#06 二重生活
オルフェンの提案を受けたその日から、俺の二重生活が始まった。
昼間は相変わらず、落ちこぼれのエージェント候補生として訓練に参加していた。
相変わらず周囲の視線は冷ややかで、劣等者を哀れむものや突き放すものばかりだった。
――中には同情の視線もわずかに混ざるが、それが態度に出される事はなかった。
仲間同士で交わされる小さな笑いや軽口の輪に俺が加わることはない。
聞こえないふりをしても、背中に突き刺さる失望や侮りの気配は消えない。
だが夜になれば、俺は密かに居住区を抜け出し、赤い大地を横切って廃墟の観測所へ向かう。
月明かりに照らされた瓦礫の影は、まるで俺を飲み込もうとする巨大な生き物のように蠢いて見える。
――それでも歩みを止めなかったのは、俺を待っている存在があるからだ。
昼間の無力な自分とは正反対に、夜の俺は「可能性」を信じて修行に励む。
俺は生まれ変われる……そう信じるしかなかった。
観測所から少し離れた洞窟内部で、見つからないように修行に励む。
――だが、修行を開始してからの数日は、ただただ苦痛でしかなかった。
あの時のように、自分のプラナを感じることができなかった。
「力むな」オルフェンの低い声が闇に響く。
「プラナは意識の奥深くに眠っている。呼吸を整えろ。余計な思考を切り離し、静かに己と向き合え」
その声は石壁に反響し、洞窟の奥からも囁き返すように聞こえる。
俺は彼の言葉に従い、膝を組んで座り込んだ。
深く息を吸い、ゆっくりと吐きながら、胸の鼓動に耳を澄まる。
意識を外界から引き剥がして、自分の内側に沈めていく。だが――何も感じられない。
沈黙の中で時間だけが過ぎ、瞼の裏に映るのは赤黒い残像ばかりだった。
焦りで心が荒れ、雑念が次々と押し寄せてくる。思考を消そうとするほど、逆に意識は暴れ、心拍数が跳ね上がった。
「……ダメだ。何も感じない」思わず声に出してしまう。
「焦るな」オルフェンは即座に言い返した。
深い夜に灯る火のように、彼の瞳が俺を見据える。
「最初は誰でもそうだ。プラナは強制的に引きずり出すものではない。
心が静まった時、自然に湧き上がってくる。それを待て」
「……でも、俺は何をやっても覚えが悪い。昼間の訓練だってそうだ。
他人と比べられて、笑われて、叱られて……。
努力しても結果は出なくて、結局は無駄だって蔑まれる。そんな自分が嫌になる」
自分でも驚くほど声が震えていた。
胸の奥に溜まっていた黒い塊が、言葉になって零れ落ちる。
オルフェンはしばし黙って俺を見つめ、それから低く言った。
「……昔の俺もそうだった」
「え?」
「若い頃、俺は部隊で最も無能と呼ばれていた。
どれだけ剣を振っても仲間には追いつけず、作戦に出ても足手まといだと罵られた。
教官に殴られ、仲間に見下され……。居場所などどこにもなかった」
彼の声は過去を振り返るたびに重みを増し、洞窟の暗闇に沈んでいく。
「だが、ある日気づいた。俺は力を求めていたのではない。
『変わりたい』と願っていたんだ。プラナはその願いに応える。
己の奥底を見つめ、弱さを認め、なお進もうとする者にだけな」
俺は息を呑んだ。
オルフェンの瞳の奥には、深い傷と、それを乗り越えた者だけが持つ静かな炎が宿っていた。
「お前も同じだ。昼間の劣等感は、今のお前を育てる糧になる。
……お前が本当に捨てたいのは、他人の蔑みではなく、自分自身への諦めだ」
その言葉に胸が突き刺された。
確かに、俺は人の目を恐れていたのではない。自分で自分を見限り、勝手に諦めていたのだ。
「……俺も、変われるのか?」
「変わるかどうかはお前次第だ。――だが今こうして瞑想し、呼吸を整え、己が内に意識を沈もうとしている。それだけで、すでに一歩を踏み出している」
その声音には厳しさと同時に、妙な温かさがあった。
冷え切った空気の中で、ただ彼の言葉だけが薪の炎のように揺らめき、俺の心をわずかに温めた。
俺は歯を食いしばり、再び瞑想に戻る。
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そして五日目の夜、ついにそれは起こった。
「……これは……」
胸の奥で、温かい何かが目を覚ました。
最初は小さなざわめきにすぎなかったが、それはすぐに全身へと広がっていく。
血流とは違う、もっと根源的なエネルギー……背骨を這い上がり、肩を抜け、指先にまで届く熱。
体の奥に隠されていた新しい血管がいっせいに開かれ、未知の液体がそこを流れだすような感覚だった。
震えが止まらず、息を吐くたびに肺の奥で光が揺らめくように感じられる。
「プラナを感じたな」
オルフェンの声には、初めてわずかな笑みが混じった。
鋭い目元が柔らかく緩み、長年の氷がわずかに解けるように見えた。
「感じるだけで終わらせるな。今度はそれを動かしてみろ。
右手に意識を集中して、掌に集めるのだ」
言われるまま、俺は全神経を右手に注ぎ込む。
胸の奥で燃える炎を、腕を通じて運び、掌に押し込める。血管が焼けつくように熱くなり、骨が軋み、皮膚の下で光が走る錯覚が起こる。
やがて、じんわりと熱が集まり、掌の中心が赤く疼きはじめた。
次の瞬間、うっすらと光が宿る。青白く、儚げでありながら、確かに生きている光。
「これが……俺のプラナ……?」
息は荒く、声は震えていた。
「まだ基礎の基礎にすぎん」
オルフェンは冷静に告げた。
だが口元に浮かぶ影は、確かな肯定の証でもあった。
「だがこれで先に進める。いいスタートだ」
俺は震える手のひらを見つめた。
この小さな光――今は頼りなく揺れる青い火花が、暗闇を切り裂く最初の灯火だった。
失敗しか知らなかった俺の人生に、初めて訪れた成功の証。これこそが、新しい自分の始まりなのだ。
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――修行を始めて一週間が経った頃。
俺は日常の中で、かすかな違和感を覚えるようになっていた。
いや、違和感というより――じわじわと侵食してくる「不気味さ」とでも言うべきか。
訓練所に集う同期の候補生たち。その表情や言動が、以前と比べて驚くほど均質的になっているのだ。
かつては各々が個性に溢れ、時に愚痴や冗談を言い合ったり、小さな優越感や劣等感を隠しきれずに衝突したりと、人間らしい雑音があった。だが今では、それがほとんど消えてしまった。
「今の動きは非効率的だ。実戦には多少の犠牲は当たり前なのだから、負傷者を囮にするべきだ。感情的になるな」
「こんな訓練結果では、マザーの期待に応えられない。もう一度最初からだ」
「規律と秩序こそが最も効率的な結果を導く、個性など無駄だ。」
彼らの発言はどこか機械的になり、人間味が欠けていった。
「全てはマザーの為に」などと口にする候補生の姿も見え、今までとは全く違う別の場所に迷い込んだ来ような不気味さがあった。
特に変わったのは、ジンだった。以前は自信家で、時には教官にも鼻持ちならないほどの生意気さを見せていた。だが最近は驚くほど従順で、上からの指導や指示に一片の疑問も挟まない。
「シンクレア」
彼はある日、真顔で俺に言った。
「君も我々と同じように全てを捧げ、マザーのために尽くすべきだ」
唐突すぎるその言葉に、俺は反射的に聞き返してしまう。
「マザーのために……?」
「その通りだ」
彼は即答した。表情ひとつ動かさず、当然のことのように頷く。
「マザーは我々を導き、守ってくださる存在だ。
疑う理由などどこにもない。むしろ感謝し、従うのが当然だろう」
その声音、その瞳――そこにかつてのジンの我の強さも、皮肉っぽい笑いもなかった。
残っているのは、盲目的な信仰にも似た従順さだけ。
その瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
――これが、オルフェンの言っていた『思考制御』の結果なのか。
俺は無意識に拳を握りしめていた。目の前の仲間が「別のもの」に置き換えられてしまったかのような恐怖。
そんな中、比較的以前と変わらぬ雰囲気を残していたのはアヤだけだった。
彼女はまだ笑い、時には皮肉を交えて話す。だがその彼女ですら、会話の端々で「模範的」な言葉を口にする回数が増えていた。
「レイ、あなた最近……変よ」
休憩時間、人気のない片隅で彼女が小声で囁いた。
「変って、どういう意味だ?」
「なんだか……毎日が楽しそう」彼女は不思議そうに首をかしげた。
「以前と比べて、迷いや怯えが無くなった…劣等感が薄れてるというか、どこか自信が持てているみたい。」
確かに、その指摘は正しい……プラナ・アーツの修行を始めてから、俺は変わった。
ディスク・アーツが使えないという劣等感は完全には消えないにしても、胸の奥にある青白い光が、俺をを支えてくれている。
夜の修行による成果が、心持ちを確かに変えていた。
「それは……いいことなんじゃないか?」俺は苦笑交じりに返した。
「でもね、急激すぎる変化は危険なの」アヤの顔には影が差した。
「政府は候補生の心理状態も監視している。あまりに急激な変化があれば……」
彼女は言葉を濁したが、結末は分かりきっていた。
――処理、か。
「……わかった。気をつけるさ」
俺は軽い調子を装って答えた。だが心の内側では、どうすべきか分からなかった。
変化を隠すべきなのか。それとも、自由な意思のままに振る舞うべきか。
俺は胸の奥で脈打つプラナを意識しながら、答えの出ない問いを反芻し続けていた。
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修行開始から十日目の夜。
廃墟の観測所は月明かりに照らされ、赤茶けた壁に長い影を落としていた。夜風は砂を巻き上げ、乾いた音を響かせる。
「今度は新しい技を試すぞ。――プラナ・ブラスト」
オルフェンの低い声が合図となり、次の瞬間、眩い光弾が前方へ奔り、廃墟に突き出た岩を撃ち抜いた。
岩肌がえぐられ、鈍く低い音が夜に溶けていく。
「レイ、やってみろ」
俺は深呼吸して掌に意識を集中させた。
胸の奥からせり上がる熱を、両腕を通じて掌へと押し出す。
その掌から光弾が放たれて、目の前の岩肌へと叩きつけられた。
「……っ!」俺は息を吐き、掌を見つめる。
オルフェンに比べたら遥かに小さい。威力もかすかだ。だが確かに――手応えがあった。
「いいペースだ」オルフェンは顎を引いて頷いた。
その眼差しは相変わらず鋭いが、わずかに満足を滲ませていた。
「だが技術だけ磨いても、それでは足りない」
「……え?」
「戦う理由を持て」彼は一歩近づき、俺の肩に視線を突き刺した。
「力は刃だ。心が伴わなければ、やがて己を切り裂く。……お前は何のために戦う?」
「戦う理由か…………」
胸に過るのは、訓練所で見たアヤの顔。
どれほど規律に縛られていても、彼女だけは俺を案じる言葉をくれた。
例えチップに支配された言動だったとしても――それでも、あの瞳の揺らぎは偽りじゃないと信じたい。
「俺は……仲間を救いたい。そして、この世界の真実をみんなに伝えて……自由を守りたいんだ」
声は震えていたが、それは俺の本心だった。
「いい答えだ」オルフェンは短く言い、ふっと目を細める。
「ならば、その為にも力をつけろ。次は守る為の技だ」
オルフェンの身体が、青白い光に包まれた。
「プラナ・シールド。プラナで身体を包み、熟練すればあらゆる攻撃を防ぐ。物質も、エネルギーもだ」
俺は目を閉じ、体表に意識を巡らせる。
血管のひとつひとつを光が通り抜けるように、プラナを押し広げる。やがて全身を淡い光の膜が覆い、空気がわずかに震える。
「……できた……」
掌をかざすと、青白い光が薄皮のように揺らいでいた。
「上出来だが、まだまだ力不足だ」オルフェンは即座に言い切る。
「マザーからの追手は必ず来る。いずれお前は、困難と相対することになる」
「マザーの追手……」冷たい汗が首筋を伝う。
「いつまで猶予があるのか」
「そう遠くはないだろう…」彼の表情は硬く、影を帯びた。
「お前の行動はすでに監視されている可能性が高い。特に夜間の外出は、危険極まりないからな」
確かに、居住区の警備は日に日に厳しくなっていた。
哨戒兵の数が増え、監視ドローンが夜空を横切る頻度も上がっている。背中に張り付くような視線を感じることさえあった。
「……どうすればいい?」思わず漏れた声は掠れていた。
「いずれ、レジスタンスと合流する必要があるだろう」
「レジスタンス……?」聞き慣れない響きに、俺は眉を寄せる。
「マザーに抗う者たちだ。不適合者、そしてチップの監視を逃れた者たちで構成されている。
……小規模だが、確かに対抗勢力は存在している。お前のような存在を、彼らは待っている」
オルフェンは視線を遠くに投げた。廃墟の向こう、暗闇の彼方に何かを見ているかのように。
「だが、その前にきっと一つ試練がある」
「試練……?」
「……親しい者と、敵対する覚悟が要るぞ」
胸の鼓動が一瞬止まった。
「……まさか、アヤと……?」
「可能性は高い」オルフェンの声は静かで、それゆえに重かった。
「彼女は政府にとって貴重な駒だ…お前に対してのな。追手として選ばれてもおかしくはない。」
言葉を失った。アヤと戦う? 考えただけで胸が裂かれる。
だが、もし彼女が完全に支配され、俺の前に立ちはだかるのだとしたら――。
「そうなったら、俺は……?」喉が焼けるように痛む。
「今はまだ考えるな」オルフェンは静かに告げる。
その声は岩盤のように動かず、だがどこか温かさを帯びていた。
「まずは力をつけろ。選択の時が来れば、お前の心が答えを出す」
彼の眼差しは厳しく、それでいて信頼を含んでいた。
「レイ、覚えておけ。プラナとは命の輝きだ。
お前次第で可能性は無限に広がる……常識に囚われるな」
---
その帰り道、俺は一人で赤い大地を歩きながら考えていた。
廃墟を抜け、地平線へと広がる荒れ果てた砂原。瓦礫の山は黒い影となり、頭上の星々は氷のように瞬いていた。
夜風は頬を切るほど冷たく、それでもどこか――自由の匂いを含んでいた。
「俺は……このまま進んでいいのか…」
呟きは風に攫われ、闇に消えた。
それでも、心の奥底には確かな希望の芽が芽生えていた。
恐怖も、迷いも、それを覆い隠すことはできない。
――たとえどんな困難が待ち受けようと、俺はこの道を進む。
真実を知るために。そして、自由を手に入れるために。