#35 危険な兆候
地下ネットワークが軌道に乗り始めてから、2週間が経った。
街は一見、何も変わっていないように見えた。
穏やかな昼下がりの市場。香ばしい焼きパンの匂いに、客引きの乾いた声。
だが――胸の奥では、言葉にできない違和感がざわついていた。
人の流れがいつもより固い。
視線を少し上げると、黒いコートを着た男たちが群衆の中に紛れていた。
政府のエージェントだ。見慣れた制服とは違う。
胸元に青い紋章。情報管理局所属の人間だ。
「……まさか、もう動き始めたのか?」
俺は足を止め、露店の影から市場を見渡した。
エージェントたちは数人一組になって、住民に声をかけている。
その動きはまるで獲物を狙うハンターのようだった。
「最近、変わった集まりに参加されたことはありませんか?」
最も近くの1人が、果物売りの老人に穏やかな声で尋ねる。
だが、その瞳には冷たく光る鋭さがあった。
「い、いえ……特には」
「読書会や親睦会のような集まりです。非公式なものを指しています」
その言葉を聞いた瞬間、背中を冷たいものが走った。
俺の頭の中で、警報が鳴り響く。
読書会――親の会――労働者の集まり。
全部、俺が仕組んだ地下ネットワークだ。
「……バレたのか?」
思わず息を詰める。
今ここで視線を向ければ、それだけで怪しまれる。
俺は手帳を開き、予定を確認するふりをして、背を向けた。
市場のざわめきの中をすり抜け、裏通りへと足を早める。
脳裏に浮かぶのは、トーマス、マリア、エミリー、トム――
仲間たちの顔だった。
「まずは、図書館だ」
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図書館の扉を開けると、空気が張り詰めていた。
人影は少ない。閲覧席には誰もいない。
マリアがカウンターの奥で立ち尽くしていた。
俺の姿を見つけると、彼女は小声で言った。
「……レイさん、大変なことが起きています」
「何が起きたんですか?」
「今朝、政府の調査員が……」
彼女の声が震えている。
俺は言葉を挟まず、ただ頷いて続きを待った。
「図書館の利用状況を詳しく聞かれました。
特に――政府推薦図書以外の本を借りる人の名前を、とのことです」
胸が痛んだ。
政府推薦図書以外の本。
それは「感情刺激書籍」として分類されている。禁書に近い扱いだ。
つまり、俺たちの活動そのものが危険視されている証拠に他ならない。
「トーマス館長は?」
「……館長室にいます。でも、かなり疲れている様子で」
俺は迷わず奥へと進んだ。
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館長室の扉を開けると、紙の匂いと重苦しい沈黙が出迎えた。
トーマス館長は椅子に深く腰掛け、手にしたペンを固く握っていた。
「館長、大丈夫ですか?」
「レイさん……」
老いた瞳がこちらを向いた。
その目に、恐怖と疲労と――微かな決意が宿っている。
「政府が、動き始めたようです」
「調査の内容を教えてください」
トーマスは机の上の報告書を俺に見せた。
政府情報管理局から正式な文書が届き、図書館の運営状況について調査を行うとのこと。
特に、思想に関する書籍や、非推薦図書の閲覧履歴。
貸出状況などが重点的に置かれていた。
「……幸い、隠し部屋は見つかっていません」
トーマスの声が少し震える。
「だが、利用者リストは提出しなければなりませんでした」
俺は眉をひそめた。
そのリストには、読書会のメンバーが含まれている。
「館長、あのリストは……」
「大丈夫です」
彼は静かに微笑んだ。
「提出したのは公式のものだけです。
特別リスト――君たちの活動に関するものは別に保管してあります。
誰にも知られていません」
俺は思わず安堵のため息を漏らす。
「ありがとうございます。あなたの勇気に敬意を」
「いや……君の方こそ。
私はもう年だが、君にはまだ未来がある。
どうか、慎重に動いてくれ」
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図書館を出た俺は、すぐにエミリー・ボイルの家へ向かう。
親の会のメンバーへの連絡は急ぐ必要があった。
玄関の扉を開けた瞬間、彼女の顔に浮かぶ不安がすべてを物語っていた。
「レイさん、実は……!」
「やはり、調査が入りましたね」
「ご存知だったんですか?」
「他の地区でも同じ動きが確認されています」
エミリーは唇を噛み、震える声で続けた。
「幼稚園と小学校に監査官が来ました。
保護者一人一人への『教育方針への理解度調査』だそうです。
特に、感情教育に関して――どう思うか、と」
「……つまり、家での教育を監視している」
「ええ。私は怖くなって……子供たちを守るために嘘をつきました」
「嘘を?」
「『政府の指導に全面的に従っています』って。ほんとは違うのに」
その声には、罪悪感よりも強い決意があった。
母親としての本能が、真実よりも子供の安全を選ばせたのだ。
「正しい判断です」
俺は落ち着かせるように言った。
「今は、疑われないことが最善です。親の会は、しばらく休止しましょう」
「……そうですね。みんなには、どう伝えれば?」
「直接の連絡は危険です。偶然を装って、散歩の途中などに。
あるいは買い物の帰りに少し話す程度で伝えてください」
エミリーは力強く頷いた。
その瞳に宿るのは、不安ではなく覚悟だった。
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夕方。
労働者居住区の酒場。
俺はトムと隅のテーブルで向かい合っていた。
薄暗い照明の中で、彼の表情には疲労がにじんでいる。
「工場に監督官が来た」
トムが小さく言った。
「『労働意識調査』だそうだ。
仕事への満足度、同僚との関係、休日の過ごし方……そして――」
「そして?」
「プライベートでの集まりや、労働組合的な活動の有無を聞かれたよ」
やはり、完全に掴まれ始めている。
俺は唇を噛みしめた。
「どう答えた?」
「みんな、『特にない』って。
俺も、ジェームズも、クロエも……でも、全員顔が引きつってました」
沈黙が落ちた。
酒場の奥では笑い声が上がっているのに、俺たちの席だけ時間が止まっているようだった。
「……しばらく、活動は中止した方がいい」
俺が口を開いた。
「政府の動きが落ち着くまでは、身を潜めましょう」
「せっかく仲間ができたのに……」
トムは悔しそうに拳を握る。
「これで終わりじゃない。これは一時的な措置です。
時が来るまで、息を潜めるだけだ」
彼は黙って頷いた。
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基地に戻った俺は、オルフェンに緊急事態を報告した。
言葉にしながらも、喉の奥が張りついて、息が上手く吸えなかった。
「……予想していたことだ」
静かな声。だがその奥には、強い緊張の色があった。
「予想……してたんですか?」
「住民の意識変化は、必ず政府が察知する。
特に、複数の地区で同時に起きれば――組織的活動と判断されるだろうな」
淡々と告げるオルフェンの顔に、焦りはない。
それが逆に、現実の厳しさを突きつけてきた。
俺は拳を握る。
――甘かった。
真実を伝えれば、人々は目覚め、自然と連鎖していく。
そんな理想を信じていた。だが、支配体制の根はあまりに深く、冷たい。
「すぐに活動を中止すべきでしょうか?」
「いや、完全な中止は逆に怪しまれる」
オルフェンは端末を操作しながら言った。
「自然な形で活動を縮小し、警戒を和らげるんだ」
「具体的には?」
「集会の頻度を減らし、参加者も選別する。
……それから、連絡方法を再構築する必要があるな」
トム、マリア、エミリー……みんなの顔が思い浮かぶ。
覚悟を持って自ら動き出した同志たち。
迂闊に動けば、危険にさらされる。
「読書会は月1から2ヶ月に1度。
親の会も同じだ。労働者組合の会合は一時中止。
……新規の参加者は、勧誘停止だ」
「……了解です」
「ただし」
オルフェンが目を細めた。
「この政府の動きには、ひとつの違和感がある」
「違和感?」
「対応が早すぎる。まるで、我々の予定を事前に知っていたような反応だ」
俺の胸がざわつく。
「……つまり、情報が漏れてると?」
「その可能性がある。
……政府内部の協力者、特にトレント副局長が危険かもしれん」
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翌日。
俺はヴァインと共に、慎重に暗号通信を発信した。
相手は――トレント副局長。
返答はなかった。
1時間、2時間……いや、半日が過ぎても、通信は途絶えたままだ。
胸の鼓動が速くなる。
「まさか……」
夜が深くなりかけた頃、ようやく通信が返ってきた。
文字数を節約するように、簡潔なメッセージ。
『状況は極めて深刻です。私も監視対象になりました』
短い文面なのに、血の気が引いていくのがわかった。
「どの程度の危険なんですか?」
『コルテス局次長の関係者への調査が始まりました。私の通信記録も洗われるでしょう』
冷たい汗が頬を伝った。
「では、今後の連絡は?」
『一時的に停止を。ですが――重要な情報を送ります』
「重要な情報?」
『EE計画が最終段階に入りました。残る6名の処置が明日から始まります』
息が止まった。
“EE計画”――エンハンスド・エージェント計画。完全統合前の強制覚醒実験。
アヤがその対象の6人である可能性は……高い。
『そして、完全統合計画の実施時期が更に前倒しされました』
「……どれくらいですか?」
『6週間後です』
「な……!」
言葉が出なかった。
当初の6ヶ月から3ヶ月、そして――今や、たった6週間。
はっきり言って時間がない。
「なぜそんなに……?」
『マザーが何らかの“脅威”を感じているようです。
おそらく、あなたたちの活動でしょう』
通信が途切れる前、最後に映ったトレントの表情は、疲れと恐怖と――
わずかな希望を滲ませていた。
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通信を終えた俺は、無言で端末から離れた。
室内の静けささえ、今は耳に痛かった。
「……詰んだのか」
思わず漏れた言葉に、オルフェンが首を振った。
「まだだ。諦めるには早い」
「でも、6週間ですよ……準備が、まだ……」
「状況は厳しい。しかし――我々にはまだ奥の手がある」
オルフェンの声が低く響く。
「プラナ増幅装置の改良が進んでいる。小型化も視野に入った。
市民の覚醒作戦は一時停止しなければならないがその分、各基地との連携強化に努める。」
「はい」
「そして、チップ無効化の手段も完成に近い。
……コネクトを、実戦レベルに引き上げる時が来た」
「実戦レベル……?」
俺は息を呑む。
「そうだ。EE計画の被験者に――コネクトを試みる」
その瞬間、アヤの姿が脳裏に浮かんだ。
虚ろな瞳。操られた笑顔。
あのままでは、彼女は“人間”ではなくなってしまう。
「……やります。絶対に、助ける」
「その覚悟があれば十分だ」
オルフェンの目に、わずかに微笑が宿った。
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その夜、俺は1人で外に出た。
基地の裏手、岩壁の隙間から見える星空は、驚くほど鮮やかだった。
荒廃した大地の上には、まだこれほどの輝きが残っている――。
冷たい風が頬をなでた。
思えば、ここに来てから何度も絶望し、何度も立ち上がってきた。
「……大丈夫。きっと、まだ間に合う」
誰に言うでもなく呟いた。
トムも、マリアも、エミリーも――皆が信じてくれた。
1度目覚めた意識を、封じることは簡単ではないだろう。
たとえネットワークが断たれても、火種は生きている。
俺の戦いは次の段階に進む。
市民の覚醒は皆に託し、敵中枢への直接攻撃へ。
アヤを取り戻し、人類の未来を取り戻すために。
残された時間――6週間。
絶望的なカウントダウンが始まる。
けれど、それでも。
この胸の奥に、確かに熱が灯っていた。




