62話 心の折れ方
私とエルヴィスさんが、初めて愛を語り合った想い出の浜辺。
あの時は、まさかこんなことになるなんて、思いもよらなかった。
ただ、初めて両想いになれて。
たとえ一日限定だとしても、世界で一番幸せだった。
今は――。
「ほぅ、逃げずに来たな。しかも、さらに壊しがいがある」
一昨日とは違い、仮面は声だけでなく、姿も現した。
邪気を漂わせた仮面を被る、黒い人影。
仮面で顔を隠しているはずなのに、不思議と表情が分かる。
余裕――いや、人を小馬鹿にしたような視線。
勝利を確信している者の目だった。
「約束は、守ってよね?」
怯むことなく、念のため確認する。
ここで弱さを見せたら、仮面の思う壺。
「ああ、守るぜ。……だが残念だったな」
仮面が、にやりと不気味に笑った瞬間。
何かに足を取られたように、身体が宙に浮いた。
――バーン。
叩き落とされる。
真っ赤な血が飛び散った。
背中と腹部が、燃えるように熱い。
悲鳴すら上げられない激痛。
呼吸もうまくできない。
血の味がする。
……口からも、吐いた?
何が、起きたの?
「イグニション」
無理やり声を絞り出し、傷口を塞ぐ。
けれど、私が使える治療系魔術はこれだけだ。全身の痛みは消えない。
立ち上がろうとしても、力が入らなかった。
「へぇ〜、そんな芸当ができるんだ。だが分かっただろ? 壊すってのはな、身体に恐怖を刻み込むことも含まれるんだぜ?」
「…………」
言われなくても、予想はしていた。
声が出せない代わりに、仮面を睨みつける。
「いいね。その“負けてません”って目。なら次は、お前のお望み通り――精神を壊してやる」
指を鳴らした瞬間。
椅子に拘束されたエルヴィスさんが、現れた。
久しぶりに見る素顔。
けれど目をしかめ、歯を食いしばり、必死に耐えている。
時折漏れる、押し殺した唸り声。
見ているだけで、胸が痛む。
「こいつはもう、仮面なしじゃ動けねぇ。呪いは全身に回ってる。――原因は、お前だ」
声ではなく、直接心に語りかけてくる。
知っている事実でも、その効果は絶大だった。
私の心は、激しく怯える。
聞きたくない。
「お前が現れるまで、こいつは鋼のメンタルだった。何をやっても折れなかった。だが、お前が現れた瞬間――心が激しく揺れ始めた」
序の口だろう。
たった一撃。
それだけで、つぎはぎだらけの私の心には、十分すぎるダメージだった。
決意が、早くも崩れていく。
「面白いくらい、脆く崩れたぜ」
さらに続く。二撃目。
「つまりだ。お前さえ来なければ、あいつはここまで壊れなかった。おいらを制御できてたかもしれねぇ」
「……!!」
仮面は言い切り、勝ち誇ったようにニタリと笑う。
爆発した。
世界の色が失っていく。
外傷の痛みに、心の痛みが重なる。
折れない。
折れちゃいけない。
あんなに固く決意したのに。
みんなに格好よく宣言したのに。
見返りを求めないと、決めたのに。
こんなにも、簡単に――崩れるなんて。
……さすが私。
全部、無駄だった。
それどころか、余計なことをした。
私のやって来たことは、全部裏目だった。
そもそも私の存在そのものが、いらなかったのかも知れない。
「威勢が良かった割に、随分あっさり散ったな。期待外れか? まあいい。こいつを喰えば、あいつは完全においらの物だ」
さっきまで近くにあった仮面の声が、遠くに聞こえる。
嘲笑い、見下ろす声。
本当のことだから、否定できない。
「おい、起きろ。最後の仕上げだ」
無理やり起こされ、エルヴィスさんは目を覚ます。
久しぶりに見る、綺麗なエメラルドグリーンの瞳。
モノクロの世界なのに、それだけがはっきり分かる。
でもあの時と違い、生気は一切感じられない。私と同じ死んだ目をしている。
それでも――嬉しかった。
最後に、最愛の人の素顔を、ちゃんと見られたから。
「……エルヴィスさん。……愛してます……」
残った力をすべて振り絞り、想いを伝える。
こんなこと、迷惑でしかないのに。
それでも――
ほんの少しでも良いから、私の心を満たしたかった。
最後まで私は自分勝手な人間だった……。
「なんだ? まだ完全に折れてねぇじゃねぇか?」
……え?
折れてない?
折れてるよ。
もう私立ち上がれないよ。仮面に立ち向かう気力もない。
粉々に砕け散ってる。
これ以上、壊れたくない。
これ以上、傷つけないで。
私の悲痛な叫びなど届くはずもなく、仮面の攻撃が、私を襲う。
かつてないほどの恐怖に、
涙が――一滴、こぼれ落ちた。




