72話 天然温泉にて
「温泉、気持ちいいですね?」
「そうだな」
少し距離を取って、湯に身を沈める。
メシア御用達の天然温泉は、ほとんど手が加えられておらず、川そのものだった。岩場はヌルヌルしていて、かなり危ない。私一人だったら、間違いなく滑って派手に転んでいただろう。
それでも脱衣場は男女別で、タオル一式がきちんと用意されている。
どうやら、旅館の管理下にはあるらしい。
……タオルさん、ありがとう。
鏡に映った今の自分の身体を思うと、彼に素肌をさらす自信がくなってしまった。
仮面戦で負った傷跡が、思った以上にくっきりと残っていて、ちょっとこれは無理だなと思う。あのときは深く考えず、ただ傷を塞ぐことだけを優先した結果。
これ、ちゃんと消えるんだろうか。
それとも、綺麗にする魔術があるのかな?
彼の身体にも傷跡は多いけれど、男の人だからだろうか、それすら男らしさとして映ってしまう。さらに、色気が隠しようもなく滲んでいる。
濡れた髪。
立ち上る湯気。
胸の奥がじんわりと熱を帯び、鼓動が早くなる。
……彼が欲しい。
思わず唾を飲み込んだ、その瞬間だった。
距離を詰められ、背後から抱きしめられる。
「怪我は、もういいのか?」
「……痛みはありません。でも……」
「傷跡が気になるのか?」
言われる前に気づかれて、私は小さく頷いた。
「……すまない」
「……なんで?」
ぎゅっと抱き寄せられ、彼の濡れた髪が頬に触れる。
「その傷は、俺を救うために負ったものだろう? だから俺は、そのすべてを受け入れる」
迷いのない声だった。
ありがたい、そう思う反面、言わせてしまっている気がして、胸の奥に複雑な感情が絡みつく。
――私が彼を救いたかった。
私が勝手に思って、傷ついただけなのに。
「……ありがとうございます。でも、そんなふうに責任を感じられると、余計に見せづらいです。あなたがこの傷を見るたびに、嫌な気持ちになるんじゃないかって……」
「ならない」
即答だった。
「穂香の愛を感じる。それだけ俺は愛されていると、見るたびに思う。……むしろ燃え上がると思わないか?」
あまりに予想外の返答に、言葉を失う。良い意味で逆転の発想。
……確かに。
この傷は、愛の証なんだ。
そう思えた瞬間、胸に絡みついていた複雑な感情がすっとほどけた。
傷跡は恥ではなく誇りへと変わり、抑えていた感情が一気に溢れ出す。
「……そうですね。あなたが、欲しいです」
「俺もだ。穂香が欲しい」
二人とも、たぶんリミッターが外れていた。
唇が重なろうとした、その直前。
不意に、ぞわりとした殺気が走る。
彼の表情が一瞬で引き締まり、甘い空気は始まる前に断ち切られた。
……邪魔するなんて、許せない。
けれど、この状況で考えられるのは一つしかない。
「……もしかして、魔物ですか?」
「そうだ。結界が張られているはずなんだが……突破されたか」
彼にとっても完全に予想外だったのだろう。眉をひそめ、周囲を警戒する。
怖くないわけじゃない。
それでも、彼がそばにいてくれるだけで、恐怖は抑え込めていた。
「だったら、結界を張り直します」
結界の魔術は、すでに理論上はマスターしている。
実戦経験はないけれど、何もしないよりはいい。
「助かる。だが、無理はするな」
「はい」
期待されている。
それだけで嬉しくなり、張りきってしまう。
結界のイメージを思い描く。
――いつもと違う。
魔力が、やけに馴染んでいる気がした。
「イグニション」
結界、発動。
驚くほどスムーズだった。
結界は美しく、そして厚く、天然温泉全体を包み込む。
「……これなら、大丈夫ですよね?」
「ああ。よくやった。今のうちに素早く着替えるぞ」
少し得意気になる私を、彼はきちんと褒めてくれる。
けれど緊張は解けないまま、私たちは急いで脱衣場へと向かった。
急いで着替えて脱衣場から出ると、魔物に囲まれていた。
数はざっと二十頭ほど。血に飢えた獲物を狩るような目で、こちらを睨みつけている。喉を鳴らし、今にも襲いかかってきそうな気配だ。結界が張られているとはいえ、今のままでは持たない。
恐怖で彼の裾を握り、身を寄せた。
その直後、彼が口を開く。
「穂香、魔力供与をしていいか?」
最初、何を言っているのか分からず、彼を見上げた。揺るぎない瞳で、俺を見つめている。
――魔力供与って、魔力枯渇した人にする延命措置じゃないの?
「今の俺には、この数をすべて倒せる魔力が残ってない。だから魔力供与で、魔力を補う」
「魔力供与って、そういう使い方もするんですね」
初めて知る真実に安堵しながら、同時に自分の無知さに嫌気が差す。
こんな緊急事態なのに、全部を教えてもらわないと分からない。確実に足を引っ張っている。
「魔力供与は本来、魔力枯渇や魔力切れを起こした者に与える“延命措置”だ。ただ、緊急時に魔力を補う手段として使うこともある。――今はその“緊急時”だ」
「はい……」
彼の言葉は、緊張を解きながらも現実を突きつける。
「やり方は魔力供給と同じだ。まずは魔力を溜める。テニスボールくらいの大きさで十分」
「分かりました」
嫌な顔ひとつせず、彼はレクチャーを続ける。
期待に応えたい。彼を助けたい。
思えば思うほど、魔力は言われた以上に貯まっていく。
(大きくても、問題ないよね……?)
「そしたら人工呼吸と同じ要領で、俺の鼓動に合わせて流し込んでくれ。魔力導線はこちらで繋ぐ」
「はい?」
人工呼吸?
それってキスのことだよね?
え、そうなの?
そういう仕組みなの?
「大丈夫。穂香ならできる」
若干動揺する私を抱き寄せ、彼は優しく囁き落ち着かせる。
彼の心臓に手を当てる。
少し早い。でも力強い。合わせられる。
「……準備は整いました」
「なら行くぞ」
唇が重なる。
キスではない、魔力供与。
魔力導線が繋がったのを直感的に感じる。
ここに、心臓の音に合わせて流せばいい。
流れていくというより、彼に溶け込んでいく感覚。
キスよりも、貴方を感じる。
頭よりも身体の方が早く理解し、気づいたら魔力導線は消えていた。
(導線って、魔力が尽きると消えるんだ……)
「……流しすぎだ。体調は大丈夫か?」
魔力供与が終わり、頬を軽く染めた彼が困った表情で心配してくる。
「はい……でも、なんか気持ちよかったです。私たち、きっと波長が合ってるんですね」
「それ以上言うな。後は帰ってからだ」
「……」
余計なことを言ってしまった。
穴があったら全力で入りたい。
その間にも魔物は結界に体当たりし、結界が揺れる。
「失せろ」
――バン。
彼が片手を上げ、低い声を響かせた瞬間、
魔物は一掃された。




