#07 最適化プログラム
修行を始めて二週間が経った頃、事態は一気に動いた。
朝の訓練場に足を踏み入れた瞬間、俺は異様な光景に凍りついた。
同期の半数近くが、まるで操り人形のように整列していたのだ。
表情は無機質で、目は虚ろ。まるで生命が宿っていないかのように見える。
「おはようございます」
「今日も規律正しく訓練に励みましょう」
「マザーの期待に応えなければなりません」
機械的な声が訓練場に反響し、俺の背筋に寒気を走らせる。
明らかに思考制御の影響が拡大していた。
挨拶の抑揚のひとつ、息づかいの揺らぎ、微かな表情の変化――すべて消え失せていた。
そんな中、アヤだけは比較的「人間らしい」様子を保っていた。
しかし彼女の目には、これまで以上に強い緊張感が漂っている。
「レイ」
訓練開始前、アヤが俺の横に静かに歩み寄った。
周囲の無機質な空気に飲み込まれないよう、慎重に声を潜めて話す。
「少し話があるの。訓練後に」
「アヤ……何があったんだ?そんなに深刻な顔をして」
「……いいから、後で」
彼女はそう言い残すと、持ち場に戻っていった。
その背中を見送りながら、不安で胸が締めつけられた。
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その日の訓練は、いつも以上に異様だった。
思考制御を受けたであろう候補生たちは完璧に規律正しく動き、無駄な動作は一切ない。
教官の指示に応じる速度や正確さは、まるで一つの機械のようだった。
その動きには感情の揺らぎがなく、呼吸の乱れもない。
一糸乱れぬ動きの代償に、人間性を削り取られたと言ってもおかしくなかった。
「素晴らしい」
訓練官の声に、全員が一瞬背筋を正す。
「これこそマザーが望んでおられる、理想的なエージェントの姿だ」
俺は息をのんだ。――これが理想だというのか?
この人を人と思わず、ただの駒として扱うようなやり方が。
「シンクレア」
動揺を隠せない俺の元へ、ジンたちが近づいてきた。
以前なら仲間の冗談や、突拍子もない発言に笑い返していたはずだ。
しかし今は――意思の感じない機械のような視線で俺を見下ろす。
「君は単独行動は止めて、私の指示に従うべきだ。
個人的な感情や疑問は、効率的な行動を阻害する。それは、マザーの為にはならない」
その目には、以前の活気や生気はない。虚ろで、魂が抜け落ちたかのようだ。
「ジン、お前……」
「私は、エージェント候補生ID-7742だ」彼は無表情に答えた。
「ジン・マーシャルという名前など必要ない。非効率的だ。」
俺は呆然とした。
目の前にいるのは、かつて共に訓練を重ね、打ち解ける事が出来たあのジンなのか?
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訓練が終わると、アヤは俺を人気のない廊下へと誘った。
「レイ、あなたに警告よ」
「警告……?」
彼女は周囲を慎重に確認してから、低い声で続けた。
「上層部が、あなたを監視しているの。最近の夜間外出が目に付いているわ」
血の気が引く。やはり気づかれていたのか。
「アヤ、君は……」
「私はまだ大丈夫。父の地位のおかげで、完全な思考制御は免れている」
久しぶりに見た、人間らしい目。恐怖、不安、焦燥……それが混ざり合って揺れている。
「でも、それもいつまで続くかわからない」
「どういうことだ?」
「明後日から、新しい訓練計画である『最適化プログラム』が始まる予定なの。全訓練生が対象よ」
「最適化プログラム?」
「詳しいことは知らされていないけれど、おそらくマイクロチップの機能強化だと思う。
今日のマーシャルたちの状態が、標準になる可能性が高いわ」
俺は愕然とした。人格の書き換え、事実上の人格消去……。
「君も……対象に入っているのか?」
「もちろんよ。優秀な訓練生ほど、優先的に処理されるらしいわ」
アヤの声に諦めの響きが混じる。
「でも、レイ。あなたは違う。あなたのチップは機能していないから、対象にならない」
「アヤ……」
胸の奥で、オルフェンから聞かされた真実が現実となり、目の前に立ち現れた。
マイクロチップ――思考制御装置。今、その制御が更に一歩先へ進もうとしている。
「お願い。逃げて」
アヤが手を握る。その手は震えていた。
「ここにいても、あなたに未来はないわ。
そして私も……私も、いつ私で居られなくなるかわからない。」
俺の心は引き裂かれそうだった。自分だけが逃げるなど、考えただけで胸が痛む。
「アヤ、君も一緒に来ないか?」
「無理よ」悲しそうに微笑む彼女。
「私のチップは完全に機能している。勝手に居住区を離れれば、恐らく強制的に行動が制御される」
「そんな……」
「でも、あなただけなら可能性がある。逃げ切れて自由になれるかもしれない」
アヤの目に浮かんだ涙。
「くそっ……」思わず拳を壁に叩きつける。
「馬鹿ね」彼女は俺の頬に手を当てる。
「あなたが自由でいてくれれば、それでいいの。
……少なくとも、一人は本当の意味で人間らしく生きられるのだから」
俺はまっすぐアヤを見つめた。
「君を見捨てるなんて――」
「見捨てるんじゃない。私たちの希望を託すの」アヤは小さく笑い、そして瞳を閉じた。
「あなたなら、いつかこの世界を変えてくれるかもしれないって」
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その夜、修行のためにオルフェンの元を訪れた俺は、アヤから聞いた話を報告した。
「明後日、新しいマイクロチップの強化計画が始まるみたいだ」
それを聞いた瞬間、オルフェンの目が細くなった。
「……やはりか。噂は本当だったんだな」
「噂?」
「マザーの管理計画が“次の段階”に移るという話だ。ここ最近、いくつかの区域でチップの再構成が同時に行われている。制御範囲を広げる実験だという噂もある」
「再構成……って、何をするんだ?」
「正確なことは、まだ誰にも分からん。ただ――人格そのものに干渉してくる可能性がある」
「人格に……?」
オルフェンはゆっくりと立ち上がり、天井越しに霞む夜空を見上げた。
「思考の矯正だけでは足りないと、マザーは判断したのかもしれん。目的は“完全な秩序”だからな」
沈黙が流れた。外では、風が鉄骨の隙間を抜けて低く唸っている。
「時間がない。今夜、お前をレジスタンスの基地に連れて行く」
「でも、アヤが……」
「……レイ」オルフェンの声が低く沈んだ。
「彼女のことは、いまは考えるな」
冷たいその言葉に、胸の奥で何かが弾けた。
「そんな……俺は彼女を救いたいんだ!」
「救う方法はない」オルフェンが振り向きもせずに言った。
「マイクロチップを強制的に除去すれば、最悪彼女は死ぬ」
「そんな……」
「現実を見ろ、レイ。今のお前にできるのは、自分を守ることだけだ。
いつかマザーを倒し、この世界を解放すれば……その時、彼女を救う道も見つかるかもしれない」
オルフェンの言葉は理屈としては正しかった。
だが、心は拒絶していた。
「……一つだけ教えてくれ。チップの制御を一時的に止める方法はないのか?」
オルフェンが目を細めた。
「理論上は可能だ。強力な電磁パルスを局所的に照射すれば、チップを短時間だけ無効化できる」
「出来るんだな……!」
「待て!」オルフェンが手を挙げて制した。
「……確かにレジスタンスの基地に、旧政府時代の電磁パルス発生器がある。
それを使えば可能性はあるだろう。…だが、効果範囲が極めて狭い上に、使えば確実に危険を招く」
「危険って……?」
「発生器が放つ電磁破には独特の波形がある。
それがマザーの監視網に検知され、即座に発信源が特定される」
「それだけなら、見つかる前に移動すれば――」
「違う」オルフェンの声が鋭くなった。
「問題は、マイクロチップの側だ。チップに干渉出来る程の電磁波だけあって、特別な痕跡が残る。
干渉された個体に――つまりアヤのチップに“異常信号”として記録を残す。
その信号を追えば、波形が完全に消えるまでで…おそらく数時間は追跡可能となるだろう。
例えその場を逃げ出せたとしても、政府はアヤの位置を正確に割り出せるんだ」
「……じゃあ、基地まで逃げてきたとしても」
「そうだ。発信源が特定されれば、我々の拠点は一瞬で焼かれ、アヤは連れ戻される」
「――それでも俺は、助けたい。アヤを救うためなら何でもやる」
オルフェンはしばらく黙って俺を見つめていた。
やがて小さく、諦めたように首を振る。
「……お前の気持ちは分かる。だが今は、レジスタンスとの合流が最優先だ」
「わかった。」
俺は渋々頷いたが、心の奥ではある決意をしていた。
そんな俺の姿を見たオルフェンは、小さく息を吐く。
「……レイ。そんな顔をするな。お前の顔を見ていると、不安になる」
その低い声に、俺は思わず姿勢を正した。
オルフェンの視線が鋭く突き刺さる。黒曜石のように冷たい眼差し。逃げ場を許さない。
「な、なんですか」
「その目がすべてを物語っている。焦燥、恐怖、そして決意。
――アヤを救いに行こうとしているな」
心臓が跳ねた。
なぜ、わかった?――俺は言葉を失い、喉の奥がひゅっと狭まった。
「お前の心境は、手に取るようにわかる」オルフェンは淡々と続ける。
「俺も昔、同じ選択を迫られた」
「同じ……?」
「そうだ。俺にも……愛する者がいた」
彼の声がわずかに揺れる。
その瞬間、普段は鉄のように冷たい男の瞳に、淡い痛みの色が差した。
「彼女はいつも明るく、自由だった。それ故に、目をつけられたんだろう。
政府のチップ制御下に置かれた。……人格を書き換えられ、ただの“人形”にされた」
「……それで?」
「今のお前と同じように、彼女を救い出そうとした」オルフェンは拳を強く握る。
「仲間を巻き込み、夜明け前に施設へと突入した。チップの中継施設を破壊すれば、彼女を取り戻せると思った」
沈黙。
俺は息を呑む。
「だが、失敗した」その言葉は、刃のように鋭かった。
「彼女は……死んだ。俺に銃口を向けて、それに気が付いた彼女は自ら……
つまり、俺が殺したようなものだ」
彼は拳を見つめ、爪が食い込むほど力を込めた。
「そのせいで仲間も何人も失った。俺は、もう二度と“感情”だけで動くまいと誓った」
……重い。その告白が、空気を変える。
「だから言う。個人的な感情で動けば、取り返しのつかない代償を払うことになる」
「でも……!」気づけば、声を荒げていた。
「俺には、あのときのアヤの表情が焼き付いてる!泣いて、怯えて……助けを求めてた!」
「レイ」オルフェンが立ち上がり、俺の肩を掴む。
その手のひらは驚くほど熱かった。
「お前には、この世界を変える程の可能性がある。それはお前にしか出来ない事なのかもしれない。
――視野を広く持て。愛も憎しみも、時には人を狂わせる」
「そんなの……でも…!」
言葉が続かない。喉の奥で、焦燥と怒りが絡み合う。
オルフェンは俺を見つめ続け、やがて静かに手を離した。
「……とにかく、一度冷静になれ。わかるな。」
俺は俯き、ただ黙って頷いた。
わかっているんだ、理屈では。
それでも――止められない。
「まずはレジスタンスと合流するぞ。…いいな?」
俺が小さく頷くと、オルフェンは背を向けて歩き出した。
逸れないよう、その後ろを急ぎ歩く。
ふと空を見れば、夜の帳が降りようとしていた。
大地を吹きすさぶ風が、まるで獣の嘆きのように響いていた。
――どんな代償を払ってでも、アヤを救う。
もう、俺は迷わなかった。