王子様の婚約者候補でしたが、とある理由で白紙になります。
小国の王子様の婚約者候補として最後まで残った転生者であるシルヴァーナ。ある日王室に呼び出され、いよいよ正式に婚約の話かしらと思って両親と3人で王城に来てみたら、婚約の話を白紙にしてほしいと伝えられる……その衝撃的な話に前世の記憶から思いつくまま行動を開始する、ある少女の半日の出来事です。
恋愛要素はありませんが、「恋愛」についての話は出てきます。
初投稿です。よろしくお願いいたします。
「ユーリーンとの婚約の件は白紙にさせてほしい」
陛下が私たち親子に頭を下げた。しかも王妃様まで一緒に。
いや、ちょっと待って。国王夫妻がそろって臣下に頭を下げるって、ありえないっしょ!
隣をちらりと窺えば、父は大きく息を呑み、母はあんぐりと口を開けて固まっている。なるほど、護衛まで退席させられた時点で嫌な予感はしていたけど、どうやら私の想像よりずっと大ごとらしい。
ようやく正気に返った父が慌てて頭を下げた。母は動かない。強い。いや、錯乱しているだけかもしれない。
「そそ、それは、どういう」
「これ、止めんか。王命だぞ」
「ですが、あなた」
「シルヴァーナはまだ婚約者候補でしかなかったのだから、婚約解消とは違い、なんら瑕疵のある話ではないぞ」
「ですが、今、婚約者候補はシルヴァーナ一人だったはず」
そうなんだよね。そこなんだよ、ママン。
ユーリーン殿下が十歳になった頃、私を含めて何人もの令嬢が婚約者候補に選ばれた。それからお茶会という名のお見合いを繰り返し、淑女教育やら殿下との交流やらを続け、ひとり減り、ふたり減り――気づけば私だけが残っていた。
なぜ私だったのかは、今でもよくわからない。
私は先月十七歳になり、殿下は来月十五歳。この国では十五歳の成人の儀に合わせて婚約が発表されることも多い。すでにその準備が進んでいるという噂も聞いていた。
つまり順当にいけば、ユーリーン殿下の婚約者は私になるはずだった。
「シルヴァーナに、何か問題があったのでしょうか」
ママン、強い。相手は国王陛下だよ。普通そこまで聞く?
でも、聞いてくれてありがとう。私もそこがいちばん知りたい。
「いや、シルヴァーナ嬢になんの瑕疵もない」
「そうです、悪いのは息子の方です。私はシルヴァーナなら妃としてこの国をともに支えていけると、心より思っておりました」
そこまで言って、王妃様がまた涙を拭った。
……ちょっと待って。そんなこと言われたら、こっちまで泣きそうになるじゃないですか。
王妃様は厳しい方だ。淑女教育では容赦なく叱られたし、それに耐えられず候補を外れていった令嬢も何人もいる。それでも私ひとりになったこの半年は、「辛くないか」と声をかけてくださることもあった。
だから、自分の評価が低いとは思っていなかった。
それでも、私に問題があったわけではない、と明言されて、胸の奥の痺れが少し抜けた。
「それでは――」
「もう良い、黙っておれ」
さらに食い下がろうとした母を、父が慌てて止めた。
うん、パパンは正しい。臣下としては、これ以上踏み込むところじゃない。
陛下は眉を下げ、王妃様はハンカチで涙を押さえている。
「妃とも話していたが、ここは王としてではなく、親として誠実に話さねばならぬと決めていた」
陛下の声が低くなる。
……いや、待って。それ、私たちが聞いていい話なの?
「これは身内の恥でもある。これから話すことは、他言無用とする」
私たち親子はそろって頷いた。
うん。聞きたくない。ものすごく聞きたくない。
「その、だな……あー……えー……」
いつもなら迷いなく言葉を選ぶ陛下が、完全に詰まっていた。
私が代わりに話を進めた方がいいんじゃないか思い始めた頃、陛下がようやく口を開いた。
「うちの、ばか息子は、なんというか……女性を、愛せない……らしい」
一瞬、意味がわからなかった。
隣では、父と母がそろって瞬きをしている。
陛下は深く息を吐き、それだけで一回り小さくなったように見えた。
「息子は、男性が好きだと白状したのよ。おかしいでしょ。なんで。女性の裸なんて気持ち悪いと言うのよ」
泣いていた王妃様の感情が、今度は怒りに振れた。
「非常識です」「王族としてどうするつもりなの」と、押さえていた言葉まで次々に出てくる。陛下がなだめても、簡単には止まりそうにない。
ああ。そういうことか。
前世の記憶も持つ私には、それはたいした問題じゃない。
男が男を好きになることも、女が女を好きになることも知っていた。珍しくはあっても、それだけで誰かを「おかしい」と決めつける話ではない。
でも、この世界では違う。
ましてユーリーン殿下のお立場なら、結婚して、子を残すことまで役目として求められる。
王妃様が取り乱す理由はわかる。それでも――。
殿下、きつかっただろうな。
とはいえ王族だ。「好きな相手としか結婚できません」で済まない。王位継承から外すのか、妹殿下や弟殿下の成長を待つのか。
……いかん。つい仕事みたいに先のことを考えてしまった。今はそこじゃない。
「殿下は、今は……」
父も何か言わなければと思ったのだろう。恐る恐る尋ねた声が震えている。
「自室で謹慎させておる。側仕えも入れ替え、今は妃の差配で猛省させているところだ」
やべっ、本格的に同情してきた。こっちは「婚約しなくてすむ、ラッキー」と思っていたのに。
いや、ユーリーン殿下が嫌いだったわけじゃない。むしろ真面目で礼儀正しく、王族としてきちんと努力している少年だと思っていた。ただ、恋愛対象として見たことがなかっただけだ。
殿下はまだ十四歳だぞ。
好きな相手の話どころか、「女性を好きになれない」と告白しただけで、母親からあれだけ責められたのか。
あー、前世でも親の立場だとそうなるのかもしれないが、ちょっと胸が痛む。
「もっと早くに気づいていれば、貴女をこんなに待たせることがなかったでしょう。本当に申し訳なく思っています」
王妃様はあらためて私に頭を下げるので、慌ててこちらも頭を下げ返す。
もしかすると王妃様は、私が婚約者候補として費やした時間の分まで、殿下に腹を立てているのかもしれない。
いや、本当に私はいいんです。むしろその分、殿下へのお怒りを少し減らしていただければ――とは、さすがに言えないけど。
「そこでだ、正式な婚約はしていないとはいえ、実質的には婚約者も同然の時間を過ごさせてしまったことに対し、慰労金という形で補填をしたいと考えている」
陛下の言葉に、両親は要りませんとは答えられなかったようで、「いや、それは……」と言葉を濁している。
こういうのは気持ちだけの話じゃない。王家が一方的に話を白紙にした以上、「申し訳なかった」の一言だけでは我が家の立場が悪くなる。慰労金という形を取るのは、双方の面子を立てるためでもある。
なんというか、こういう話になると妙に納得できる自分がいる。
前世の仕事を思い出すからかな。
「シルヴァーナ嬢の嫁ぎ先は、私が責任を持って見つけます。他国の王族に嫁いでも恥じない淑女に育っていますので、必ず良縁を結んでみせます」
ちょっと待ったー!
それは困る。ものすごく困る。
ユーリーン殿下との婚約だって、最初は嫌で嫌で仕方なかったのを、何年もかけて「まあ、この人なら」と自分を納得させたのだ。
それを白紙に戻して、はい次の男性……無理。
今から知らない男と一から結婚前提のお付き合いなんて、想像しただけで鳥肌が立つ。
「お待ちください、王妃様」
ここだけは黙っていられない。
「殿下との婚約の件が白紙になることは、謹んでお受けいたします。しかし、別の婚姻については、どうかお気遣いには及びません」
「それは、どうして」
王妃様が目を丸くする。どうしてって――。
言葉にしようとした瞬間、胸の奥に押し込めていたものが少しだけ熱を持った。
「王妃様のお心遣いには、心より感謝しております。ですが私は、殿下と婚姻するかどうかにかかわらず、この国のために働きたいと考えてまいりました」
一度言葉を切る。でないと、なんか口走りそうだ。
「女性にも、婚姻以外の形で国のお役に立てる道はございます。文官でも、商いでも、私にできることはあるはずです。ですから――次の嫁ぎ先ではなく、まずは私自身の道を選ぶ機会をいただきたいのです」
部屋が静かになった。陛下も王妃様も、父も母も、そろって私を見ている。
……あれ? そんなに変なこと言った?
いや、この世界の十七歳の貴族令嬢としては、かなり変なことを言ったのかもしれない。
でも、後悔はない。勢いで口にしただけで、ずっと考えていたことではある。
「それでは、私たちは貴女に何も報いることができぬではありませんか」
「報いなど、先ほどのお言葉にあった慰労金で十分でございます」
あっ、でも一つだけ。
「とはいえ、もし私の意をお汲みいただけるのであれば、一度、ユーリーン殿下と二人だけで話す場を設けていただきたく存じます」
「それで良いのか。其方がかえって傷つくのではないか」
陛下も私を案じているらしい。いい人なんだろうと思うよ、陛下も王妃様も。だから余計に難しい。
でも、私は殿下に一つだけ伝えておきたいことがある。
あなたは、おかしくない。
この機会を逃せば、それを言える人間が殿下のそばに現れるのが、いつになるかわからない。
「はい、私は殿下ご本人から、直接お話を伺いたく存じます」
「二人きりがよいのか」
「できましたら。誰にも遠慮せず、互いに本音で話せる場をいただければと思います」
「ですが、未婚の男女を二人きりにするのは……」
王妃様が難しい顔をされると、父と母も同時に頷いた。
そりゃそうだ。この世界の常識では、年頃の男女を密室に放り込む方がおかしい。
けれど陛下は少し考えたあと、私の意を汲んでくださった。
さすが陛下、太っ腹……いや、別に太ってはいないけど。
「護衛も扉の外に控えさせる。長時間でなければ問題あるまい。まあ、シルヴァーナ嬢が愚息を一発殴るくらいなら、大目に見よう」
「一発なんてぬるいですわ。顔が腫れるくらい殴ってかまいませんよ」
王妃様、過激。
隣を見ると、うちの両親まで顔を青くしている。
いや、殴りませんよ?
……あれ。もしかして私、そんなに怖い顔してた?
国王夫妻の決断は早かった。話はその日のうちにまとまり、私は王族専用の談話室でユーリーン殿下と向かい合うことになった。
父と母は別室で待機。陛下も執務に戻り、侍女と護衛まで部屋の外へ下がった。
残ったのは、王妃様と、私と――ユーリーン殿下。
なんというか、私が望んだこととはいえ、ものすごい特別扱いである。
もっとも、今はそんなことより殿下の顔の方が気になった。
いつもなら姿勢を正し、柔らかく微笑んでいる少年が、今日は目線が下がったままだ。
「あなたたちを信用していないわけではありませんが、さすがに長時間二人きりにはできません。二十分ほどしたら戻ります。それまでにシルヴァーナ嬢はこの子を煮るなり焼くなり好きになさい。もちろん不敬は問いませんよ」
王妃様、まだ相当お怒りらしい。
ありがたいお許しではありますが、煮ませんし焼きません。殴る予定もないです。
私がしたいのは、もっと別の話だから。
ユーリーン殿下は、ずっと黙っている。
背筋こそいつも通り伸びているが、目の下には薄く影が落ち、頬も少し痩せたように見えた。何より、こちらを一度も見ようとしない。
……想像していたより、ずっと参ってるな。
これでは「婚約がなくなってよかったですね」なんて軽口は、とても言えそうにない。
「ユーリーン。シルヴァーナ嬢には誠実に話しなさい」
王妃様はそれだけ告げると、振り返らずに部屋を出ていかれた。
怒鳴るより、この言い方の方が怖い。でも、ああいう迷いのない物言いは昔から好きだ。……まあ、別の意味でも弱いんだけど。
私には怒りはないし、驚きなどとっくに冷めているので、笑顔で、やさしく声をかけてあげよう。
「では、殿下、時間もありませんので、お話を始めましょう」
「いや、その前に謝罪をさせてほしい」
ユーリーン殿下が、ようやく私を見た。
「私のせいで貴女を傷つけ、これまでの努力を無にさせてしまった。本当に申し訳ない」
そう言って、深く頭を下げる。
王族が、臣下の令嬢にここまで頭を下げる必要なんてないはずだ。自分だって今はそれどころじゃないほど苦しいだろうに、最初に私への謝罪を選んだ。
この人は本当に真面目なんだな。
「謝罪をお受けいたします。ですが、私は謝罪を求めてここへ来たわけではありません。殿下と率直にお話ししたいのです」
「真摯に話すことを誓おう。だが……話せばかえって不快にさせてしまうかもしれない……」
「その心配は、たぶん必要ありません」
「……なぜ、そう言える?」
私は少しだけ笑った。
「それをこれからお話しします」
殿下が戸惑った顔をする。
まあ、そうなるよね。
さて。時間は二十分。ちゃっちゃと本題に入りましょう。
「まず座りましょうか」
王族より先に腰かけるなんて普段ならあり得ないが、今日は特例ということで遠慮なくソファに座る。
殿下も向かいの椅子に腰を下ろした。ただし背もたれには一切触れず、両膝をそろえ、背筋は一直線。
……入社面接か。
前世の就活生に見せてやりたいくらい姿勢がいい。
まあ、面接官役は私なんだけど。
「殿下のご事情について陛下から聞き及びましたが、それは婚約を避けるためについた嘘ではないのですよね」
直球なのは自覚している。でも、ここを曖昧にしたまま話を進めるわけにはいかない。時間も二十分しかないのだから、遠慮や遠回しはしたくない。
殿下は一瞬うつむいた。耳まで赤くなっている。それでも逃げずに顔を上げた。
「ああ、嘘ではない。その……貴女には、汚らわしく思われるだろうが……」
殿下が怖がっているのは、自分のせいで婚約がなくなることではない。私からも嫌悪されることなんだ。自分自身を嫌悪しているのかもしれない。
「大丈夫です、殿下」
できるだけ普通の声で答える。
「私は、そのことを理由に殿下を厭わしく思うことはありません」
殿下は目を見開いた。
でも、本当に驚くのはこれからなんだよね。
「殿下。今度は、私の秘密をお話ししますわ」
「秘密?」
「はい。両親にも、誰にも明かしたことのない秘密です」
殿下の表情が変わった。
「いや待て。そんなことを、私が聞いていいのか」
「本来なら、正式に婚約し、婚姻することになった際にお伝えするつもりでした。ですから、少し時期が早まっただけです」
「でも、それは……やはり私にその資格は――」
「あります」
即答した。これは私の覚悟でもある。
「というより、聞いていただきます。どうしても気になるのでしたら、婚約予定を白紙にした慰労金の一部だとでも思ってください」
「慰労金……」
「冗談です」
半分くらいは。
殿下が困ったような顔をしたので、このあたりで勘弁しておく。
「ただし、このことは王家の皆様にもお話しにならないと、お約束いただけますか」
「もちろんだ。他言しないと誓う」
素直だねぇ。まあ、この状況で嫌だとは言えないだろうけど。
それでも、いざ口にするとなると緊張する。自分の秘密を誰かに話すのは、これが初めてだった。
少しだけ息を整える。
「殿下は、『生まれ変わり』や『前世』という言葉をご存じですか」
「ん? 宗教的な言葉ではなかったか? 他国の宗教で、それを唱えていたものがあったと記憶するが」
「では、話は早いですね」
一度目を閉じる。深く息を吸う。
目を開け、殿下のご尊顔を正面に見据えてから、口を開く。
「実は私には、前世の記憶があります」
「……は?」
うん。そうなるよね。
疑っているというより、意味が理解できていない顔だ。私だって、いきなり十七歳の令嬢からそんなことを言われたら同じ顔をする。
でも時間はない。ここは一気に畳み掛ける。
……この国に畳はないけど。
「私には、この国とも、この世界のどの国とも違う場所で生きた記憶があります。そこは、ここよりはるかに科学の進んだ世界でした」
殿下は黙って聞いている。
「馬を使わずに走る鉄の乗り物が町中を走り、この城より高い建物がいくつも並んでいました。空を飛ぶ大きな乗り物もあって、私はそれに乗って何度も国境を越えました」
「空を……?」
「飛びます」
「人が?」
「何百人もまとめて」
「……」
あ、また固まった。
「私はその世界で商人をしていました。いろいろな国を回って、品物を売ったり買ったり、現地の人間と交渉したりする仕事です」
ここまで話しても、殿下は何も言わない。
まあ、想像できないよね。
でも大丈夫。反応としては予定通りだ。
「私の生まれ育った国には、貴族も平民もありませんでした。男も女も同じ権利を持ち、望む仕事を選ぶことができました」
「身分が……ない?」
殿下は、空を飛ぶ乗り物の話より驚いた顔をした。
まあ、王族にとってはそっちの方が理解不能か。
「それで国が成り立つのか……?」
「成り立っていましたよ。問題はいくらでもありましたけどね」
そこを詳しく説明し始めたら二十分では到底足りない。本題は政治制度じゃない。
「そして、恋愛についての考え方も、この国とはかなり違いました」
「恋愛?」
「はい。男が女を好きになるだけが、恋愛ではありませんでした」
殿下の表情が止まる。
「男が男を好きになることもあります。女が女を好きになることもあります。数としては多くありません。でも、それだけを理由に、その人間がおかしいと決めつけるべきではない――少なくとも、私が生きていた国では、そう考える人が大勢いました」
「……そんなことが」
「国によっては、男性同士や女性同士でも正式に結婚できました」
今度こそ、殿下は言葉を失った。
「ですから、殿下」
信じてもらえるかな。信じてほしいな。
「男性が男性を好きになることは、おかしいことではありません」
「……」
「少なくとも私は、そういう人間を何人も知っていました。普通に働いて、笑って、怒って、好きな人がいて――ほかの人と何も変わりません」
殿下が唇を噛んだ。
「この国では、まだ受け入れられない考えなのでしょう。王族である殿下には、普通の人以上に背負わなければならないものもあると思います。だから、すべて簡単に解決するなんて言えません」
一度、言葉を切る。
「それでも、自分自身まで否定しないでください」
殿下を見る。
殿下が顔を上げる。
殿下と視線が合う。
「少なくとも、私は殿下の味方です」
「シルヴァーナ……」
そこで初めて、殿下が私の名前を呼んだ。
「前世には、男性を好きな男の友人もいました。特別な人間じゃありません。普通の友人でしたよ」
殿下の目から、涙が落ちた。
ああ。本当に辛かったんだな。
「あ、ありが……とう……」
「はい」
「どうしても、それを殿下に伝えたかったんですよ。理解してくれる人間が一人いるだけでも、少しくらい心が軽くなるかなって」
言ってから、急に照れくさくなった。
つい前世の癖で、頭をがしがしと掻いてしまう。
……淑女としては失格だな、今の。
でも、殿下がほんの少し笑った気がしたので、まあいいか。
本当なら、ここで落ち着くまで待ってあげたい。しかし王妃様が戻ってくるまで、あと何分ある?
申し訳ないけど、まだ最大級の爆弾が残っている。
「殿下。実は、まだ続きがあります」
涙を拭いながら、殿下が頷いた。
「……聞こう」
さて。こっちの方が、ある意味では言いづらい。正直、まだ少し迷っている。
一度、大きく息を吸う。
「私の前世ですが――」
ここまで来たら、もう勢いだ。
「四十代の男性でした」
殿下が何度か瞬きをした。
「男だったんだよ、オレは」
「……は?」
まあ、そうなるよな。
誰かに向かって「オレ」と言ったのは、この世界に生まれてから初めてかもしれない。
そのままソファの背にもたれ、脚を少し広く。母が見たら卒倒しそうな座り方だ。
「シ、シルヴァーナ……?」
「ああ、気にしないで。この方が楽なんだよ」
「いや、急に雰囲気が……」
「変わっただろ?」
つい、鼻で笑ってしまった。さすがにこれもアウトだな。
「殿下にも信じてもらいたいからな。十七年間染みついた淑女の振る舞いをしてたら、前世が男だったなんて言っても実感湧かないだろ」
「では……今、自分を男だと思っているのか?」
そこは少し考えた。
「うーん。そこまで単純じゃないんだよな」
この身体で十七年生きてきた。それも自分だ。
でも四十年以上男として生きた記憶も、間違いなく自分の中にある。
「今はシルヴァーナだよ。ただ、中身には四十代のおっさんだった頃のオレも、しっかり残ってるって感じかな」
膝を開いたまま、両膝に手を乗せ、前かがみになる。
殿下はちょっと体を引いた。
大丈夫、食べないぞー。
「まあ、簡単に言えば、十七歳の令嬢の中に四十代のおっさんが同居してるようなもんだ。しばらく話してれば慣れるよ」
「慣れろと言われても……」
「頑張れ」
「雑だな」
お。
今、殿下が少しだけ普通に突っ込んだ。
さっきまで死人みたいな顔をしていたことを思えば、大進歩だ。
「あっ、いや……わかった」
何を言ってもオレの態度が変わらないと諦めてくれたようだ。荒療治すぎたかなとも思うが、言葉だけより信憑性があるはず。
「それで、もう一つ大事な話がある」
「まだあるのか」
「あるんだよ。前世のオレは、女性が好きだった」
殿下が瞬きをする。
「恋愛対象として、という意味だぞ」
「……ああ」
「で、それはどうも今も変わってない」
「今も?」
「男を見ても、全然ときめかない。美形だなとか、格好いいなとは思うけど、それと恋愛感情は別なんだよ」
目の前の殿下を見る。
「殿下だって、顔だけなら相当いいと思うぞ」
「か、顔だけ?」
「褒めてるんだよ」
「そうは聞こえない」
殿下の瞬きが増えたよ。まつ毛長いな。
「念を押すけど、この秘密も含めて、誰にも言わないでくれよ」
「それは……言っても、誰も信じないだろう」
「そうだよな。オレもそう思う」
「だが、それなら……なぜ貴女は私の婚約者候補になったんだ?」
「それな!」
思わず指を差しそうになって、ぎりぎり止めた。
「オレもずっと不思議だったんだよ。最初の頃は、できるだけ候補から外れるようにしてたんだから」
「……そうなのか?」
「他の令嬢たちは殿下に好かれようと頑張ってただろ? 服とか髪とか、話題とか。だからオレは逆に、必要以上に近づかないようにした。話しかけられれば普通に答えるけど、自分からは売り込まない」
「ああ……」
殿下の顔が、妙に納得したものに変わった。
「何だよ、その顔」
「いや……それが、楽だったんだ」
「楽?」
「貴女だけは、私に好かれようとしてこなかったから」
なるほど。そういうことだったのか。
「まあ、でも十七にもなると、ずっと逃げ続けるのも無理だって分かってくるだろ」
「……婚姻のことか」
「そう。貴族令嬢である以上、誰とも結婚しません、で通せる可能性は低い。だったら知らない男に嫁がされるより、殿下の方がずっといいと思った」
「私が?」
「真面目だし、礼儀正しいし、頭も悪くない。人の話も聞く。王族っていう面倒くさい立場を除けば、相手としてはかなりまともだよ」
「褒められている気がしないのだが」
「だから褒めてるって」
少しだけ、殿下が笑った。
「だからオレも、最終的には覚悟を決めたんだよ。恋愛はできなくても、人間として信頼できるなら、一緒にやっていけるかもしれないって」
これ、たぶん殿下も似たようなことを考えてたんじゃないか?
それでも殿下はぎりぎりのところで耐えきれなくなったのだろう。気持ちはわかる。
「それでなんだけどさ」
「まだ何かあるのか」
「あらためて、オレたち婚約しないか?」
「……は?」
殿下の顔が固まった。
「婚約」
念のため、もう一度口にした。
「聞こえている!」
「ならよかった」
「よくない! 今、その婚約予定を白紙にするためにこんなことになっているんだぞ!」
うん。ごもっとも。
「まあ怒るなって。ちゃんと理由はある」
指を一本立てる。
「男性が好きな王子と、女性が好きな令嬢。しかも互いにその秘密を知っていて、恋愛感情はないけど、人間としては嫌いじゃない」
「……」
「偽装婚約の相手として、これ以上の組み合わせあるか?」
「偽装……婚約?」
「表向きだけ婚約者を続けるってことだよ」
殿下は額に皺を寄せる。
「殿下がこの先、王位継承者でいられるのかは分からない。でも、仮に王位継承から外れたって、『じゃあ一生独身でどうぞ』とはならないだろ」
「……おそらくは」
「オレも同じだよ。さっき王妃様から『次の嫁ぎ先は私が探します』って宣言されたばかりだ」
思い出すだけで背中がぞわっとする。
「殿下は女と結婚したくない。オレは男と結婚したくない。でも、この国で『嫌です』だけを通し続けるのは難しい」
「だから、互いを盾にするのか」
「そういうこと。殿下に婚約者がいれば、新しい令嬢を押しつけられにくい。オレにも婚約者がいれば、別の男との縁談を押しつけられにくい」
「……理屈は分かる」
お。食いついた。
「ただし」
「ただし?」
「今言った理由だけで婚約するなら、オレは反対だ」
「……貴女が言い出したのだろう?」
「そうだけど、最後まで聞けって」
殿下がものすごく納得いかなそうな顔をする。
「利害だけで結びついた関係ってのは、最初は楽なんだよ。でも何年も経てば事情は変わる。どちらかに好きな人ができるかもしれないし、最初はありがたかった約束が足枷になるかもしれない」
前世でも、そんな関係はいくつも見てきた。
「だから、秘密と利害だけで一生縛り合うのは危ない」
「なら、なぜ婚約しようなどと言ったんだ」
「可能性はあると思ったからさ」
「可能性?」
「今のままならダメだ。でも、この先、オレたちが互いに信頼できる関係になれたなら話は別だと思う」
「信頼……」
「秘密を握られているから逃げられない、じゃない。相手の弱みを握っているのではなく、相手と同じ道を歩いていると思える。嫌なことは嫌だと言えて、状況が変わったらちゃんと話し合える。そういう関係だよ」
そこで少し考える。
「まあ、友でも、同志でも、相棒でもいい」
「ずいぶん曖昧だな」
「まだ会議の途中なんだから、結論を急ぐなよ」
「決まっていないのか!」
「当たり前だろ。ついさっき互いの秘密を知ったばっかりだぞ」
「では婚約の話は早すぎるだろう!」
「だから“あらためて考えてみないか”って話だよ」
「最初は『婚約しないか』と言った!」
「細かいなあ」
「細かくない!」
思わず笑ってしまった。
さっきまで俯いて、まともにこちらを見ることもできなかった少年が、今は普通に文句を言っている。
うん。こっちの方がずっといい。
「あ、そろそろ時間だな」
部屋に据えられた時計を見る。
「オレはこれから淑女に戻るからな」
「戻る?」
「擬態するとも言う」
「貴女は自分を何だと思っているんだ」
「細かいことは気にするな。それより、前世が男だったことは絶対に内緒だぞ」
「それは約束する。しかし、まだ何か話すのか?」
「もちろん」
婚約の話はともかく、殿下にはもうしばらくお付き合いしていただこう。
「殿下がどんな国にしたいと思ってるのか聞きたい」
「国?」
「オレの考えも知ってほしい。お互いを知るのは、これからさ」
これからは交渉の時間だ。
「話し合いは済んだかしら。ユーリーンの頬は腫れていないようだけど、貴女はそれで満足したの?」
「はい、王妃様のご厚意のおかげで、殿下とは率直にお話しすることができました」
「そう、それは良かったわ」
王妃様の表情が、ほんの少しだけ緩む。
よし。
では、ここからが第二ラウンドだ。
「それで、厚かましいお願いとは承知しておりますが、もう少しだけお時間をいただけないでしょうか。できましたら、王妃様にもご同席いただきたく存じます」
殿下だけに話すなら、二人きりのままがいい。
王妃様にも残っていただきたいのには、もちろん理由がある。
他の男との縁談は勘弁してほしい。そのためには、私が「嫁がせるしか使い道のない娘」ではないと知ってもらう必要がある。
ついでに、殿下もまだ見限るほど駄目ではないと、少しくらい思い直してもらえれば上出来だ。
王妃様は眉を上げるが、私ではなく殿下に声をかけた。
「ユーリーンはそれでいいの?」
「はい、私ももう少し、シルヴァーナ嬢と話すべきかと思います」
「私が同席してもよろしいのね」
「はい」
殿下が返答し、私は頷いた。
「そう。ではお茶を入れ換えましょう」
セーフ! 時間通りに戻られた王妃様は私の提案に少し不満そうではあったが、まだ続けられそうだ。
王妃様の侍女が新しいお茶を三人の前に置いて、退室した。
「それで、貴女は何を話したいの」
「はい。臣下の身で恐れ多いことではございますが、殿下が将来、どのような国を望んでおられるのか、お聞かせいただきたく存じます」
王妃様が少しだけ眉を上げた。
「そう。ユーリーン、答えなさい。私もあなたの今の考えを知りたいわ」
よし。乗ってくれた。
殿下には悪いけど、ここから少し頭を使ってもらおう。
「最近は……自分のことで頭がいっぱいだった。だが、この先どのような立場になったとしても、国の役には立ちたいと思っている」
なるほど。気持ちは分かる。でも面接なら、その回答では弱い。
「私も同じく、この国のために働きたいと考えております。ですが、今お伺いしたいのは、その先でございます」
「その先?」
「殿下が『良い国』と考えるのは、どのような国でしょうか」
殿下は少し考え込む。
「民が安心して暮らせる国、だと思う。戦が少なく、飢える者が少なく、働けば暮らしていける国だ」
うん、平凡ではあるが、悪くはない。
王妃様を見ると、表情は変わらない。でも、さっきよりは目つきが柔らかい気がする。
「では、その安心を維持するには、何が必要だとお考えですか」
「外交だろう。我が国は周辺諸国との関係も悪くない。それを維持することが重要だと思う」
「はい。それは大切でしょう。ですが、相手国の事情まで、こちらの都合に合わせてはくれません」
「……どういうことだ?」
「友好国でも王が代わることがあります。飢饉が起こることもある。内乱もあるでしょう。昨日まで味方だった国が、十年後も味方とは限りません」
殿下の顔が引き締まる。
「つまり、外交だけでは足りないと?」
「はい。外交を続けるためにも、いざという時に備える力と、相手国を知るための情報が必要だと思います」
王妃様の眉が上がったように見えるが、もう少し踏み込んでも大丈夫かな。
「だが、こちらが軍備を強めれば、かえって周辺国を警戒させることにはならないか?」
あっ、王妃様の頬が明らかに引きつったよ。
「戦うためではなく、戦わずに済ませるためにも、備えは必要です」
「備え……」
「軍備もそうでしょうが、私がもっと重要だと思うのは情報です。相手国が何を欲しがっているのか。何に困っているのか。誰と争っているのか。それが分かれば、戦になる前に取引できることもあります」
「取引?」
「食料かもしれませんし、技術かもしれません。あるいは単純に、こちらが敵ではないと示す材料かもしれません」
王妃様の目が、少し鋭くなった。
「もちろん、私は軍事の専門家ではありません。ただ、争いを避けるためにも、相手を知ることは必要だと思っております」
「情報については、私も重要だと教わっている」
殿下が口を開いた。
「各国の収穫量や軍の動き、王家同士の婚姻まで、外交には必要な情報だと」
「そう。それです」
同意するように頷いておこう。
「情報は集めるだけではなく、どう使うかが大事です。殿下はすでに基礎を学んでおられる。あとは、それを国の施策と結びつけて考えればよいのだと思います」
ちらりと王妃様を見る。
ほら。何も考えていないわけじゃないでしょう?
「では、国内の発展についてはいかがでしょう」
「まずは農業だと思う」
今度は殿下の答えが早かった。
「我が国は山岳地も多いが、作物の実りそのものは悪くない。だからこそ灌漑を整え、耕作できる土地を増やせば、収穫も増やせるはずだ」
なるほど。王族教育としては、たぶん正解だ。
「では殿下。増えた作物は、どうなさいます?」
「どう、とは?」
「誰が買うのですか?」
「……民が食べるだろう?」
「今より収穫量が増えても、民の胃袋まで一緒に大きくなるわけではありません」
「胃袋?」
王妃様が口元をわずかに緩めた。
「この国は干ばつなどの被害も少なく、殿下のおっしゃるとおり、作物の生育も悪くありません。王宮での学習で、各地の作物の取れ高や非常用の備蓄についても学んでいますので、その数値に誤りがない限り、少なくとも平時の需要については、現状でも十分な生産量があると思われます」
同意するように殿下が頷いた。
「では殿下。収穫量が今より大きく増えたら、麦の値段はどうなると思われます?」
「量が増えるのなら……安くなる、のか?」
「はい」
「それなら良いことではないか。今より安く買えるなら、民も食べやすくなる」
「その通りです」
まずそこは肯定してあげよう。消費する側から見れば、安い方がありがたい。
「ですが、作る側はどうでしょう」
「作る側?」
「去年と同じ量の麦を作っても、今年は半分の値段でしか売れないとしたら?」
殿下が黙る。
「……収入が減る」
「はい。では、その農民は翌年も同じだけ種を買い、道具を直し、人を雇えるでしょうか」
「難しくなるな」
「そういうことです」
王妃様が静かに殿下を見ている。
今の答え、自分で出したでしょう。ちゃんと考えれば分かるんですよ、あなたの息子さんは。
「収穫を増やしたいのであれば、土地を増やす以外にも方法があります」
「どんな方法だ?」
「同じ土地から、今より多く取れる作物を作ることです」
「そんなことができるのか?」
「できます。たとえば同じ麦でも、実りの多いもの、病気に強いもの、早く育つものがありますよね」
「ああ。それは聞いたことがある」
「なら話は早いです。そうした性質の良いものを選び、何代もかけ合わせていく」
「より良い種を作るのか」
「その通りです」
今度は殿下の理解が早かった。
「ただ、これを一軒一軒の農家に任せるのは難しいでしょう。結果が出るまで時間もかかりますし、失敗もあります。ですから、国が試験農場のようなものを持って研究する価値があると思います」
「国が農作物を研究する……」
王妃様の視線がこちらへ向いた。
「それと、殿下がおっしゃったように新たに土地を開くのであれば、私は主食以外の作物も考えます」
「主食以外?」
「たとえば香辛料です」
「香辛料を?」
「日持ちしますし、少量でも価値があります。国内で使えるだけでなく、他国に売れる可能性も高い」
「他国に売る……」
「はい。外貨――」
殿下の顔が止まった。
「……他国の金貨を稼ぐ、という意味です」
「最初からそう言ってくれ」
あれ、他国とは取引はどうしているのか確認していなかったな。調べておこう。
「一つ聞いてもいいかしら」
「はい」
「貴女は、どうしてそこまで考えるようになったの?」
来た。
そりゃ気になりますよね。十七歳の小娘が偉そうに語ってるんだから。
前世の記憶があります、とはもちろん言えない。でも、入口については嘘をつく必要もなかった。
「きっかけは、王宮のお食事です」
「……食事?」
王妃様が小首を傾げた。
うん。そういう顔になりますよね。
「我が家の料理も決して悪くありません。でも、王宮で初めて食事をいただいた時、ずいぶん味が違うと思ったんです」
「料理人の腕でしょう?」
「もちろん、それもあると思います。ただ、同じ料理人を我が家へ連れて帰ったとしても、同じ味にはならないのではないかと考えました」
「なぜ?」
「材料が違うからです。使える油も、香辛料も、肉も、野菜も。王宮だから手に入る物があるのでしょう」
王妃様が少し考える。
「そこから農業の話に?」
「はい。気になってからは、王宮での学習や蔵書を利用して、各地の産物や流通について調べるようになりました」
というか、「美味しいものをもっと普通に食べたい」が最初なんだけどね。
そこから「どうすれば安く手に入る?」と考え始めたら、生産と流通の話になっただけだ。
「だから、香辛料の栽培の話になるのね」
「はい、その通りです。美味しい料理が食べられると思うと、それだけで生活の励みになります。とりわけ、王宮での勉強は、正直かなり大変でした。ですが、今日の献立は何だろう、と思うだけで少し頑張れた日もございました」
王妃様の表情がわずかに緩んだ。
「ずいぶん食いしん坊なのね」
「否定はいたしません」
そこは胸を張っておこう。
「だから思ったんです。食事というのは、腹を満たせればそれでいいものではないのだと。美味しいものを食べる楽しみがあれば、明日も働こうと思える人は少なくないでしょう」
「民にも、ということね」
「はい。貴族だけの贅沢にせず、手頃な値段で油や香辛料が手に入れば、平民の食卓も変わります。それに、食事が美味しいということ自体、国の価値になると思います」
「外交に料理を使うの?」
「美味しい食事を出されて機嫌を悪くする人は、そう多くないかと思っております」
王妃様が少し笑った。
国が豊かだというなら、金貨の量じゃなく、普通の人間が何を食べて、何を買えて、どう暮らしているかで見たい。
王妃様の反応は悪くないが、ユーリーン殿下はまだ実感が湧いていないようだ。まあ、王宮の食事しか知らないなら無理もない。私だって、知識がある程度だ。
香辛料もいいけど、個人的には蚊取り線香も欲しい。この世界の蚊、本当に容赦ないんだよ。
……って、今は蚊の話じゃなかった。
「香辛料以外にも、考えているものはいくつかあります。たとえば油です。もっと安く手に入れば料理の幅が広がりますし、放牧に向く土地があれば乳製品も増やせるでしょう」
「まだあるのね……」
王妃様が少し呆れた顔をした。
「考えるだけなら、いくらでも」
「それを全部やるつもり?」
「いいえ」
そこは即答した。
「できるかどうかも分からないことを、思いつきだけで動くのは危険です」
殿下が意外そうにこちらを見る。
「土地も気候も、民の暮らしも知らないのに、『他領でうまくいったから、ここでも同じようにやればいい』では失敗します」
「食というのは、確かに軽く見られがちね。王宮を預かっていると、食材の値段一つでも侍女長や料理長から話が上がってくるもの」
「そうなのですか?」
「ええ。あなたの話を聞いていると、今まで別々だと思っていたものが、つながって見えてくるわね」
「王妃様。一つ、お願いがございます」
「何かしら」
ここまで話したのは、半分はこのためでもある。
「私は、これから国中を見て回りたいと考えています」
「それは今回のことがきっかけなのかしら」
「いいえ、以前から考えていたことです」
王都の机の上で本を読んでいるだけでは限界がある。何が作られ、何が足りず、何を売り、どこから仕入れているのか。そういうものは自分の目で確かめたい。
「先ほど申し上げたことも、実際にできるかどうかは分かりません」
「ずいぶん色々語ったあとで、それを言うのね」
王妃様が少し意地悪そうに笑った。
「はい。思いつくことと、実際にできることは別ですから」
ここは譲れない。
「香辛料が育たない土地で香辛料を作れと言っても意味がありません。農民が困っている理由も、土地によって違うでしょう。道が悪くて作物を運べないのかもしれませんし、そもそも人手が足りないのかもしれません」
「だから、自分で見ると?」
「はい。現地を見て、民の話を聞いて、できることとできないことを分ける。その上で、改めてご提案できればと考えております」
「そ、それなら、私も同行したい」
「ユーリーン!」
王妃様が目を見開いた。
私はというと、そこまで驚かなかった。さっきから殿下は、こちらの話を聞くだけではなく、自分でも考え始めていたからだ。
それに、王族が同行してくれるなら、正直かなりありがたい。十七歳の小娘では相手にされなくても、王子の視察なら話は別だ。
「私も、殿下のご同行には賛成いたします」
「貴女、本当に分かっているの?」
「はい?」
「視察という名目であっても、未婚の貴女がユーリーンと各地を回れば、周囲はどう見ると思うの」
ああ、そっちか。
私の頭の中ではすでに、どの地域から回るか、どんなルートで進むかなどを考え始めていた。でもこの世界では、令嬢が王子と長期間一緒に旅をするとなれば、当然そういう話になる。
面倒だなあ、もう。
「私一人では、限界がございます」
「限界?」
「見知らぬ土地へ十七歳の娘が出向いて、『農業の事情を教えてください』『帳簿を見せてください』『商人を紹介してください』と申し上げても、どこまで本当のことをお話しいただけるでしょうか」
王妃様が黙る。
「ですが殿下の正式な視察であれば、領主も役人も相応の準備をしてくださるでしょう。普段は見られない資料や、会えない方々ともお話しできる可能性が高くなります」
前世でも会社の看板一つで、会える相手は変わった。王族なんて、この世界では最大級の看板だ。
「ですが、それでは貴女の今後の婚姻に差し障るでしょう」
「それでしたら問題ございません。私は殿下以外の方と婚姻したいとは考えておりませんので」
王妃様が息を呑んだ。
「貴女……そこまでユーリーンのことを……」
目が一気に優しくなった。
待って。その『健気な娘』は完全に誤解です。
「いえ、違います」
即答したよ。
「殿下に恋愛感情を抱いているわけではございません」
「……そうなの?」
王妃様が明らかに残念そうな顔をした。
なぜ王妃様が落ち込む。
そして、なぜ殿下までちょっとしょげている。
おい。お前は男が好きなんだろうが。
こっちから恋愛対象外と言われるのは、それはそれで傷つくのか?
面倒くさいな、人間って。
「ですが、殿下を嫌っているわけではございません。殿下はご自分が辛い中でも、まず私に謝罪してくださいました。また、知らないことを知ったふりもせず、人の話を聞いて考えることもできます」
王妃様がユーリーンを見る。
「恋慕ではございませんが、信頼に値する方だと思っております」
王妃様、怒る気持ちは分かりますけど、息子さん、全部が駄目になったわけじゃないですよ。
「もともと私は婚約者候補というだけでしたので、候補でなくなった場合には、文官として働くか、自分で商会を起こすことも考えておりました」
「商会を?」
「はい」
王妃様が目を丸くする。
「先ほど話したような作物を扱う商いにも興味がありますし、いずれは国外との交易にも携わってみたいと思っています」
「それで、国内を見て回りたいのね」
「はい」
農業の話も、交易の話も、国内視察も、全部オレ――いや、私が将来自由に動くための材料になる。
国が豊かになるならなお良し。自分も儲かるならもっと良し。
「ですから、殿下のお心が男性に向いていることと、私が殿下に家族のように協力できるかは、別の問題だと考えております」
「別の問題……」
「はい。婚約という形を取るかどうかは、その後に考えればよろしいのではないでしょうか」
もちろん王族である以上、跡継ぎの問題は簡単ではない。そこまで私が勝手に解決できる話でもない。
だから今ここで、結婚まで約束するつもりはない。
「正式な婚約を今すぐ決める必要はないと思っております」
「では?」
「今回の白紙化をまだ公にはせず、世間向けには、私が引き続き有力な婚約者候補であることにしておく。それだけでも、殿下へ詮索や新たな縁談などで煩わされる事も、ある程度は防げるでしょう」
私にも、別の男が次々紹介されるのを避けられる。
ついでに王家との関係も切れない。
悪くない。
結婚してもいいよ、まではまだ言わない。そこまで安売りする必要はないからね。
「私も……シルヴァーナ嬢とは、その……友人というか、共――」
殿下が口を止めた。
「協力できる関係になれると思います」
おい。
今、絶対『共犯者』って言おうとしただろ。
ちらりと見ると、殿下がこちらから目を逸らした。
「はあ……あなたたちは、本当に……」
王妃様が額を押さえた。
すみません。
でも、完全に拒絶されたわけではない。別の嫁ぎ先を今すぐ探す、という話も消えた、と思いたい。
国内視察についても、駄目とは言われていない。
殿下も少し元気になった。
今日のところは、十分じゃない?
「陛下とも相談しなければなりません。今日はこのあたりにしましょう」
「はい。お時間をいただき、ありがとうございました」
決して短くない会談を終え、部屋を出る。扉の前で待機していた王妃様の侍女の後について歩いていく。
とりあえず、即興のプレゼンにしては、最低限はクリアできたかな。
国内視察は却下されなかった。別の嫁ぎ先を今すぐ探すという話も、とりあえず止まったと思いたい。そして殿下も少し元気になった。
目的は国家改革案を採用してもらうことじゃない。
私には、嫁ぐ以外にも使い道がある。
殿下だって、見限るにはまだ早い。
それが王妃様に伝わったなら十分だ。
婚約がこのまま完全に白紙になっても構わない。私には文官も、商売も、国内を回る道もある。
そして、たぶんユーリーン殿下も同じだ。
好きになる相手が男だからといって、それで人生全部が終わるわけじゃない。
あとは、どうやって周りを説得させるか。
そこはまあ――これから考えればいい。
国内視察が難しければ、いっそ国外留学もありかな。
留学。
寄宿舎。
同室の女の子。
……。
きゃはは、むふふ。
……。
いや、待てオレ。さっきまで結構いいこと考えてたのに、台無しだぞ。
それにしても、殿下と二人で話してから、どうも前世のおっさんが表に出やすくなった気がする。
十七年も淑女をやってきたんだ。今さら全部捨てるつもりはない。
でも、少しくらい自分の好きなように生きてもいいだろう。
殿下にも、自分自身を否定せずに生きてほしい。
まずは両親をどうやって説得しようか考えよう。
この世界でのオレの初恋の相手が王妃様だったことは、やっぱり誰にも話せないな。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




