#34 最初の集会
水面下の多層ネットワークを立ち上げてから、1週間が経った。
表面上は平穏な日々。だが、街の空気はどこか張りつめている。
笑い声は減り、誰もが同じリズムで歩き、同じような会話をする。
――まるで、心の自由が少しずつ削り取られていくようだった。
その日の午後。
俺は図書館の奥、使われなくなった閲覧室で開催される“初めての読書会”に参加していた。
古い木の机と、壁一面の書棚。かすかな紙の匂いが漂う。
「皆さん、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」
白髪混じりのトーマス館長が穏やかに声をかけた。
参加者は7人。
中学校の国語教師ルーシー、病院の看護師ベティ、書店員のマイケル。
そして元芸術家のエドワードに、司書のマリアと俺。
年齢も職業もバラバラだが、どこか皆、同じ不安を抱えているように見えた。
マリアが一冊の古びた詩集を机に置いた。
「今日は『自由への讃美歌』という詩集を題材にしたいと思います」
そのタイトルを聞いた瞬間、空気がわずかに震えた。
「懐かしい本ですね」
エドワードが感慨深く言った。
「若い頃、よくこの詩を口ずさんだものです」
「今読み返すと、どう感じられますか?」
ルーシーが問いかける。
エドワードは沈黙したまま、ゆっくりと本を開いた。
「……昔はただ、美しい言葉の並びだと思っていた。
だけど今は違う。どこか、切ない」
「切ない?」
ベティが小首をかしげる。
「この詩に描かれた“自由を求める心”が、今の自分たちには遠すぎる気がしてね」
室内が静まり返る。
皆、その言葉にうなずくこともできず、ただ互いの顔を見つめていた。
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「……では、『囚われた鳥』の詩を読んでみましょう」
俺が促すと、マリアが朗読を始める。
『金の籠の中で/美しく歌う鳥よ
されど君の魂は/青い空を恋い慕う』
短い詩。けれど、胸の奥を震わせるほどの響きを持っていた。
「まるで……私たち自身のようですね」
「どういう意味ですか?」
書店員のマイケルがつぶやきに、ルーシーが尋ねた。
「毎日、与えられた仕事をして、同じような会話をして……
それで“幸せ”だと自分に言い聞かせている。でも本当は――」
ベティが静かにうなずいた。
「私の病院の患者さんたちも、そんな感じです。
体は健康なのに、目の奥に光がない。まるで、感情を失ったみたいで」
「芸術の世界でも同じですよ」
エドワードが続けた。
「以前は絵に魂が宿っていた。今は……まるでコピーのような作品ばかりです」
「それは、誰もが“感じる”ことを許されなくなっているからかもしれません」
俺はそう口にしていた。
静かな空間に、少しだけざわめきが走った。
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会話が進むにつれ、皆の声が少しずつ熱を帯びていく。
最初は恐る恐るだった発言が、やがて確信を持つように変わっていった。
「……最近、教育方針に違和感を感じています」
「どんな点ですか?」
意を決したルーシーが口を開くと、トーマスが優しく促す。
「『個性を抑えることが協調性につながる』――そう指導されているんです。
でも、それって本末転倒じゃありませんか?
本当の教育は、子どもが自分らしく生きる力を育てることなのに」
「わかります」
マイケルが頷く。
「書店でも、多様な本を求める人が減ってきた。“正解のある本”ばかりが売れるんです」
「病院でも同じですよ」
ベティが言葉を重ねた。
「悲しいときに泣けない患者さんが増えています。まるで、感情を押し殺すことが美徳のようで……」
俺は少しだけ笑ってみせた。
「それに違和感があるということは、皆さんが“まだ人間である”証拠ですよ」
「人間である証拠……」
ルーシーが目を見開いた。
「そう。怒ったり、泣いたり、笑ったり――それがあるからこそ、心は生きているんです」
エドワードが、机を軽く叩いた。
「その通りだ!芸術も文学も、すべては人間の感情から生まれる。
もしそれを奪われたら、私たちはただの機械と同じだ」
静かな拍手が起きた。
小さな読書会の部屋に、確かな連帯の空気が広がっていく。
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2時間が過ぎ、会は終わりを迎えた。
皆が名残惜しそうに本を閉じる。
「今日は、心が少し軽くなった気がします」
「こんなに自由に話せたのは、何年ぶりだろう」
ベティが微笑み、マイケルも同意する。
「来月も同じ時間に集まりましょう。
次回のテーマは――『心の自由』でいかがですか?」
トーマスの提案に、全員が笑顔で頷く。
そして終わったあと、ルーシーがそっと俺の元へ寄ってきた。
「あの……もしよければ、学校の同僚にも声をかけてみたいんです」
「どんな方ですか?」
「私と同じように、今の教育に疑問を感じている先生たちです」
「信頼できる方なら、ぜひ。
でも焦らず、少人数から始めてください。大切なのは対話する事です」
ルーシーの瞳に、静かな決意の光が宿っていた。
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翌日、俺はエミリー・ボイルの家を訪れた。
「子供の心を大切にする親の会」――その記念すべき初会合の日だ。
柔らかな午後の日差しが、レースのカーテン越しに差し込む。
小さな居間には、エミリーを含め5人の母親たちが集まっていた。
「皆さん、お忙しい中ありがとうございます」
エミリーが微笑んで頭を下げる。
参加者の顔には疲労と不安がにじんでいた。
けれど、その奥には“何かを取り戻したい”という強い意志があった。
「まずは自己紹介から始めましょうか」
最初に口を開いたのはアンナだった。
「6歳の娘がいます。学校で“感情を表に出してはいけない”と教えられているみたいで……
最近は家でも笑わなくなってしまいました」
次にジェニファーが続いた。
「うちの息子は、とても活発だったんです。
でも幼稚園に通い始めてから、まるで別人のように大人しくなって……」
3人目のキャロラインは、言葉を詰まらせながらも話し出す。
「娘が“ママ、泣いちゃいけないんだって”って言うんです。そんな教育、間違ってますよね……?」
最後のローラが、低い声で言った。
「息子の担任に相談したら、“感情的になることは社会の迷惑”って言われました。
でも……それが本当に“正しい社会”なんでしょうか?」
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母親たちの話を聞き終えたとき、俺は静かに息を吐いた。
想像していた以上に――政府の“洗脳教育”は深く、巧妙に浸透していた。
子供の頃から感情を抑える訓練を受け続けた人間は、
大人になっても自分の心を疑い、自由に考えることを恐れるだろう。
それこそが、支配者にとって最も都合の良い“従順な人間”の形だった。
「……皆さんの気持ち、とてもよく分かります」
俺は静かに言葉を発した。
暖かく、けれど芯のある声で。
アンナが不安そうに尋ねる。
「レイさんは……どう思われますか?
本当に、子供のためになる教育なんでしょうか?」
「俺は、そうは思いません」
その瞬間、5人の視線が一斉に俺へと向けられた。
「子供の感情は、成長にとって不可欠なものです。
泣くことも、怒ることも、笑うことも――全部“生きている証拠”なんです。
それを押し殺すなんて、自然の摂理に反している」
ジェニファーが目を潤ませた。
「やはり……そうですよね」
誰もが同じ不安を抱きながら、ずっと口にできずにいた。
社会が“正しい”と言う声に逆らうことは、今の状況では政府への造反と取られかねない。
キャロラインが震える声で言った。
「でも、私たちに何ができるんでしょう? 学校では子供が抑制されてるのに……」
エミリーが穏やかに微笑んだ。
「それなら――せめて、家庭の中では自由にしてあげましょう。
学校で感情を押さえている分、家では思い切り泣いて、笑って、甘えられるように」
ローラがうなずいた。
「……それ、いいですね。家が、心の避難場所になる」
俺は少しだけ慎重に言葉を添えた。
「ただし、子供たちには“これは家だけの特別なルール”だと伝えてください。
外では従来通りに振る舞わないと、先生や周囲に目を付けられます」
母親たちはすぐに理解した。
この国では、“愛情”さえも注意深く扱わなければならないのだ。
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母親たちの会は、気づけば2時間を超えていた。
小さな居間には紅茶の香りと、静かな熱気が満ちている。
母親たちは次々と体験を語り合った。
育児の悩み、子供の笑顔が減った理由、そして、どうすれば心を守れるか。
「今日は、本当に有意義でした」
「同じ気持ちの人がいるなんて……」
アンナが涙ぐみながらの言葉に、ジェニファーも微笑む。
エミリーが手帳を開き、言った。
「2週間後、また集まりましょう。
今度は“子供の心を育てる工夫”をテーマに」
全員が頷いた。
その顔には、最初に見せていた不安の影はもうなかった。
会が終わったあと、ローラが俺に声をかけた。
「あの……レイさん、他にもこうした集まりがあるんですか?」
「どういう意味でしょう?」
「実は、夫も最近、職場の変化に戸惑っているようで。
昔は皆で笑っていたのに、今は会話も減って……まるで、感情を失っていくみたいだと」
俺は興味深く聞き入った。
「ご主人は、どんなお仕事を?」
「工場で働いています」
――工場。
俺の脳裏にトムの顔が浮かんだ。偶然とは思えない。
「もしかすると、そうした集まりを作ることも可能かもしれません」
ローラが目を見開いた。
「本当ですか?」
「ええ。ただ、すぐではありません。少し時間をください」
ローラの表情に、希望の光が灯った。
その光を見た瞬間、俺は確信した。
――市民たちの覚醒は、広がり始めている。
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その日の夕方、俺は労働者居住区の片隅にある小さな酒場を訪れた。
薄暗い照明の下、金属製のカウンターには古びたグラスが並ぶ。
外では遠く工場のモーター音が響いていた。
トムが先に来ていた。
「よぉ、レイ!こっちだ!」
これが彼の元々の姿なんだろう。
俺は笑顔で席に着いた。
「例の集まりはどうでしたか?」
トムは待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせた。
「思った以上に盛り上がったよ!みんな、同じことを感じてたんだ」
「どんな話を?」
「主に職場の変化についてさ。
ジェームズ――機械工を20年やってる男なんだけど、最近、職場が妙に“静かすぎる”って言うんだ」
「静かすぎる?」
「ああ。以前は仲間と冗談を言い合ったり、失敗を笑って済ませたりしてた。
なのに今は誰も口を開かない。まるで監視されてるみたいに」
トムの隣にいたクロエ――品質管理の責任者も同じ違和感を覚えていた。
「最近の製品が全部、同じデザインなんです。昔はもっと個性的だったのに。
効率化って名目で、創意工夫が全部削ぎ落とされている気がします」
トムがビールを飲み干し、言葉を続けた。
「そしてな、俺たちは同じ結論に達したんだ」
「どんな結論?」
「――職場から“人間らしさ”が消えつつあるってことだ」
俺は深く頷いた。
その言葉は、この街全体に共通する病の名だった。
「ジェームズが提案してくれたんだ。“もう少し大きな集まりを作ろう”ってな。
同じように感じてる仲間を集めて、酒を飲みながら話し合おうって」
「良い案ですね」
「『労働者の親睦会』って名前にした。月に一度、ここの奥の部屋を借りる予定だ」
俺は微笑んだ。
「いいですね。ただ、くれぐれも慎重に」
いい感じだ。
――自主的に流れが広がってきている。
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翌日、基地に戻った俺は、オルフェンにすべてを報告した。
「順調だな」
オルフェンの低い声が響く。
「はい。参加者の反応は想像以上です。
彼らは、自分の違和感を初めて“言葉にできた”と感謝していました」
「孤立からの解放――人間が最も求めるものだ」
オルフェンの言葉は重みがあった。
「それが芽吹けば、行動に変わる。次の段階は?」
「それぞれの集まりを安定させます。
自主的に動けるようになるまで、俺は裏方に徹します」
「よし。その後、各層のリーダーたちを繋げ。
知識層、家庭層、労働層――それらを1つに結びつける」
「2ヶ月以内に、ですか?」
オルフェンは短く息を吐く。
「気持ちは分かるが、焦るな。
時間は少ないが、最も危険なのは急ぎすぎることだ。自然に根を張らせろ」
俺はその言葉を胸に刻んだ。
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夜。
アジトの灯を落とし、窓の外に広がる街の光を見つめる。
ビルの窓が、まるで無数の瞳のように並び、同じ光を放っている。
そこに“個性”はない。
だが、水面下では確かに違う灯がともり始めていた。
読書会――知識層が心の自由を求め始めた。
親の会――家庭の中で感情の温度を取り戻しつつある。
労働者の親睦会――人と人が再び“語り合う”文化を取り戻し始めた。
すべては小さな種にすぎない。
だが、種はいつか芽を出し、いずれ森となる。
「まだ始まったばかりだ」
俺は小さく呟いた。
時間は限られている。
だが、希望は確実に成長していた。
――その芽を枯らさぬよう、気を付けなければ。




