長いこと、紙の上の姉の名前を見ていた。
式の前の晩に話がある、と、あの人は言った。今が、その晩だった。
あの人がこの部屋の扉を叩くのを、待つこともできた。そうすれば、わたしは暴かれる側でいられる。自分では何も選ばずに済む。
十九年、ずっとそうしてきた。
帳簿の間から、ポリーの手紙の端が覗いていた。
エミリー姉さま、と書いてあった。
それから、紙を暖炉にくべた。
Hの長い横棒が、最後まで燃え残っていた。
書斎の扉の下から、明かりが漏れていた。
叩くと、「どうぞ」と声がした。
子爵様は机に向かっていた。ペンを持ったまま顔を上げて、何か言おうとした。
わたしは、その前に言った。
「わたしは、イヴリンではありません」
ペンが止まった。
「妹の、エミリーです」
言ってしまうと、膝が震えた。止まらなかった。
「姉は……あなたの書記の、トビアス・ヘイルさんと、駆け落ちしました。わたしは、姉の代わりに来ました。父に言われて。でも、それはわたしが選んだことです。ずっと、あなたを騙していました」
子爵様は、わたしを見ていた。
長い沈黙だった。暖炉の薪が一本、崩れた。
それから、子爵様は笑った。
声を上げて笑った。この城に来て、初めて聞く声だった。笑いながら両手で顔を覆い、肩を震わせて、しばらく顔を上げなかった。
「……子爵様?」
「トビアスは」
手の隙間から、声がした。
「トビアスは、駆け落ちなどしていません。この城を、一歩も出ていない」
子爵様は顔から手を下ろした。目が赤かった。
「わたしが、トビアス・ヘイルです」
わたしは、その人の顔を見た。
インクの染みのある中指。北の訛りのない言葉。首の鎖に下がった、指にはめない指輪。
馬に乗ると、必ず落ちる男。
「では」
声がかすれた。
「では、姉と一緒にいるのは」
「ローレンス・エスクフォード。本物の子爵です。……あなたの姉上の、本物の婚約者です」
ローレンス様は、トビアスさんの乳兄弟だった。
顔も知らない相手に爵位で選ばれるのは嫌だ、と言って、二月に書記の名前を借り、婚約の書類を届ける使いとして王都へ行った。国境の城を空にはできないから、そのあいだトビアスさんが子爵の役を引き受けた。城に着いた日から、二人は名前を取り替えて名乗っていた。城の者は誰も、それまで新しい子爵の顔を知らなかった。
「五月に、一行だけ手紙が来ました」
トビアスさんは、机の引き出しから紙を一枚出した。
『妻にしたい人を見つけた。北島にいる。夏至には帰る』
「相手の名前が、ないんです」
「……あの人は、そういう人なんです。名前を書かなければ、面白いと思っている」
トビアスさんは紙を見下ろして、また少し笑った。
「その半月後に、婚約者が予定どおり城に着いた。だから、ローレンスは別の女を見つけて、婚約を捨てたのだと思いました。何も知らずに来た人に、恥をかかせるわけにはいかない。主人が帰るまで、子爵のふりを続けるつもりでした」
毎晩の手紙は、ローレンス様への報告だった。宛名が書記の名前なのは、ローレンス様が王都で、その名前で暮らしていたからだ。
戻ってきた手紙の束は、ローレンス様が北島へ発ったあとの下宿に届いていたのだ。
トビアスさんは、机の上の書きかけの手紙を、わたしのほうへ向けた。
宛名は、イヴリン・ハロウェイ嬢。
一行目に、こう書いてあった。
『わたしは、あなたの婚約者ではありません』
「明日の朝、あなたに渡すつもりでした」
わたしは、その一行を何度も読んだ。
この人も、今夜、同じことを決めていたのだ。
「わたしは、姉の駆け落ちを言えませんでした。言えば、わたしが姉でないとわかってしまうから」
「わたしは、ローレンスの留守を言えませんでした。言えば、わたしが子爵でないとわかってしまう」
わたしたちは顔を見合わせた。
わたしの嘘が、この人の思い違いの証拠になっていた。この人の嘘が、わたしの思い違いの証拠になっていた。三週間、二人で同じ机に向かって、二人で同じ穴に落ちていたのだ。
笑おうとして、うまく笑えなかった。
トビアスさんも、笑うのをやめた。
「帳簿をつける、地味な妹さんに」と、トビアスさんが言った。「お会いできました」
「面白みのない書記さんに」と、わたしは言った。「お会いできました」
トビアスさんは立ち上がって、机を回ってきた。
わたしの前で止まり、少し迷ってから言った。
「もう一度、あなたの名前を」
「……エミリーです」
「エミリー」
その人は、わたしの名前を呼んだ。
城に来て、初めてだった。
十九年のあいだに呼ばれたどの声よりも、ゆっくりだった。
それから、トビアスさんは困ったように眉を下げた。
「明日の式は、どうしましょう」
「……どうしましょう」
わたしたちは二人とも、明日の朝に結婚するはずの二人ではなかった。
夜が明けるまで、同じ机で、明日の言い訳を考えた。帳簿をつけるより、ずっと難しかった。一つも、まとまらなかった。
*
夏至の朝、泥だらけの馬車が城の前庭に飛びこんできた。
手綱を握っているのは、日に焼けた若い男の人だった。御者台から飛び降りて、大きな声で笑った。子どもみたいな笑い方だった。手綱を放した手のひらに、剣だこが見えた。
「トビー! 帰ったぞ、約束どおり夏至だ!」
北の訛りだった。
馬車の扉が開いて、姉が降りてきた。わたしを見て、目を丸くした。
「エミリー? どうしてあなたがここにいるの」
わたしが話すと、姉の顔から少しずつ色が引いて、最後に、真っ赤になった。
姉とローレンス様は、五月にグレトナ・ミルで夫婦になっていた。
鍛冶屋の前で名前を訊かれたとき、ローレンス様が「ローレンス・エスクフォード」と名乗り、姉はその晩ずっと口をきかなかったそうだ。
「だって、爵位で選ばれるのは嫌だったんだ」
「だからって、あの一行の手紙はなに。あなたのせいで、この子がどんな目に遭ったと思ってるの」
姉は、ローレンス様の耳をつまんだ。
トビアスさんが、横を向いて咳をした。笑いをこらえている咳だった。
姉は、それからわたしの前に来た。
旅の埃のついた手袋のまま、わたしの両手を握った。
「ごめんなさい。あなたに押しつけるつもりじゃなかったの。父様がこんなことをするなんて」
「わかってる」
「わかってないわ。あなたはいつも、わかってるって言うの」
姉は怒った顔のまま、泣いた。姉が泣くのを見たのは、母の葬儀のとき以来だった。
教会では、牧師様がもう待っていた。
三度読まれた予告は、ローレンス・エスクフォードとイヴリン・ハロウェイの結婚だった。
一度も、間違っていなかった。
間違っていたのは、長椅子に座っていたわたしたちのほうだった。
遅れて宿屋から来た父は、祭壇の前の姉を見て、それからローレンス様を見て、口を開けたまま立ち止まった。
ローレンス様は、父の前に立った。笑っていなかった。
「婚約は果たされました。違約はありません。支度金の上乗せもありません」
「で、ですが子爵様、こちらにも事情が」
「身代わりの件は、表には出しません。エミリー嬢の名誉のために」
父の肩から、力が抜けた。
ローレンス様は、牧師様から紙とペンを借りた。
「その代わり、ここに署名を。身代わりを企てたこと。二度と娘の名前と結婚を、家の借金の形に使わないこと。この紙は、わたしが預かります」
父は長いあいだ紙を見ていた。
それから、自分の名前を書いた。ジェラルド・ハロウェイ。震えた字だった。
「ポリー嬢の持参金は、義兄としてわたしが信託に預けます。父上には手が届かないように」
姉が、父の前に出た。
「父様。エミリーに、何をさせたの」
父は答えなかった。
わたしは、城から持ってきたハロウェイ家の帳簿を差し出した。この五日で、数字はすべて合わせてあった。
「これからは、お父様がつけてください」
父は帳簿を受け取った。
表紙の年号を見て、「エミ——」と言いかけて、それきり黙った。
牧師様は、もう夫婦になっている二人に、祝福だけを与えた。
そのあとで、ローレンス様はわたしとトビアスさんの前に来て、深く頭を下げた。
「すまなかった。トビー、指輪を」
トビアスさんは首の鎖を外して、指輪を渡した。
ローレンス様はそれを、自分の指にはめた。ぴったりだった。
「それから、頼みがある。書記はやめてくれ。この城の家令になってほしい。帳簿をつけられる者が、二人いるようだから」
夕方、村々で夏至の火が焚かれた。
グレトナ・ミルへ続く道の脇にも、焚き火が一つ燃えていた。
「跳びますか」と、トビアスさんが言った。
「転びませんか」
「たぶん、転びます」
わたしたちは手をつないで、火を跳んだ。
トビアスさんは着地でよろけて、わたしの手を離さなかった。
鍛冶屋の前には、ローレンス様と姉が、証人として立っていた。
鍛冶屋の親方がローレンス様を見て、「先月の兄さんじゃないか」と笑った。それから、わたしたちに向き直った。
「名前は」
「トビアス・ヘイル」
「エミリー・ハロウェイです」
自分の声で、自分の名前を言った。
「トビアス・ヘイル。この娘を妻とするか」
「はい」
「エミリー・ハロウェイ。この男を夫とするか」
「はい」
今度の「はい」は、わたしのものだった。
親方が、帳面とペンを差し出した。
姉の名前を書く練習ばかりしてきた手で、わたしは、わたしの名前を書いた。




