表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

閉店間際に現れた貴方へ ~深夜0時、私の心も営業終了です~

作者: uta
掲載日:2026/03/18

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

「いらっしゃいませ」


時計の針が二十三時を指した瞬間、私の心は小さく悲鳴を上げた。


また、来た。


カウベルの音と共に現れたのは、黒いコートを纏った長身の男。深い藍色の瞳が店内を一瞥し、迷うことなく窓際の定位置へと向かう。無精髭を蓄えた端正な顔には、今日も表情というものが存在しない。


「ブラックコーヒーを」


低く、必要最低限の声。メニューを開くことすらしない。


「かしこまりました」


(……閉店まであと三十分しかないんですけど。毎晩毎晩、何が目的なの、この人)


私、白石雫、二十二歳。深夜喫茶『月灯り』でアルバイトを始めて一年半。大学の授業料を稼ぐため、週五でこの深夜シフトに入っている。店長の藤堂さんは優しいし、常連客も穏やかな人が多い。悪くない職場だと思っていた。


——この男が現れるまでは。


神崎蒼真。名前はクレジットカードの署名で知った。二十代後半だろうか。閉店三十分前の二十三時きっかりに現れ、ブラックコーヒーを一杯だけ注文し、窓の外を眺めながら何かを待つように座っている。会話は一切ない。「ごちそうさま」の一言すら発しない。そして閉店時刻の二十三時三十分になると、黙って席を立ち、きっちり五百円玉を置いて去っていく。


毎日だ。雨の日も、台風の夜も、大晦日すら。


おかげで私の閉店作業は毎回遅れる。彼がいる間はテーブルを拭けないし、カウンターの片付けも気が引ける。終電を逃しそうになったことも一度や二度ではない。


(せめて二十二時に来てくれれば、まだ許せるのに)


コーヒーを淹れながら、私は何度目かわからないため息を飲み込んだ。サイフォンから立ち上る湯気を見つめる。深煎りの豆が、ふわりと香ばしい匂いを漂わせた。


「はい、お待たせいたしました」


カップを置く。男は視線を上げることなく、小さく顎を引いた。それが「ありがとう」の代わりらしい。


(……コミュニケーション能力、絶滅してるのかな)


内心の毒を顔に出さないのは、接客業で培った技術だ。私は完璧な営業スマイルを貼り付けたまま、カウンターへと戻る。


「雫ちゃん」


厨房から顔を出した藤堂店長が、意味深な目で私を見た。白髪交じりの髪をオールバックにした五十八歳。元バーテンダーの観察眼は、時々鋭すぎて困る。


「あの客、お前のこと見てるぞ」


「はい?」


思わず声が裏返った。


「窓の外見てるように見せかけて、ガラスに映るお前のこと、ずっと目で追ってる」


「いやいやいや、ないですよ」


私は全力で首を横に振った。


(あの無愛想の塊みたいな人が? 私を? 見てる?)


「店長、老眼進んでません?」


「失礼な。俺の目は現役だ」


藤堂さんは苦笑しながら厨房に引っ込んでいった。


ちらりと窓際を盗み見る。男は相変わらず窓の外を——いや、正確には窓ガラスを見つめている。暗い店外より、照明に照らされた店内のほうがよく映り込むだろう。


(まさか、ね)


私は軽く頭を振って、その考えを追い払った。自意識過剰にも程がある。あんな無表情な人が誰かを「見る」なんて、想像すらできない。きっと店長の見間違いだ。


カウンターの中で、グラスを磨く。規則正しい動作が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。


二十三時二十八分。


男が静かに立ち上がる。いつも通り、テーブルに五百円玉を置いて。いつも通り、一言も発さずに出口へ向かって。


カウベルが鳴る。


扉が閉まる直前、男がほんの一瞬だけ振り返った気がした。


「ありがとうございましたー」


私の声は、もう届かない場所へ消えていく。


(明日も来るんだろうな、あの人)


テーブルを拭きながら、私は深くため息をついた。窓際の席には、まだほのかにコーヒーの香りが残っている。


空になったカップを片付ける。取っ手に、微かな温もり。


——彼がこの席で何を待っているのか、私はまだ知らない。


知ろうとも、思っていなかった。



         ◇ ◇ ◇



異変に気づいたのは、三日目の夜だった。


二十三時。カウベルは鳴らない。


二十三時五分。窓際の席は空のまま。


二十三時十分——。


「来ないね、あの人」


藤堂店長が何気なく呟いた。私はコーヒーカップを磨く手を止めることなく、素っ気なく返す。


「そうですね」


(やった。今日は定時で上がれる)


内心でガッツポーズを決めながら、私は閉店作業の段取りを頭の中で組み立てていた。窓際のテーブルから拭き始めて、カウンターを片付けて、モップをかけて——。


「お前、嬉しそうだな」


「そんなことないですよ」


嘘だ。めちゃくちゃ嬉しい。


二十三時三十分。閉店。今夜は驚くほどスムーズに作業が終わった。


「お先に失礼します」


「ああ、気をつけてな」


店を出ると、六月の夜風が頬を撫でた。少し蒸し暑いけれど、不快というほどでもない。終電まで余裕がある。久しぶりにコンビニでアイスでも買って帰ろうか。


——なのに。


(なんだろう、この感じ)


駅へ向かう足取りが、妙に重い。胸の奥がざわざわする。落ち着かない。何かを忘れているような、何かが足りないような。


(いやいや、何言ってるの私)


あの無愛想な客が来なかっただけだ。喜ぶべきことのはずだ。毎晩イライラさせられていたのだから。


二日目。また来なかった。


三日目。やっぱり来なかった。


窓際の席が、やけに広く見える。


(別に気になってるわけじゃない)


コーヒーを淹れる手が、無意識にもう一杯分の豆を量っていたことに気づいて、私は慌てて戻した。


(何やってるの、私)


閉店作業は相変わらずスムーズだ。定時で上がれる。終電に余裕で間に合う。


——なのに、足取りは軽くならない。


「雫ちゃん、顔色悪いぞ」


四日目の夜、藤堂店長に指摘された。


「大丈夫です。ちょっと寝不足で」


嘘ではなかった。最近、妙に眠れない。大学のレポートが立て込んでいるせいだと思いたかった。


「無理するなよ。お前、昔から頑張りすぎるところがある」


「はい」


返事をしながら、私は窓際の席に目を向けた。今夜も空席。もう四日になる。


(病気かな。それとも引っ越したとか)


心配しているわけじゃない。ただ、気になるだけだ。毎日来ていた人が急に来なくなれば、誰だって多少は——。


「っ……」


急に視界が揺れた。


「雫ちゃん?」


「だい、じょうぶ、です……」


大丈夫じゃなかった。足元がふらつく。カウンターに手をついて体を支えようとしたけれど、力が入らない。


(まずい)


レポートの締め切りが重なって、この一週間ほとんど寝ていなかった。食事も適当に済ませていた。バイトのシフトも減らさなかった。


全部、自分のせいだ。


「おい、雫ちゃん!」


藤堂店長の声が遠くなる。


(倒れたら、迷惑かけちゃう)


せめて店の外に出よう。そう思って、裏口へ向かった。ふらふらと、壁に手をつきながら。


夜風が顔に当たった。少しだけ楽になった気がして——。


「——っ」


膝から力が抜けた。


コンクリートの地面が迫ってくる。受け身を取ろうとして、間に合わなくて。


——衝撃は、来なかった。


代わりに、温かい腕に支えられる感覚。コーヒーとは違う、けれどどこか懐かしい香り。


「……馬鹿か、お前は」


低い声が、頭上から降ってきた。


意識が遠のく中、私はその声をどこかで聞いたことがあると思った。ぼやける視界に映ったのは、黒いコートと——深い藍色の瞳。


「かん、ざき、さん……?」


「喋るな。病院に連れていく」


無愛想で、無表情で、必要最低限の言葉しか発しないあの人が。


閉店間際にしか来ない、迷惑な常連客が。


なぜここにいるの、という疑問は、意識と一緒に闇の中へ溶けていった。



         ◇ ◇ ◇



消毒液の匂いで目が覚めた。


白い天井。白いシーツ。点滴のチューブが、自分の腕に繋がっている。


「……病院」


呟いた瞬間、全身を覆っていた倦怠感を思い出した。頭がぼんやりする。何がどうなって、私はここにいるんだろう。


「起きたか」


声のしたほうを向いて、私は目を疑った。


ベッド脇のパイプ椅子に、黒いコートの男が座っていた。腕を組み、壁に背を預け、相変わらず無表情のまま。


「神崎さん……なんで」


「店の裏口で倒れてたお前を見つけた。病院に運んだ。以上」


簡潔すぎる説明に、記憶が少しずつ蘇ってくる。レポート。寝不足。立ちくらみ。裏口に出て——そうだ、倒れる直前、誰かに支えられた。


「あの、ありがとう、ございます」


「医者の話だと、過労と栄養失調だそうだ。一晩入院して、点滴を受けろと」


私の感謝は華麗にスルーされた。相変わらずの塩対応に、思わず苦笑が漏れる。


(この人、ほんとに人との会話が下手なんだな)


「あの、なんでそこにいたんですか。ここ数日、お店に来てなかったのに」


訊いてから、しまった、と思った。まるでずっと気にしていたみたいじゃないか。


男——神崎蒼真は、少しだけ目を伏せた。


「……出張で東京を離れていた。今日戻ってきて、店に寄ろうとしたら、お前が裏口から出てきてそのまま倒れた」


「そう、だったんですか」


(心配してたわけじゃないからね、別に)


内心で言い訳をしながら、私はシーツを握りしめた。情けない。よりによってこの人の前で倒れるなんて。


「あの、わざわざ付き添ってもらわなくても——」


「俺がここにいる理由を、知りたいか」


唐突な問いかけに、言葉が詰まった。神崎さんは初めて、私の目をまっすぐ見た。藍色の瞳が、病室の蛍光灯を映して揺れている。


「三年前」


低く、静かに、彼は語り始めた。


「あの店で働いてた姉が、お前と同じように倒れた」


息を呑んだ。


「姉は大学院生で、研究とバイトを掛け持ちしてた。限界を超えて働いて、ある夜、店の裏口で意識を失った」


淡々とした声。けれど、その奥に押し殺した感情が滲んでいるのがわかった。


「誰も気づかなかった。閉店後で、店長も帰った後だった。姉は——数時間、一人であそこに倒れてた」


「そんな……」


「発見が遅れて、入院が長引いた。姉は結局、店を辞めた。今は地方の大学で研究員をしてる。体は回復したけど、あの夜のことは——トラウマになった」


神崎さんは目を伏せた。長い睫毛が影を落とす。


「俺は当時、海外にいた。姉が倒れたことを知ったのは、全部終わった後だった。何もできなかった」


「……」


「だから俺は——同じことを繰り返させたくなかった」


顔を上げた藍色の瞳が、私を射抜く。


「閉店間際に店に行って、従業員が無事に帰るのを見届ける。それだけのために、俺は三年間、あの店に通ってた」


頭が真っ白になった。


毎晩、閉店三十分前に現れて。コーヒー一杯だけ注文して。窓際でじっと座って。閉店時刻になったら帰る。


——全部、意味があったのだ。


私が帰る姿を見届けるために。私が倒れないか見守るために。あの人は、ずっと——。


「な、んで」


声が震えた。


「なんで、言ってくれなかったんですか」


「言ってどうなる。気味悪がられるだけだ」


「気味悪いなんて思いません!」


思わず大きな声を出して、自分で驚いた。神崎さんも少しだけ目を見開いている。


「私、ずっと……閉店間際に来る迷惑な客だって思ってました。閉店作業が遅れる原因だって、イライラしてました。ごめんなさい」


「謝ることじゃない。俺も説明しなかった」


「でも——」


「それに」


神崎さんは一瞬だけ視線を逸らした。無表情だと思っていた顔に、かすかな色が差す。


「最近は……姉のためだけじゃなくなってた」


「え?」


「お前を見てた。それは、店長の言った通りだ」


心臓が跳ねた。


「お前は気づいてないだろうけど、すごく無理をしてる。笑顔は完璧だけど、目の下に隈ができてた。動きが少しずつ鈍くなってた。このままじゃ倒れると思って——だから、出張から戻ってすぐ店に来た」


間に合ってよかった、と彼は言った。


相変わらず無表情で、相変わらず淡々と。


でも私には——その言葉がどれだけの重さを持っているか、わかった気がした。


「神崎さん」


「……なんだ」


「明日から、閉店三十分前じゃなくて——もう少し早く来てくれませんか」


彼が目を瞬かせる。


「お話、したいです。もっとちゃんと。お姉さんのことも、神崎さんのことも」


沈黙が落ちた。


長い、長い沈黙の後——神崎蒼真は、初めて笑った。


口角がほんの少し上がっただけの、不器用すぎる笑み。でもそれは確かに、笑顔だった。


「……考えておく」


「それ、OKってことでいいですか?」


「……うるさいな」


照れ隠しの言葉が、なんだかおかしくて。


私は三年ぶりに——いや、もしかしたら初めて——心の底から笑った気がした。



         ◇ ◇ ◇



退院してから、すべてが変わった。


「コーヒー、お待たせしました」


「ああ」


窓際の席に座る神崎さんの前に、カップを置く。以前と同じブラックコーヒー。でも、交わす言葉の温度はまるで違う。


「今日の体調は」


「おかげさまで万全です」


「……ならいい」


相変わらず言葉は少ない。でも、彼が何を心配しているかは、もうわかる。


「神崎さん、今日は早いですね」


「……たまたまだ」


二十二時。閉店の一時間半前。明らかに以前より早い時間だ。


(『考えておく』って言ってたくせに、しっかり来てくれてるじゃないですか)


内心でニヤニヤしながら、私はカウンターに戻った。藤堂店長がニヤニヤしながらこっちを見ている。


「何も言わないでください」


「何も言ってないだろう」


「目が語ってます」


店長は肩を竦めて、厨房に消えた。


——それから、一ヶ月が経った。


神崎さんは毎日来てくれるようになった。二十二時に来て、コーヒーを一杯。閉店後、私の作業が終わるまで待っていて、一緒に店を出る。


「送る」


「駅まででいいですよ」


「駅までだ」


会話は相変わらず短い。でも、沈黙が苦痛じゃなくなった。


「神崎さんって、お仕事何されてるんですか?」


ある夜、駅への道すがら訊ねた。


「……物書き」


「えっ、作家さんですか?」


「似たようなものだ」


歯切れの悪い答えが気になったけれど、深追いはしなかった。人には言いたくないことの一つや二つあるものだ。私だって、家庭の事情は話していない。


その日の閉店後、いつものように二人で店を出た。六月の夜風は少し湿っていて、空には薄い雲がかかっている。


「神崎さん」


「なんだ」


「あの、私のこと——モデルにしたいって、どういう意味ですか」


立ち止まった。


数日前、彼がぽつりと漏らした言葉がずっと引っかかっていた。「お前を主人公のモデルにしたい」。そう言った後、神崎さんは黙り込んでしまって、それ以上何も説明してくれなかった。


「……俺のペンネーム、知ってるか」


「いえ」


「神崎蒼」


息が止まった。


神崎蒼。去年の本屋大賞にノミネートされた人気作家。繊細な人物描写と、静かに心を揺さぶる物語で知られている。私も何冊か読んだことがある。


「えっ……えっ?」


「驚くと思った」


「いや、驚きますよ! だって、神崎蒼って——すごい人じゃないですか」


「すごくはない。売れてるだけだ」


「いや、それをすごいって言うんですけど!」


混乱する私をよそに、神崎さんは淡々と続けた。


「姉が倒れた後、あの経験を小説にした。『深夜の灯火』っていうタイトルだ」


知っている。彼のデビュー作で、深夜に働く人々の孤独と繋がりを描いた連作短編集。私も読んで、泣いた。


「あの本が売れて、作家になった。でも——ずっと次が書けなかった」


「次?」


「姉のことを書き終えて、俺には何も残らなかった。三年間、ずっとスランプだった」


神崎さんは足を止めた。街灯の下で、藍色の瞳がまっすぐに私を見る。


「お前を見て、また書きたいと思った」


「私を……?」


「表面は完璧に取り繕ってるのに、心の中では毒づいてる。笑顔の奥で疲弊してる。誰にも頼れなくて、一人で限界まで抱え込む。——姉と同じだと思った。でも、違った」


「何が、違ったんですか」


「お前には光がある」


意味がわからなくて、首を傾げる。


「姉は倒れた後、世界を恨んだ。でもお前は——倒れた後も、俺に礼を言った。自分を責めた。前を向こうとした。その強さが、眩しかった」


「そんな、私は全然——」


「お前を主人公にした小説を書きたい。許可がほしい」


真剣な目だった。冗談を言っているわけじゃない。本気で、私を題材に作品を作りたいと思っている。


「私なんか、モデルになる要素ないですよ」


「ある」


「ただの貧乏学生で、深夜バイトしてるだけの——」


「お前を見てたのは」


言葉が途切れた。神崎さんが、苦しそうに目を伏せる。


「姉のためだけじゃ、なくなったんだ」


夜風が吹いた。街灯がちらちらと瞬く。


「……それって」


「不器用ですまない。こういう言い方しかできない」


「いえ、あの——」


「好きだ」


世界が止まった気がした。


「最初は姉の代わりを見てた。でも、いつからか——お前だけを見てた。お前の笑顔を見たいと思った。お前が幸せでいてほしいと思った。これは、多分——そういうことだ」


不器用すぎる告白。回りくどくて、言葉足らずで、全然ロマンチックじゃない。


でも——心臓がうるさい。


「あの」


「返事は急がない。困惑させたなら——」


「私も」


声が震えた。


「私も、神崎さんが来ない日、すごく落ち着かなかったです。イライラしてたはずなのに、いないと変で。今日も来るかなって、気づいたら窓際の席ばっかり見てて——」


言葉がまとまらない。でも、伝えなきゃいけない気がした。


「私も、多分——そういうこと、です」


沈黙。


神崎さんが、また笑った。口角がほんの少しだけ上がる、不器用な笑み。


「……そうか」


「はい」


「なら——もう少し、一緒にいてもいいか」


「はい」


駅までの道を、二人で歩いた。


手は繋がなかった。言葉も少なかった。でも、隣にいることが——ただそれだけで、こんなにも心が温かくなるなんて知らなかった。


私の心の営業時間は、少しだけ延長された——そんな夜だった。



         ◇ ◇ ◇



「雫ちゃん、今日も綺麗だね」


桐生隆也。営業職のサラリーマン。二十六歳。整った顔立ちに爽やかな笑顔。ブランド物の腕時計をさりげなくアピールする、いかにも『いい人』風の常連客。


「ありがとうございます。ご注文はいつもので?」


「うん、カフェラテで」


「かしこまりました」


(この人、また来たよ……)


桐生さんが店に来るようになったのは、二週間ほど前からだ。最初は普通の客だと思っていた。でも、最近は妙に距離が近い。


「いつも遅くまで大変だね。俺でよければ話聞くよ?」


「お気遣いありがとうございます」


「今度、ご飯でも行かない? 美味しいイタリアンの店知ってるんだ」


「すみません、バイトが忙しくて——」


「そっか、残念。じゃあまた誘うね」


断っても断っても、懲りずに誘ってくる。断り方が柔らかすぎるのかもしれない。でも、客相手に強く出るのは難しい。


(なんで私なんだろう。深夜バイトの女なんて、他にいくらでもいるのに)


その疑問の答えは、すぐにわかった。


「ねえ、あの窓際の客さ」


桐生さんがカウンターに肘をついて、声を潜める。視線の先には、いつもの席に座る神崎さんがいた。


「ずっと雫ちゃんのこと見てるよね。ストーカーじゃない?」


「いえ、そういうわけでは——」


「俺、心配なんだ。あんな無愛想な男より、俺のほうがいいと思わない?」


(出た、この手のタイプ)


営業スマイルを貼り付けたまま、私は内心で盛大なため息をついた。こういう男、大学にも何人かいた。自分に自信があって、断られることを想定していない。女は優しくすれば落ちると思っている。


「桐生さんにご心配いただくようなことはありませんので」


「そう? でも気をつけてね。何かあったら俺に言って」


何かあっても絶対言わない、と心の中で誓った。


閉店後、いつものように神崎さんと店を出た。


「あの男」


珍しく、神崎さんのほうから話を切り出した。


「桐生さんのことですか?」


「気をつけろ」


「……わかってます」


「わかってないから言ってる」


少し強い口調に、足を止めた。


「ああいう男は——表面だけ優しくて、中身は自分のことしか考えてない。お前を道具としか見てない」


「神崎さん、そこまで言わなくても——」


「俺は小説を書くために、人を観察してきた。あの手の人間は、何人も見てきた」


藍色の瞳が、真剣な光を帯びている。


「お前が断っても、あいつは諦めない。むしろエスカレートする。気をつけろ」


「……はい」


神崎さんの言葉は、予言のように的中した。


桐生さんのアプローチは日に日に強引になっていった。


「雫ちゃん、連絡先教えてよ」

「今度の休み、絶対空けといて」

「俺、けっこう本気なんだけどな」


断るたびに、笑顔の奥に苛立ちが滲むようになった。


「あの窓際の男と付き合ってるの?」


「お客様のプライベートは——」


「答えになってないよ」


声のトーンが下がる。爽やかだった笑顔に、影が差す。


「俺、ああいう陰気な男、嫌いなんだよね。雫ちゃんには似合わないと思うよ」


「恐れ入りますが、他のお客様もいらっしゃいますので——」


「はいはい、わかったよ」


舌打ちをして、桐生さんは席に戻った。


(早く閉店時間にならないかな)


神崎さんがこっちを見ている。大丈夫、と目で伝えた。彼が席を立とうとするのを、首を振って制する。ここで揉め事を起こしたくない。


二十三時三十分。閉店。


桐生さんはいつものように帰っていった。神崎さんが最後まで残っていてくれたおかげで、何事もなく終わった。


「ありがとうございます、神崎さん」


「……礼を言われることじゃない」


閉店作業を終えて、二人で店を出る。


そのとき——。


「雫ちゃん」


街灯の下に、桐生隆也が立っていた。


「帰ったんじゃ——」


「待ってたんだよ。君と話したくてさ」


笑顔だった。でも、目が笑っていない。


「今日こそ、ご飯行こうよ。近くにいい店あるんだ」


「すみません、今日は——」


「いいからいいから」


腕を掴まれた。強い力。振りほどこうとしても、びくともしない。


「ちょっと、痛い——」


「すぐ終わるからさ。ね?」


「離してください」


「そんな冷たいこと言わないでよ。俺、けっこう待ったんだから」


引きずられそうになった、そのとき——。


「閉店時間は過ぎた」


低い声が、夜の空気を切り裂いた。


神崎さんが、私たちの間に割って入る。桐生さんの手首を掴み、静かに、けれど有無を言わせない力で引き剥がした。


「彼女の時間を奪うな」


「は? 何、お前」


「帰れ」


「お前に指図される筋合いないんだけど」


桐生さんの顔から、爽やかさが完全に消えていた。剥き出しの敵意。


「雫ちゃんは俺と話してたんだよ。邪魔しないでくれる?」


「彼女は嫌がっていた。見ればわかる」


「はあ? お前に何がわかるわけ? 毎晩毎晩コーヒー一杯で粘って、キモいストーカーのくせに」


「——」


神崎さんの表情が、一瞬だけ強張った。


「神崎さんはストーカーなんかじゃありません」


気づいたら、私は叫んでいた。


「私を見守ってくれてたんです。私が倒れないように、ずっと——」


「は? 何それ、気持ち悪」


「気持ち悪くなんかない!」


声が震えた。でも、言わなきゃいけない。


「桐生さんこそ、私のこと何だと思ってるんですか。深夜バイトの女は落としやすいとでも思ったんですか。優しい言葉かけてれば、ホイホイついてくるとでも——」


「おい、ちょっと——」


「お断りします。今日も、明日も、これからもずっと。私は、あなたと食事に行く気はありません」


沈黙が落ちた。


桐生さんの顔が、怒りで歪んでいく。


「……ふうん。そういう女だったんだ」


吐き捨てるように言って、彼は踵を返した。去り際に、こちらを振り返る。


「後悔するよ。俺を振ったこと」


足音が遠ざかっていく。


——静寂が戻った。


「大丈夫か」


神崎さんの声で、張り詰めていた糸が切れた。


「……はい。大丈夫、です」


全然大丈夫じゃなかった。膝が笑っている。心臓がうるさい。


「震えてる」


「これくらい、平気です」


「嘘をつくな」


神崎さんが、そっと私の肩に手を置いた。温かい。その温もりに、ようやく安心できた。


「よく言えた」


「え?」


「ああいう男に、はっきり断れる女は少ない。お前は強い」


「強くないです。神崎さんがいてくれたから——」


「俺がいなくても、お前は断っていた。そういう強さが、お前にはある」


藍色の瞳が、優しく細められた。


「——誇れ。それは、お前の光だ」


泣きそうになった。


泣かなかったけど、泣きそうになった。


「帰るぞ。送っていく」


「……はい」


並んで歩く。手は繋がない。でも、肩が触れそうな距離。それだけで、十分だった。


桐生隆也という男が、私の人生から退場した夜——。


私は初めて、『守られること』の意味を知った気がした。



         ◇ ◇ ◇



一年後——。


『神崎蒼、最新作『閉店間際の君へ』が発売初週で20万部突破!』


『深夜に働く女性の強さと脆さを描いた傑作——本屋大賞ノミネート確実か』


『「実在のモデルがいる」作者コメントにファン騒然』


スマートフォンの画面に流れるニュースを見ながら、私は小さく笑った。


「何を見てる」


隣から覗き込んできた蒼真が、画面を見て眉をひそめる。付き合い始めてから、私は彼を「神崎さん」ではなく「蒼真」と呼ぶようになった。彼も私を「お前」ではなく「雫」と呼んでくれる——たまに、照れ隠しで「お前」に戻るけれど。


「蒼真の本のニュース。売れてるね」


「……騒ぎすぎだ」


「嬉しくないの?」


「嬉しいのは——」


言いかけて、蒼真は口をつぐんだ。


「なに?」


「……なんでもない」


(また照れてる)


この一年で、彼の表情を読めるようになった。無表情に見えて、実はいろいろなことを考えている。言葉にするのが苦手なだけで、感情は豊かなのだ。


「ねえ、これ見て」


私は『閉店間際の君へ』のあとがきのページを開いた。何度も読んだ部分。


『この物語を、深夜喫茶で出会った、誰よりも強い光を持つ人へ捧げます。あなたがいなければ、この本は生まれませんでした。——そして、これからも一緒に物語を紡いでいけることを、心から幸せに思います』


「恥ずかしいからやめろ」


「私は嬉しいよ」


蒼真が顔を背けた。耳が赤い。


(かわいい)


一年前の私が聞いたら、絶対に信じないだろう。あの無愛想な客のことを「かわいい」と思う日が来るなんて。


「あ、そうだ。彩音さんから連絡来てたよ」


「姉さんから?」


「うん。『本、読んだよ。泣いた。蒼真が誰かの光になれてよかった』って」


蒼真が黙り込んだ。横顔を見ると、目元が少しだけ潤んでいる気がした。


三年前、あの店で倒れた姉。誰にも気づかれなかった夜のトラウマ。その経験が、蒼真を『月灯り』に通わせ、私と出会わせた。


彩音さんとは、半年前に一度会った。柔らかいウェーブのかかった髪と、弟によく似た藍色の瞳。「弟をよろしくね」と笑ってくれた彼女は、とても穏やかで優しい人だった。


「姉さんには——感謝してる」


蒼真がぽつりと呟いた。


「姉さんがいなければ、俺はあの店に通わなかった。お前と出会わなかった」


「うん」


「辛い経験だったけど——無駄じゃなかったと、今は思える」


「……うん」


窓の外を見る。七月の夕暮れ。空が茜色に染まっている。


私は三ヶ月前、『月灯り』を辞めた。


大学を卒業して、今は蒼真の仕事を手伝っている。資料集めや原稿の整理。時々、彼が行き詰まったときに話し相手になる。「お前の視点は面白い」と言われたときは、素直に嬉しかった。


藤堂店長には、辞めるときにたくさんお礼を言った。


「お前らが幸せならそれでいい」


白髪交じりの店長は、そう言って笑ってくれた。今でも時々、二人で店に顔を出す。客として。窓際の席に座って、ブラックコーヒーを二つ注文する。あの頃とは、すべてが変わった。


「そういえば」


蒼真がスマートフォンを取り出した。


「桐生隆也の話、知ってるか」


「ああ、あの人」


一瞬、嫌な記憶が蘇る。でも、もう怖くはない。


「SNSで晒されたんだろう? 別の女性にも同じ手口で近づいて」


「ああ。会社もクビになったらしい」


因果応報、という言葉が頭に浮かんだ。


桐生隆也は、私を振った後も懲りなかったようだ。別の深夜バイトの女性に同じように近づき、強引に連れ出そうとしたところを、その女性の友人に目撃された。動画を撮られ、SNSに投稿され、瞬く間に拡散。「優しい顔して女を道具扱いする最低男」として晒され、会社にも連絡が入り、退職に追い込まれたらしい。


「自業自得だね」


「ああ」


蒼真は興味なさそうに画面を閉じた。私たちにとって、もう彼は過去の人だ。


「雫」


「なに?」


「次の本の構想がある」


「え、もう?」


「お前と出会ってから、書きたいものが増えた」


蒼真が私を見た。藍色の瞳が、夕日を映して輝いている。


「今度は——お前と一緒に考えたい」


「私と?」


「お前の視点がほしい。お前の言葉がほしい。お前と——物語を作りたい」


不器用な言葉。でも、その奥にある想いは伝わる。


「いいよ」


「……いいのか」


「蒼真が書きたいなら、私も一緒に考えたい。私にできることがあるなら」


蒼真が、また笑った。口角がほんの少し上がるだけの、不器用な笑み。でも、私にはそれが世界で一番優しい笑顔に見える。


「——ありがとう」


「どういたしまして」


窓の外、空が群青色に変わっていく。


一年前の今頃、私は『月灯り』のカウンターで、閉店間際に現れる無愛想な客にイライラしていた。「早く帰ってほしい」「何が目的なの」「私の時間を返して」——そんなことばかり考えていた。


今は違う。


あの時間がなければ、私は蒼真と出会えなかった。あの席がなければ、彼の想いを知ることはなかった。閉店間際の三十分が、私の人生を変えたのだ。


「ねえ、蒼真」


「なんだ」


「私の心の営業時間、まだ延長中だよ」


「……何を言ってる」


「閉店しないってこと。蒼真がいる限り、ずっと」


蒼真が目を瞬かせた。意味を理解するのに数秒かかったらしい。そして——。


「俺も、だ」


照れ隠しに窓の外を見ながら、彼は言った。


「お前の店の、常連客でいさせてくれ。——ずっと」


夜が更けていく。


窓の向こうに、一番星が瞬き始めた。


閉店間際に現れた貴方へ——。


あなたが私の人生に来てくれて、本当によかった。


これからも、一緒に物語を紡いでいこう。


私たちだけの、終わらない物語を。



——了——

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ